著者
李 均洋
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.47-61, 1996-03-31

雷神はただ人々によく知られている神様というだけではなく、文化史と思想史の上でも重要な位置を占めている。
著者
単 援朝
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.111-124, 2002-02-28

本稿は芥川龍之介「湖南の扇」をめぐって、作品の構築における体験と虚構化の働きを検証しつつ、玉蘭の物語を中心に作品の成立と方法を探り、さらに魯迅の「薬」との対比を通じて作品の位相を考えるものである。結論としては、「湖南の扇」は、作品世界の構築に作者の中国旅行の体験や見聞が生かされていつつも、基本的に体験の再構成を含む虚構化の方法による小説にほかならない。作品のモチーフは冒頭の命題というよりクライマックスのシーンにあり、作品世界は「美しい歯にビスケットの一片」という、作者の原光景ともいえる構図を原点に形成され、虚構の「事件」が体験的現実として描かれているところに作品の方法があるが、作品の「出来損なひ」はこの方法に起因するものであるといわざるをえない。そして、魯迅「薬」との対比を通じてみると、「迷信」として批判されるはずの人血饅頭の話をロマンチックな物語、「情熱の女」の神話に作り替えられたところに、芥川のロマンチシズムへの志向と「支那」的生命力に寄せる憧れが見て取れる。
著者
金 釆洙
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.177-207, 2004-01-31

湾岸戦争以降、世界の情勢はアメリカ中心になりつつある。EC(ヨーロッパ共同体)は、世界の情勢がアメリカ中心になっていくことを防ぐ方法としてEU(ヨーロッパ連合)に転換してきた。しかし、東アジア地域の国々は二十世紀のナショナリズムに縛られ、アメリカやヨーロッパの動きに対応できるような連帯形態を作れないのが現状である。
著者
武藤 秀太郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.241-262, 2002-04-30

本稿は、戦後日本のマルクス主義経済学の第一人者であった宇野弘蔵(一八九七―一九七七)の東アジア認識を、主に戦時中に彼が執筆した二つの広域経済論を手掛かりに検討する。「大東亜共栄圏」は、「広域経済を具体的に実現すべき任務を有するものと考えることが出来る」。――このように結論づけられた宇野の広域経済論に関しては、これまでいくつかの解釈が試みられてきた。だが、先行研究では、宇野が転向したか否か、あるいは、かかる発言をした社会的責任はあるかどうか、といった点に議論がいささか限定されているきらいがあり、戦後の宇野の発言等を含めた総合的な分析はなされていない。私見では、宇野の広域経済論は、戦前戦後を通じて一貫した経済学方法論に基づいて展開されており、彼の東アジア認識を問う上で非常に貴重な資料である。大東亜共栄圏樹立を目指す日本は、東アジア諸国と「密接不可分の共同関係」を築いていかねばならないという、広域経済論で打ち出されたヴィジョンは戦後も基本的に継承されている。このことを明らかにするために、広域経済論を戦後初期に宇野が発表している日本経済論との対比から考察する。
著者
朱 捷
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.79-95, 1990-03-10

見立ては、つきつめて言えば、異なる事象たる甲と乙との間に共通した要素を見つけることである。それは、身ぶりしぐさなどの生活の知恵としての見立てから、芸術表現の様式としての見立てまで、幅が広い。美学的価値から言えば、それは大きく二つのレベルに分けることができる。一つは、おもに甲と乙との間の外面的、知的な共通要素を媒介とする見立てである。いま一つは、甲と乙との間の内面的、情趣的な共通要素を媒介とする見立てである。前者は、一般に言う譬喩に近く、比較的素朴で、日常的であるのに対して、後者は、芭蕉の配合に近く、より奥深くて芸術的である。従って、日常生活から芸術表現まで幅広く認められる見立ての究極的な境地は、内面的、情趣的な要素による異質な事象観の配合にあると言える。配合は、内面的、情趣的な要素を媒介にしている上に、素材感に連鎖を与えずに並列させるため、素材間の飛躍が大きくなり、飛躍が大きければ大きいほど、思いがけない新鮮なイメージが躍動してくる。
著者
リュッターマン マルクス
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.28, pp.13-46, 2004-01-31

「畏まりました」「恐れ入ります」の類の言葉を日本列島ではよく耳にする。拝して曲腰をして恐縮する姿を型としている作法に合わせて「恐れ」の感を言い表わす礼儀は依然として根強く育まれている。「型」である。拙論では、仮にそれを「恐怖の修辞」と呼び、観察の焦点を挨拶の言葉に限定し、その普及と徹底的な定着の所以を問う。要するに「恐怖の修辞」形成過程の復元と、その由来の歴史的考察とを五段階を経て行いたい。一説では「恐れ」を言い表す主な古語である「恐る」や「畏む」や「憚る」を収集して、その意味を整理し、その変化を追求する。それらの本来の語義は平安時代以降から挨拶詞として定着したように見えるのである。したがって、これらの大和詞には共通した総括的な変容が著しく生じて、新たな意味(感謝、呼び掛けなど)が追加された。そういった「恐れ」の表現の性質を検討するに当たって、手掛かりを仮に書簡の修辞法(文書形式や書札・書札礼)に求める。それに二つの方面から光を照らし合せてみたい。一つには二節において文化歴史上の比較でもってその世界的普遍性の有無を確認したい。果たして古代地中海のレトリックを組む欧州弁術法にも「恐怖」が型となっているのだろうか。二つには斯かる言葉遣いの独特な由来の検討を三節の旨とする。即ち中国の漢・唐時代の修辞法に溯って、『獨斷』を始め、書儀類などを検討し、その結果、「恐怖の修辞」は古代地中海都市広場でもなく、都市裁判の場でもなく、漢国家体制或いはそれ以前の帝・天使の朝廷と中国士族の祖先崇拝へ溯る特徴が判明する。いわゆる「啓」と「状」とが唐に広く書簡として使用されるようになり、士身分以外にも、つまり庶民に浸透すると同時に「恐怖の修辞」も多くの人の身についたことは想像に難くない。礼儀作法書且つ書礼規範書として流行った書儀にも同様な傾向が反映している。書儀伝承と木簡出土などが雄弁にかたるように、文書主義の一面として「恐怖の修辞」も渡日した。日本における書札礼儀の展開における「恐怖の修辞」の変遷・推移を四節で具体的に分析する。『正倉院文書』を始め書簡手跡の実例に配慮する一方、中心的に『雲州消息』『高山寺本古往来』『弘安禮節』『庭訓往来』『書札調法記』『不斷重寶記大全』『書禮口訣』等々の主な礼書を分析する。儀礼に溯る思想もしくは表現が礼学の文脈で多く日本に伝わっており、「恐れ」を意味する仕種や語彙が少なからず含まれている。「恐々」「恐惶」等々の漢語を規範書から検出して、其の使用法や機能・連想に光を当てて、またそれらが中国よりも徹底的に市民の間に普及した様子を描く。最後にかかる漢語の訳語として大和詞の「かしこ」を例に、中国の修辞法に由来する使用法の転換を明らかにする。「めでたくかしこ・かしこ」はそれなりに世俗化や日常化や大衆化と滑稽化ともいうべき変遷を遂げた、現代まで日本で影響力を保っている「恐怖の修辞」を代表するといってよい。延いては礼儀の一系統への理解を深めるのに好適なこの一例をもって、拙論を結ぶ。
著者
エルマコーワ リュドミーラ M.
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.71-90, 2003-03-31

本稿の目的は、ある偶然をきっかけにして発見されることになった一つの歴史的資料、すなわち一五八二年に長崎から出帆しヴァチカンを訪ねローマ教皇の謁見を賜った遣欧一行の一人による自筆の書、について紹介することである。これは赤い紙に一六世紀のスタイルで書かれた書であり、そこには旧約聖書の詩篇からとられた二つのダビデの聖歌の一部がラテン語と日本語両方で記されている。
著者
林 洋子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.13-37, 2006-03-31

両大戦間の日本とフランスの間を移動しながら活躍した画家・藤田嗣治(一八八六―一九六八)は、一九二〇年代のパリで描いた裸婦や猫をモティーフとするタブローや太平洋戦争中に描いた「戦争画」で広く知られる。しかしながら、一九二〇年代末から一九三〇年代に壁画の大作をパリと日本で複数手がけている。なかでも一九二九年にパリの日本館のために描いた《欧人日本へ到来の図》は、画家がはじめて本格的に取り組んだ壁画であり、彼にとって最大級のサイズだっただけでなく、注文画ながら異国で初めて取り組んだ「日本表象」であった。近年、この作品は日本とフランスの共同プロジェクトにより修復されたが、その前後の調査により、当時の藤田としては例外的にも作品の完成までに約二年を要しており、相当数のドローイングと複数のヴァリエーション作品が存在することが確認できた。本稿では、この対策の製作プロセスをたどることにより、一九二〇年代の静謐な裸婦表現から一九三〇年代以降の群像表現に移行していくこの画家の転換点を考える。
著者
山下 悦子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.107-124, 1990-03-10

この論文では、日本の知識人の間で大反響をもたらした、結婚制度にとらわれない男女の自由な性愛関係を理想とするコロンタイの恋愛観を基軸に、一九二〇年代後半から三〇年代前半にかけての知の変容(転向の問題)を探る。
著者
田名部 雄一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.5, pp.135-172, 1991-10-15

動物の種の間には、互に外部的な共生現象がみられることが多い。ヒトと家畜の間の共生現象の大部分は、ヒトには利益があるが、他方の種(家畜)には大きな害はないが、ほとんど利益のない偏利共生(Commensalism)である。ヒトと家畜の間の共生現象のうち、相互に利益のある相利共生(Partnership)の関係にあるのは、ヒトとイヌ・ネコの間の関係のみである。
著者
森岡 正博
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.3, pp.79-104, 1990-09-30

二十世紀の学問は、専門分化された縦割りの学問であった。二十一世紀には、専門分野横断的な新しいスタイルの学問が誕生しなければならない。そのような横断的学問のひとつとして、「文化位相学」を提案する。文化位相学は、「文化位相」という手法を用いることで、文化を扱うすべての学問を横断する形で形成される。
著者
落合 恵美子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.12, pp.89-100, 1995-06-30

昨年、「近代家族」に関する本が三冊、社会学者(山田昌弘氏、上野千鶴子氏及び落合)により出版されたのを受けて、本稿ではこれらの本、及び立命館大学と京都橘女子大学にて行われたシンポジウムによい近代家族論の現状をめぐって交わされた議論を振りかえる。今号の(1)では「近代家族」の定義論を扱い、次号に掲載予定の(2)では「日本の家は『近代家族』であった/ある」という仮説の当否を論じる。
著者
山折 哲雄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.1, pp.97-105, 1989-05-21

折口信夫は、日本の文学や芸能における基本的な方法が、先行する文学や芸能の形式を模倣するところにあると考え、それを「もどき」の方法と称した。「もどき」という術語には「真似る」という意味と「抵抗する」という意味の両義性があるとかれはいう。模倣しつつ批評するというように解釈してもいいだろう。和歌文学における「本歌取り」も謡曲「翁」における三番叟の演出も、みなこの「もどき」の方法にもとづいているのである。したがってもしもギリシアの芸術が「自然の模倣」であったとするならば、日本の芸術は「芸術の模倣」から成り立っていたといえるかもしれない。
著者
長田 俊樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.20, pp.81-123, 2000-02-29

『播磨国風土記』の一節に、動物の血、とりわけ鹿の血を稲作儀礼としてもちいる記述がある。この一節は、折口信夫など、おおくの学者が引用している。そこで、この引用がだれによって、どのようにおこなわれてきたのか、検証するのがこの小論の目的である。 引用した例をみると、おおきく三つの分野がある。それは民俗・民族学、日本史・考古学、そして比較神話学である。民俗・民族学者はこの一節と現代にのこる日本の民俗やアジア諸国の民俗とむすびつけてきた。一方、日本史・考古学分野では、日本の歴史にそって、同様な民俗をみつけだそうとしてきた。さらに、神話学者はハイヌウェレ型神話との関連を指摘した。それぞれの見解には納得できるものがふくまれているが、欠点もあった。(以上、『日本研究』第20集掲載) 結論として、筆者はこれを稲作儀礼として、アジア諸国の稲作文化域を想定しながら、コンセンサスのえられる見解を今後とも模索したい。そのさいには、あらかじめ想定された演繹法ではなく、帰納法で結論をみちびく所存である。また、試論として東南アジアでおこなわれる水牛供犠との関連性についてその可能性を指摘した。
著者
白幡 洋三郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.6, pp.57-73, 1992-03-30

福沢諭吉は慶応義塾に、それまでの日本の教育施設、寺子屋や私塾にはみられなかった校庭、つまり「運動場」や「遊園」を設けた。そしてブランコ、鉄棒、滑り台などの運動施設をつくって、塾生たちに運動をさせた。
著者
フランク ベルナール 仏蘭久 淳子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.18, pp.217-227, 1998-09-30

一九八九年、久しく失われていた法隆寺金堂西の間阿弥陀三尊の脇侍、勢至菩薩がパリの国立東洋美術館(ギメ美術館)で発見された。金堂内には七世紀、すでに中壇、東壇と並んで立派な壇と天蓋が西方仏のために造られていた。ところがそこは空席で何世紀かを経て、鎌倉初期(一二三一年)に仏師康勝によって、中・東壇に匹敵する大きさの阿弥陀三尊が造られた。なぜこの時代にこのような事業が行われたか?明治以後擬古形式としてあまり顧みられなかったこの阿弥陀三尊は、実は造立当時の革新的な思想を表していた。浄土教と太子信仰の盛り上り、真言宗とのかかわり、本地垂迹思想などがその背景にあり、阿弥陀三尊は金堂内で重要な位置を占めていたのである。
著者
埴原 和郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.13, pp.11-33, 1996-03-31 (Released:2016-06-01)

奥州藤原家四代の遺体(ミイラ)については、一九五〇(昭和二五)年の調査に参加された長谷部言人、鈴木尚、古畑種基氏らによる詳細な報告があるものの、現在もなお疑問のまま残されている問題が多い。 筆者は鈴木尚氏の頭骨計測データを借用して新たに種々の統計学的検討を行い、また中尊寺の好意により短時間ながら遺体を直接観察する機会を得たので、その結果を報告して先人の研究の補遺としたい。この論文では次の点に触れる。 一、 遺体の固定―基衡と秀衡の遺体がいつの時代かに入れ替わったという疑問について、少なくとも生物学的観点から結論を出すことは困難である。また一部の特徴には寺伝どおりでよいのではないかと思える点もあるので、この問題は今のところ保留としておいた方がよさそうに思える。 二、 遺体のミイラ化の問題―遺体は自然にミイラ化したものと考えられるが、ごく簡単な吸湿処置がとられたという可能性が高い。 三、 奥州藤原家の出自―藤原家はもともと京都方面の出身という可能性が高い。 四、 エミシの人種的系統―古代・中世に奥州に住んでいたエミシは、現代的な意味でのアイヌでもなく和人でもなく、東北地方に残存していた縄文系集団が徐々に”和人化”しつつあった移行段階の集団であったと思われる。 藤原家四代に見られる”貴族化”現象―特に鼻部の繊細化(貴族化)が著しいが、顔の輪郭や下顎骨の形態は日本人の一般集団に近いので、近世の徳川将軍や一部の大名に比較すれば貴族化の程度は弱かったと思われる。
著者
森田 登代子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.29, pp.247-276, 2004-12-27

大雑書は平安時代以降の陰陽道や宿曜道の系統をひき、八卦・方位・干支・納音・十二直・星宿・七曜などによる日の吉凶、さまざまな禁忌やまじない、男女の相性運などを内容とした書物のことである。近世後期には庶民の関心をひく生活情報を加え内容を肥大化させ百科全書の体裁を帯びるようになった。これが大雑書である。『簠簋内傳』『東方朔秘傳置文"などの歴註書』や、公家武家階層が利用した百科全書『拾芥抄』をもとに大雑書が刊行された経緯から、天保年間に出版された代表的な大雑書の一つ『永代大雑書萬歴大成』をもとに考察する。大雑書に組み込まれた内容は各板元が所有する版権に大きく左右されたことを、大阪本屋仲間の記録をもとに検証し、自己株の書籍に新しい情報をつけくわえ手直し編集して出版したものが大雑書であったことを明らかにする。また各大雑書の特徴をあげ、大雑書が近世の社会・文化・風俗・生活を知る手がかりになることを強調し、ひいては絵の文化のシンクレティズムを象徴するものであったことを追究する。
著者
孫 才喜
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.79-104, 1999-06-30

太宰治(一九〇九―一九四八)の『斜陽』(一九四七)は、日本の敗戦後に出版され、当時多くの反響を呼んだ作品である。本稿では、かず子の手記の物語過程と、作品中に頻出している蛇に関する言説を中心に作品を読み直し、『斜陽』におけるかず子の「恋と革命」の本質の探究を試みた。