著者
村山 聡
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.53-75,iv, 2001

近世ヨーロッパに関して、各人の年齢が記載されている歴史資料を見つけることは非常に難しい。ヨーロッパでは、洗礼、堅信礼、婚姻、埋葬などの各イベントにおいて、教会は記録を残している。しかし、ヨーロッパの歴史人口学で使用されてきた洗礼、婚姻、埋葬の記録である教区簿冊においても、年齢記載がなされているものは多くない。それに対して、日本の近世江戸期の史料では、五〇年以上、場合によっては一〇〇年、二〇〇年という単位で毎年各人の年齢が記載されている「宗門人別改帳」などの史料が残されている。このような史料が残っていることはまれであるものの、多くの地域で年齢記載のある史料が残されていること自体が近世日本の特徴であると考えられる。毎年何十年にもわたって同一のフォーマットで記録され続けていたということはどのように理解すればいいのだろうか。近世ヨーロッパでは一部の地域を除くと、そのような記録は残されていない。この違いをどのように考えればよいのだろうか。また、近世日本における人口関係資料のもう一つの特徴は、多くの地域で実際の世帯と考えられる生活単位そのものが一つの単位として取り扱われ、それについての記録が毎年なされていることである。近世ヨーロッパの史料においても、世帯構造を分析できる史料がある。しかし毎年継続的かつ定期的にそのようなセンサスタイプの史料が残されているケースは、ヨーロッパではオーストリア、イタリアとスウェーデンぐらいであるとされている。それゆえ、なぜ詳しい年齢記載がなされているのか、という疑問に加えてもう一つの疑問点は、なぜ、毎年、世帯の単位で記載がされる必要があったのかということである。あるいは、なぜそのような記載の形式が持続されえたのか、ということである。年齢記載を含めて、記録された世帯の分析についてはすでに多くの蓄積がなされてきた。しかし、記録され続けたことの意味については、それほど多くの注意が払われてきたわけではない。記録された世帯について、残された史料データに基づいて現在でも多くの分析が可能であるということは、記録されたその時代においても、現在とは基準が異なるにせよ、何らかの分析可能性があったことを示唆する。この意味で、このような種類の史料が存在する社会というのは、少なくとも、家族関係については、情報編集性の非常に高い社会であったのではないであろうか。特に家族の選択的行動には実に様々な利用可能性があったと考える。これを誰がいかに利用していたかは、それぞれの時代や地域において、大きな差があったと考えるが、単に権力者側の意図が反映して作成されていたのではないことは確かであろう。その意味で、各地域の住民や地方役人は、規則としてだけでなくかなり主体的に年齢記載などを行ったのではないかと推察する。
著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.27, pp.13-56, 2003-03-31

今日、日本の近現代文芸をめぐって、一部に、「文化研究」を標榜し、新しさを装いつつ、その実、むしろ単純な反権力主義的な姿勢によって、種々の文化現象を「国民国家」や「帝国主義」との関連に還元する議論が流行している。この傾向は、レーニンならば「左翼小児病」というところであり、当の権力とその政策の実態、その変化を分析しえないという致命的な欠陥をもっている。それらは、「新しい歴史教科書」問題に見られるような「日本の威信回復」運動の顕在化や、世界各国におけるナショナリズムの高揚に呼応するような雰囲気が呼び起こしたリアクションのひとつであろう。その両者とは、まったく無縁なところから、第二次大戦後の進歩的文化人が書いてきた日本の近代文学史・文化史を、その根本から――言い換えると、そのストラテジーを明確に転換して――書き換えることを提唱し、試行錯誤を繰り返しつつも、少しずつ、その再編成の作業を進めてきた立場から、今日の議論の混乱の原因になっていると思われる要点について整理し、私自身と私が組織した共同研究が明らかにしてきたことの要点をふくめて、今後の日本近現代文芸・文化史研究が探るべきと思われる方向、すなわち、ガイドラインを示してみたい。整理すべき要点とは、グローバリゼイション、ステイト・ナショナリズム(国民国家主義)、エスノ・ナショナリズム、アジア主義、帝国主義、文化ナショナリズム、文化相対主義、多文化主義、都市大衆社会(文化)などの諸概念であり、それらと日本文芸との関連である。全体を三部に分け、Ⅰ「今日のグローバリゼイションとそれに対するリアクションズ」、Ⅱ「日本における文化ナショナリズムとアジア主義の流れ」、Ⅲ「日本近現代文芸における文化相対主義と多文化主義」について考えてゆく。なお、本稿は、言語とりわけリテラシー、思想などの文化総体にわたる問題を扱い、かつ、これまでの日本近現代文学・文化についての通説を大幅に書き換えるところも多いため、できるだけわかりやすく図式化して議論を進めることにする。言い換えると、ここには、たとえば「国家神道」など、当然ふれるべき問題について捨象や裁断が多々生じており、あくまで方向付けのための議論であることをおことわりしておく。
著者
浅岡 邦雄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.27, pp.201-214, 2003-03-31

本稿の目的は、鈴木貞美編『雑誌『太陽』と国民文化の形成』に掲載の論文、原秀成「近代の法とメディア―博文館が手本とした一九世紀の欧米」を批判的に検証することにある。
著者
千田 稔
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.14, pp.125-145, 1996-07-31 (Released:2016-06-08)

小稿は、空間的属性である道路から、日本古代の王権の一端を探ろうとするものである。ここで対象とする道路は大和から河内に通ずる「南の横大路」―竹内街道と「北の横大路」―長尾街道である。「ミチ」という言葉の原義は、「ミ」+「チ」で、「ミ」は接頭辞で神など聖なるものが領するものにつくという説にしたがえば、「ミチ」は本来神に結び付くものであった。 「南の横大路」の東端の延長線上に神の山、忍坂山が、「北の横大路」の東端には和爾下神社が位置することは「ミチ」の語義にかなう。忍坂山のあたりは息長氏の大和における本拠地であり、和爾下神社はワニ氏によって奉斎されたものである。したがってこの両道は大王家の外戚氏族である息長・ワニ氏に関わるものとみられる。以上のことから両氏あるいは関係氏族から皇妃を入れた大王の墳墓が、河内の竹内・長尾街道沿いにあることが伝承されることが説明でき、同時に河内王朝論には慎重にならざるをえないと考える。
著者
木村 汎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.24, pp.13-35, 2002-02-28

ロシア連邦を構成する八九の行政単位の一つであるカリーニングラード地方は、日本人にとり次の意味で無視しえない地域である。ソ連邦崩壊後リトアニアが独立国となったために、カリーニングラード地方は、ロシア本土から地理的に切り離された陸の孤島となった。モスクワの中央政府は、そのような境遇となった同地方に「経済特区」の地位を認めた。経済特区とは、関税・査証・為替通貨などにかんし優遇措置を与えることを通じて内外からの投資を惹きつけ、よって当該地域の経済活動を活性化しようとする工夫のことである。ソ連邦解体後の一九九一~九二年にかけて、ロシア連邦内には約十四ヶ所の「経済特区」が設立された。
著者
蔡 鳳書
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.25, pp.263-277, 2002-04-30

これまでの中日古代文化交流歴史研究においては、文献記録の資料に主として依拠する場合が多かったが、戦後の五〇年間には中国、日本ともに考古学の研究成果が多い。この情勢により、両国の発掘調査の資料を利用し、中日文化交流史を研究することが必要になる。
著者
山本 美紀
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.30, pp.283-294, 2005-03-25

ジョージ・オルチン(George Allchin 1852-1935)による幻燈伝道は、彼の日本での宣教師としての仕事において、賛美歌の仕事と並ぶ大きな活動である。彼の伝道旅行は地方にも及び、多くの人々にとって福音のみならず賛美歌や聖歌といった西洋文化に初めて生でふれる機会となっていた。本論文は、時に一〇〇〇人以上という動員数を誇った彼の「幻燈伝道集会 Lantern Lecture」に焦点を当て、特に彼のオリジナル作品「ほととぎす」「世は情け」を中心にとりあげる。この二つの作品は聖書のたとえ話「放蕩息子」「善きサマリア人」の翻案である。
著者
早川 聞多
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.16, pp.125-159, 1997-09-30

本稿は鈴木春信作『今様妻鑑』の絵解きを通して、春信の見立絵の特色を論じようとするものである。『今様妻鑑』は上中下三冊からなる艶本で、各巻は春信作の春画十一図と作者未詳の艶笑小話二話から成る。本稿で取り上げるのは主に春画であるが、各図は平安時代に成つた『和漢朗詠集』の漢詩句を頭書し、それを基に春信独特の見立てを春画によつて試みたものである。その絵解きを通して、「外面の極端な相違と内面の意外な共鳴」といふ春信独特の見立絵の構造を明らかにする。
著者
村井 康彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.1, pp.65-95, 1989-05-21

古代社会に成立した日本的王権=天皇制が、長期にわたって存続した歴史的背景を明らかにすることは、天皇制それ自体にとどまらず、日本の社会や文化の特質を知るためにも不可欠の研究課題である。天皇制を存続させた最大の理由は、王権における権威と権力が分化し、天皇が権威だけをもつ存在になったことにあるが、その権威と権力の分化をもたらしたのは、天皇の即位年齢の低下と、それによる天皇の政治的主体性の弱体化にある。そのきっかけをなしたのが、天智天皇が大友皇子(二三歳)の即位を実現するために発した詔を「不改常典」(天智が定めた、永遠に変更されることのない法)と称し、これを拠として、持統女帝と元明女帝がそれぞれ孫の皇子(一五歳・二三歳)の即位を実現したことにある。この過程で生れた、王権の継受に関する新しい制度が皇太子制度であり、これが持統女帝にはじまる譲位の慣例化とあいまって、年少天皇の即位、不執政天皇の出現をもたらすこととなった。日本的王権=天皇制の成立といってよい。それは平安初期のことである。
著者
高井ヘラー 由紀
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.30, pp.109-132, 2005-03-25

植民地支配におけるキリスト教の役割は、これまで「教会と国家」という観点から、どちらかというと統治権力に対して妥協的であったその姿勢が、批判的反省的にとらえられる傾向があった。そのような妥協的姿勢は、「キリスト教国」である欧米のみならず、日本による植民地支配の場合においても同様であった。しかしキリスト教は、植民地支配が生み出す多文化的な状況において、しばしば、異文化に属する「支配者」及び「被支配者」間に、文化的政治的障壁を越えた交流をもたらす媒介でもあった。このことを示す具体的な事例として、本稿では、日本による台湾植民地統治が開始した一八九五年、台湾武力制圧の過程において見られた事例に着目し、植民地統治下台湾における日本、台湾(澎湖)、欧米宣教師の三者間のキリスト教を媒介とした「出会い」及び「交流」の事実を描くことによって、植民地支配下における異文化交流の現実とその問題点を探ることを目的とする。
著者
小川 順子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.33, pp.73-92, 2006-10-31

本論の目的は、美空ひばりが銀幕で果たした役割を考察することによって、チャンバラ映画と大衆演劇の密接な関係を確認することである。戦後一九五〇年代から六〇年代にかけて、日本映画は黄金期を迎える。当時は週替わり二本立て興行が行われており、組み合わせとして、現代劇映画と時代劇映画をセットにするケースが多かった。そのように大量生産されたチャンバラ映画を中心とした時代劇映画のほとんどは、大衆娯楽映画として位置づけられ、連続上映することから「プログラム・ピクチャア」とも呼ばれている。映画産業を支え、発展させ、もっとも観客を動員したこれらの映画群を考察することには意義があると考える。そして、これらの映画群で重要なのが「スター」であった。そのようなスターの果たした役割を看過することはできないであろう。本論では、戦後のスターとして、あるいは戦後に光り輝いた女優として活躍した一人であるにもかかわらず、「映画スター」としての側面をほとんど語られることがない「美空ひばり」に焦点を当てた。そして、彼女によってどのように演劇と映画の関係が象徴されたのかを検証することを試みた。
著者
輪倉 一広
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.31, pp.115-141, 2005-10-31

岩下壮一(一八八九~一九四〇)はカトリック司祭であり、一九三〇年から一九四〇年までの晩年の一〇年間「神山復生病院」の第六代院長として救癩事業に従事した社会事業家であった。また、岩下は昭和戦前期における中心的なカトリック思想家でもあった。
著者
千田 稔
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.18, pp.35-57, 1998-09-30

近年出雲における多数の銅鐸の発見などによって出雲の古代における位置づけが論議されだした。本稿では絵画銅鐸の図像学的な解釈や、銅鐸出土地と『出雲国風土記』及び『播磨国風土記』の地名起源説話などから、銅鐸はオオクニヌシ系の神々を祭祀するための祭器であると想定した。また、『播磨国風土記』にみる、オオクニヌシ系の神々(イワ大神も含む)と新羅の王子の渡来と伝承されるアメノヒボコとの土地争いを倭の大乱を表すものとしてとらえた。通説にいうように、アメノヒボコは西日本の兵主神社にまつられたものとすれば、兵主神社の最も中心的な存在は奈良県桜井市纏向の穴師坐兵神社である。周知のように銅鐸は弥生時代の終末に使用されなくなり、それにとって変わるのが祭器としての鏡であるが、アメノヒボコで象徴される集団は鏡のほかに玉や刀子を日本にもたらしたという。つまり、倭の大乱をおさめ、後の三種の神器の原型をもって、卑弥呼は邪馬台国に君臨することになったと想定できる。したがって、邪馬台国は歴史地理学的に纏向付近に比定でき、これは近年の考古学の年代論から考察される纏向遺跡の状況と矛盾しない。 オオクニヌシからアメノヒボコへの転換は、記紀神話における天孫君臨の司令神がタカミムスヒとアマテラスであるという二重性と、神武天皇と崇神天皇がいずれもハツクニシラススメラミコトとして初代天皇として記紀が叙述する二重性にも理解の手がかりを与える。
著者
劉 春英
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.34, pp.273-301, 2007-03-31

中国における二十世紀初めから始まる現代文学と共に発足している外国文学の翻訳は、一九二〇年代から三〇年代と、八〇年代に、二回のピークを迎える。まさに中国の歴史と文化が大きく転換する激動の時期にあたるが、そのようなピークにも、芥川龍之介の紹介は大きく関わっている。一九二一年に、魯迅が芥川龍之介を日本近代の名高い作家として中国に紹介して以来、既に八十年以上が経過した。その間、芥川の作品は中国の読者の間で高い人気を維持している。そのような背景のもと、芥川の人と作品に関する研究論文や著書も数多く残されてきた。本論は、八十年以上の歴史をもつ、中国における芥川の紹介と研究に関する豊かな資料を紹介しようとするものである。そのような本論は、次のような意義をもつと考える。まず第一には、芥川龍之介研究に、中国での受容史という観点を提示することである。そして第二には、芥川龍之介の場合を一つの例として、西洋近代文化の摂取という点で共通する課題をもっていた、中国と日本の近現代文学の間の関わり方について、新たな視角や理解を用意することである。
著者
コズィラ アグネシカ
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.33, pp.93-149, 2006-10-31

この論文の目的は、西田幾多郎の哲学における「絶対無」とハイデッガーの哲学における「本来的無」とが、同じ「パラドックス論理のニヒリズム」という思潮に分類できることを証明することである。「パラドックス論理の無」は、無矛盾原則に従う「形式論理の無」と違って、「有に対立する無」ではなく、「有即無」というパラドックスを意味している。西田の「無」とハイデッガーの「無」とは、すべての対立を超えると同時にすべての対立を超えない、すなわち「否定即肯定」の「パラドックス論理の無」であることを本稿にて明らかにしたいと思う。
著者
高木 正朗 森田 潤司
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.19, pp.159-201, 1999-06-30

前近代社会の人々は、今日の開発途上国の国民や未開社会の人々がしばしばそうであるように、頻繁に穀物の不作や飢餓に直面した。一九世紀中期日本の最もひどい凶作(不作)はベーリング海からの寒気の吹き込みに起因する天保の飢饉だった。
著者
モスタファ アハマド M. F.
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.19, pp.105-121, 1999-06-30

「戦争」というテーマは安岡章太郎の少年時代及び青年時代そして父親がなくなるまでの壮年時代を題材にした作品の多くに、背景として取り上げられている。その中から、この論文では『愛玩』(一九五二年発表)を取り上げ、安岡章太郎はいかにこの作品をもってシンボリックに自分の中の「戦後」を表現したのか、という点を探ろうとする。 そこで先ず、安岡章太郎の心の中に「戦争」のイメージを作り上げただろうと思われる幾つかの要素が取り上げられる。1、 少年時代から、軍人だった父親の仕事の都合のせいで転校生の生活を数回も強いられ、結果的に学校嫌い・勉強嫌いになり自分の世界に閉じこもってしまうわけだ。これで彼は軍および戦争に対して自分なりのイメージができてしまったのではないか。2、 太平洋戦争の終わりころに入隊をしたときの嫌な思い出。3、 敗戦の時期を伴った安岡章太郎の発病(脊椎カリエス)およびその長い闘病生活。4、 敗戦後の安岡章太郎家族三人による生活無能力の情けなさ。5、 両親の夫婦関係悪化。6、 戦場からの父親の不名誉な帰還。7、 母親の発狂。 以上の七点の中から、この論文では、特に三点目から七点目まで取り上げてみた。これは『愛玩』からいくつかの引用と照らし合わせながら考えてみた。また、以上の七つの要素をもとに、安岡章太郎の胸の中にある種の「敗戦の後遺症」と呼び得るものができたのではないかと考えた。 結論とするところは、愛玩つまりウサギは日本国民の「精神」がシンボリックに描かれていて、安岡章太郎一家三人、つまり日本国民に敗戦の後遺症の早期回復の希望を促すものではないかというのが一つの点である。もう一つの点は、いわばこの作品ではもしウサギが日本精神を表すものなら、これはまた「日の丸」のシンボルではないだろうかという点である。ウサギの白い毛や赤い眼が大事なキーワードではないかと思われる。
著者
梅原 猛
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.1, pp.13-23, 1989-05-21

アニミズムはふつう原始社会の宗教であり、高等宗教の出現とともに克服された思想であると考えられている。タイラーの「原始文化」がそういう意見であり、日本の仏教はもちろん、神道もアニミズムと言われることを恥じている。しかし私は、日本の神道はもちろん、日本の仏教もアニミズムの色彩が強いと思う。それに、アニミズムこそはまさに、人間の自然支配が環境の破壊を生み、人間の傲慢が根本的に反省さるべき現代という時代において、再考さるべき重要な思想であると思う。