著者
小川 将也
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.1-16, 2022-10-15 (Released:2023-10-15)

初期のドイツ語圏音楽学は対象の考察と専門用語体系の作成という二つの課題に同時に直面していた。当時の音楽学者たちにとってこれらの課題に応える意義ある方法のひとつは、隣接諸学の様々な知見を自らの知的領域に取り入れ、ひとつの科学ディシプリンとして特殊な専門知を作り上げることであった。リヒャルト・ヴァラシェクの『音芸術の始め』(1903年)はこうした音楽研究の〈科学化〉の一例である。本稿は、ヴィーン比較音楽学の最初期の試みとされるものの、現在ではほとんど読まれることのないこの著作を改めて取り上げ、主要論点の再構成、同時代受容の追跡、そして、同時代ヴィーンの音楽進化論との比較を通じた音楽学言説の型の解明を試みる。 音楽の「起源」と「進歩」とを慎重に区別して扱い、また、C. ダーウィンやH. スペンサーらの主張を吟味するヴァラシェクの見解は、C. シュトゥンプとR. ラッハによって「リズム」起源論として単純化され、その意義を失ってしまった。ヴァラシェクと特にラッハとの間でのこの対立には、信頼に足る音楽学知とは何かというディシプリン意識の相違が表れている。すなわち、ヴァラシェクが音楽の内的起源としての「タクト」と外的起源としての「遊戯」を主張することで常に人間の行為としての音楽という視角から音楽研究の科学化を進めているのに対して、ラッハは「原初の叫び」を音楽の起源に据えることで響きとしての音楽観を強調する。さらにこの相違は、彼らが専門知としての進化論を援用する仕方とも相関している。ラッハによる〈抑圧的〉な援用は、常にE. ヘッケルの反復説を暗示することで音楽史と進化生物学との間の概念的相違を歪めている。対して、ヴァラシェクは〈保守的〉に進化生物学の知識に忠実であることで人間科学としての音楽学を構想しており、この構想は当時の自然科学指向テクストの裏面にある音楽学言説の複数性を浮き彫りにする。
著者
明土 真也
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.14-30, 2016 (Released:2017-10-15)

本論文では、法隆寺の尺八および正倉院の尺八八管の音律や出自等を再考する。 従来、七声音階を奏することのできる六孔尺八は燕楽専用の楽器とされてきたが、最近の研究で法隆寺の尺八は隋代以前の作と判断された(明土 2013)ため、唐代に生まれた燕楽専用の楽器とは考えられない。そこで、隋代に存在した七声音階の理論である八十四調理論に着目し、六孔尺八の音律等を考察することで、六孔尺八が八十四調理論を実用化するために開発された隋唐の楽器であることを指摘する。 法隆寺の尺八に関しては、なぜ全音階的な音律なのかが不明であったが、指孔に対して全閉と半開を併用することで半音階を吹奏することが可能であり、一管で八十四調の全てを演奏するための尺八と判断できる。そして、鄭訳が568年に八十四調理論を提唱したことと、法隆寺の尺八が隋代以前の作であることを勘案すれば、六孔尺八の創製は582~618年に限定できる。また、正倉院の牙尺八の音律と『舊唐書』『新唐書』の記述を精査することにより、626年になされた唐朝での八十四調理論の採用を受け、呂才は十二管の楽器を自発的に開発したと推定できる。 次に、呂才以降の尺八である太蔟と姑洗の二管を取り上げ、指孔に対し全閉と全開のみで七声音階を奏する平奏法、および、平奏法に対して一つの律のみ、一律低める変奏法と一律高める清奏法を適用することで、唐の天宝十四調、日本の唐楽六調子と高麗三調子の全てを吹奏できること、さらにこの二管に黄鐘管を加えた三管で、俗楽二十八調の全てを吹奏できることを明らかにする。また、百済の義慈王がこの3種類の管を日本に贈ったのは653年であるため、俗楽二十八調はこの時までに成立していたと考えられる。そして、燕楽が創られた640年から653年までの間に遣唐使の帰国はないため、日本は百済を通じて俗楽二十八調の存在を知ったと考えられる。
著者
篠原 盛慶
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.73-89, 2020 (Released:2021-03-15)

1932年、物理学者の田中正平(1862~1945)は、エンハルモニウムの名で知られるドイツ製の「純正調」オルガンを改良し、日本製の「純正調」オルガンを開発した。田中の主著『日本和聲の基礎』(1940)では、純正律による調律法、すなわち純正調が、「純正調」・「本格の純正調」・「廣義の純正調」に種別されている。しかし、同楽器が、これらのどれを念頭に置いて設計されたのかは明らかにされていない。 同著からは、エンハルモニウムが「本格的純正調に依り設計せられたから、自然七度の發聲に缺くるところが多かつた」ため、日本製オルガンは「十分に自然七度を出し得るやうに改案して」作製された可能性が読み取れる。本論文は、主にこれらの記述の検証と考察を通じて、同楽器がどの種の純正調を念頭に置いて設計されたのかを明らかにするものである。 最初に、田中の音律理論の基礎にある53純正律とこれに近似する53平均律を概説した上で、日本製オルガンに適用された音律が、一般的に認識されている純正律ではなく、1/8スキスマ・テンペラメントであることを示した。次に、同楽器の21鍵から奏出される31音を考察し、純正7度(7:4)の代用音程(225:128)に近似する整律された音程が、エンハルモニウムよりも5個多く奏出されることを確認した。最後に、先の記述などを考察し、既発表論文で53平均律が適用されたとの見解を示したエンハルモニウムが「本格の純正調」(5リミットの純正調の意)を、日本製オルガンが「廣義の純正調」(7リミットの純正調の意)を念頭に置いて設計されたことを明らかにした。 日本製オルガンがエンハルモニウムとは異なる種の純正調を念頭に置いて設計された大きな理由として、田中が音楽学者の田辺尚雄らと行なった邦楽研究を通じて、西洋の和声理論の枠組みに収まらない音程を受容できる柔軟な耳を培ったことが挙げられる。その具体的な検証については今後の課題としたい。
著者
白井 史人
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.1-15, 2015-10-15 (Released:2017-04-03)

Arnold Schoenberg's Begleitungsmusik zu einer Lichtspielszene Op. 34 (1930) indicates the close relation between Schoenberg's work and film music. Although Schoenberg did not contribute to any films in his career, he had planned to accompany the performance of his work Die gluckliche Hand (1913) with a silent film. He emphasized the importance of sound film in the 1920s in texts such as "Der sprechende Film," 1927 ("The Talkie"). His relationship with Guido Bagier, the head of the department in charge of sound films department of Universum Film AG (UFA), also indicates Schoenberg's interest in films during that time. This paper explores Begleitungsmusik both in terms of its musical structure and with reference to the praxis of musical accompaniment of silent films. First, the musical character of Begleitungsmusik is analyzed from the perspective of its structure and the process of its composition. Discussion of an unpublished memo indicating the programmatic content of this piece and a detailed analysis of Schoenberg's musical manuscripts show that his revisions emphasized a dramaturgical structure, partly corresponding to the unpublished memo. Second, the relation between the film and Schoenberg's activities, based on the examination of related preliminary material including the diary of his second wife Gertrud and the unpublished autobiography of Guido Bagier, will be surveyed. Finally, the contemporary situation and the aesthetics of musical accompaniment of silent film are discussed, focusing on the relation of the three subtitles Schoenberg used in his Begleitungsmusik, "threatening danger," "anxiety," and "catastrophe." Musical scenarios published in Film-Ton-Kunst, a magazine that specialized in the film music praxis in the 1920s, are systematically explored. Consequently, this paper recontextualizes Begleitungsmusik within Schoenberg's own development and the historical background to clarify that although Schoenberg and contemporary praxis of musical accompaniment attached great importance to dramaturgical construction, never-theless, their musical languages and attitudes toward the excerpting of musical pieces differed.
著者
齊藤 紀子
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.137-153, 2020 (Released:2021-03-15)

本論文は、義務教育とも音楽の専修課程とも異なる環境である女学校で音楽を学んだ日本人女性の卒業後の暮らしにとり入れられた音楽について明らかにすること、音楽の演奏を主たる目的としない生活空間としての住宅(あるいは家庭)のなかで実践された音楽について明らかにすることを目的とする。 上記の目的を遂げるため、松山女学校と神戸女学院を卒業した駒井静江を事例に、家族新聞『団欒』に掲載されたアメリカ紀行や、国内外で収集された楽譜資料を調査した。 第1の目的については、結婚するまでの間、出身校に加え日ノ本女学校で英語や音楽を教えて後進の日本人女性の教育を支えていたこと、また、遺伝生物学者の夫駒井卓の海外赴任に伴ってニューヨークに滞在する間、週に2回のピアノのレッスンを受け、音楽会に通って多様な時代・国の作品を鑑賞し、同地で活動する同時代の作曲家の作品も含む楽譜を収集するなど、豊かな音楽経験を積んでいた実情が明らかとなった。 第2の目的については、アメリカから来日したW. M. ヴォーリズWilliam MerrellVories(1880~1964)に自宅の設計を依頼し、矯風会などの社会活動に精力的にとり組むなかで、ピアノや蓄音器を囲むひとときを夫婦で楽しんでいたことが明らかとなった。 これまでの洋楽受容史研究では、日本の家庭に備えられたピアノは、中流階級以上のステータスシンボルとして論じられることが多かった。国内外でピアノのレッスンを受けた静江の事例は、既往研究からはみえてこない音楽との向き合い方を具体的に示す貴重な存在である。本調査を教養教育としての音楽、生涯教育としてのピアノについて学術的に考えていく緒として位置づけ、20世紀前半の日本人による自主的な西洋音楽の学びについて解き明かしていくことを今後の課題とする。
著者
塚田 花恵
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学
巻号頁・発行日
vol.61, no.2, pp.65-78, 2016

普仏戦争後のフランスの音楽史研究は、文化的アイデンティティの模索と隣り合わせに発展したものであった。本論文の目的は、ジュール・コンバリューが著した『音楽の起源から今日にいたる歴史』(1913〜1919、以下『音楽史』)における音楽の進歩のナラティヴを検討することによって、1910年代のフランスにおける音楽史叙述のあり様の一端を、詳らかにすることである。 共和派であったコンバリューは『音楽史』において、音楽が中世・ルネサンスにおける宗教からの解放とフランス革命による王政からの解放を経て、19世紀フランスという時代に到達するという進歩の流れを示した。『音楽史』で描かれる交響曲とオペラのジャンルの進歩は、いずれもフランスがその舞台として設定され、ベルリオーズが重要な位置に置かれている。それによってコンバリューは、ドイツの巨匠を含みつつ、フランスを中心に据えたヨーロッパ音楽史を創出するのである。 しかし彼は『音楽史』において、ベルリオーズよりもベートーヴェンやワーグナーにより多くの紙幅を割いている。これは、かつて熱狂的なワグネリアンであった彼個人の音楽嗜好と、第一次世界大戦中のフランスにおけるドイツ音楽受容の状況との衝突によるものであろう。ベルリオーズの音楽には、1880年代以降、ワグネリスムの侵入に対する防波堤としての役割が期待されていた。学術的な形でベルリオーズに重要な歴史的位置づけを与えるコンバリューの音楽通史は、普仏戦争後に起こったこの作曲家のカノン化を推し進めるものであったと考えられる。共和国フランスをベルリオーズに代表させ、ワーグナーに対するアンビヴァレントな評価を示す『音楽史』の進歩のナラティヴには、1870年以降にアイデンティティの政治と関連して発展したこのディシプリンの、約半世紀の歴史の反映を見ることができる。
著者
井上 果歩
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.66, no.1, pp.35-50, 2020

&nbsp;&nbsp;アメルス『音楽技芸の実践』(1271年)は、ケルンのフランコ『計量音楽技法』(1280年頃)の影響を受ける以前の計量音楽論、すなわち前フランコ式理論(13世紀半ば〜1270年代頃)を伝えているが、同時代のほぼ全ての著作が言及するモドゥスやテンプスの概念には触れておらず、異色を帯びている。そのためかこの理論書の直後には3段落ほどから成る作者不詳の小論文(以下『補遺』)が付され、そこではモドゥスやテンプスが詳述される。<br>&nbsp;&nbsp;ただし『補遺』をアメルスと比較すると、音価の説明が重複し、またリガトゥラの解釈も異なるなどその内容面で不整合な点が見られる。従って本論文は『補遺』が何を意図して書かれたのか、アメルスと異なるのであればどのような他の13世紀の著作と関連しているのかを検討した。結果、『補遺』は6つのモドゥスに関しては『ディスカントゥスの通常の配置』(13世紀半ば)やヨハネス・デ・ガルランディア『計量音楽論』(1260年頃)などの前フランコ式理論を引用し、リガトゥラとそのプロプリエタス(以下Prop)に関してはフランコの理論とほぼ一致することが分かった。つまり、『補遺』のテクスト全体は1280年前後の種々の理論書の抜粋集になっている。<br>&nbsp;&nbsp;さらに譜例に注目すると、他の理論書には無い「縦線付き」のProp有りの上行3音リガトゥラが見られた。これはおそらくテクストで上行リガトゥラの説明が欠落していることに起因し、何者かが譜例を書く際に、テクスト中の「Prop有りの下行リガトゥラには縦線を伴う」という説明を上行形にそのまま応用したものと考えられる。一方で譜例は、Prop有りの上行2音リガトゥラには従来の縦線の無い記譜を適用しており、一貫性に欠く。このような譜例のリガトゥラを巡る混乱は、当時の計量音楽論の中でもリガトゥラの規則は特に難解で人々の間でその理解度にずれがあったことを暗示しているであろう。
著者
舩木 理悠
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.65-77, 2014

Gisele Brelet (1915-1973), une musicologue frangaise, a etudie le rapport entre le temps et la musique, dans son ouvrage principal, Le temps musical - essai d'une esthetique nouvelle de la musique (1949), et a developpe une theorie originale du temps musical. Selon elle, s'il existe bien un temps musical, les etudes dans ce domaine ne font que souligner partiellement une structure de sa formation, sans comprendre totalement cette derniere. La presente etude se concentre sur la proposition: ≪Construire le rythme, c'est construire le temps≫ (ibid., p. 363), soutient que la structure qui construit le rythme egale celle qui construit le temps musical et expose ainsi la theorie de Brelet sur le rythme musical. Pour cela, nous mettons en evidence, d'abord, dans l'explication du rythme musical, deux structures, celles du ≪meme≫ et de ≪l'autre≫ (ibid., p. 264), ainsi qu'une ≪synthese de syntheses≫ (ibid., p. 281), et, en plus, nous indiquons qu'elles se combinent au ≪theme≫ et a ≪la variation≫ (ibid., p. 264). Il devient alors clair que ≪le theme et la variation≫ ont une double signification: le rapport entre des elements dans la musique, et le rapport entre le meme universel qui les determine, et ces autres qui constituent a chaque fois chacun des elements. Ensuite, au titre d'une possibilite decoulant de la theorie de Brelet, en etudiant le tempo ou le rythme se developpe concretement, cette etude indique le rapport entre rythme musical et tempo: c'est par ≪l'unite de temps≫ (ibid., p. 376) que le rythme musical s'unit avec le tempo qui s'inscrit a la sonorite, et se concretise. Pour cela, cette etude examine la possibilite de comprendre le rythme comme contenant le tempo.
著者
永井 玉藻
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.63, no.2, pp.94-109, 2018 (Released:2019-03-15)

19世紀のパリ・オペラ座において、バレエの伴奏は弦楽器奏者の仕事だった。彼ら伴奏者は、当時のバレエ・カンパニーに必須の存在であり、日々のリハーサルのために、弦楽器伴奏者専用のリダクション譜も作成されていた。バレエ伴奏が弦楽器によって行われていたことは、ワイリーやスミス、デイらによって言及されてきたが、その詳細には未だ不明な点が多い。 そこで本稿では、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのオペラ座におけるバレエ伴奏者について、彼らの人物像や劇場での立場の解明と、弦楽器奏者によるバレエ伴奏が衰退した時期の特定を試みた。 今日、フランス国立文書館や、フランス国立図書館分館のオペラ座図書館には、19世紀のオペラ座に関する資料が多く所蔵されている。それらのうち、19世紀後半にオペラ座で稽古伴奏を行っていたバレエ伴奏者に関する書類を精査したところ、当該時期のオペラ座監督の義務書が、バレエの稽古のために伴奏者、あるいはヴァイオリン奏者を雇用すると定めていたことが明らかになった。 さらにこの職務は、ほとんどの場合において、オペラ座オーケストラの弦楽器奏者2?3人によって担われていた。彼らには、オーケストラ奏者としての給与とは別に、伴奏者としての給与も支払われていた。したがって、バレエ伴奏は、当時としては非常に珍しく、オペラ座から許可された副業として位置付けられていたと言える。しかし、その社会的地位は、オペラの稽古伴奏者に比べて極めて低いものだった。 こうした弦楽器のバレエ伴奏者は、1920年代ごろまで活動していた可能性が高い。その後はピアニストによる伴奏へ移行し、今日のようなピアノでの伴奏が一般的になった。しかし、バレエ伴奏は19世紀半ばからオペラ座の一役職として認知されており、その伴奏には、必要な才能や条件があると考えられていたのである。
著者
皆川 達夫
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.36, no.2, pp.p126-139, 1990
著者
仲辻 真帆
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.65, no.1, pp.32-49, 2019 (Released:2020-10-15)

東京音楽学校本科(現在の東京藝術大学音楽学部)において体系的な作曲教育が開始されたのは、1931(昭和6)年のことである。時勢に鑑みて、文部省令により「作曲部」が設置された。東京音楽学校の作曲教育は、日本における創作領域の人材育成に大きく寄与してきたにもかかわらず、これまで本格的な研究がなされてこなかった。本論文は、この本科作曲部の最初期の様相解明を目的としている。 1932年より本科作曲部の入学者が募集され、設置当初は毎年2~3人の作曲専攻の学生が入学した。信時潔、片山頴太郎、下總皖一、呉泰次郎の他、外国での研鑽を終えたばかりの細川碧や橋本國彦、ドイツ音楽を体得していたK. プリングスハイムも指導にあたった。ドイツやウィーンの音楽理論の教授が根幹にあったが、和歌への作曲や律旋法・陽旋法など日本の伝統的音階に基づく作曲も実施されていた。教員たちが自ら翻訳したテクストを用いるなど独自の音楽理論を展開していたことも明らかとなった。 本研究では、学校資料に基づいてカリキュラムや試験問題を提示するとともに、1930年代に在学していた学生たちの手稿資料を活用して授業内容を検証した。とりわけ自筆譜、日記、書簡からは、ソナタの作曲に苦悶しながら、朝夕問わず日々習作を書いて作曲修得に励んでいた学生たちの様子が浮き彫りとなった。S. ヤーダスゾーンの『和声学教科書』が受験勉強に用いられていたこと、作曲部の授業でS. クレールやH. リーマンの和声論が教授されていたことも判明し、そこから昭和初期の和声教育の一端が見出された。 研究対象とした1930年代は、社会状況が激しく変化した時期である。作曲部の学生たちも軍事訓練への参加や戒厳令下での合唱練習を経験していた。ただし戦争の影響はまだ大きくなく、設置当初の作曲部では充実した授業が実施されていた。初期卒業生の記述からは、新体制の中で豊かな作曲教育を享受していたことがわかる。
著者
井口 淳子
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.73-85, 2017 (Released:2018-03-15)

A. ストローク(Awsay Strok)とは、1910年代から日本敗戦後にいたるまで、およそ30年にわたり上海に居住し、ヨーロッパ、ロシア、米国から演奏家、歌手、オペラ団、バレエダンサーなどを招聘し、日本公演を含む「アジアツアー」をプロデュースしたユダヤ人興行主である(1876年2月27日、ラトヴィア、ドヴィンスク Dvinsk 生、1956年7月2日、東京没)。 「A. ストローク」の名は、演奏家の評伝や東アジアの洋楽受容に関する文献のなかに「impresario、インプレサリオ、興行主、ディレクター、マネージャー」として数多く見出せるものの、彼自身の経歴や活動についての本格的な研究はいまだなされていない。 日本国内では、彼が企画した興行があたかも「日本のみを目的地」としていたかのように記述されがちであった。つまり、日本においては、ストロークは「世界的に著名な演奏家を、日本にはじめて招来した興行主」、との認識がなされてきた。しかし、彼が手がけた興行は、日本を目的地とするものではなく、広くアジアの諸都市、日本、中国、東南アジアの植民地都市を巡業(ツアー)する興行であった。そして日本と上海は一組のセットになってツアーに組み込まれていた。 筆者は、上海で発行された英字新聞や仏語新聞にストロークの名前が公演広告や記事に数多く掲載されていることに着眼し、英字新聞データベース及び、それを補完する仏語新聞 Le Journal de Shanghai により、彼がプロデュースした上海公演を抽出し、その全体像を明らかにすることを試みた。 その結果、ストロークは東京、大阪、上海で、ほぼ同時に同一のアーティストが公演を行う、国境をこえた演奏家、舞踊家のアジアツアーを1918年から1940年までの23年間にわたり、50回以上実施していたことが明らかになった。
著者
岡田 安樹浩
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.31-45, 2016 (Released:2017-10-15)

ワーグナーは、ドレスデンで《タンホイザー》を初演(1845年)してからパリでの上演のために改変(1860から61年)を行なうまでの間に、すでに4つの新しい舞台作品(すなわち《ローエングリン》から《トリスタン》まで)を完成していたが、若干の例外を除いて、当時彼はそれらの響きを実際に聴いたことはなかった。彼のパリでの改変の目的は、第1幕の最初の2場面を改めることと、いくつかのオーケストラ部分を加筆修正することであり、本論文ではこの点に着目し、パリで改変された《タンホイザー》の管弦楽法を他の総譜と比較しつつ分析を行ない、以下の特徴を明らかにした。 1. 特にバレエ場面においては、激しく揺動する弦楽器のパッセージがつねに木管楽器やホルンによって重複されている。すでに《トリスタン》にも見られたこの技法は、彼の後期作品に典型的な特徴でもある。 2. 改訂された第2場の音楽は、「網目技法」や音色を漸次的に変化させる技法によって特徴づけられている。この技法は、ヴェ―ヌスの音楽のためだけでなく《マイスタージンガー》や《パルジファル》といった後の楽劇にも用いられている。また〈ヴェーヌスのアリア〉では、ソロ・ヴィオラとソロ・チェロのフラジョレット奏法による保持音と弦のトレモロ音形との組み合わせによる一風変わった響きが鳴り響くが、これは《ジークフリート》第2幕で再現されることになった。 3. 《指環》の最初の2つの総譜において試みられていた実験的な楽器の取り扱いや特別な音響効果を意図した管弦楽法が、バレエ場面と幕切れに再現されている。こうしたことは、ワーグナーがパリでの《タンホイザー》の上演を、《トリスタン》までに発展させた実験的な管弦楽法を、実際の音響として現実化するための好機と考えていたことを暗示している。そしてさらに、パリでの《タンホイザー》の経験は、彼の後期の創作に大きく作用をすることになったのである。