著者
渡辺 匡一
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.50, no.1, pp.19-27, 2001-01-10 (Released:2017-08-01)

保元の乱の敗将、源為朝が琉球国に渡り、子息舜天(尊敦)が琉球王国の人王の初めとなる物語(為朝渡琉譚)は、島津氏の琉球侵略、明治政府による「琉球処分」に至るまで、大きな影響を与えてきた。本稿では、中世後期から近世前期を中心に、日本・琉球王国それぞれが提示する為朝渡琉譚を検討し、両国間の王統、歴史認識の差異を見いだしていく。琉球王国の異質性をこともなげに同化し、領土化していく日本のあり方は、「地域の時代」を標榜する現代においても、看過できない問題を投げかけているように思われる。
著者
高橋 修
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.1, pp.31-40, 2006-01-10 (Released:2017-08-01)

明治期には多数の『ロビンソン・クルーソー』の翻訳がなされた。それらは、どれも過不足なくコードとコンタクトを理解したうえで正確に翻訳されたものはない。しかし、いずれの翻訳も明治の読書空間のなかでそれぞれのメッセージを伝えており、何らかの対話を始める契機となっている。本稿では、翻訳/加工をパフォーマティブな社会的行為と捉え直し、そこでいかなるコミュニケーションがなされているかを考えてみた。
著者
佐野 正俊
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.49, no.8, pp.1-8, 2000-08-10 (Released:2017-08-01)

「カンガルーの赤ん坊」を見たい、という「彼女」の希望を叶える「僕」という人物の誠実さへの共感という、作品の「プロット」をなぞることによって生じた初読の<読み>は、作品の<再読>による「<メタプロット>」の捕捉によって顕現してくる「僕」という人物の<自己合理化のシステム>と<他者の自己回収の戦略>の問題とが衝突し、読み手のうちに葛藤を生じさせる。その葛藤こそが読み手の既存の価値観にゆさぶりをかける<小説の力>である。
著者
品田 悦一
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.51, no.4, pp.1-13, 2002

『万葉集』のことばは、それを使用した古代人にとっては決して国語ではなかった。それは畿内の貴族たちのことばであり、また倭歌という特殊な文化を背負う言語であって、古代国家の版図の津々浦々に通用するような性格は持ち合わせてはいなかった。明治中期に過去の諸テキストから国民の古典が選出されたとき、それら諸テキストの使用言語は過去の国語として追認された。とりわけ『万葉集』のことばは、国語の「伝統」の栄えある源泉として仰がれ、この観念のもと、万葉調の短歌がさかんに創作される。興味深いのは、近代短歌の使用言語が、古代語そのものでも、それと現代語との混融物でもなかったという点だろう。伝統の復興であるべきものが、その実、いまだかつて存在しなかった言語を新たに作り出してしまったのだ。その言語は、しかも、歌壇の外側にはほとんど通用しないという点で、事態を導いた「国語」の理念を裏切ってもいた。素朴で自然で、原始的生命力に満ちていて、そのうえ意味不明な言語。こいつはいったい、なんという鵞鳥だい。
著者
中沢 弥
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.42, no.9, pp.45-55, 1993

梶井基次郎の作品は、その独自の美意識が高く評価され、時にはボードレールと比較されたりしてきた。しかし、その美意識には一貫した規範が存在するというよりは、飛躍した主観性を帯びている。本論では、「檸檬」を表現主義映画「カリガリ博士」と重ね合わせて読むことを手始めに、画家のカンディンスキーを中心とした梶井を取り巻く芸術的な背景や梶井自身の表現意識を点検して、二〇世紀芸術の大きな流れである「表現主義」の方法との類縁性を探ってみた。
著者
樋口 佳子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.42, no.8, pp.36-43, 1993-08-10 (Released:2017-08-01)

"人間のエゴイズムの醜さがもたらすものは、自己の破滅である"-ここに主題がおかれ、これ迄にも道徳教材の一つとして広く読まれてきた『蜘蛛の糸』であるが、果たして、本当に芥川龍之介は人間のエゴイズムの醜さを主題に話を展開させたかったのだろうか。釈迦の態度や極楽の無頓着な様子などから、道徳教材としては扱い得ない、作者の批判の眼があるように感じられる。道徳教材化を拒む、読みの可能性を、文体に着目する事で考えたい。
著者
宮崎 三世
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.58, no.8, pp.33-43, 2009

「道化の華」は、小説の登場人物である葉蔵と、その書き手である「僕」が重ね合わされるようにして書かれている。「僕」は、葉蔵の小説を書くことによってそれを生き、自らの抱える問題の答えを求めようとしているのだと、作品そのものに示されているということではないだろうか。それは、葉蔵と同様に心中相手の女を死なせて一人生き残った男である「僕」が、これからどのように生きていけるのか分からないということである。「僕」は結局、そのことに解決や救いが与えられることはないと認め、葉蔵が女の死を忘れずに引き受けていく他ないと示す結末を書く。「僕」は小説を書く理由を「復讐」と答えるが、「僕」が怒りを向ける相手とは、自分自身をおいてはないだろう。本作品では、小説を書くことによって強烈な自意識に付きまとわれ続ける男、つまり書き手の「僕」自身の姿が、まるで地獄に閉じこめられるかのように描かれることとなったのである。