著者
小谷野 敦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.29, pp.301-323, 2004-12-27

一九八七年頃から、古代中世日本において女性の性は聖なるものだったといった言説が現れるようになった。こうした説は、もともと柳田国男、折口信夫、中山太郎といった民俗学者が、遊女の起源を巫女とみたところから生まれたものだが、「聖なる性」「性は聖なるものだった」という表現自体は、一九八七年の佐伯順子『遊女の文化史』以前には見られなかった。日本民俗学は、柳田・折口の言説を聖典視する傾向があり、この点について十分な学問的検討は加えられなかった憾みがある。
著者
安田 喜憲
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.171-211, 1990-03-10

和辻哲郎によって先鞭がつけられた日本文化風土論は、第二次世界大戦の敗戦を契機として、挫折した。形成期から発展期へ至る道が、敗戦で頓挫した。しかし、和辻以来の伝統は、環境論を重視する戦後日本の地理学者の中に、細々としてではあるが受け継がれてきた。戦後四〇年、国際化時代の到来で、再び日本文化風土論は、地球時代の文明論を牽引する有力な文化論として注目を浴びはじめた。とりわけ東洋的自然観・生命観に立脚した風土論の展開が、この混迷した地球環境と文明の未来を救済するために、待望されている。
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.4, pp.123-147, 1991-03-30

前稿(一)においては、福島正則と加藤忠広の二大名の改易事件について検討した。その結果、両改易ともに、幕府側の政略的な取り潰しということはできず、むしろ両大名側に処罰されて致し方のない重大な違法行為のあることが否定できないことが明らかとなった。このように徳川幕府の大名改易政策は、従前考えられてきたような政略的で権力主義的な性格のものではないのである。そしてこのことは、この大名改易の実現過程における、その実現のあり方という面についても言いうる。本稿では大名改易の実現過程を、改易の決定過程と、当該大名の居城と領地の接収を行うその執行過程とに分けて見ていく。秘密主義と権力主義という幕府政治についての一般通念と異なって、大名改易政策の実現過程に見られるのは、諸大名へのそれぞれの改易事情の積極的な説明であり、城地の接収に際しての大名領有権に対する尊重と配慮であった。
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.3, pp.35-63, 1990-09-30

徳川幕府体制の下での特異な政治的問題の一つとして、「大名改易」のあったことは周知の通りである。それは軍事的敗北、血統の断絶、法律違反などの諸理由に基づいて、大名の領地を幕府が没収し、当該大名がそれまで保持してきた武家社会内での身分的地位を剥奪してしまうものであった。徳川時代にはこの大名改易が頻繁に執行され、結果的に見れば、それによって幕府の全国支配の拡大と安定化がもたらされたこと、また改易事件の幾つかは、その理由が不可解に見えるものがあり、それによって有力大名が取り潰されてもいることからして、この大名改易を幕府の政略的で権力主義的な政策として位置づけるのは定説となっている。そしてまたそのような大名改易の歴史像が、徳川幕府体制の権力構造、政治秩序一般のあり方を理解するうえでの重要な根拠をなしてきた。
著者
埴原 和郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.11-33, 1996-03-31

奥州藤原家四代の遺体(ミイラ)については、一九五〇(昭和二五)年の調査に参加された長谷部言人、鈴木尚、古畑種基氏らによる詳細な報告があるものの、現在もなお疑問のまま残されている問題が多い。
著者
平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.89-130, 2007-03-31

仏教では、女性は不浄な穢れた生き物と考えられてきた。そして、僧は女性と交接を行うことを「女犯」として戒律で禁じられ、そのため「女犯」の罪を避けるため、僧は男性、とりわけ稚児を交接の対象としてきたといわれている。
著者
川部 裕幸
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.21, pp.117-145, 2000-03-30

浮世絵の一つに「疱瘡絵」と称されるものがある。疱瘡絵はかなり特殊な浮世絵である。疱瘡(天然痘)にかかった病人への見舞い品として贈られたり、病人の部屋に貼られるという用途に限って用いられた浮世絵である。また、疱瘡絵は、全面、濃淡二種の赤色のみで摺刷されているという、際立った特徴を持つ。 従来、疱瘡絵は、芸術的情趣に乏しいものとして、美術史の立場からはあまり研究がなされてこなかった。しかし、江戸時代の日本人の疱瘡についての観念や習俗を知る上では、貴重な資料となる。本稿は、疱瘡をめぐる民俗の一端として、疱瘡絵を研究することを目的としたものである。 近年、H・O・ローテルムンドが、疱瘡絵に描かれている図像や画賛を分析して、日本人の疱瘡観の一端を鮮やかに解明した。本稿では、今までの研究成果を整理した後に、ローテルムンドが、ほとんど検討していなかった疱瘡絵の使用の実態、すなわち、疱瘡絵の購入者・購入意図、贈られた人々の取り扱い、疱瘡絵の普及状態などを、具体的な資料に基づいて叙説することを目指した。また、疱瘡絵の誕生の経緯とその出自についても検討を加えた。本稿で明らかになったことは次のとおりである。1. 疱瘡絵は、専ら疱瘡見舞いに用いられた特異な浮世絵であり、その誕生からして、疱瘡見舞客の購入を当て込んで、商品開発され売り出された可能性が高い。2. また、疱瘡絵には護符的な用途と病床の疱瘡小児のなぐさみ・弄びものとしての用途があったことを指摘した。そして、病気回復後すぐに放棄されるという、これまた特殊な末路を辿る浮世絵であった。最後に疱瘡絵の発生についていくつかの推量を示した。疱瘡絵の発生の時期に関しては、従来の説よりも四〇~五〇年は遡ることを資料によって明らかにした。また、疱瘡絵が誕生するに当たって影響を与えたと思われる浮世絵の系統としては、鍾馗の図や芝居絵・玩具絵・大津絵などが想定できることを示した。
著者
山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.15-34, 1999-06-30

オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』は、日本文化論として広く読まれている。この論文では、ヘリゲルのテクストやその周辺資料を読み直し、再構成することによって、『弓と禅』の神話が創出されていった過程を整理した。はじめに弓術略史を示し、ヘリゲルが弓術を習った時点の弓術史上の位置づけを行った。ついでヘリゲルの師であった阿波研造の生涯を要約した。ヘリゲルが入門したのは、阿波が自身の神秘体験をもとに特異な思想を形成し始めた時期であった。阿波自身は禅の経験がなく、無条件に禅を肯定していたわけでもなかった。一方ヘリゲルは禅的なものを求めて来日し、禅の予備門として弓術を選んだ。続いて『弓と禅』の中で中心的かつ神秘的な二つのエピソードを選んで批判的検討を加えた。そこで明らかになったことは、阿波―ヘリゲル間の言語障壁の問題であった。『弓と禅』で語られている神秘的で難解なエピソードは、通訳が不在の時に起きているか、通訳の意図的な意訳を通してヘリゲルに理解されたものであったことが、通訳の証言などから裏付けられた。単なる偶然によって生じた事象や、通訳の過程で生じた意味のずれに、禅的なものを求めたいというヘリゲル個人の意志が働いたことにより、『弓と禅』の神話が生まれた。ヘリゲルとナチズムの関係、阿波―ヘリゲルの弓術思想が伝統的なものと錯覚されて、日本に逆輸入、伝播されていった過程を明らかにすることが今後の研究課題である。
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.33-48, 1997-09-30

徳川家康の姓氏問題は複雑である。家康はその血統的系譜を清和源氏の流れを汲む新田一族の一人得川四郎義季の末裔たることに求め、自らの姓氏を清和源氏と定めたとされるが、これは天下の覇権を掌握した家康が、慶長八(一六〇三)年の征夷大将軍任官を控えて系譜の正当化をはかる目的で、そのような始祖伝承を無理に付会していったものであるとこれまで見なされてきた。しかし家康宛の朝廷官位叙任に関する口宣を分析した米田雄介氏の近年の研究成果は、このような通説的歴史像に疑義を生じさせるものとなっている。本稿はこれらの研究史を踏まえ、かつ家康関係文書の再検討を通して、家康の姓氏の変遷を追究する。それは単に、家康の源氏改姓の時期のいかんを求める事実問題としてだけではなく、姓氏の変遷に表現されたこの時期の国政上の意義にかかわる問題でもある。本稿では、この家康の源氏改姓問題を通して、豊臣秀吉の関白政権時代の国制はその下に事実上の徳川将軍制を内包するような権力の二重構造的性格を有するものであったことを論じる。
著者
金 釆洙
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.28, pp.177-207, 2004-01-31

湾岸戦争以降、世界の情勢はアメリカ中心になりつつある。EC(ヨーロッパ共同体)は、世界の情勢がアメリカ中心になっていくことを防ぐ方法としてEU(ヨーロッパ連合)に転換してきた。しかし、東アジア地域の国々は二十世紀のナショナリズムに縛られ、アメリカやヨーロッパの動きに対応できるような連帯形態を作れないのが現状である。 本研究は、アメリカ、ヨーロッパ連合に対応できる東アジア連帯構築のための雰囲気醸成の一つとして、グローバル的観点から近代日本のナショナリズムがどのように形成され、またどのように展開されてきたのかを考察することを目的とする。 考察は近代化過程における日本人のナショナリズムがどのように形成されたのかという問題を、まずその時代的背景と思想的背景から論じ、次に日本の為政者たちがどのようにそれを啓発していったのかを検討する。そしてそれをどのように国民に注入していったのかを把握する。最後にナショナリズムへと転換していった時の国民がどのようにナショナリズムを発揮していったのかを考察してみることにする。 その考察から筆者は近代日本のナショナリズムの成立とその展開様相について次のような結論を導き出した。第一、日本のナショナリズムは十九世紀初めから東進してきた近代西洋の産業資本主義勢力との接触とその勢力と対決してゆく過程で成立したと言える。すなわち、それは近代西欧勢力と日本との対立構造から生まれたというのである。第二、明治維新を通して政権を握った、幕府時代の外様藩を中核とした藩閥政府が西欧列強諸国から国家的安全と彼らとの平等を追究していきながら彼ら自身の政権を維持していく過程でそれが拡大・強化され、定立されたと言える。第三、日本のナショナリズムは「皇祖皇宗」という観念を基礎とする国体思想が明確に提示され、「大日本帝国憲法」の発布と「教育勅語」の発布を契機として、国体思想が学校教育を通して被教育者に注入されることによって確立されたと考察される。第四、日本のナショナリズムはその後日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争などといった戦争を通して展開していき、敗戦後には占領軍の日本文化の断絶政策に対抗して文化的次元で展開していったのである。第五、近代日本のナショナリズムは神道・皇道思想などの基礎をなす自然思想と深く結ばれており。近代西洋の科学思想とも深く結ばれている。第六、近代日本のナショナリズムは近代西欧勢力との接触とそれとの敵対的関係を通して成立・確立されていったにもかかわらず、日本がその過程で彼らの文物を学んで行かざるを得ない立場であったため、その中には「洋才」思想に基づく「殖産興業」思想や「科学立国」の近代西欧勢力に対する友好的感情なども内包していると言える。第七、近代日本のナショナリズムの目標の一つはアジア主義を実現していくことであり、近代以前徳川幕府との友好関係を結んでいた韓国・中国等の大陸の国々を支配していくことであったと言える。第八、近代日本のナショナリズムは敵対と友好とで特徴づけられる現代日米関係の原型として捉えられる。
著者
長田 俊樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.23, pp.179-226, 2001-03-31

さいきん、インドにおいて、ヒンドゥー・ナショナリズムの高まりのなかで、「アーリヤ人侵入説」に異議が唱えられている。そこで、小論では言語学、インド文献学、考古学の立場から、その「アーリヤ人侵入説」を検討する。
著者
山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.19, pp.15-34, 1999-06-30

オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』は、日本文化論として広く読まれている。この論文では、ヘリゲルのテクストやその周辺資料を読み直し、再構成することによって、『弓と禅』の神話が創出されていった過程を整理した。はじめに弓術略史を示し、ヘリゲルが弓術を習った時点の弓術史上の位置づけを行った。ついでヘリゲルの師であった阿波研造の生涯を要約した。ヘリゲルが入門したのは、阿波が自身の神秘体験をもとに特異な思想を形成し始めた時期であった。阿波自身は禅の経験がなく、無条件に禅を肯定していたわけでもなかった。一方ヘリゲルは禅的なものを求めて来日し、禅の予備門として弓術を選んだ。続いて『弓と禅』の中で中心的かつ神秘的な二つのエピソードを選んで批判的検討を加えた。そこで明らかになったことは、阿波―ヘリゲル間の言語障壁の問題であった。『弓と禅』で語られている神秘的で難解なエピソードは、通訳が不在の時に起きているか、通訳の意図的な意訳を通してヘリゲルに理解されたものであったことが、通訳の証言などから裏付けられた。単なる偶然によって生じた事象や、通訳の過程で生じた意味のずれに、禅的なものを求めたいというヘリゲル個人の意志が働いたことにより、『弓と禅』の神話が生まれた。ヘリゲルとナチズムの関係、阿波―ヘリゲルの弓術思想が伝統的なものと錯覚されて、日本に逆輸入、伝播されていった過程を明らかにすることが今後の研究課題である。
著者
尾本 惠市
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.197-213, 1996-07-31

本論文は、北海道のアイヌ集団の起源に関する人類学的研究の現況を、とくに最近の分子人類学の発展という見地から検討するもので、次の3章から成る。
著者
安田 喜憲
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.205-272, 1989-05-21

インダス文明は、四五〇〇年前、突然といってよいほどに、インダス川の中・下流域に出現する。そして、三五〇〇年前頃、この文明は崩壊する。こうしたインダス文明の劇的な盛衰をもたらした自然史的背景に、ヒマラヤの気候変動が、深く関わっていることが、明らかとなった。西ネパールのララ湖の花粉分析の結果は、約四七〇〇年前以降、ヒマラヤの気候が冷涼化し、冬の積雪量が増加したことを、明らかにした。一方、冷涼化によって、南西モンスーンは弱化し夏雨は減少した。冬作物中心の原始的な灌漑農業は、インダス文明発展の基盤を形成していた。積雪量の増加は、冬作物にとって必要な春先の灌漑水を、安定的に供給し、インダス文明発展の契機をもたらした。夏雨の減少は、人々をインダス川のほとりに集中させた。こうしたインダス川沿いへの人口の集中は、文明発展の重要な契機となった。インダス文明は、三八〇〇年前以降、衰退期にはいる。日本を含めたユーラシア大陸の花粉分析の結果は、約四〇〇〇年前以降の気候の温暖化を指摘している。この温暖化は、ヒマラヤの積雪量を減少させ、春先の流出量の減少をもたらした。このヒマラヤから流出する河川の春先の流量の減少が、冬作物中心の農業に生産の基盤を置いたインダス文明に、壊滅的打撃を与えた。日本の縄文時代中期の文化も、五〇〇〇年前に始まる気候悪化を契機として、発展した。日本列島の気候は、五〇〇〇年前以降、冷涼・湿潤化した。とりわけ、海面の低下と沖積上部砂層の発達により、内湾の環境が悪化した。縄文人は内陸の資源を求めて、中部山岳などに移動集中した。この人口の集中が、縄文中期内陸文化の発展をもたらす契機となった。インダス文明と縄文中期文化の盛衰には、五〇〇〇-四〇〇〇年前の気候変動が、深い影を落としている。
著者
梅原 猛
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.1, pp.13-23, 1989-05-21

アニミズムはふつう原始社会の宗教であり、高等宗教の出現とともに克服された思想であると考えられている。タイラーの「原始文化」がそういう意見であり、日本の仏教はもちろん、神道もアニミズムと言われることを恥じている。しかし私は、日本の神道はもちろん、日本の仏教もアニミズムの色彩が強いと思う。それに、アニミズムこそはまさに、人間の自然支配が環境の破壊を生み、人間の傲慢が根本的に反省さるべき現代という時代において、再考さるべき重要な思想であると思う。
著者
官 文娜
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.145-175, 2004-01-31

日本古代国家の成立から律令制の完成にかけての時期と見なされる六世紀から八世紀半ばにかけては、王位をめぐる争いが頻発した時期であると同時に王位の継承に関してもさまざまな特色を持つ、波乱に富んだ時代である。この時期、王位継承の最大の特徴は兄弟姉妹による継承である。一部の研究者はその姉妹を含んだ兄弟による継承を、直系継承制中の「中継」と考えていた。しかし筆者はその見解には賛成できない。以下、日本のこの時代の王位継承の実態、また中国古代の継承制における「兄終弟及」、直系継承およびそれを実行する条件、日本の女性継承などの問題について検討し、さらに日本古代社会における王位継承の特質を中心に血縁集団構造の分析もあわせて行いたい。
著者
田代 慶一郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.227-259, 2006-03-31

『弱法師』は能の五流で現行の曲であって上演も稀ではなく、演者に人を得れば、素晴らしい舞台として輝くこともある。『弱法師』は世阿弥の伝書『五音』によって観世元雅の作であることが知られている。
著者
細川 周平
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.209-248, 2007-03-31

録音を黙って鑑賞する喫茶店(レコード喫茶と仮に呼ぶ)は日本独自の音楽空間といえる。本論はそのひとつであるジャズ喫茶が昭和初年に生まれ、昭和十年代にスウィングの流行とともに定着した過程を追う。レコード喫茶は録音に依存して欧米音楽を受容せざるを得なかった日本の状況と深く関わっている。録音は大正時代、「缶詰音楽」と軽蔑されるどころか、コンサート興行の基盤が未熟であるために生で演奏を聴けない曲種を知るのに不可欠なテクノロジーとして洋楽評論家に高く評価された。レコード鑑賞空間はそのような前提から生まれた。震災後、カフェが女給のエロティシズムを売り物にしたのに対して、その姉妹施設、喫茶店は主に大学生や若い社会人相手にもっと親密な雰囲気、趣味的なサービスを売り物にした。レコード喫茶は彼ら向けの音楽を聞かせることで一般の喫茶店と区別を図り、レコード、オーディオ、サービス・ガール、インテリアの四つの要素で店の特徴を出した。女給目当ての客も少なくなかったようだが、店の看板はレコード収集と高価な再生装置だった。ジャズ喫茶の始まりには昭和初年の都市中間層の拡大、彼らの新しい娯楽のかたちや感性、趣味の洗練への関心、文化ヒエラルキー観、音響テクノロジーの発展、レコード市場の拡大、ニッチ市場の確立などが関わっている。
著者
高 兵兵
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.83-98, 2006-03-31

「残菊」は、中国唐代以来詩に詠まれていた題材であるが、日本ではそれをはじめて詩に詠んだのは、菅原道真である。しかも、中国の古典詩では「残菊」はあまり取りあげられなかったのに対して、日本では菅原道真をはじめとする漢詩人たちによって積極的に取りあげられていたようである。
著者
山田 奨治
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.201-226,xii, 2002

ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(一八八四~一九五五)は、日本の弓道を通して禅を広く海外へと紹介した人物として知られている。しかしながら、彼の生涯の全体像について、とりわけ幼少期と来日前後の活動状況、戦前・戦中のドイツを支配していた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)との関連については、いまだ明らかではない。本論文では、ドイツ南部にある複数の文書館から見出された未公刊資料をもとに家族歴と来日前後の活動を解明し、へリゲルの生涯の再構成を試みた。 その結果、(1)ヘリゲルは来日以前にハイデルベルクで多くの日本人と接触し、禅に関する知識は大峡秀榮と北昤吉から得ていた、(2)へリゲルを知る者のなかには、彼の人間性に疑問を投げかける者もいた、(3)へリゲルは帰国後ナチスに入党し、エルランゲン大学学長として地方政治に関わったことにより、戦後非ナチ化法廷によって罪に問われ、「消極的な同調者」の判決を受けた、の三点を明らかにすることができた。 資料の分析をとおして垣間みえたことは、ヘリゲルとナチスの関わりを消そうとする力の存在である。この力は彼を精神的な人としてイメージするのに必要な、暗黙の共通意志のようなものである。そういった力こそがヘリゲルのいう「それ」ではないだろうか。 本論の付録として、ヘリゲルの非ナチ化裁判に関する弁明文の参考訳を付した。