著者
高木 元
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.43, no.10, pp.22-34, 1994

江戸読本は商品として生産された書物であるから、本文以外の装幀や板面も読まれるべきテキストとして作られている。また新刊予告の分析を通じて作者と板元との位置を計測し直し、さらに江戸読本には書式(フオーマツト)が形成されたこと、商品価値こそが書物のメディア性を保証していることなどを論じた上で、出板流通機構という構造をみずからの中に抱え込んで、書式を踏まえなければ<作者>は書物を作れなかったことを明らかにした。
著者
亀井 秀雄
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.41, no.1, pp.1-9, 1992

最近のテクスト論的研究は、従来の文学研究が作者を実体論的にしかとらえなかった傾向を批判して、「作者の死」を主張している。これは正当な問題意識と言えるが、しかしその反面、テクストとともに現出する「作者」あるいはテクストの生産する「作者」への関心を欠落している。本論ではその「作者」を、書く行為の段階、印刷の段階、本として流通機構に繰り込まれた段階から考察検討した。
著者
日下 力
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.33, no.9, pp.25-34, 1984

本稿は、為朝像がいかなる過程をへて『保元物語』に定着されるに至ったかを見極めるべく、為朝に関する歴史史料類の再検討から始め、物語の表現、定着の時点に論及した。要は、為朝が地方(辺境)という闇を背負いつつ、都での瞬時の活躍という光の部分を共有したことの中に、英雄像としてふくらんでいく秘密があったのではないかとする点にある。その意味で、中世の時代相と不可分の関係において英雄像は誕生したと考える。
著者
加須屋 誠
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.49, no.7, pp.17-28, 2000

十二世紀末に制作された絵巻物『病草紙』は病苦を浄土教的な無常感から主題化し、それを写実的に描いた絵画作品であるとこれまで美術史では位置づけられてきた。しかし、文学作品研究に倣い、その画面の構造分析を試みると、『病草紙』は決してそのような絵画でないことが明らかとなる。むしろ、それは古代/中世の時代の移行期にあった皇族貴族たちの動揺する価値観や抑圧された欲望あるいは不安に満ちた予感が投影された、まさしく《終末イメージ》の表象として解読される。
著者
縄手 聖子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.60, no.9, pp.10-20, 2011-09-10 (Released:2017-05-19)

『梁塵秘抄』三一九番歌で「太子」とうたわれる人物は、『列仙伝』の王子喬を典拠としている。だが、王子喬という固有名詞ではなく、「太子」という呼称を用いていることから、「太子」は院政期の東宮ではないかと考えられる。その他に王子喬自身が日本の礼楽思想と深く関わっていること、三一九番歌でうたわれる遊ぶ鶴亀という風景の基底には、王権への祝いがあることなどを起点として、三一九番歌を読み解いていく。
著者
宮脇 真彦
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.60, no.10, pp.12-21, 2011-10-10 (Released:2017-05-19)
被引用文献数
1

俳諧の季語は、一句の季感を決定するものとして、一句の題に準じて考えられてきている。そのため、一句に季語が二つ以上詠み込まれる季重なりなどの場合、句の中心となる季語を選び出して季感を決定するという手続きが取られても来たのである。こうした一句の季に関する考え方は、現代俳句での季語に対する考え方の反映として、無意識に俳諧の発句に向き合ったための手続きでは無かったろうか。本稿では、芭蕉が積極的に編集に参加した『猿蓑』所収「春風にぬぎもさだめぬ羽織哉」の一句を取り上げ、その前書「露沾公にて余寒の当座」を手がかりに、蕉風俳諧における題と言葉、季題と季語の関係について考えてみた。そこからは、俳諧の発句が、現代俳句のような季語を詠み込むことにおいて季題を提示する方法ではなく、題を表現しようとして一句の季語を用いてゆくという、むしろ和歌的な題詠の方法が見えてくる。
著者
小助川 元太
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.64, no.4, pp.11-20, 2015

<p>高校時代に古文が嫌いだったという大学生は多いが、大学受験をしない生徒を含む現役の高校生になると、その数はさらに増えるであろう。その原因は様々であるが、突き詰めていえば、教室で読む「古文」に魅力がない、面白くない、というのが一番の理由であろう。ところが、「古典文学」というコンテンツそのものが今の若者にとって全く魅力のないものかといえば、実はそうでもないようである。たとえば、百人一首をテーマとした漫画『超訳百人一首 うた恋い。』などは高校生や大学生の間でかなりの人気を博している。実際には、現代を生きる若者の心にも響く魅力的な「古典文学」は多く存在しているのだが、教材として教科書に掲載できる(あるいは掲載を求められる)作品には、教育現場における制約(教育的配慮・受験への配慮、分量、配当時間など)があり、その種類が限られてしまうというのが現状である。今後「古典文学」の魅力を若者に伝えていくためには、今や若者たちと「古典文学」との唯一の出会いの場となっている、教科書の「古文」の内容や扱い方を見直していく必要があるのではないか。</p>
著者
清水 潤
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.9, pp.32-41, 2005

泉鏡花「龍胆と撫子」は「黒髪」と題して雑誌連載が始まったが、連載誌の変更や連載中断を経た後、前半部分のみが『りんだうとなでしこ』と題して単行本化された。この未完に終わった大作について、本論では複雑な成立過程も考慮に入れた上での作品読解の可能性を探る。成立過程での作品世界の変質や作中人物の役回りの問題(例えば、重要人物であるべき毛利が冒頭部分にしか登場しないこと)も検討しつつ、後期の鏡花文学の中での本作の存在意義を巡って再考察を試みた。
著者
安藤 恭子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.46, no.11, pp.21-33, 1997-11-10 (Released:2017-08-01)

明治三十年代に新たなカテゴリーとして設定された<少女>は、大正期においてどのように表象されたか。この問題を考察することは、ジェンダー構成はもちろんのこと、不断に規定される他者/境界の交錯を問題化することでもある。吉屋信子『花物語』第一〜七話を具体的に分析し、近代日本という国家が自らを主体化するように規定したさまざまな境界が、どのように互いに関係付けられ、互いを規定し合うのか、その際<少女>はどのように表象されたのかを明らかにした。
著者
高橋 重美
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.2, pp.26-37, 2007-02-10 (Released:2017-08-01)

少女小説批評は、長らく『花物語』の美文の「抒情性」を少女の本質に由来する特質としてきたが、近年の研究は抒情が少女の占有物ではなく、同時代の文学ヒエラルヒーの中で広く共有された感性であったことを明らかにした。本稿はそれを踏まえた上で、少女の抒情がどのように別枠化されていったかを、少女フィクション形成時の、規範が物語として構成される過程に注目して分析し、近代少女表象の根本的な逆説性について考える。
著者
大杉 重男
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.61-70, 2005

保田与重郎の戦後最初の評論「みやらびあはれ」において、その標題になっている「みやらびあはれ」という語は、第二次世界大戦の敗北によって日本の領土から沖縄が暴力的に奪い取られたこと、引いては日本の敗戦そのものに対する保田の表象不可能な「断腸」の思いの合言葉として展開されているが、それをよりテクストに密着して解釈を進める時、この合言葉は保田の意図を超えた複数の様々な暴力の合言葉として読めて来ることを論じる。
著者
錦 仁
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.53, no.7, pp.1-10, 2004-07-10 (Released:2017-08-01)

平安文学において<音>は、どのような場面に、どのような意義を付与されて表現されているだろうか。本稿は、そうした問題について基本的な考察を試みる。具体的には、『古今和歌集』仮名序の冒頭部にあらわれる「花に鳴く鶯、水に住むかはづの声」をはじめ、『紫式部日記』冒頭部にあらわれる「不断の御読経の声々」「例の絶えせぬ水のおとなひ」といった<音のある風景>をとりあげる。そして、これらの<風景>が、当時の貴族の屋敷と庭園に込められた思想を色濃く反映していることを明らかにする。
著者
平田 英夫
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.61, no.7, pp.11-21, 2012-07-10 (Released:2017-11-22)

勅撰和歌集の「序文」は「和歌」をどのように記述したのであろか。本論では、序にて示される和歌にまつわる情報のなかでも、その始まりや起源をどのように記述しているのかについて注目し、検討していく。特に古今集仮名序における「この歌、天地の開けはじまりける時よりいできにけり」という天地開闢時に和歌が出現したとする啓示のような文言に、中世勅撰集の序文がどのように向き合っていくのかについて考察した。
著者
今関 敏子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.41, no.2, pp.43-55, 1992-02-10 (Released:2017-08-01)

現行の解釈に拠れば、『古今集仮名序』の「花になくうぐひす、みつにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。」のうたをよむ主体は、鶯、蛙を代表とする動物ということになる。本稿では敢えて、この古註以来の解釈に、文脈上及び論理整合上の理由で疑問を提示する。そして、うたをよむ主体をめぐって仮名序の言語意識を探り、"人"と"ことば"を中心に展開される和歌観について考察する。
著者
重田 みち
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.2, pp.9-17, 2006

複雑な成立過程を持つ世阿弥の能楽論『花伝』のうち、応永十年前後に成立したと推測される、当初の「奥義」(後に書き加えられた約半分を除いた部分。本文は現存せず)について、その本文を推定し、執筆の契機と意図について考察した。すなわち、その執筆の契機として、先行する歌論の十体論を世阿弥が知り得たことが挙げられ、その執筆の意図は、当時の自座の役者が古来の大和猿楽の藝風だけに固執しがちなことを批判し、他座の藝風をも視野に入れたすべての藝風を身に付けるべきことを主張することにあったと推測した。