著者
谷山 洋三
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.86, no.2, pp.347-367, 2012-09-30

災害時においては、地元の宗教者がチャプレンとして、スピリチュアルケアや宗教的ケアを通して被災者(=悲嘆者)に対応することが、欧米では当然のこととして理解されている。東日本大震災に際し、宗教者はさまざまな支援活動実施してきたし、今後も必要とされている。弔いとグリーフケア、被災者の不安を和らげる祈りや傾聴活動など、様々な支援活動の中から、布教伝道を目的とせずに、宗教、宗派の立場をこえて、宗教的ケアを実践した事例を参考にして、災害時のチャプレンの可能性と課題を考察する。これからも起きるかもしれない災害に備えて、日本各地で災害チャプレンを育成しておく必要性がある。そのための課題は、ルールを共有した超宗教の組織づくり、医療者や自治体との連携のための信頼関係の構築、宗教的ケアの質や効果の検証、そして地域性を考慮した体制づくりである。
著者
磯前 順一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.89, no.2, pp.193-216, 2015-09-30

近代ナショナリズムに対する批判が、人間の歴史的真正さへの志向性を相対化することに成功し、宗教概念論という新たな研究潮流を生み出した。その背景には一九六〇年代後半に始まるフランス現代思想の、ポストコロニアリズムあるいは植民地主義を介した一九九〇年代の動きがあった。こうした流れの中で、近代を中心とする日本宗教史の言説が流布しているが、一方で近世以前の時期に対する研究は影を潜め、近代が作り出した過去の言説として、近世以前の時期は扱われるにとどまった。同時にそうした固定化された日本宗教史研究は、ポストコロニアル研究などのもつ社会に不平等性に対する批判力を抹消させ、形骸化された制度史研究に宗教概念論の批評性を無効化させてきた。本稿ではこうした近年の傾向に一石を投じるために、非近代西洋的な余白として近世の信仰世界や民俗宗教を研究する可能性を理論的に模索する。
著者
中川 憲次
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.77, no.2, pp.269-294, 2003-09-30

ベギンの信仰生活は信仰と生業が絶妙に一元化されたものであった。その信仰は生活から離れたものではなかった。日々の労働へと信仰が結実したべギンの生は、中世後期のヨーロッパにおいて輝いている。一方、マイスター・エックハルトはパリ大学に学び、またそこで教えもした神学者である。エックハルトの説教において、生と学の絶妙な一致が見られる。それは、ベギンとの関わりの故であったとわれわれは考える。ベギンの労働観を、聖書やベネディクトゥス修道院規則の労働観と比較すると、その独自性は顕著である。また、ベギンの信仰と生業の一元化された有様は、妙好人 浅原才市の下駄職人としての仕事と仏教信仰の一元化された有様にも通じている。ベギンの聖体拝領に基づく信仰は、生業に誠実に勤しむという態度に結実した。それは、生業に勤しむことにとどまらず、食事や睡眠等という日常の生を丁寧に生ききるという態度にも繋がっていた。
著者
金森 修
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.2, pp.329-354, 2013-09-30

科学はその偉業と覇権にも拘わらず、二〇世紀半ば過ぎ頃から、客観性、普遍性、公益性を本質とするはずの古典的科学観から部分的に逸脱し、変質し始めている。マンハッタン計画、一九七〇年代以降のバイオテクノロジー、今回の原発事故が露わにしたような原発関連科学の複合体などの諸事例が<変質した科学>を象徴するものだ。他方でエリュールの技術論は、人間主体を周辺化するような、希望のない決定論的枠組みの中に文化を押し込めるものだった。科学もその種の技術体系に倣うものなのかもしれない。この現状の中では、もはや科学の特権性はなんら自明のものではなくなった。現代社会の中でも、宗教的な成分は、人間の感情が住み着く位相や、実証を逃れる知の中にしっかりと作動している。現状の酷薄さの中で、むしろ宗教者は従来よりも一層毅然とした批判的態度を貫徹しつつ、生命の尊重や弱者への寄り添いのような独自の活動を継続すべきなのである。
著者
安藤 泰至
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.80, no.2, pp.293-312, 2006

現代において「スピリチュアリティ」という語は、分野によっていくつかの異なった意味、文脈において用いられている。それらを性急に標準化しようとしたり、特定の分野における定義を固定化したりすることは、この概念がもっている豊かな可能性を損なってしまいかねない。ここではむしろ、この概念に見られるさまざまな二重性こそが、この語が用いられるそれぞれ異なった文脈における共通の背景を浮かび上がらせてくることに注目し、「スピリチュアリティ」という概念を「時代のことば」にしているそうした状況を、それぞれの理論的・実践的課題に即した形で受け取りなおすことによって、各々のスピリチュアリティ概念やその理解が内側から開かれていく可能性を探ってみたい。そのためには、「スピリチュアリティ」という概念を用いる各々の専門職や学問・実践領域の間の越境によって、特定の領域の中に閉じられがちな(異なった)スピリチュアリティ概念やその理解を、生死をめぐる具体的な課題の中で突き合わせる必要があろう。
著者
花岡 永子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.77, no.2, pp.439-463, 2003-09-30

「"生活の宗教″としてのキリスト教」を二十一世紀の現在において論究するには、キリスト教の内部だけに留まることは不可能である。何故ならば、遅くとも二十世紀後半には物理学においてのみならず各宗教においても、多元性や相補性を視野に入れざるを得ず、更には諸宗教の根源に遡って、諸宗教の始原での「根源的いのち」の経験の視座から各宗教を考察することが必要だからである。今世紀の諸宗教に通底していると考えられる「根源的いのち」乃至は「霊性」の同一経験は、各民族、各国家の文化に基礎づけられた表現やその方法の相違によって大きく相違してきたと理解され得る。そこで本小論では、仏教との比較の中でテーマが考察される。従って、一切の二元性や両極性が超脱された世俗化、更には聖俗1如の境涯が、仏教での「日常底」との比較の中で論究される。