- 著者
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植村 善博
大邑 潤三
土田 洋一
- 出版者
- 公益社団法人 日本地理学会
- 雑誌
- 日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会秋季学術大会
- 巻号頁・発行日
- pp.76, 2010 (Released:2010-11-22)
研究目的 1927年の北丹後地震は郷村・山田両地表地震断層が共役的に出現し,変位地形や活動性から活断層の用語が日本で最初に使用され,地震断層沿いの集落で激甚な被害が発生したこと,などで注目される。地震学や活断層学的研究は進められてきたが,現状では被害分析,救援・救護、復興に関する研究は十分ではない(藤巻2000、追谷他2002など)。ここでは北丹後地震による竹野郡網野町網野区での被害発生の特徴と発生要因,および復興過程について調査し,新たにえられた結果を述べる。
調査結果 1)福田川低地の西縁に郷村断層下岡セグメントが出現した。この地表地震断層は沖積低地内をN20W走向で断続的に現れ,記載された変位量は左ずれ55cm(1カ所),東側隆起60~90cm(3カ所)である。市街地はこの地表地震断層から直線距離で東へ650~950m隔たっている。
2)網野区は海岸に砂丘列が発達する福田川の沖積平野下流に位置する。市街地は三方を古砂丘や旧砂丘列に囲まれ,西側は低湿地に接しており,市街地は逆三角形状の概形をなす。地下地質は沖積基底砂礫層の上に約30mの完新層が堆積しており,中部泥層(N値=1~3)の層厚は20~25mに達する。市街地の大部分は上部砂層(中粒砂、N=5~10)と上部泥層(シルト、N=1以下~3)の上に位置している。
3)網野区の被害状況は,人口2409人中死者199名,負傷者263名であり,全514戸中全壊477戸,全焼290戸であった(永濱1929)。約19カ所から出火し,市街地東半部を焼き尽くした。死亡率8.3%,全壊率92.8%,焼失率60.8%の値を示す。峰山町での死亡率(26%)全壊率(99%)と比較して前者が著しく低い原因は焼失が約6割にとどまり,住民が外へ逃げ出す余裕があったためと推定される。
4)網野区では区長森元吉らのリーダーシップを中心に独自の復旧・復興活動を進めることになる。翌8日に区の全7組長を招集し,被害を免れた森宅を区事務所として使用。10日に組長会を開き,区画整理と沈下地の埋め立を確認,11日までに組長が区画整理計画案もって住民間をまわり,ほぼ全員の承認をえた。5月24日には網野町第1耕地整理組合・震災復旧組合を設立。この間,地主や債権者の金融機関などの強い反対を粘り強い説得と毅然たる決意により乗り越えた。11月5日に網野区東部耕地整理組合(面積23町5反,組合員386名)が府の認可を受けた。1928年1月10日に着工,1929年10月30日工事完了した。整理後約4,100坪の減少となり,減歩率は8.1%である。工事経費の48,100円は,区補助12,000円,町助成金8,083円,その他組合員からの徴収分24,714円をあてた。
4)震災前の網野区は基準道路などは存在せず,無秩序・無計画な開発により発達してきた。耕地整理事業による都市プランは全38の方形ブロックを設定した。ただし、地形の制約から外周部は三角形など不整形なものが多い。典型的なブロックは100m×48~50mおよび80m×48~50mの区画をなし、これに24戸および20戸を割当て,全ての間口が通り面するように設定されている。本計画においては公園や緑地,シビックセンターなどは設置されなかった。