著者
松井 健人
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.65, no.5, pp.63-72, 2016

<p>重明親王の日記『吏部王記』と大江匡房の言談集『江談』を用いて考察すると、橘成季による説話集『古今著聞集』における、第三話の「邪気」・第四五話の「火雷天神」・第五九三話の「衣冠着たる鬼」の正体は、すべて菅原道真であることが分かる。巻を越えたこれら一連の説話は連関しており、繋ぎ合せると、一〇世紀に重明親王の付近で語られていたであろう、失われた天神譚の記録として復元できると結論付けた。</p>
著者
渡瀬 淳子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.62, no.7, pp.27-36, 2013

<p>中世において粗末な家を描写する際にしばしば用いられる言葉に「松の柱」がある。 これは白居易の詩句から出た表現であったが、白居易の活躍した中国において、「松柱」が特別な意味を持つことはなかった。しかしそれがなぜか日本においては、ぼろ家の描写に定型句のように用いられることとなった。この現象を探るため、散文韻文の用例を検討した結果、この現象の根底には『源氏物語』の流行があると考えるに至った。さらに『源氏物語』享受を通して白居易の詩を須磨巻の内容に即して理解した結果、極めて日本的な解釈が成立していた可能性を指摘した。</p>
著者
石川 巧
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.65, no.4, pp.13-24, 2016-04-10 (Released:2021-04-30)

「羅生門」が国語教科書の定番教材になったのは一九七三年から高等学校で実施された新課程以降のことだが、当時の指導書をみると、その前後に「羅生門」に関する解説内容が大きく変化していることがわかる。たとえば、一九六〇年代から「羅生門」を継続的に採録していた筑摩書房版の教科書指導書では、吉田精一の『近代文学注釈体系 芥川龍之介』(有精堂出版、一九六三年)を校訂、注釈、解説の下敷きとし、「この下人の心理の推移を主題とし、あはせて生きんが為に、各人各様に持たざるを得ぬエゴイズムをあばいてゐるものである」という吉田精一の把握を「スタンダード」としている。だが、当時の研究状況においては、「彼ら(下人・老婆)は生きるためには仕方のない悪のなかでおたがいの悪をゆるしあった。それは人間の名において人間のモラルを否定し、あるいは否定することを許容する世界であるエゴイズムをこのような形でとらえるかぎり、それはいかなる救済も拒絶する」(『現代日本文学大辞典』明治書院、一九六五年)と主張する三好行雄の論が新風を巻き起こしていた。「羅生門」がいかに読者を深い読みの迷路に誘発する作品であるかを主張する三好行雄の作品論が浸透するなかで、「羅生門」は定番教材へとのぼりつめていくのである。また、近年の教材研究では、「下人のあらかじめ所有していた観念を観念として保証させるものの無根拠さを説き」「下人の生きる観念の闇というアポリアに立ち向かう」のは〈語り手〉であり、「羅生門」はその〈語り手〉が批評の主体を獲得していく物語であるとする田中実の論考(「批評する〈語り手〉――芥川龍之介『羅生門』」、『小説の力――新しい作品論のために』所収、大修館書店、一九九六年二月)がひとつの読解コードとなっているように思う。今回の発表では、「法・倫理・信心」というキーワードをもとに「羅生門」を精読し、この作品がなぜ定番教材としての人気を誇っているのかを検討したいと考えている。膨大な先行研究の間隙を縫うような論じ方ではなく、教室という場でこの作品が果たす〈ことばの機能〉そのものを考察するつもりである。
著者
木股 知史
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.47, no.11, pp.12-21, 1998

『たけくらべ』の結末に描きこまれている「水仙の作り花」については、(1)信如の境遇についての暗示的表現 (2)信如の内面(美登利に対する感情)の暗示的表現 (3)信如と美登利の関係性についての暗示的表現 (4)投影された美登利の内面の暗示的表現 (5)テクストの外から持ち込まれた語り手の介入的メッセージの暗示的表現、というように多義的に理解することができる。多義性をまとめあげるために、<恋愛>という枠組が必要とされ、そのことが理解を拘束していることを検討する。
著者
榊原 理智
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.46, no.3, pp.39-49, 1997

太宰治『斜陽』には、<語り手>かず子の語る行為が語りそのものを変えていくさまが、明確にあらわれている。刻々と変容するかず子は、従って<語り手>という言葉でくくることのできないものである。「語る行為」についての小説であるという側面を、テクストに即して見ていくことによって、「道徳革命」の評価という従来の『斜陽』論と、欧米のナラトロジー理論への批判の契機となることを目指した論文である。
著者
鎌倉 芳信
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.36, no.10, pp.62-70, 1987

「断橋」は、作者が北海道内を巡歴した時の記事をもとに構成されている。小説では、この記事の上に現実崩壊や存在基底喪失の幻影風景を重ねている。幻影風景は北海道放浪当時の作者の存在の不安や恐怖の変形したものと考えられる。樺太での事業の企ては、自己の哲学の実践であると考えながらも、もしかしたら狂気の沙汰に過ぎないかもしれないというアイデンティティーの危機意識が幻影風景となって表われたものである。
著者
佐藤 深雪
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.91-100, 2005

第131回芥川賞受賞作であるモブ・ノリオの『介護入門』について、三島由紀夫の『葉隠入門』、ジム・ジャームッシュの『ゴースト・ドッグ The Way of Samurai』、そして棄老伝説と深沢七郎の『楢山節考』などを参照しながら、エスカレートする死の暴力との戦いという視点から論じた。
著者
酒井 英行
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.34, no.6, pp.44-54, 1985

明治三十九年の漱石の課題は、教師と作家の間の宙吊りを清算して、作家として立つことであった。『坊つちゃん』を書くことによつて松山時代を追体験した後、『草枕』『二百十日』において熊本時代を追体験してゆくのである。明治三十九年の不徹底な生活に過去の卑怯な地方生活をオーバーラップさせて思い浮べていたのであり、現在と過去の卑怯さが相乗して、文学によって現実と闘う決意を固めさせていったのである。
著者
吉野 瑞恵
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.49, no.1, pp.11-20, 2000

『蜻蛉日記』は、「国文」の規範たる仮名文で書かれていたため、近世以来明治に至るまで、評価すべき作品とされていた。だが、その「文学性」が評価されていたわけではなかった。大正に入って「自照性」というキーワードが導入されることによって、『蜻蛉日記』の文学史的地位は上昇したものの、この日記は良くも悪くも「女流」文学の王道を歩むこととなったのである。
著者
城殿 智行
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.11, pp.48-56, 2006

特集タイトルには<戦後>空間とあるが、本論ではそれをまず、思考の様式を示す<戦後>という抽象と、日本がたどった歴史的・政治的な経緯を含意する「空間」という隠喩に分節する。次いで、近年では支配的な思考様式となった「言説分析」のあり方を、ミシェル・フーコーの思考と対比させることによって、批判的に再検討する。以上の分析を経た上で、三島由紀夫や中上健次といった<戦後>作家が、何をどのように考えて創作したのかが論じられる。
著者
室田 知香
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.12, pp.11-24, 2007-12-10 (Released:2017-08-01)

『源氏物語』の所謂第二部における、柏木の恋に関わる物語には、『伊勢物語』の業平の像を思わせるような一連の類同的表現群や、恋ゆえの離魂と死を思わせる表現など、多数の引用的表現が用いられている。が、こうした表現群にはしばしば、一種屈折した論理が伴われ、柏木をただ既存の物語伝統に添う恋の英雄に重ねきるのではなく、しだいに柏木像との間の分裂を露呈するものとなっている。その過程の考察を通し、第二部の叙述の性質と展開原理とを問い直す。