著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.35-63, 1990-09-30

徳川幕府体制の下での特異な政治的問題の一つとして、「大名改易」のあったことは周知の通りである。それは軍事的敗北、血統の断絶、法律違反などの諸理由に基づいて、大名の領地を幕府が没収し、当該大名がそれまで保持してきた武家社会内での身分的地位を剥奪してしまうものであった。徳川時代にはこの大名改易が頻繁に執行され、結果的に見れば、それによって幕府の全国支配の拡大と安定化がもたらされたこと、また改易事件の幾つかは、その理由が不可解に見えるものがあり、それによって有力大名が取り潰されてもいることからして、この大名改易を幕府の政略的で権力主義的な政策として位置づけるのは定説となっている。そしてまたそのような大名改易の歴史像が、徳川幕府体制の権力構造、政治秩序一般のあり方を理解するうえでの重要な根拠をなしてきた。
著者
別役 恭子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.8, pp.71-99, 1993-03-30 (Released:2015-11-11)

浮田一蕙の「婚怪草紙絵巻」は、皇女和宮の徳川家茂への降嫁に対する風刺絵だとされてきた。しかし、一蕙の作品群を調べると、一蕙が信州に滞在した嘉永五年十月から翌六年二月にかけて、「狐の嫁入り」を主題とした掛幅や六曲一双の屏風を既に制作しており、「婚怪草紙絵巻」もその延長線上で描かれたと思われる。即ち、一蕙が江戸に滞在した嘉永六年三月から安政元年七月の間で、それは和宮降嫁の議が内々論議された安政五年秋から冬にかけてより、四年有余遡るのである。 江戸中、後期は擬人化の風潮が顕著に現れた時期であった。そして、妖怪奇異に対する好奇心が版本の普及とともに高揚した時期でもあった。想像力の逞しい画家や作家たちが、幻想、奇想の世界を創り出していた背景を考えると、「婚怪草紙絵巻」が生まれる土壌は、風刺を抜きにして充分整っていたのである。一蕙が古典絵巻から吸収した知識と、当時の社会に培われていた、洒落や、遊戯や、パロディーの精神が結びつき「婚怪草紙絵巻」は生まれたのである。
著者
小谷野 敦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.29, pp.301-323, 2004-12-27

一九八七年頃から、古代中世日本において女性の性は聖なるものだったといった言説が現れるようになった。こうした説は、もともと柳田国男、折口信夫、中山太郎といった民俗学者が、遊女の起源を巫女とみたところから生まれたものだが、「聖なる性」「性は聖なるものだった」という表現自体は、一九八七年の佐伯順子『遊女の文化史』以前には見られなかった。日本民俗学は、柳田・折口の言説を聖典視する傾向があり、この点について十分な学問的検討は加えられなかった憾みがある。
著者
山下 博司
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.17, pp.372-342, 1998-02-27

私の論文(『日本研究』第十三集所収)に対する大野晋氏の反論は、氏の単純な誤解に端を発する問題点を多く含むのみならず、読者が容易にミスリードされ兼ねない書き方が敢えて為されている。
著者
長田 俊樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.17, pp.404-373, 1998-02-27

『日本研究』第十三集において、われわれは大野教授の「日本語=タミル語同系説」を検証した。それに対し、大野教授は『日本研究』第十五集でわれわれの検証に反論を提示した。そこで、今回この反論を含め、再び大野説を検証した。
著者
官 文娜
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.28, pp.145-175, 2004-01-31

日本古代国家の成立から律令制の完成にかけての時期と見なされる六世紀から八世紀半ばにかけては、王位をめぐる争いが頻発した時期であると同時に王位の継承に関してもさまざまな特色を持つ、波乱に富んだ時代である。この時期、王位継承の最大の特徴は兄弟姉妹による継承である。一部の研究者はその姉妹を含んだ兄弟による継承を、直系継承制中の「中継」と考えていた。しかし筆者はその見解には賛成できない。以下、日本のこの時代の王位継承の実態、また中国古代の継承制における「兄終弟及」、直系継承およびそれを実行する条件、日本の女性継承などの問題について検討し、さらに日本古代社会における王位継承の特質を中心に血縁集団構造の分析もあわせて行いたい。 本論は以下の項目に分けて検討している。一、王位継承の意味、二、兄弟姉妹継承の実態と「直系」説、1、日本古代社会における兄弟姉妹継承と中国殷の「兄終弟及」、2、王位候補者と継承者の資格、3、直系継承と立太子、4、持統~元明天皇以後の立太子と譲位、三、女帝の継承、1、女帝登極の正統性、2、女帝の身分と女帝継承の性格。 以上の問題の研究によれば、この時代の王位の継承には以下の五つの特徴が見られる。第一に、継承者が成人しなければ王位に即けないという不文律があった。この不文律のもとで被継承者の兄弟(日本では姉妹も含む)は常に必然的に継承者となった。第二に、王位を継承した兄弟または姉妹はいったん王位に即けば、死ぬまで譲位しない。つまり、兄弟姉妹が即位すれば高齢になっても死ぬまで前帝の後裔にバトンを渡さなかった。それも不文律であった。このように日本において兄弟姉妹による継承は、直系継承制のもとでの一時的な補助としての「中継」とは異なるものであった。第三に、伝統に則り、勇力豪族の合議によって継承者を推戴していた習慣があるため、合議される継承者の範囲は被継承者の子だけではなく、兄弟姉妹および彼らの子も含む皇族内の全員が王位継承の資格を持っている。第四に、太子を立てても、その太子は必ずしも即位するわけではなく、立太子は往々にして形式的になる。また太子は前天皇の子に限らず、選定の仕方には、直系継承の意図は見られない。第五に、この時期には、皇族の女性は皇女でも皇女と皇后の二重の身分でも堂々と登極できたため、女帝が頻出した。 これらの特徴から明らかなように、日本において王位の直系継承は行われておらず、またそれはあり得ないことであった。なぜなら、日本では皇族の中で単位家族が未だ独立も、成立もしていなかったからである。中国においては、王を中心とする単位家族としての血縁集団内における権力、財産などの分配・相続の権利を守るために、王は必ず王の息子を継承者とする必要があった。日本では継承者は皇族内の全員から生み出され、またそれによって一族の権力や財産が守られた。そして、中国とは異なり、皇族内の女性も男性同様皇族としての成員資格を持っていたために、皇族内の極端な近親婚が行われ、その結果彼女らは皇后や女帝となり得たのである。こうした特徴はすべて血縁親族集団の構造がしからしめるものであった。 以上、本論文において日本古代における血縁集団構造の父系擬制的、被出自集団としての無系あるいは血統上での未分化のキンドレッドの性格が明らかになったと認識している。
著者
山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.325-341, 2004-12-27

杉山登志は、〈作家〉性を帯びた最初のCMディレクターだと評価されている。この論文は、杉山の資生堂向けCM作品のいくつかを紹介し、彼が不可解な自殺を遂げた後に〈作家〉として評価されていった、時代背景の解明を試みた。
著者
勝原 良太
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.34, pp.249-271, 2007-03-31

この報告は、勝盛典子氏(神戸市立博物館学芸員)の論文「大浪から国芳へ――美術にみる蘭書受容のかたち」(神戸市立博物館研究紀要 第十六号)をうけて書かれたものである。勝盛氏が調査されたニューホフ著『東西海陸紀行』の挿絵を再調査したところ、浮世絵師・国芳は同本から、十四作品十五個所の自作に図様を転用していることが判明した。本稿ではこれらの調査結果を図版と対比させながら一括して報告する。調査を終えてわかったことは、国芳が同本挿絵から利用する時、その部分については克明に写し取っているということである。そして同時に、自己の作品全体の中に転換・消化して、作品をオリジナルなものに高めている。その手腕は非凡の為、原拠挿絵と国芳作品を併置して見た時、両図の関係は明らかであるにもかかわらず、これらを切り離して見た時、両図の関係は気づかれにくいものとなっている。この点から考えても、国芳のアレンジの優秀さが知られる。
著者
コズィラ アグネシカ
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.93-149, 2006-10-31

この論文の目的は、西田幾多郎の哲学における「絶対無」とハイデッガーの哲学における「本来的無」とが、同じ「パラドックス論理のニヒリズム」という思潮に分類できることを証明することである。「パラドックス論理の無」は、無矛盾原則に従う「形式論理の無」と違って、「有に対立する無」ではなく、「有即無」というパラドックスを意味している。西田の「無」とハイデッガーの「無」とは、すべての対立を超えると同時にすべての対立を超えない、すなわち「否定即肯定」の「パラドックス論理の無」であることを本稿にて明らかにしたいと思う。
著者
孫 江
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.163-199, 2002-02-28

一九三二年三月一日、関東軍によって作られた傀儡国家「満州国」が中華民国の東北地域に現れた。本稿で取り上げる満州の宗教結社在家裡(青幇)と紅卍字会は、いずれも満州社会に深く根を下ろし、「満州国」の政治統合のプロセスにおいて重要な位置を占めていた。
著者
王 秀文
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.11-45, 1998-02-27

植物にまつわる民間伝承において、桃ほど古く、広く伝えられているものはあるまい。中国の『詩経』に収められている遠い周の時代の民謡、春秋戦国の時代から行われた諸儀式と年中行事、漢の時代に急に浮上してきた度朔山伝説、六朝時代から盛んに伝えられるようになってきた西王母の伝説や神仙説、さらに晋の陶淵明の「桃花源記」や明代に集大成された『西遊記』物語、および今もお正月に、門戸の両側に貼り付ける赤い紙切れの「春聯」など、至るところに、桃の伝承が浸透している。いっぽう、日本においても、記紀神話から平安時代の宮中の儀式まで、鬼門信仰から「桃太郎」の民話まで、桃の伝承は数多くみられる。
著者
岩井 茂樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.27, pp.215-237, 2003-03-31

『百人一首』の研究は近年盛んになりつつあるが、近代(明治時代以降)の享受の実態についてはほとんど行われていない状態である。本論稿は、近代に特徴的に見られる『百人一首』の恋歌に対する非難の実態と、そのような論調により作り変えられた恋歌を排除した『百人一首』に関するものである。加えてその原因について考察を行った結果、①百人一首歌留多の興隆と受容形態の変化、②旧派歌人を中心とした恋歌の消滅、がその背景にあることがわかった。
著者
武内 恵美子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.25, pp.63-103, 2002-04-30

関蝉丸神社は滋賀県大津市逢坂に存在する神社で門説教や説教浄瑠璃を行う説教者を掌握していたことで有名である。しかし関蝉丸神社にはそれらの芸能の他に、説教讃語という、江戸時代後期の大坂の芝居興行に関する資料が残存する。 天保一三年(一八四二)、天保の改革によって宮地芝居は禁止され、説教讃語座も興行することができなくなったが、関蝉丸神社は嘉永五年(一八五二)以降、株仲間の再興をきっかけに宮地芝居の再興を訴え続け、安政四年(一八五七)に宮地での興行許可を得る。そして文久二年(一八六二)には大坂宮地での他の興行を排除し、宮地における興行を完全に掌握することになる。 このように関蝉丸神社が説教讃語という名目で寛政の改革を契機に大坂の宮地芝居に進出し、最終的には宮地を掌握するまでに至った経緯とその要因を解明した。それによって日本の舞台芸術史における重要な一側面を見出したと考える。
著者
河合 隼雄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.11-27, 1992-03-30

『風土記』には、昔話の主題となる話が多く語られている。それより時代の下る中世の説話集にも多くの昔話の主題が認められる。ところが、『風土記』には認められても中世の説話集に認められぬもの、あるいはその逆のものなどがあり、それらを比較してみると、日本人の心の在り方が時代によって変化してゆく様相の一面が把えられ、また、日本の昔話の成立過程などを考える上で興味深い。
著者
孫 江
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
no.24, pp.163-199, 2002-02-28

一九三二年三月一日、関東軍によって作られた傀儡国家「満州国」が中華民国の東北地域に現れた。本稿で取り上げる満州の宗教結社在家裡(青幇)と紅卍字会は、いずれも満州社会に深く根を下ろし、「満州国」の政治統合のプロセスにおいて重要な位置を占めていた。今までの中国社会史および「満州国」の歴史に関する研究において、これらの宗教結社は見逃されており、それに関する数少ない記述も偏見に満ちたものである。在家裡と紅卍字会の実態を問わず、在家裡を「秘密結社」、紅卍字会を政治的もしくは「邪教的」存在とみなす見解は今でも依然主流的である。本稿において、このような見解に疑問を投げかけ、一時的資料に基づいて実証的考察を行った。それを通じて明らかになったように、二十世紀に入ってから満州移民社会の形成に伴って、在家裡・紅卍字会のような宗教結社や「秘密結社」が満州社会において発展し、一定の社会的影響力を持つようになった。在家裡と紅卍字会のほとんどの組織は自らの組織的優勢を獲得するために、関東軍および「満州国」に協力する道を選んだ。「満州国」側の一部の資料では、「類似宗教結社」とされる在家裡・紅卍字会などが「満州国」の政治統合の支障となったという記録が残されている。しかし、実際には、満州地域の数多くの宗教結社の活動を全体的に見ると、宗教結社の反満抗日に関与するケースは非常に少なく、しかも特定の時期(満州事変初期)、特定の地域(熱河・北満など)に限られていた。反満抗日運動に参加した在家裡と紅卍字会のメンバーは確かに存在していたが、それは在家裡と紅卍字会の組織的性質を反映するものではない。総じていえば、「満州国」支配における宗教結社の統合は、単なる「植民地」という支配空間に生じた問題ではなく、実は日本近代国家の形成と関連して、日本国内=「内地」が抱える「類似宗教」や「邪教」「迷信」といった諸問題の延長上にあるのである。
著者
厳 紹璗
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.12, pp.33-72, 1995-06-30

奈良時代の日本古代文学にきわめて重視すべき作品『浦島子伝』がある。その題材や文体などすべては中国唐代の「伝奇」にたいへん類似している。本稿ではこれを「漢文伝奇」と名付けた。『浦島子伝』と「浦島伝説」は二つの異なる発展段階の作品である。――「浦島伝説」は「伝奇」に先行する段階の作品であり、完全に民間のものであり、それに対して、『浦島子伝』は文人の創作の作品である。日中古代文学が神話や伝説から物語文学へと発展する過程には、「漢文伝奇」の創作を主な内容とした過渡期的段階がある。『浦島子伝』こそ「漢文伝奇」の代表的な作品である。伝播の歴史が古いので、『浦島子伝』のテキスト間には多岐にわたる意義の相違が生じた。文化史学的立場から考察を加えるとすれば、それぞれ異なったテキストの間には、事実上前後する伝承関係がある。これらが示す伝承の発展こそ、伝記文学の日本化の過程である。本稿では『浦島子伝』のテキストを四つの系統に分けた。『古事記』の「火遠理命神話」、『日本書紀』の「浦島伝説」、及び『萬葉集』にある「水江浦島子」という三つの神話と伝説が、この伝奇を構成した日本民族文化のルーツである。その中で、「水江浦島子」は日本先住民の「汎海洋崇拝」という心態を表し、「浦島伝説」は渡来人(帰化人)の「特定生物に対する崇拝」という心態を表しているのであるが、しかし、「火遠理命神話」には作品の創作に創造的な空間が加えられているのである。また、文献学的に実証的な手段を取ると、この『浦島子伝』からそこに融合された東アジア文化(主に中国文化)の要素を引き出すことができるのである。本稿ではこれらの要素を「媒体」と名付けた。この伝奇が媒体とした中国文化の要素には、主に四つの様式がある。Aは、秦漢から魏晉にかけての「神女文学チェーン」で、Bは、『遊仙窟』を始めとした唐代伝奇で、Cは、「神仙観念」と「亀崇拝」及び「情愛のリビドー」を融合した「蓬莱文化」、Dは、「丹石の煉」と「房中の術」をもって「不老不死」を目的とした道教理念である。『浦島子伝』は、一方で日本民族の神話や伝説を継承しつつ、また、一方で東アジア文化と多く関連している。この特徴は、まさに日本物語文学形成における文化の豊かさ、及びそこに内在するメカニズムの複雑さを表しているのである。
著者
ガデレワ エミリア
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.11-33,iii, 2001

『古事記』と『日本書紀』にみえるスサノヲの描き方に矛盾がある。一方、彼は高天の原で天つ罪を犯し、姉アマテラスを困らせるが、他方出雲国でヤマタノオロチを退治し、イナダヒメを助ける。それに対して『風土記』では、スサノヲの性格に悪い面が一つも見えない。この神の解釈が多くあるが、ここでは上述の三書や他古代史料の総合的なアプローチによる、私の仮定を述べてみた。スサノヲの矛盾的な役のもとには、政治的な意図があったことをいうだけでは、説明できない。この神の性格には、本来から善悪両面があったと思われる。彼は、豊饒に必要な雨水をもたらし、課題を果たしたことにより性格が良いか悪いかということが決められた。また、彼が崇拝された神社では、神々の食料と考えられたクマという聖なるお米や水がささげられたと考えられる。さらに、スサノヲとアマテラスとの関係についていえば、日の神―水の神のペア崇拝をもとにして、柳田国男がいうヒコ―ヒメ関係がその描き方を決定されたのではなかろうかと思われる。
著者
井上 章一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.49-57, 1997-09-30

日本に、いわゆる西洋建築がたちだすのは十九世紀の後半からであり、当初は伝統的な日本建築の要素ものこした和洋折衷のものがたくさん建設されている。文明開化期に特徴的なのは、そんな建築のなかに、近世城郭の天守閣を模倣した塔屋をもつデザインのものが、とりわけ金融関係の施設でふえだした点である。じゅうらいは、それを、近代のブルジョワが、封建時代の領主にあこがれてこしらえたのだと、解釈してきたが、拙論では、そこへもうひとつべつの可能性をつけ加えている。十八世紀後半ごろから、織田信長以後の天守閣を、南蛮渡来の建築様式だとみなす見解が普及し、その考え方は、十九世紀末まで維持された。明治維新後、文明開化期につくられた西洋をめざす建築に、天守閣形式の要素がまぎれこんだのも、それがなにほどか南蛮風、西洋的だと思われていたことに一因があるのではないかとする仮説を、ここではたててみたしだいである。
著者
岩井 茂樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.31, pp.69-114, 2005-10-31

現在、能といえばすぐさま「幽玄」という言葉が想起されるほど、両者は固く結びついている。なるほど、世阿弥が残した能楽書には「幽玄」という言葉がたびたび使われている。だが、「幽玄」は、能の世界では長らく忘れ去られていた言葉であった。それでは、能と「幽玄」は、いつから、どのようにして、結びついたのだろうか。本論稿はこの点を明らかにすることを目的とする。