著者
伊藤 泰信
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.2, pp.319-346, 2011-09

本稿はマイノリティのナショナリズムと、宗教の私事化や拡散化が絡み合う文脈に留意しつつ、先住民マオリの宗教教育について論じる。アイデンティティを求めることがスピリチュアルな旅になるといった私事的な宗教性は高度複雑社会の日本でもニュージーランドでも(ある程度までマオリにも)見られる。ただしマオリの場合、貧困や疎外から、先住民の地位を政治化し、心の脱植民地化が図られる中で、白人の知の倒立像とも言える「マオリ的なるもの」が浸透した。それは分離主義的なナショナリズムと重なり、マオリがコントロールしうる領域(制度・組織)の拡大へと繋がっている。こうした背景の下、個別の学校や大学でマオリ的なるものは組織的に教授・学習されるようになっている。マオリ的なるものを探し求めれば過去のホーリスティックな世界に焦点が結ばれるため、それが教授・学習される学校は、準宗教学校のような特異な形態を取るに至っていることを、学習実践の具体を含めて活写する。
著者
氣多 雅子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.86, no.2, pp.275-297, 2012-09-30

自然災害は都市や発電所などを破壊するだけでなく、我々の内に蓄積してきた自然理解そのものにも裂け目を生じさせる。その裂け目は直ちに自然災害を説明する多くの情報によって覆い隠される。この事態は、ハイデッガーが「自然は隠れることを好む」というヘラクレイトスの箴言に読み取る事柄と深く通底している。ハイデッガーは、人間が自らの力において挫折するときに始めて自然の力の優勢が露呈されることを明らかにしている。今回の震災における原発事故において我々が経験したのは、まさに人間の力の挫折である。放射能といった種類の危険は近代化に伴い産業化のメカニズムによって不可避的にもたらされる結果であり、現代社会を破局的な社会にしている。ジャン=リュック・ナンシーは、現代世界にもはや自然的な破局はあり得ず、あるのは文明的な破局のみであると言う。自然の社会化という事態がそれを示していることは明らかであるが、それにも拘らず自然災害の経験から、我々は自然を社会内部の現象とすることに対する徹底的な異議申し立てを受け取るのである。
著者
飯嶋 秀治
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.2, pp.265-292, 2011-09-30

本稿では、「宗教の教育と伝承」を考える糧として、グレゴリー・ベイトソンのメタローグを取り上げる。そこで、メタローグを、まずは(一)ベイトソンの諸テクスト内部から、その重要性を確認する。その上で、(二)次にそれを当時、彼がおかれていた歴史的コンテクストに照らして、その効果と行方を検討してゆく。ここでは特に、パールズのゲシュタルト療法との交流と、エリクソンとの催眠療法との影響関係を重視する。結論として、ベイトソンのメタローグは、「聖なるもの」それ自体を語らずに提示する表現形式であった可能性を論じる。それは「宗教の教育と伝承」をテクスト上でどのように行うのかという可能性の一端に光を投げかけてくれるであろう。
著者
宮本 要太郎
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.2, pp.447-471, 2014-09-30

フランクルのいうように、人間は本質的に「苦悩する人間」である。とりわけ、愛する人を失う喪失体験は、その人を忘れたくないという願望や忘れてはならないという決意に促され、死者との新たな関係性の構築に向かい、生者自身を新たな生へといざなう(悲しみの力)。同時に、そのような願望や決意は、それらに共感的に寄り添う「記憶の共同体」が存在することで救われる(共苦の力ないし苦縁の力)。その意味で、故人を想起することと、その想起に協同的に参与すること(痛みを共有すること)は、いずれも宗教的な意味を帯びている。幸福は脆く儚い。その厳然たる事実自体が悲哀の念を呼び起こす。しかし、同時に、だからこそ今この瞬間のつかの間の幸福が有難くなってくる。人は悲しむ(悲しめる)存在であるからこそ、幸福を真に噛み締めることができるのである。悲(哀)しみは人を結ぶ力がある。悲(哀)しみを媒介として関係性のなかに生きるとき、それは(うちに悲しみを含んだまま)幸せの感覚をもたらす。
著者
江島 尚俊
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.3, pp.571-595, 2014-12-30

現代日本に生きる我々は、大学という高等教育機関において宗教が学べ、宗教を研究できることを自明なものと認識している。しかし、近代的な大学制度が無かった明治以前において、その認識は成立し得なかった。そこで本稿では、この認識を"新しい自明さ"と設定した上で、それを成立せしめた制度的条件の解明を行っていく。方法としては、高等教育制度史および教育政策史の観点から、明治期の文部行政、および文部省と宗教系専門学校の関係に焦点を当てていく。最初に、明治前期の文部省が有していた専門学校に対する消極性、および宗教系諸学校に対する忌避意識を明らかにする。次に、宗教系諸学校に対する方針転換をした文部省が明治三〇年代になって制定する私立学校令・専門学校令を契機として、高等教育の中に宗教を学び、研究するという体制が拡大していくことを論じる。結論としては、宗教系専門学校が近代教育制度の中において、宗教を学問的に教育・研究する学校と位置づけられていったことを明らかにする。
著者
大宮司 信
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.86, no.4, pp.1083-1084, 2013-03-30
著者
保呂 篤彦
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.2, pp.423-446, 2014-09-30

カントによれば、宗教は人間に幸福への希望をゆるすことに本質がある。しかし、幸福に関する彼の説明は多様で、宗教が希望することをゆるす幸福を彼がいかなるものと考えていたか、必ずしも明確でない。まず彼は倫理学を基礎づける議論において、幸福を「あらゆる傾向性の満足」「自分の存在や状態への完全な充足」と規定し、それが道徳原理を提供しえない旨を論じ、人間が道徳法則遵守の意識に基づいて経験する「自己充足」も「幸福の類似物」でしかなく、これを幸福と混同しないよう警告している。つまり幸福と宗教から道徳を純化しようと努めている。ところが、希望される幸福を論じる段になると、それは「最高善」の第二要素として扱われ、道徳との密接な関係が取り戻される。ここでの幸福も相変わらず「自分の存在や状態への完全な充足」ではあるが、前述の「自己充足」を基に成立するものであり、「傾向性の満足」は捨象される(来世で希望される「浄福」の場合)か、制限される(現世の「倫理的公共体」において希望される「普遍的幸福」の場合)。また興味深いことに、この「最高善」の促進が人類の義務であるにもかかわらず、同時にその実現へ向かう同じプロセスに神の助力が希望されるともカントは考えている。