著者
寺尾 寿芳
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.77, no.2, pp.369-391, 2003-09-30 (Released:2017-07-14)
被引用文献数
1

現代日本におけるカトリック教会が秘めるNPO的な可能性に配慮しつつ、宗教経営学の観点からことにその組織マネジメントを模索していく。現代の教会は、成長期であった戦後復興期と同様に生活上での激変つまり生活有事といえる事態を迎えるなかで、変革への条件を満たしつつある。また伝統的な小教区教会とその周辺に発生する諸共同体を加えた拡大形態を教会共同体と名づけるが、そこでは外国籍信徒の生活有事を背景とした流入により、「無縁」の原理さらにはコムニタスを体現したアジールたることが要請され、また文化相対主義に通じる多文化主義を採用せざるをえない現状を呈している。聖職者や修道者は場のマネジメントにおいてファシリテーターであり、現場の状況に添った形で教会共同体を運営する。ことに司祭は外部の公共イベントへの参加などを通じ、社会的認知の獲得のため、開かれた祭儀を企画するプロデューサー的機能を発揮する。このような視圏を提供する宗教経営学は共生の技法と呼べるものであろう。
著者
佐藤 真人
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.2, pp.359-383, 2007-09-30 (Released:2017-07-14)

神仏隔離の意識ははやく『日本書紀』の中にも認められており律令神祇制度の形成期から神道の独自性を支える要素であったと推測される。神仏習合が頂点に達した称徳朝に道鏡による宇佐八幡宮託宣事件が王権の危機を招いたことにより神仏隔離は一層進展した。天皇および貴族の存立の宗教的根拠である天皇の祭祀の場において仏教に関する事物を接触させることは、仏教的な国王観の受容を許すことになる。そこに神仏隔離の進展の大きな要因があった。さらに九世紀には『貞観式』において、朝廷祭祀、とりわけ天皇祭祀における隔離の制度化が達成された。この段階では平安仏教の発達によって仏教が宮中深く浸透したことや、対外危機に起因する神国思想が作用したと考えられる。平安時代中期以降は、神仏習合の進展にもかかわらず、神仏隔離はさらにその領域を広げていった。後世の展開を見ると神仏隔離は天皇祭祀の領域に限られるものではなく、貴族社会に広く浸透しさらには一般社会にも規範として定着していき今日の神道を形作る大きな要因となった。
著者
編集委員会
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.91, no.2, pp.1-2, 2017-09-30 (Released:2017-12-30)
著者
藤本 頼生
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.2, pp.505-528, 2011

本稿では、戦後の神社本庁発足以降の神職資格の付与と神職の養成、研修について、その歴史的変遷をみてゆくなかで、宗教教育の担い手としての神職とその教育のあり方について課題と現状を窺うものである。戦前から戦後の未曾有の変革の中で神社本庁が設立され、任用されている神職に対して神職資格が付与されるが、その経緯をみていくと、神職資格である階位については、戦前期に既に任用されている神職の資格切替えがなされるとともに、戦前の神職高等試験を範にした試験検定を前提にした上で、神社・神道の専門科目の増加がなされていることが明らかとなった。神職教育の上では、資格取得のための科目が養成機関や研修でも大きな意味をなすため、取得する階位の意義とともに今後議論がなされていくべきものであり、後継者問題や神職のあり方も含め、研修制度の見直しとともに検討していく必要があるものと考える。
著者
葛西 賢太
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.90, no.2, pp.3-27, 2016

<p>依存症は、食のあり方の異常が、生き方や人間関係、人としての責任能力の上での問題として現れることが多い病理である。薬物依存からの回復を目指す仏教的なアプローチを検討する。米国の瞑想指導者ノア・レヴァインは、青少年時代の非行・犯罪と薬物・アルコールの濫用から回復するため、キリスト教の儀式から学んだ依存症回復プログラム「十二のステップ」と、仏教瞑想とを学び、両者を統合するプログラムを工夫、彼同様に苦しむ若者に瞑想を伝える努力を払っている。人としての困難に向き合わず困難を避け麻痺させる行為(薬物使用)の反復が依存とみる。依存は仏教でいう苦であり、仏教の三宝(仏—現実と向き合う仏の智慧、法—十二のステップや四諦八正道、僧—回復を目指す共同体)への帰依(尊重)が回復への道であると説く。パンクロック音楽を愛好する彼は、既存の価値観を問いなおす仏教とパンクロックとの間に共通点も見いだしている。</p>
著者
土井 健司
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.1-26, 2012-06-30 (Released:2017-07-14)

本稿では最古の病院のひとつに数えられるカイサレアのバシレイオスの建てた病院施設「バシレイアス」について残存する資料を用いて再構成し、さらにバシレイオスがこれを建てた理由、背景を探り、最後に彼の病貧者観について考察する。残存する資料から次のことが分かる。バシレイオスはウァレンス帝から賜ったカイサレア近郊の土地に病院施設を建てたが、そこには看護者、医者、牛馬、さらに案内人として聖職者たちもいた。これはバシレイオス自身によって「カタゴギア」、「クセノドケイオン」、また「プトコトロフェイオン」とも呼ばれている。バシレイオスは寄付によってこの施設を運営し、おそらく患者や旅人などは無料であった。また彼は定期的にこの施設を訪れ、なかでもレプラの病貧者の治療を行っていた。それは修道士たちによっても実践され、それはバシレイオスの定める修道的生活のプログラムに含まれていた。この病院はバシレイオス自身のフィランスロピア思想と受肉論に支えられていて、蔑まれていたレプラの病貧者を同じ人間として、またキリストとしてその看護・治療を行って行く場所となっていった。
著者
大野 岳史
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.1, pp.75-98, 2014

スピノザは『神学政治論』で迷信を批判し、迷信に陥ることのない仕方での聖書解釈を試みている。そのためには預言と迷信が区別されなければならない。預言と迷信はどちらも想像という認識様式によって把握されている点では共通している。そして想像は誤謬の原因となるのだが、それにもかかわらず預言は確実な認識であると言われる。この確実性は、預言者が活発に想像し、預言の徴証が与えられており、また預言者が正しいことと善きことに向かう魂をもっていることに支えられている。預言者は神からの啓示であることを確認するための徴証と出会うことで、預言について確証することができる。これに対して迷信に囚われている人々は自然的原因について無知であるにもかかわらず「超自然的な事柄だ」と判断してしまう。「神即自然」であることを理解し、理解不可能な事柄については無知であることを認め判断を控えることが、迷信に陥らないために求められるのだ。
著者
横井 滋子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.90, no.3, pp.51-73, 2016-12-30 (Released:2017-09-15)

空の思想を確立した龍樹は、本質(essentia)は否定したが、実存(existentia)については明確に説明していないことが指摘されている。本稿は、この点に関して、正しい空性理解を提示する意図のもとに無著が著した『菩薩地』「真実義品」を通して、空としての「私」の存在がなぜ現実に現れているのかを考察した。その際、空の思想において究極なる真実である真如の側面と、「私」を出現させる言語表現の基体となる二つの側面を併せもつヴァスツ(vastu)という術語に焦点を当て、ヴァスツと認識の関係を検討することを通して現実に立ち現れてくる「私」の根拠を考察した。結論として、「私」とヴァスツは不即不離の関係にあり、「私」は、真如から名称によって呼び出されることによって、他から切り離され固有に存在すると認識されるものとして、一時的に現象している事態であることが見出された。つまり、「真実義品」の地平においては、現象としての「私」に永遠不滅のヴァスツが息づいているのである。
著者
江島 尚俊
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究
巻号頁・発行日
vol.90, no.3, pp.1-26, 2016

<p>現代日本において宗務課は、なぜ文化庁の、ひいては文部科学省の組織管轄下に位置づけられているのか。その端緒を明らかにすべく、本稿では文部科学省の前身である文部省が、いつ、どのような状況の中で宗教行政所管のための理論構築を行っていったのかを明らかにしている。最初に焦点をあてたのは明治一〇年代である。まずは、この時期に生じた文部省・内務省間の宗教学校所轄問題が、太政大臣の政治判断によって一応の決着をみたことを論じた。次は、社会・外交状況の変化でその所轄問題が再燃する明治二〇年代に着眼している。そこでは、文部省が内務省とは別に所轄問題の解決を模索した結果、宗教学校のみならず宗教行政をも所管しようとする理論を構築していたことを指摘した。そして最後に、新しく構築された宗教行政所管論の特徴について論じている。この所管論においては、従来の内務省のように社寺行政の延長で宗教行政を捉えるのではなく、美術行政と学校・教育行政の枠組でそれを捉え直し、宗教行政の文部省所管が主張されていたことを明らかにした。</p>
著者
渡辺 学
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.79, no.2, pp.375-398, 2005-09-30 (Released:2017-07-14)

本論は、オウム真理教元幹部Aの入信と脱会の事例を扱う。Aは、精神的な探求者としてさまざまな宗教団体や霊能者などを遍歴した後、教祖と出会い同教団の最初の出家者となった。強い信仰と神秘体験によってAは人類の救済を目指すとされた教団の活動に積極的に関わったが、同時に同教団の犯罪行為へと深く関与することとなった。強い信仰を持っていたときには、教団による殺人行為も救済としてのポアとして宗教的に正当化したり合理化したりすることができたが、棄教に至ったとき、それは単なる殺人としてAの心に重くのしかかることになった。
著者
大塚 和夫
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.2, pp.617-642, 2004-09

今日、世俗化論に対しては、理論面・実証研究面の双方において、さまざまな批判的検討がなされている。だがそれらの議論のうち、イスラームの事例を含むものは少ない。本稿はエジプトなどのアラブ・スンナ派世界の事例を中心に、イスラーム研究の立場から世俗化論を再検討することを目的とする。本論は、大きく二つの章に分けられる。前半は世俗化の前提となる「世俗的なるもの」という用語に含まれる複数の要素を分解し、それぞれの側面に応じてイスラーム世界の世俗化の実態を議論してみたい。その際に、一九七〇年代以降顕著になる「イスラーム復興」との絡まりあいが慎重に検討されよう。一方、後半部では、アラブ世界出身の学者(エルメッシリーとアサド)の世俗化論を紹介する。それらは、イスラーム世界の歴史的経験を充分に考慮した、近代化と世俗化の錯綜した関連をめぐる議論である。そして、イスラーム世界の事例も包含した「包括的世俗化」論の可能性を指摘する。