著者
宮本 要太郎
出版者
關西大學文學會
雑誌
關西大學文學論集 (ISSN:04214706)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.61-80, 2008-07-31
著者
宮本 要太郎
出版者
Kaichi International University
雑誌
日本橋学館大学紀要 (ISSN:13480154)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.139-151, 2002-03-30 (Released:2018-02-07)

フォーカス・オン・ザ・ファミリー(Focus on the Family:家族への焦点)によれば、アメリカの伝統的な家族は、「世俗的ヒューマニストたち」によって激しく攻撃され、その結果、崩壊の瀬戸際にあるという。とりわけそれは、1960年代と70年代の、価値に関する世代間ギャップおよび主婦の高い就職率とによって推し進められた。しかしこの「危機」は、最近の数十年に限定されるものではない。世代間ギャップはアメリカの歴史を通じて見られるものであるし、第二次世界大戦以前からアメリカのおおぜいの妻や母たちは外で働いてきたのである。彼らのいう「伝統的家族」とは、とりわけ50年代に都市近郊の共同社会において優勢だった家族モデルに基づいているようである。その家族が依拠する伝統的価値は、フォーカス・オン・ザ・ファミリーのような保守的なキリスト教徒アメリカ人にとってのみ「伝統的」である。すなわち、「伝統的家族」は必ずしも「伝統的」ではない。むしろそれは、ある政治的-宗教的目的によって意図的に回復され、「発明」された理想の家族である。より深層意識のレベルでは、それは理想的な家族へ回帰したいという欲望の表明なのである。理想の家族に対するこのようなある種ノスタルジックな願望は、日本の新宗教にも共通しており、そこでは教祖を当該共同体の成員のみならず人類すべての親とするレトリックが用いられている。保守的なキリスト教徒は、女性はできるだけ家にいるべきだと主張する。彼らは、家族とはどうあるべきかを明らかにするために、「今、ここで」伝統的な価値を復活しようと試みている。彼(彼女)らは、ユダヤ-キリスト教信仰によって家族を「聖化」しようとしているのであり、そしてこの「聖化」は、建国の父の精神を維持する父=大統領の指導のもとで一つの「家族」としてアメリカ合衆国を「聖化」しようとする動きに対応している。一方、日本の新宗教は、地域共同体の絆を失い都市社会で孤立している家族に対し、ヒエラルキーではなく平等に基づいた人間関係のための範型を提供する。新宗教は、それら家族のためのモデルとして機能し、家族の親子関係や夫婦関係に宗教的意味を与える。換言すれば、新宗教は世俗化された家族パターンを再聖化する手段を提供するのである。かくして、歴史的および文化的差異にもかかわらず、合衆国のフォーカス・オン・ザ・ファミリーと日本の新宗教との間には、家族の価値に関して、重要な共通性が指摘されうる。第一に、両者とも、伝統と近代化(および世俗化)の間を揺れ動く家族に、伝統的価値に基づいた家族のモデル像を提供する。第二に、両者は、家族内の関係をもっとも重要な人間関係とみなし、個性よりも「調和」や「共同」により高い重要性を与える。最後に、両者にとって家族とは、何よりも信仰の場である。それぞれの家族とその家族が属する宗教共同体との同一視を通じて、フォーカス・オン・ザ・ファミリーも新宗教も、家族を「聖化」すると同時にその家族をそれらの価値体系に編入するのである。
著者
宮本 要太郎
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1987, no.55, pp.45-57, 1987-05-10 (Released:2009-09-04)
参考文献数
41

The characteristic features of Pestalozzi's (1746-1827) concept of 'autonomy' are considered to be structurally speaking the three structural levels of economic autonomy, of legal or civic autonomy, and moral or internal autonomy, and internally speaking the harmonious development of the internal powers of man stemming from self-activity. This is the trust put into the spontaneity of human nature based on Leibniz' anthropology, and in this regard Pestalozzi follows the same line as Rousseau. Furthermore, autonomy according to Pestalozzi in the sense that it implies the potential condition of free self-determination it ressembles Kant's autonomy, on the other hand, because it is based on love rooted in faith, it differs from Kant's autonomy. In other words, starting from the negative education founded in an absolute and optimistic faith in nature (Rousseau), then standing on the rational will of moralizing man living in society (Kant), furthermore transcending this, too, a positive formation concept arises putting its hope in the purification of man as an organic whole by faith and love (Pestalozzi).
著者
宮本 要太郎 Miyamoto Yotaro
巻号頁・発行日
2000

序論 第一章 本論文の方法的視座 第一節 宗教体験と宗教現象学 人間が聖なるものを俗なるものから区別することができるのは、聖なるものが自らあらわれるからであり、しかもそれが俗なるものとはまったく異なった何かであるとわかるような仕方であらわれるからである。 ...
著者
宮本 要太郎
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.2, pp.447-471, 2014-09-30

フランクルのいうように、人間は本質的に「苦悩する人間」である。とりわけ、愛する人を失う喪失体験は、その人を忘れたくないという願望や忘れてはならないという決意に促され、死者との新たな関係性の構築に向かい、生者自身を新たな生へといざなう(悲しみの力)。同時に、そのような願望や決意は、それらに共感的に寄り添う「記憶の共同体」が存在することで救われる(共苦の力ないし苦縁の力)。その意味で、故人を想起することと、その想起に協同的に参与すること(痛みを共有すること)は、いずれも宗教的な意味を帯びている。幸福は脆く儚い。その厳然たる事実自体が悲哀の念を呼び起こす。しかし、同時に、だからこそ今この瞬間のつかの間の幸福が有難くなってくる。人は悲しむ(悲しめる)存在であるからこそ、幸福を真に噛み締めることができるのである。悲(哀)しみは人を結ぶ力がある。悲(哀)しみを媒介として関係性のなかに生きるとき、それは(うちに悲しみを含んだまま)幸せの感覚をもたらす。
著者
飯田 剛史 玄 善允 山口 健一 金 希姃 宮本 要太郎 小川 伸彦 片岡 千代子 石川 久仁子 李 定垠 北村 広美 田島 忠篤 金 賢仙 渡辺 毅 池田 宣弘 藤井 幸之助 稲津 秀樹
出版者
大谷大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2010-04-01

研究成果報告書『民族まつりの創造と展開』(上巻・論考編 287頁:14名の寄稿者による13編の論文と7本のコラム、 下巻・資料編 350頁:9編の資料)を作成した。学会報告を行った(研究連携者 田島忠篤「戦後北海道における民族マツリの展開」、韓国日本近代学会)。民族まつり実施団体および研究者のインフォーマルネットワークを形成し、今後の民族まつりの実施および研究上の連携にそなえた。