著者
山折 哲雄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.1, pp.97-105, 1989-05-21

折口信夫は、日本の文学や芸能における基本的な方法が、先行する文学や芸能の形式を模倣するところにあると考え、それを「もどき」の方法と称した。「もどき」という術語には「真似る」という意味と「抵抗する」という意味の両義性があるとかれはいう。模倣しつつ批評するというように解釈してもいいだろう。和歌文学における「本歌取り」も謡曲「翁」における三番叟の演出も、みなこの「もどき」の方法にもとづいているのである。したがってもしもギリシアの芸術が「自然の模倣」であったとするならば、日本の芸術は「芸術の模倣」から成り立っていたといえるかもしれない。
著者
埴原 和郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.13, pp.11-33, 1996-03-31

奥州藤原家四代の遺体(ミイラ)については、一九五〇(昭和二五)年の調査に参加された長谷部言人、鈴木尚、古畑種基氏らによる詳細な報告があるものの、現在もなお疑問のまま残されている問題が多い。 筆者は鈴木尚氏の頭骨計測データを借用して新たに種々の統計学的検討を行い、また中尊寺の好意により短時間ながら遺体を直接観察する機会を得たので、その結果を報告して先人の研究の補遺としたい。この論文では次の点に触れる。一、 遺体の固定―基衡と秀衡の遺体がいつの時代かに入れ替わったという疑問について、少なくとも生物学的観点から結論を出すことは困難である。また一部の特徴には寺伝どおりでよいのではないかと思える点もあるので、この問題は今のところ保留としておいた方がよさそうに思える。二、 遺体のミイラ化の問題―遺体は自然にミイラ化したものと考えられるが、ごく簡単な吸湿処置がとられたという可能性が高い。三、 奥州藤原家の出自―藤原家はもともと京都方面の出身という可能性が高い。四、 エミシの人種的系統―古代・中世に奥州に住んでいたエミシは、現代的な意味でのアイヌでもなく和人でもなく、東北地方に残存していた縄文系集団が徐々に"和人化"しつつあった移行段階の集団であったと思われる。藤原家四代に見られる"貴族化"現象―特に鼻部の繊細化(貴族化)が著しいが、顔の輪郭や下顎骨の形態は日本人の一般集団に近いので、近世の徳川将軍や一部の大名に比較すれば貴族化の程度は弱かったと思われる。
著者
石井 紀子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.30, pp.167-191, 2005-03-25

一八八〇年代から一九〇〇年代にかけて北中国ミッションと日本ミッションに赴任した医師の資格を持つ一人のアメリカ女性宣教師の本国宛の書簡を手がかりに、伝道地の主体性、宣教師の専門性、ジェンダーと伝道活動の相互作用を検討した。その結果、伝道活動を決定する要因として伝道地の事情が宣教師個人の専門性より優先することが明らかになった。本事例でホルブルックは中国で専門を生かして診療所開設の上、「医療バイブル・ウーマン」を養成できたのに対し、日本では女子高等教育の中の理科教育、家庭衛生教育の分野で自身の専門性を生かした。女性宣教師はジェンダーの分離を根拠に女性のための伝道を正当化していた上、海外伝道の目的として伝道と女性の地位の向上を矛盾したものとはとらえていなかったので、ホルブルックにとって二つの伝道活動は一貫していたといえる。
著者
河合 隼雄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.15, pp.51-67, 1996-12-27

浜松中納言物語と更級日記は、菅原孝標女という同一人物によって書かれたと言われている。両者の特徴の共通点のひとつは、ともに多くの夢が語られていることである。私はそれらの夢を、現代の深層心理学の立場に立って、自分の夢分析の実際経験に頼りつつ比較検討した。一見すると浜松中納言物語と更級日記の夢の意味はまったく異なっているように見える。前者では、すべての夢は外的現実と関連しており、ときには未来の事象を告げたりする。物語は夢に従って展開する。夢は物語の筋に重要な役割を担っている。他方、後者では、作者は夢が彼女の人生において、最後のひとつを除いて、すべて役に立たなかったと嘆いている。
著者
安田 喜憲
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.16, pp.101-123, 1997-09-30

ギルガメシュ叙事詩は四六〇〇年前にメソポタミヤ南部で書かれた人類最古の叙事詩である。この叙事詩のメインテーマはウルクの王ギルガメシュと友人エンキドゥが、森の神フンババを殺す物語である。フンババはメソポタミヤの神エンリルに命ぜられてレバノンスギの森を数千年の間守ってきた。そこに青銅の斧をもったギルガメシュとエンキドゥがやってきた。フンババは怒り狂い口から炎を出して襲いかかった。しかしギルガメシュたちは強く、とうとうフンババは殺されてしまった。フンババの森の神を殺したことによって、ギルガメシュはレバノンスギを自由に手に入れることができた。人類が最初に書いた物語は森林破壊の物語だった。フンババの殺害を知ったエンリルは激怒し、大地を炎にかえ、食べ物を焼き尽くすという。すでにギルガメシュ叙事詩の作者は森林破壊の恐ろしさを知っていたのである。フンババが殺されてから三〇〇〇年後、日本では八世紀に日本書紀が編纂された。その日本書紀のなかにスサノオノミコトとイタケルノミコトの物語が書かれている。二人は新羅国より日本にやってきて、スサノオノミコトは髭からスギを胸毛からヒノキを産みだし、イタケルは持ってきた木の種を九州からはじめて日本全土に播いた。この功績で紀ノ国に神としてまつられた。この二つの神話にかたられる神の行動はあまりにも相違している。ギルガメシュはフンババを殺しレバノンスギの森を破壊した。スサノオノミコトとイタケルノミコトは木を作りだし木を植えた。この神話の相違は花粉分析の結果から復元した両地域の森林の変遷にみごとに反映されていた。フンババの森の神を殺したメソポタミヤや地中海沿岸では森はすでに八六〇〇年前から大規模に破壊され、五〇〇〇年前にはアスサリエ山などのメソポタミヤ低地に面した山の斜面からはほとんど森が消滅していた。そして森は二度と回復することはなかった。これにたいし、日本でもたしかに森は破壊された。しかし、八―一〇世紀の段階で、すでに植林活動が始まっていた。このためいったん破壊された後地にふたたび森が回復してきた。日本では今日においても国土の六七パーセントもが森に覆われている。二つの神話はそののちの二つの地域がたどる森の歴史をみごとに予言していた。フンババの森の神を殺したメソポタミヤでは森という森はことごとく消滅し文明も崩壊した。これにたいしスサノオノミコトとイタケルノミコトが森を植えた日本は、今日においても深い森におおわれ繁栄を享受しているのである。
著者
田名部 雄一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.5, pp.135-172, 1991-10-15

動物の種の間には、互に外部的な共生現象がみられることが多い。ヒトと家畜の間の共生現象の大部分は、ヒトには利益があるが、他方の種(家畜)には大きな害はないが、ほとんど利益のない偏利共生(Commensalism)である。ヒトと家畜の間の共生現象のうち、相互に利益のある相利共生(Partnership)の関係にあるのは、ヒトとイヌ・ネコの間の関係のみである。
著者
孫 才喜
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.19, pp.79-104, 1999-06-30

太宰治(一九〇九―一九四八)の『斜陽』(一九四七)は、日本の敗戦後に出版され、当時多くの反響を呼んだ作品である。本稿では、かず子の手記の物語過程と、作品中に頻出している蛇に関する言説を中心に作品を読み直し、『斜陽』におけるかず子の「恋と革命」の本質の探究を試みた。
著者
青山 玄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.2, pp.69-78, 1990-03-10

諸国遍歴の修験者円空(一六三二―九五)は、日本古来の修験道や密教的仏教の伝統の上に立って大量の作品を残しており、そのうち「円空仏」四、三二〇体、和歌一、六〇〇余首、他に絵一八四枚が現存しているが、円空の出自に不明な点が多いことから、一九七三年以来、円空を十分の根拠なしに私生児と考え、洪水で非業の死を遂げた母の鎮魂供養のために仏像を彫り、諸国勧進に努めたかのように説く谷口順三氏の説が広まった。この説に基づいて、一九七四年にはラジオ・ドラマ「木っ端聖・円空」が放送され、一九八八年にはテレビ・ドラマ「円空」が放映された。――筆者は、谷口氏のこのような円空観がいかに根拠薄弱であるかを明らかにすると共に、同氏が軽視した『浄海雑記』『近世畸人伝』に読まれる円空略伝やその他の断片的史料、ならびに円空の和歌などから、彼が単に天才的芸術家であっただけではなく、かなりの教養の持ち主で、その家柄も悪くなかったと思われることを明示した。そして彼が生まれた頃や少年だった頃に、その故郷の村々では無数のキリシタンが処刑されたこと、また彼が仏像を作り始めた一六六三年は、その二年前から木曽川を挟んだ対岸の尾張国中島郡やその隣の扶桑群の数十ヶ村で、無数の農民がキリシタンとして検挙されていた時であったこと、ならびに彼が造仏に精を出していた頃の美濃尾張の農民が処刑されたキリシタンの鎮魂を一大関心事にしていたこと、その他から、円空造仏の一つの動機が、信仰のために殺された無数のキリシタンたちの鎮魂供養にあることを立証した。
著者
浅岡 邦雄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.27, pp.201-214, 2003-03-31

本稿の目的は、鈴木貞美編『雑誌『太陽』と国民文化の形成』に掲載の論文、原秀成「近代の法とメディア―博文館が手本とした一九世紀の欧米」を批判的に検証することにある。