著者
松多 信尚 太田 陽子 安藤 雅孝 原口 強 西川 由香 Switzer Adam LIN Cheng-Horng
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.88, 2010 (Released:2010-11-22)

台湾はユーラシアプレートとフィリピン海プレート上のルソン弧の衝突によって形成されている.その衝突速度は82mm/yr程度で衝突しており,多くの活断層やプレート境界が存在する.特に東海岸に大津波を起こす可能性のある給源としては,琉球トレンチと沖合の海底活断層が考えられる.もしそこで地震が発生すれば,東海岸の海底地形は急に浅くなることから,大きな津波が来襲すると考えられる.台湾の歴史津波記録は少ない.東海岸の詳細な記録があるのは日本統治時代以降である.その中には東海岸に大きな津波の襲来した記録はなく,チリ地震などでも津波が台湾に押し寄せたことは無かったため,台湾では東海岸には津波が来ないと信じる人が多い. しかし,台湾の東海岸は無人だったわけでなく,阿美族と言われる原住民族が主にすんでいた.彼らの伝承の中には”津波”を思わせる伝承も少なくない.その例の中に,阿美族の創世神話の一つがある. これは通りすがりの旅人の神がそこに住んでいた神の一家を懲らしめるために海の神に頼んで大波を起こすという話である.その中で海の神が旅人の神に「今日から五日後,月が丸くなった夜に海ががたんがたんと鳴るでしょう.その時あなた方は星のある山をめがけて逃げなさい」と言い,いよいよその日,旅人の神は星の輝く山に向け逃げ,山頂に着いた頃海はにわかに鳴り始め大波はみるみる高まって,そこに住んでいた神の一家を押し流す.しかし,大波に襲われた一家はかろうじて助かる.それを不満に感じた旅の神は再度海の神に頼むと,海の神は再度大波を起こす.とある.これは,まさに津波が押し寄せたと考えられる.南西の島に住むタオ族の伝説にも津波を思わせる言い伝えがある.この神話も突然大波が押し寄せたという.このように東海岸には津波が押し寄せたと思われる伝承が点在する. 最近の津波の記録と思われる話が成功という町に存在する.これは昭和12年に印刷された安倍明義著「台湾地名研究」にある.その中の新港(現在の成功)の説明には「この地名は大正九年にマラウラウを新港に改めた.」とあり,「8,90年前に畑地が津波に洗われて草木が皆枯死したために,その有様をラウラウといい地名とした」とある.8,90年前とは,経験者が生存している可能性もあり,確かな出来事と思われる.これは,1840-50年頃と思われる.我々はこの言い伝えを頼りに成功で津波堆積物を探す調査を実施した. 成功には5段の完新世段丘が分布する.川沿いの_I_面と_II_面は,厚い堆積物が見られる.これは,氷期でできた谷を埋めた堆積物と考えられる.一方東側に見られる海成の面と川沿いの_III_面の堆積物は厚くなく,基盤を確認することが出来る. 阿美族の集落は高位の段丘の上にあり,成功の地名の由来になった津波が阿美族の集落に被害が及んだ報告はない.したがって,最高位段丘まで遡上したことはないと考えられる.一方,_IV_,_V_面のみに津波が遡上したのであれば,その範囲は限られており,地名の変更を行うほどのインパクトがあったとは考えがたい.したがって,我々は_III_面まで津波が遡上したと考えて,掘削調査を行うことにした. 成功の町の中心部が位置する_III_面は_II_面によって川の陰になっており,堆積物は河成の礫質ではなく,海の影響が強い砂質で構成されると予想された.この_III_面の範囲は日本統治時代以前は湿地であり,日本人が段丘崖の基部に排水溝を掘ることで利用できる土地となったという.この話からこの範囲には湿地性の堆積物が予想された. 我々はまずハンドオーガーによって予備調査を新港中学校の西南の地点で行った.その結果,peatに挟まれた海の貝を含む砂が見られた.我々はこの砂の下位のpeatの年代を測定し,上部が1810-1570 Cal Yrs B.P.,下位が3070-2860 Cal Yrs .B.P.という値が得られたため,同地点を中心にジオスライサー調査を行った.その結果,陸生のカタツムリの殻が見られるpeat質な地層の間に厚さ50cm程度の二枚の海生の貝を含む砂層を確認し,砂層の間の地層から2340-2150 Cal yrs B.P.,下位の層から2990-2790 Cal yrs B.P.の年代を得た.これらの年代には,すでに海水準は安定しているため,海水準が上昇することはない.また,この地は7-15m/kyr程度の速度で隆起している.したがって,砂層堆積時の標高はかなり低かったと考えられ,離水した地域にイベント的に海水が入り込んだことは事実だが,津波と断定するのは難しい.しかし,我々は砂層が上方に細粒化することなどから,津波の可能性が高いと考えており,珪藻分析などを行う予定である. 調査の目的であった最近の津波の確実な証拠は認められなかった.
著者
川本 博之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.94, 2010 (Released:2010-11-22)

本研究は検証確認できる多くの実在関係の提示と相互関係性の存在発見の指摘である、日本史に重要事物位置に古代国家により永代続く作為により国家的価値観とした位置性に拘る関係性が巨大古墳から現代皇室施設にある。建築学会他で「神社鎮座法の実証的検証研究」として21題発表他している。沖ノ島、宮島、大三島の神島三島が同緯度で、宗像大社沖津宮と厳島神社の祭神が同じに作為を思い全国四千社の神社位置探究から始め、国土地理院の世界測地系変更から有名有力古社約350社と名山に研究対象を限定し、多段階を経て富士山を第一基点山に真西の大山を第二基点山とした国土の名山、宮等と相互関係性で、出雲と富士山と熊野の三角構成の間中に近畿地方を中心性とし、淡路島のイザナギを祀る伊弉諾神宮とイザナギの姫神で皇祖神アマテラスの伊勢神宮を東西関係にし真中に古代国家大和朝廷発祥地の飛鳥がある。各基点地域間の名山名社等に組や対での作為的関係が様々あり、古代国家が成しただろう一元管理的で神社と帝都、官寺が一体の国家的価値観の原理のある位置性を神社鎮座関係と名称化した。富士山と大山の間中に飛鳥、藤原京、平城京、平安京と主要三都は北上し、他京も論証できる関係は古代に信じ難く常識外の高精度方位関係で、多学界の既成観を覆す内容を認識し、数千を超える多数の明確で意図的な関係に多様な神社実態との対応と、構成的な関係が事例毎にあり、記紀や風土記、神社由緒等を含む文献対応を確認し、検証研究から関係性を確信する。古代国家創生と関係した歴史事物間の位置性は、記紀等を逆検証できる自明の事実で、学界の事物と整合しない推論を駆逐する明確な史実の物証である。本論は三都や三天下城(安土城は俗称の天下城)の位置関係が、富士山、大山、出雲、熊野、房総、大和の特に基点性の高い有名霊山、有名神体山の名山や高社格、有名有力古社との明確な関係の存在を提示している。学界は三都や一部の神社や城などに風水の四神相応説で論じ、特に平安京については四神相応説が定説化している。だが、論拠の風水の古典は本家中国でも明代以降にしかなく、学界が唱える中国風水と違うと云う日本風水の古典はない。後代の帝都と関係のない「作庭記」などが典拠とされるが文献記事に付会した説で、そもそも明確な具体的関係がないが多くの学界で様々論じられ通説となっている。神社に関しても、土着的な山などの自然信仰から祖霊信仰などが習合し神社神道になったとする通説がある。独立峯や主峰でない支尾根が何故選択され信仰対象になるのか、自然信仰から記紀の人格神を祀る祭神が変更になる事等を論証せず、国が編纂した記紀を神典とし、記紀神を祀り、国が社格を付け神名帳に記し管理し、国が幣を与え、国司が参る存在が高社格社であるが、国の強い関与性や本宮別宮摂末社等の多様な神社実態が解明されていない。神社神道の自然信仰発祥発展説と多様な神社実態とは多くが整合しないが、学界はその解決を希求せず、神の事、神代の事は不明が当然とした不合理な推論を国家国民に供してきた。歴史学、国文学、民俗学、宗教学、歴史学の下位の建築史学等が認め看過してきた二つの通説に明確な根拠がなく事実と整合しないが学界権威故か既成観である。明らかな不合理を関連学界の全てが認めた状態で疑問を思わない不思議がある。帝都も神社も記紀に書かれた事物で、記紀の神々を祀る神社、宮等には推論では導出できない多くの作為的事実関係がある。古代に国土形状を把握し構想し実現された関係は、古代国家大和朝廷の飛鳥が計画首都である事を示す明確な神社鎮座関係がある。本研究の指摘関係は自明の事実で作為的関係で偶然でない史実である。
著者
小泉 武栄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.68, 2010 (Released:2010-11-22)

1 はじめに 上関という町がある。山口県東部の瀬戸内海に浮かぶ長島の東端にできた漁業の町で、名前はいうまでもなく下関に対置されるものである。長島は、すぐ西にある祝島などとともに、周防灘と伊予灘を分ける防予諸島を構成しており、付近の海は魚の宝庫として知られている。一帯は瀬戸内海国立公園に含まれ、風光明媚なところでもある。 2 原発の建設計画が 20年あまり前、長島の西のはずれの田の浦という入り江付近に原子力発電所を建設するという計画が持ち上がった。建設主体は中国電力である。過疎に悩む町当局は、莫大な交付金を目当てに建設に賛成したが、漁業への悪影響、原発事故の恐れ、優れた自然と景観の破壊、などを危惧した住民たちが、激しい反対運動を展開している。現時点で中電は反対を押し切って工事を始めたが、日本生態学会などが再三にわたって建設反対を表明している。 演者は現地の住民に依頼されて、田の浦付近の地質・地形と自然の調査に赴いたのだが、天然記念物クラスのすばらしい自然がよく残っていることに驚かされた。 3 みごとな地質の接点と貫入したアプライト 田の浦付近の地質は、領家帯の結晶片岩という、銀色をした層状のきれいな岩石からなる。これは2億年ほど前に堆積した砂岩・泥岩の互層が、地下深くに押し込められて変成岩になったものである。その後、この岩は花崗岩の貫入などによって押し上げられ、地表に現れたが、田の浦付近の海岸では、結晶片岩とそれを押し上げた花崗岩の接触部が至るところでみられる。両者の接点が観察できるところはきわめて珍しく、地質学の巡検地として最適である。 また田の浦の南にあるダイノコシと呼ばれる半島付近には、切り立った海食崖が発達している。この崖では、基盤岩の中に白や黄土色の筋が縦横に走って、特異な地質景観を示す。この筋は、岩が地下深くにあった頃、割れ目にマグマが貫入してきて固まったもので、アプライトと呼ばれている。筋は幅数cmから数10cm、とくに大きいものでは1m余りに達し、実にみごとなものである。岩場にはビャクシンがしがみつくように生えている。これも珍しい海岸植物で、学術的な価値が高い。 4 山と海のつながり 田の浦付近では、手つかずの自然がよく残っていることも魅力的である。田の浦の背後は海抜100m前後の山になっているが、ここでは多少の雨では沢に水が流れないという。基盤の結晶片岩に割れ目が多く入り、風化が進んで表層に厚い土層ができているため、雨水はほとんどが浸透し、地下水になってしまうのである。この地下水は、海岸の岩場の下部などで染み出しているのが観察できるが、一部の地下水は浅海底の砂地や礫地を通って、田の浦の砂浜海岸から数10m離れた海底に湧き出している。 おもしろいことにこの湧水のある浅海底では、日本海にのみ分布する珍しい海藻が発見されている。地下水を通じての山と海のつながりが、このようなきわめて珍しい海藻の分布を生み出したわけである。 瀬戸内海の島々には、かつてこうした豊かな自然が至るところにあったに違いない。開発によってその多くは消滅してしまったとみられるが、田の浦では原発の計画が持ち上がったために、自然の調査が進み、思わぬ発見につながった。怪我の功名といえよう。 5 危険な原発予定地 風化物質はいつか崩れる。海岸では、背後の山から崩れてきた土砂の堆積が各地でみられる。1954年には豪雨に耐え切れず、沢という沢が崩壊し、海岸に大量の土砂をもたらした。その様子は1974年撮影の空中写真によく写っており、崩壊や堆積の痕跡は現在でも認めることができる。 このように原発予定地は、上からは崩壊の危険があり、下からは豪雨時に浸透した地下水が施設を持ち上げて破壊する恐れがある。さらに基盤の結晶片岩は、固い岩ではあるが、無数の割れ目が入り、脆弱なものに変化している。田の浦の入り江は、岩盤が相対的に弱いために、侵食されて入り江になったわけで、地盤は決していいとはいえない。 またここは地震の観測強化地区にも含まれており、まさにマイナス面のオンパレートである。仮の話だが、ここでチェルノブイリクラスの大事故が起きたとすれば、瀬戸内海全域が人の住めない場所になってしまう。原発事故に関しては、日本列島はこれまで余りにも悪運が強く、ぎりぎりのところで壊滅的な被害を免れてきた。しかしいつまでもそうはいかないということを考えるべきである。 6 まとめ 田の浦での原発の建設は断念し、天然記念物クラスのすばらしい自然を生かした自然観察の場として生かすのが、賢明というものであろう。
著者
板倉 悠里子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.96, 2010 (Released:2010-11-22)

I はじめに 文学作品を扱った地理学的研究は,作品のジャンルや分析の視点において多岐に渡っている.その中で,複数の作家の作品群を使用した場所のイメージ研究では,文学作品の記述のみを分析の対象としたものが多く,作品に多大な影響を与えると想定される作家の経験はほとんど対象とされてこなかった.また,作家の経験を元にしたイメージの研究では,特定の作家のみが扱われ,複数の作家において,場所の経験の違いによるイメージの差違は明らかにされてこなかった. そこで本研究では京都を舞台とした文学作品を事例に,作品を書いた作家の場所の経験,特に京都での居住経験により,文学作品に出現する場所の分布や出現数,出現した場所の傾向,その場所に対して付与されたイメージに差異があるのかを明らかにする.また,作品全体において京都のどのような部分が認識されているのかを明らかにし,作品の舞台としての「京都」の特性を考察する. II 研究方法 研究対象地域は京都府京都市とし,研究の対象となる作品は,京都を舞台にした文学作品を紹介している書籍から,主に近現代(明治~昭和)の文学作品を抽出し決定した.それらの作品中に現れた場所とそのイメージを表す語の抽出を行い,場所の出現数や分布状況から,出現した場所の傾向,イメージを表す語の構成に関して特徴を分析した.その際,分析の視点として作家の京都での居住経験を主な視点とし,作家を類型I:京都で生まれ育つ,類型II:京都に一時的に住む,類型III:京都に住んだことはない,という3類型に分け分析を行った.また,作品を総合して京都のどのような部分が作品中に現れたのか,その分布の特徴や出現した場所の傾向から作品の舞台としての京都の特性を考察した. III 結果・考察 場所の出現数に関しては作家類型による差違が見られなかった.場所の分布状況に関しては作者の場所の経験による特徴も見られるが,同時に作品の内容に依るところも大きく,居住経験による明確な差違はないと考えられる.場所の表記の仕方や出現した場所に関して,類型Iの作家は通り名での表記が多く,観光地ではない場所を出現させる傾向がある.対して類型IIIの作家は地点名での表記が多く,観光地を多く出現させる傾向がある.類型IIの作家は類型Iと類型IIIの中間的な特徴を有している. 場所のイメージに関しては,類型Iでは場所のイメージが地物で構成されていることが多く,その場所がどのような雰囲気か,その場所をどのように感じたかということがあまり含まれない.それに比べ,類型IIIではその場所の雰囲気や,場所に対して感じたことでイメージが構成されている.類型IIではイメージを構成するものとして比較的地物が多いが,その場所の雰囲気や感想も含まれており,類型IとIIIの中間的な存在であると言える. 以上のことから,場所の認識やイメージには,京都に対して「内部者」であるか「外部者」であるか,つまり京都をどのように経験しているかという違いが大きく影響していると考えられる.類型Iの作家は京都で生まれ育った「内部者」であり,彼らにとって周りにある風景は当然の物であるため,場所への意識は希薄となる.そのため,場所のイメージはその場所を認識するためのもの,すなわちその場所を構成する要素が主となる.一方で類型IIIの作家は京都に居住したことがない「外部者」であり,場所に対する意識は高い.そのため,場所のイメージは自身がその場所で実際に経験した感情が主となる.類型IIの作家は両者の中間的な存在であると言えるが,類型内で居住経験の仕方によって「内部者」よりの視点と「外部者」よりの視点に別れる. また,作品全体において,京都として意識されている場所は京都駅よりも北側,特に四条河原町を中心とした繁華街の地域や,嵐山に代表される観光地,寺社仏閣,そして山や川が多い.ここから,文学作品で表された京都の特性には、以下の3つがあげられる.(1)生活の場としてではなく観光や遊びのための場,すなわち「娯楽の場」としての特性.(2)「寺社仏閣の街」という特性.(3)「盆地地形」「河川」という地形的・自然的な特性.これらの特性は,京都に対して人々が持つイメージの形成にも大きく関わっていると考えられる.
著者
渡邉 佳奈絵
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.91, 2010 (Released:2010-11-22)

I はじめに 景観とは,人間の環境知覚によって特定の意味を付与された場所のことである.ここでは地域の景観を知る手がかりとして,地域の伝承の変化を読み解くことを提案したい.なぜならば地域の伝説や昔話は長年にわたって住民の環境知覚を反映し続けているため景観研究において有効だと考えられるためである. 本研究では,ある地域を研究する手がかりとして苧環型蛇聟入(おだまきがたへびむこいり)伝承を取り上げた.蛇聟入伝承は,蛇聟と人間との婚姻譚であり,三輪山伝説のような神話,英雄の出生を語る伝説,節句の儀礼の由来としての昔話のようにそれぞれの形をとって存在している.その理由として佐々木(2007)は,特に苧環型の蛇聟入伝承が,地域の豪族によって自らの支配の正当性を主張するために用いられ,戦国時代に豪族が没落するにつれて神話の聖性を失い,昔話へ変化したためであると主張している. 本研究では,佐々木の考え方を参照しつつ,苧環型蛇聟入伝承が語られる地域の伝承の変化と景観との関係について考察を加えるものである.研究対象地域の苧環型蛇聟入伝承は昭和から平成にかけて急速に変化を遂げており,戦国時代の権力者の没落という文脈では捉えきれないと考えられる. II 対象地域と調査の概要 研究対象伝承として,福島県いわき市好間町の好間川に伝わる蛇岸淵という伝説を取りあげた.好間川は昔から暴れ川として周辺の地域に飢饉などの甚大な被害を及ぼしている.しかし現在では,昭和10年から20年頃行われた河川改修工事によって洪水被害は起こらなくなっている.さらにこの工事によって蛇岸淵そのものが消滅しており,1988年には蛇岸淵のすぐ近くを常磐自動車道が通るようになった. 実際の調査は蛇岸淵伝承の掲載された民話集,伝説集を収集し,年代ごとに傾向をまとめた.また蛇岸淵周辺の住民12人,地域の伝承を編纂した委員会の方,伝説に登場する家と寺院の方に聞き取り調査を行った. III 結果・考察 好間川の河川改修工事が行われた昭和10年から20年に採集された伝承と蛇岸淵周辺の住民への聞き取り調査,また昭和10年に蛇岸淵で行われた法要の記録から,河川改修工事が行われる前には蛇岸淵の蛇には好間川の流れを支配する神としての信仰があったと考えられる.民話集の発行年が河川改修工事以後の昭和50年以降になるとそれまでの伝承に加えて,蛇が好間川の流れと関係しない伝承が存在するようになる.さらに平成14年に好間町で結成されたよしま民話集編纂委員会による『よしまの民話と伝説』の中には,蛇が人を攫う,食べるなど,かつては神として崇められていた蛇が妖怪化した描写が見受けられる. さらに,好間町では民話集に記されたものとは別に,蛇岸淵の周辺だけで語られている話が現存している.聞き取り調査によると,蛇岸淵のすぐ近くのある家は好間川が氾濫してもなぜか水が上がらなかった.その家の女性とその子どもの顔のつくりが普通とは違っていたため,蛇と結婚して子どもをもうけたのだろうという噂があったという.さらに,この話に登場する家は常磐自動車道建設の際移転したものの現在でもまだ存在している.この際,この家を移転させるために補助金が支払われたことについて,当時周囲の人々の間では,さぞ儲かっただろうという噂が流通していたともいう.これらのことから,蛇岸淵周辺では洪水の被害に遭わない奇妙なこの家に対し,あまり良い印象が持たれておらず,同家が洪水に際して自分たちよりも得をし,自分たちの富を奪う家,という住民の意識が生成されるようになったことが伺われる. こうして好間川河川改修以後の好間町では,住民の持つ景観の違いに対応して伝承が変化してきたと考えられる.すなわち,蛇岸淵から遠い場所に住む人々は,河川改修工事によって,神の棲み処としての好間川と洪水の被害を受けない奇妙な家,という「ふたつの景観」を失ったことにより,伝承を続けていくための創作が必要になった.対して,蛇岸淵の近くに住む人々は,現在もかつて伝説のモデルとなった家の場所を認知しており,「洪水の被害を受けない奇妙な家」という「景観」が残像している.しかし,神の棲む川という景観が消滅し,蛇の聖性だけが失われたことにより,神と結婚したために洪水の被害を受けなかった家から,蛇と結婚し奇妙な顔の子どもを生んだ家,蛇を祀る家という伝承の変化が起こったものと考えられる. 参考文献:佐々木高弘 2003.『民話の地理学』古今書院.
著者
植村 善博 大邑 潤三 土田 洋一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.76, 2010 (Released:2010-11-22)

研究目的 1927年の北丹後地震は郷村・山田両地表地震断層が共役的に出現し,変位地形や活動性から活断層の用語が日本で最初に使用され,地震断層沿いの集落で激甚な被害が発生したこと,などで注目される。地震学や活断層学的研究は進められてきたが,現状では被害分析,救援・救護、復興に関する研究は十分ではない(藤巻2000、追谷他2002など)。ここでは北丹後地震による竹野郡網野町網野区での被害発生の特徴と発生要因,および復興過程について調査し,新たにえられた結果を述べる。 調査結果 1)福田川低地の西縁に郷村断層下岡セグメントが出現した。この地表地震断層は沖積低地内をN20W走向で断続的に現れ,記載された変位量は左ずれ55cm(1カ所),東側隆起60~90cm(3カ所)である。市街地はこの地表地震断層から直線距離で東へ650~950m隔たっている。 2)網野区は海岸に砂丘列が発達する福田川の沖積平野下流に位置する。市街地は三方を古砂丘や旧砂丘列に囲まれ,西側は低湿地に接しており,市街地は逆三角形状の概形をなす。地下地質は沖積基底砂礫層の上に約30mの完新層が堆積しており,中部泥層(N値=1~3)の層厚は20~25mに達する。市街地の大部分は上部砂層(中粒砂、N=5~10)と上部泥層(シルト、N=1以下~3)の上に位置している。 3)網野区の被害状況は,人口2409人中死者199名,負傷者263名であり,全514戸中全壊477戸,全焼290戸であった(永濱1929)。約19カ所から出火し,市街地東半部を焼き尽くした。死亡率8.3%,全壊率92.8%,焼失率60.8%の値を示す。峰山町での死亡率(26%)全壊率(99%)と比較して前者が著しく低い原因は焼失が約6割にとどまり,住民が外へ逃げ出す余裕があったためと推定される。 4)網野区では区長森元吉らのリーダーシップを中心に独自の復旧・復興活動を進めることになる。翌8日に区の全7組長を招集し,被害を免れた森宅を区事務所として使用。10日に組長会を開き,区画整理と沈下地の埋め立を確認,11日までに組長が区画整理計画案もって住民間をまわり,ほぼ全員の承認をえた。5月24日には網野町第1耕地整理組合・震災復旧組合を設立。この間,地主や債権者の金融機関などの強い反対を粘り強い説得と毅然たる決意により乗り越えた。11月5日に網野区東部耕地整理組合(面積23町5反,組合員386名)が府の認可を受けた。1928年1月10日に着工,1929年10月30日工事完了した。整理後約4,100坪の減少となり,減歩率は8.1%である。工事経費の48,100円は,区補助12,000円,町助成金8,083円,その他組合員からの徴収分24,714円をあてた。 4)震災前の網野区は基準道路などは存在せず,無秩序・無計画な開発により発達してきた。耕地整理事業による都市プランは全38の方形ブロックを設定した。ただし、地形の制約から外周部は三角形など不整形なものが多い。典型的なブロックは100m×48~50mおよび80m×48~50mの区画をなし、これに24戸および20戸を割当て,全ての間口が通り面するように設定されている。本計画においては公園や緑地,シビックセンターなどは設置されなかった。
著者
森永 由紀
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.167, 2010 (Released:2010-11-22)

1.はじめに モンゴル国はユーラシア大陸の東部の内陸の高原上(平均標高1580m)にあり、寒冷・乾燥という厳しい環境のもとで現在も遊牧が基幹産業として営まれている。ペレストロイカの影響で1990年に社会主義体制から民主主義市場経済体制に急速に移行したが、国有企業の崩壊、ネグデルの崩壊、失業者の増加、貧困問題の発生というような社会の混乱に伴い様々な環境問題が起きている。1950年代以降に旧ソ連によって整備された各種設備の老朽化も環境破壊につながる。今後は、鉱山の乱開発の影響が心配される。 2.モンゴルの環境問題 2-1草原と土壌の荒廃 社会主義体制の崩壊後、家畜所有の自由化により頭数が増加した。ネグデルの崩壊により都市と幹線道路ぞいに人と家畜が集中し、過放牧による土壌荒廃が起きてダストの発生にもつながっているとみられる。耕作放棄地の土壌荒廃も問題である。特に注目すべきは、近年加速する鉱山の乱開発による植生破壊と、土壌・水汚染である。金、銀、銅、鉄、ウラン、モリブデン、石炭をはじめ多種の地下資源が開発されつつある。「忍者」とよばれる素人による小規模な採掘活動も急増し、影響が無視できない。2007年にはダルハンのホンゴル・ソムで違法な精錬が引き起こした水質汚染による家畜の死亡および近隣住民の健康被害が、ニュースで大きく報じられた。 2-2 森林の荒廃 燃料や建築資材としての利用が多く、都市周辺部では違法伐採が目立つ。林業の伐採技術の老朽化も資源の浪費を引き起こす。森林火災、害虫の発生も問題である。植林よりも乱伐の防止こそが重要である。 2-3 水資源の枯渇 西側の山岳氷河の縮小、永久凍土の融解、および各地の表層水や地下水の枯渇など、貴重な水資源の将来を憂う報告が相次いでいる。 2-4 温暖化 モンゴル全土の60地点の観測所データから求めた地上気温の年平均値は1940年からの62年間で1.66℃上昇しており、他地域よりもはるかに上昇幅が大きい。冬に顕著で、高山での上昇幅が大きい。雪氷の減少、水資源の枯渇やゾド(寒雪害)の原因となる干ばつとの関わりが指摘されている。[文献1] 2-5 自然災害 1999年から3年間続いたゾドで家畜が計770万頭死亡し、世界的にも注目を集めた。今冬の状況はさらに厳しく、5月までに全家畜の17%にあたる780万頭が死亡した。背景に夏場の気温上昇と降水量の減少で、干ばつ傾向が続いていることがある。移行後の牧畜を支える各種サービスの劣化や、経験不足の牧民の技術の未熟さが家畜の健康を損ねているという指摘もある。ゾドが都市部への人口集中および地方(特に国土の西側)の過疎化を加速している。 2-6 生物多様性の喪失 草原の植物の種の多様性はほどほどの放牧圧のもとで最大になるという説もあり単純ではないが[文献2]、前述の問題の多くは生息環境の悪化を通じて多様性の喪失につながる。レッドデータブックにある動植物の数の減少も懸念されている[文献3]。 2-7 都市環境問題 首都ウランバートルでは人口集中が起き、都市環境問題は発展途上国に共通した特徴を備えているが、中でも大気汚染が注目を集める。石炭の利用、とくに環境対策の未整備な街の周辺に発達したゲル地区からの煙が主因とされるが、劣悪な交通環境(車の排ガス・渋滞など)も影響する。水質汚染、土壌汚染、ゴミ問題も深刻化しており、最近は住民の健康問題への関心が高まっている。 3.おわりに モンゴルには環境関連の30の法律と220の規制があり14の国際条約の締約国であるが、運用が十分でないのが問題である。また、国内の環境対策の優先順位は高くない。2007年の自然環境省の予算は省庁の中でもっとも少なく国家予算の6.2%相当であった[文献3]。 参考文献: [1]Batima, P. et al.: Observed climate change in Mongolia. AIACC Working Paper No.12,2003. [2]Green Star Project: Mongolian Nature and Environment Assessment, Fall 2006 & Spring 2007 Parliamentary Sessions,2008. [3]藤田昇:草原植物の生態と遊牧地の持続的利用.モンゴル:環境立国の行方、科学vol.73,N0.5,岩波書店、2003.
著者
山本 晴彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.186, 2010 (Released:2010-11-22)

1.わが国における区内観測所の雨量観測記録のデータベース化とアメダス観測データとの統合・雨量変動解析 全国各地の主要な都市には、約130ヶ所の気象官署が設置され、観測当初からの気象観測原簿のデータベース化が実施されている。しかし、気象官署以外のアメダス観測所では、アメダス観測が開始される1976年以前の区内観測所の気象観測記録については、気象官署や気象庁図書館に紙媒体の気象観測原簿や気象月報の状態で保存されている。(財)気象業務支援センターでは、気象観測原簿や気象月報をスキャナーで読み取り、紙媒体資料のデジタル化を行い、資料の劣化防止に努めている。しかし、その資料は、デジタル数値データではなくデジタル画像(TIFF形式)として保存されていることから、数値データとして利用することは出来ない。筆者らは、西中国(広島県・山口県)および九州7県の計9県について、1976年以前の区内観測記録を対象にデータベースの構築を行った。 構築したデータベースを基に、大分県について1976年以前の区内気象観測所と1976年以降のアメダス観測所における移設距離が2km以内の降水データ(9地点)を接続し、長期にわたるデータベースを構築し、年間降水量・年間降水日数(50mm以上、80mm以上、100mm以上、200mm以上の降水日数)の長期トレンドの検証を行った。また、降水の多い6-7月、8-9月における降水日数(50mm以上、80mm以上、100mm以上、200mm以上の降水)の長期トレンドについても検証を行った。線形トレンドについてはt-検定を行い、非線形トレンドについては、Mann-Kendall検定を用いた。 200mm以上の降水日数は、犬飼で増加傾向、他の地域では減少傾向が認められた。増加傾向が確認された犬飼は、過去80年にわたる日降水量の上位(1位に1993年台風13号、2位に2005年台風14号、次は11位に2003年7月12日梅雨前線豪雨)は最近の観測年である。しかし、3-10位と順位の多くをアメダス以前に観測された降水量が占めた。減少傾向が見られた中津で、アメダス観測期間(1976~2006年)では100mm以上の降水日数トレンドは増加傾向を示している。以上のことから、1976年以降のアメダス観測記録30年間における100mm以上の降水日数トレンドは増加傾向があることから、近年災害につながる豪雨が頻発していることが示唆される。しかし、1976年以前の区内観測記録を接続した長期トレンド(1926~2006年)では、増加・減少傾向は観測所により異なった。 2.中国における満州気象データのデータベース化と戦後の気象データとの統合・気温変動解析 戦前期の満州における気象観測業務は、日露戦争に際して軍事上の目的から中央気象台(現在の気象庁)が1904年8月に大連(第6)・營口(第7)、1905年4月に奉天(第8)、5月に旅順(第6・出張所)に臨時観測所を設けたのが始まりで、その後は関東都督府に引き継がれ、1925年以降は、南満州鉄道株式会社に一部を委託された。南満州の観測所では、1904・05年から1945年の終戦までの約40年間にわたる観測業務が実施されている。一方、満州国が建国(1932年3月)され、その翌年11月に中央観象台官制が制定されたため、それ以降に開設された北満の観測所では観測期間はかなり短く、扎蘭屯では観測期間が1939年からの7ヶ年に過ぎない。1942年の満州国地方観象台制では、中央観象台(新京)、地方観象台4ヶ所、観象所46ヶ所、支台46ヶ所と簡易観測所が設置されている。 筆者らは、東亜気象資料 第五巻 満州編(中央気象台、1942)をデータベースの基礎資料とし、満州気象資料、満州気象月報、満州気象報告、気象要覧(昭和18年10月号において、新京他17ヵ所の記載がある)などに掲載されている気象観測データを収集・整理し、観測開始の1905年から1943年(1941年以降は一部)までの30万データを越える月値について、データベース化を行った。さらに、中華人民共和国の建国(1949年)以降の中国気象局により観測されたデータを統合して1世紀気温データベースを構築し、中国東北部の3大都市(瀋陽、長春、ハルピン)における気温変動の解析を行った。約100年間の1月の月最低気温の推移を見ると、ハルビンでは+6.5℃、長春は+5℃と顕著な高温化が認められている。しかし、瀋陽ではこの40年間で徐々に低温化する傾向が認められており、3大都市における冬季の気温変動に違いがあることが明らかになった。
著者
土屋 純
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.140, 2010 (Released:2010-11-22)

本発表では「商品」の持つ意味に着目し,都市研究と流通システム研究との新たな融合を試みたいと考える.比較的古くから存在する商品であり,近年では流通チャネルの多様化が進んでいる「化粧品」に着目していきたい. 流通システム研究における「商品」の取り扱い 地理学における流通システムに着目した都市研究は,(1)都市空間における商業の集積・分布パターンを検討した研究,(2)商品フローに着目した流通システム研究,(3)都市社会と消費との関係に着目した研究,の3つに大別できると考える.流通システムを取り扱っている以上,商品について少なからず考察が行われていると考えられるが,では3つの分野ではどのように「商品」を取り扱ってきたのであろうか. まず,(1)の分野では,商品への着目は概して少なかったといえよう.ベリーの中心地研究を引用しつつ,店舗の集積や分布状況について検討し,商業と都市構造との関係について検討してきた. (2)の分野では,商品のフローに着目し,主にチェーンストアなどを題材として,地理的に広がる市場に対してどのように商品が配送されているのか,配送コストに着目して分析してきた.その際の商品の取り扱いは,大量販売としての商品の「量」,配送コストなどの「コスト面」への着目である.こうした研究では,流通システムの経営的,経済的仕組みを解明することに主眼が置かれていることから,流通の最終段階である「消費」に対する考察が十分に行われていなかった.その結果,商品の質的側面について検討してこなかったといえよう. 都市研究における消費への着目 では,(3)の分野では商品はどのように取り扱っているのであろうか.注目したいのは,アメリカの諸都市におけるジェントリフィケーション研究における消費への着目である. 例えば,Smith(1996)は,スターバックスコーヒーに着目し,ジェントリフィケーションとの関わりを検討するために,スターバックスにおける店舗デザイン,商品開発,サービスを考察している.(1)都市のインナーシティにおける再開発地域という環境が,1990年代中頃までにスターバックスの営業戦略を形作り,(2)シアトル系コーヒーという商品文化がチェーン展開によって様々な地域に展開していったこと,を指摘している.ジェントリフィケーション研究では,新中間層の消費に着目して,新たな食文化を題材として場所の意味について考察しているのである. 他にも(3)の分野では,ショッピングセンターの建造環境や,グローバルな商品連鎖と消費,など様々な側面に着目した研究が行われており,欧米諸国の都市社会を舞台に議論が進んでいる. 化粧品流通から日本の都市を捉える 本発表では,日本における化粧品の流通システムについて検討し,都市空間,消費との関わりについて捉えることを試みる.欧米のように日本の都市社会でも階層分化が進行し,消費が多様化していると考えられるが,(1)化粧品流通はどのように進化しているのか,(2)都市空間の中でどのように再編成されているのか,の2点ついて検討できればと考える. 化粧品とは,基礎化粧品とメークアップ化粧品といった顔につけるものから,ボディ用商品など多岐にわたる.化粧品の流通システムは,百貨店のインショップでのメーカーの直接販売だけでなく,コンビニやドラッグストアでの大量販売も行われ,近年ではインターネットやテレビなどの通信販売も発展している.また,@コスメなどインターネットの書き込みサイトも登場し,新たな社会ネットワークも発達している. 参考文献 Michael, D. Smith. 1996. The empire filters back: consumption, production, and the politics of Starbucks coffee. Urban Geography 17: 502-525.
著者
川村 壮 橋本 雄一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.72, 2010 (Released:2010-11-22)

_I_ 目的と方法 本研究は,寒冷地に多く分布する軟弱地盤である泥炭地が開発されてきた歴史を持つ札幌市を対象とし,都市部における地質と土地利用の相関関係を明らかにし,都市開発における問題点を検討することを目的とする. 本研究で用いる地質情報に関しては,札幌地盤図(2006)を参考に,札幌市の地質を盛土,泥炭,粘土,シルト,砂,砂礫,粘土混じり砂礫,岩盤,火山灰質砂,火山灰の10種類に分類し,電子化された地質図を作成する. 土地利用情報に関しては,2000年及び2007年の都市計画基礎調査を用いて,建物密度(延床面積/建物面積)及び高層化指数(2007年建物密度-2000年建物密度)を算出する.なお,土地利用の種類は専用住宅(戸建住宅等),共同住宅(マンション等),専門商業施設,店舗施設,都市運営施設,工場施設の6種類を抽出し,それぞれ延床指数(任意の建物用途の延床面積/地区面積)及びその変化(2007年延床指数-2000年延床指数)を算出する. 以上のような地質情報と土地利用情報を空間的に結合させ,地質別の土地利用変化を明らかにする.最後に,この結果を用いて都市開発における問題点を検討する. _II_ 札幌市の地質 札幌市における代表的な軟弱地盤である泥炭地は主に豊平川の氾濫原である北東部に分布しており,地盤の不等沈下の影響が出ている地域もある.また,盛土は主に南東部に局所的に分布しているが,これは宅地造成等のために谷が埋め立てられた結果として形成されたものである.2003年の十勝沖地震の際には,札幌市においても盛土の分布域の一部で液状化現象が発生している. _III_ 地質別の土地利用変化の関係 地質情報と土地利用情報を空間的に結合させ,地質別の土地利用変化を分析した結果,建物密度と高層化指数は,いずれの年次においても砂礫や粘土の分布地域で高く,地質条件の良い中心部において建物の高層化・稠密化が進んでいると考えられる.しかし,高層化指数は泥炭と盛土でプラスの値を示しており,当該に地域において建物の高層化・緻密化が進行していることを表している. 次に,建物用途別の延床面積と地質の関係をみると,専用商業施設,専用住宅施設,共同住宅施設は砂礫や粘土の分布地域に立地する割合が高いものの,いずれも泥炭で延床面積が増加している.特に専用住宅と共同住宅が大きく増加しているが,これは地質などの自然条件以外の経済的な理由が建物立地に大きく影響しているためであると考えられる. _IV_ 結論 本研究は,寒冷地の都市内部における地質情報と土地利用情報とを統合して時空間分析を行い,両者の関係を明らかにした.その際,本研究は,寒冷地の特徴的な地質である泥炭に注目して分析を行った. その結果,泥炭が存在する地域には,専用住宅や都市運営施設が多く立地しているが,2000年以降には共同住宅の立地が進むといった動向がみられた.この結果には,近年札幌市においてマンション供給の飽和状態が指摘される中で,より安価なマンションの供給を行うため,土地取得の容易な地域での共同住宅開発が行われていることも影響していると考えられる. 泥炭地における共同住宅開発は,住環境維持のためのコストの肥大化,地震をはじめとする自然災害に対する脆弱性の増大などが伴う可能性がある.こうしたコストやリスクの増大を防ぐためには,地質情報などの自然条件に関する情報と,土地利用に関する情報を統合的に管理し,両者の関係について継続してモニタリングしていく必要がある.
著者
新井 智一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.20, 2010 (Released:2010-11-22)

1.研究の目的 近年,ごみ処理場の老朽化に伴う建て替えとその場所をめぐる問題が各地で生じている.本研究は,東京都小金井市における新ごみ処理場建設場所の決定過程を検討し,建設場所の決定要因について考察する. 2.二枚橋処理場の閉鎖と新処理場建設問題 東京都小金井市・調布市・府中市は1957年に,「二枚橋衛生組合」を設立し,3市の縁辺部にまたがる二枚橋処理場で一般廃棄物を焼却処理してきた.1980年代以降,処理場の老朽化が問題となり,組合は2006年度限りで処理場を閉鎖することを決定した.他市と共同処理について協議を進めてきた2市と対照的に,小金井市は財政再建や武蔵小金井駅南口再開発事業などの政治的課題の処理に追われ,ごみ問題を議論してこなかった. 小金井市は国分寺市に対し,ごみの共同処理と,小金井市が市内に新処理場を建設することを打診し,2006年に合意した.小金井市は二枚橋処理場跡地と,ジャノメミシン工場跡地を新ごみ処理場建設候補地とし,市民検討委員会による議論や市民説明会を経て,二枚橋処理場跡地を新ごみ処理場建設場所と決定した. 3.2候補地の問題点 二枚橋処理場は野川流域の低地に所在し,北側には国分寺崖線が走る.加えて,南東部に所在する調布飛行場の滑走路延長上に位置するため,煙突の高さは約60mに制限されていた.そのため,煙突から排出される煙や悪臭が,崖線上の小金井市東町1丁目・5丁目付近に被害を及ぼしてきたとされる. 一方,ジャノメミシン工場跡地は,小金井市が市役所新庁舎の建設を見込んで取得した市有地である.小金井市の中心に位置し,北側をJR中央本線に接し,南側には小金井第一小学校や小金井市立図書館,西側にはマンションがある. 4.新処理場建設場所の決定要因 二枚橋処理場周辺地区の住民は,50年にわたり環境的不公正を受けてきたとされるものの,新処理場建設にあたり,「受苦圏」が変化することはなかった.市長選挙・市会選挙の投票率や,市民説明会の参加者・質問者数を分析すると,新処理場建設候補地周辺の2地区を除き,この問題をめぐる小金井市民の関心は高くなかった.また,市民検討委員会の議論を検討すると,小金井市の行政は,処理方法をめぐる議論を新処理場建設場所決定後に先送りすることによって,ジャノメ跡地に建設することを避けようとする意図があったと推測できる. 一方,二枚橋処理場周辺地区の住民も,公害についての独自調査や,他地区・他市へのアピールをおろそかにしてきた.これに対し,ジャノメ跡地周辺地区の住民は市民検討委員会において,同跡地での開発が地下水に影響を与える可能性があるとする,市の地下水保全会議の見解を指摘した.このことは,市民検討委員会においてジャノメ跡地の評価を下げた大きな要因となった.新処理場建設問題をめぐる市民の無関心と,2候補地周辺住民による対応の違いが,二枚橋処理場跡地に新処理場を建設することとなった大きな要因であると考えられるのである.
著者
山田 周二
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.119, 2010 (Released:2010-11-22)

本研究は,飲料自動販売機と地蔵堂とをとりあげ,小・中学校の社会科で行われる身近な地域学習において,児童・生徒が飲料自動販売機や地蔵堂の分布を調べることによって,どのようなことが学習できるのか,そしてそのような学習はどのような地域で効果的であるか,をあきらかにすることを目的とした. 大阪府のほぼ中心部に位置する大阪市天王寺区と,奈良県との府県境である郊外に位置する柏原市,それらの中間に位置する大阪市平野区の3市区を対象として,路上にみられるすべての飲料自動販売機と地蔵堂を地図化した. 飲料自動販売機は,調査対象とした3市区に合計3932台あり,1小学校区あたり平均96台あった.いずれの市区においても,駅の周辺を中心とした商業・業務用地に多くみられる傾向があり,小学校区ごとにみた自動販売機の密度と商業・業務用地の割合との間には有意な相関がみられた(n=41,r=0.85,p<0.001).市区単位でみると,分布の偏りが明瞭にみられるものの,校区内といった狭い範囲では,明瞭な分布の傾向が読み取れる場合とそうでない場合とがあった.商業・業務用地と住宅地が余り混在することなく分かれて分布する地域では,分布の集中を容易に読み取れることが分かった.このような地域では,校区全体で野外調査を行い,自動販売機の分布図を作成することで,分布の特徴を読み取るといった地理的技能を養うだけでなく,商業・業務用地のような人が集まるところには自動販売機が設置されていることや,校区の地理的な特徴を学習することができる.一方,商業・業務用地が校区全体に広がっていたり,点在したりしている場合には,分布の傾向が容易には読み取れないため,自動販売機の分布からは効果的な学習は望めないだろう. 地蔵堂の分布は,過去の市街地と密接に関係しており,1948年以前の市街地とその周辺に多くみられることが分かった.地蔵堂は,3市区合計で185みられたが,そのうちの59%が1908年以前に市街地であった地域にあり,1948年までに市街化した地域のものも含めると79%に達する.したがって,戦前から市街化していた地域を含む小学校区においては,地蔵堂の分布を調べ,その分布とかつての市街地の分布を表す地図とを重ねることによって,分布の一致を読み取るといった地理的技能を養うことができ,また,その地域の土地利用の変化を学習することができる.ただし,かつての市街地の範囲と小学校区とは必ずしも一致しないため,校区の境界にとらわれずに,かつての市街地を包含する範囲に調査地域を設定した方が効果的な学習ができるであろう
著者
和田 崇
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.17, 2010 (Released:2010-11-22)

日本の観光は近年,物見遊山,団体客,発地型,一過性,通過型などを特徴とする形態から,体験・交流,個人客・小グループ,着地型,持続性,滞在型などを特徴とする形態へと変化してきた。これらの新しい観光は,「見る」「食べる」といった従来からの目的に加え,「体験する」「学ぶ」「癒す」「追体験する」という目的も顕在化している。このうち,「追体験する」ことを主目的とする旅行形態として,小説や映画,テレビ番組,歌,漫画,アニメなど,メディアを介して記録・伝送・鑑賞される映像や画像,音楽,文章などのコンテンツに関わる場所を訪ねるコンテンツ・ツーリズムが盛んになりつつある。本発表では,コンテンツ・ツーリズムの一つとしてアニメキャラクターを活用した観光をとりあげ,鳥取県境港市と同北栄町を事例に,自治体や地元企業,市民・NPOなどの関係機関が観光地づくりにどのように関わっているかという点を中心に報告する。すなわち,2つの事例について,アニメキャラクターを活用した観光まちづくりの実態を報告するものである。 アニメキャラクターを活用した観光まちづくりは,コンテンツの種類および地域との関わりという2つの視点から,いくつかのパターンに分類できる。コンテンツの種類からみると,アニメは商業系アニメ,芸術系アニメ,自生系アニメの3つに分類できる。また,地域との関わりからみると,題材型,ゆかり型,機会型の3つに分類できる。 鳥取県境港市は,漫画家・水木しげる氏が育った地であることに着目して,水木氏の代表作品である「ゲゲゲの鬼太郎」を活用した観光まちづくりを推進している。1992年から商店街(水木しげるロード)に「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪などのブロンズ像を設置したほか,鬼太郎列車の運行(1993年~),水木しげる記念館の運営(2003年~),各種イベントの実施などにより,水木しげるロードへの入込客数は1994年の約28万人から2008年には約172万人へと大幅に増加した。取組みの中心的役割を果たしたのは,当初は境港市役所であった。その後,商店街にブロンズ像が設置され,集客効果が実感できるようになると,鬼太郎音頭保存会(1996年),水木しげるロード振興会(1998年)など市民活動団体が組織されたほか,境港市観光協会や境港商工会議所も妖怪そっくりコンテストや境港妖怪検定,妖怪川柳コンテストなどユニークなイベントを主催した。また,水木作品(漫画およびその原画)の著作権を保有する水木プロダクションが,水木氏ゆかりの境港市のまちづくりに協力的であったことも,市内の各主体による取組みを後押しした。例えば,水木プロダクションはブロンズ像や記念館展示物のキュレイションを担当したほか,市内事業者が関連グッズを開発する際の著作権使用料を減免するなどした。 鳥取県北栄町は,「名探偵コナン」の原作者・青山剛昌氏が同町出身であることに着目し,1999年から「名探偵コナンに会える町」づくりを推進している。具体的に,1999年にJR由良駅と国道9号を結ぶ県道を「コナン通り」と命名し,7体のブロンズ像を設置したほか,2007年に青山氏の作品や仕事ぶりなどを紹介する「青山剛昌ふるさと館」を整備した。同記念館の入館者数は年間約64,000人(2008年)である。北栄町の取組みは,旧大栄町商工会が提案した「コナンの里」構想をきっかけに,旧大栄町役場が地域振興券に名探偵コナンをデザインしたことに始まる。その後も旧大栄町(2005年から北栄町)が名探偵コナンを冠したイベントを開催したり,観光プロモーションを展開したりした。活動が進展するに従い,町民の活動に対する認知度と参加意欲が高まり,2000年にはコナングッズを販売する「コナン探偵社」が町民有志によって設立された。北栄町では,町役場が漫画の著作権者である小学館プロダクションとの交渉を担当している。小学館プロダクションは,作品のイメージ保持と適切な著作権管理の観点から,著作物使用協議を慎重に行うほか,ふるさと館での展示方法や接客方法について北栄町役場に対してきめ細かく指導している。しかし,こうした慎重な協議ときめ細かな指導は,北栄町にとって時間的・精神的な負担,迅速な観光プロモーションへの障害となっている面があることも否めない。