著者
山口 源治郎
出版者
京都大学大学院教育学研究科生涯教育学講座
雑誌
京都大学生涯教育学・図書館情報学研究 (ISSN:13471562)
巻号頁・発行日
no.6, pp.73-80, 2007-03

日本の公立図書館は、1990年代以降、激しい変化と矛盾の中にある。図書館サービスのアウトソーシング、職員の非正規化など新自由主義的改革手法の図書館経営への導入が推進されており、公立図書館の公共性と専門性の劣化が急速に進行している。他方、人々の図書館への要求は質と量の両面において高まっており、新自由主義的改革との矛盾を激化させている。本論文はこうした日本の公共図書館の現況と課題を明らかにする。
著者
徐 静波
出版者
京都大学大学院教育学研究科生涯教育学講座
雑誌
京都大学生涯教育学・図書館情報学研究 (ISSN:13471562)
巻号頁・発行日
no.10, pp.153-163, 2011-03

秦の時代までは、茶というものはすでに中国の南西地方で食され、また飲用されていた。漢 の時代以後は次第に四川あたりから長江の中流や下流流域に広がり、薬用価値のある食べもの あるいは飲みものとみなされ、惰や唐の時代(約紀元6世紀前後)から、お茶を飲む文化が次 第に全国に広がり、お茶は最も重要な非アルコール飲料としての地位が中国で正式に確立した。 中国から日本に伝来した初期のお茶文化は、凡そ平安時代前期(9世紀前後)の頃に、半世紀 にわたって滅んでしまい、一般社会に定着できなかった。その理由としては、遣唐使廃止によっ て中国大陸とのつながりが薄くなったこと、初期に伝来したお茶の文化の広がる範囲が極めて 狭かったこと、日本人がそれを能動的、創造的に改造する努力が十分でなかったこと、唐代の 餅茶の製茶工程の繁雑さなどが挙げられる。
著者
川崎 良孝
出版者
京都大学大学院教育学研究科生涯教育学講座
雑誌
京都大学生涯教育学・図書館情報学研究 (ISSN:13471562)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.5-36, 2011-03

アメリカ公立図書館史研究は、素朴な実証主義の第1世代、ジェシー・H.シェラ、シドニー・ ディツイオンを中心とする民主的解釈の第2世代、マイケル・H.ハリス、ディー・ギャリソン を中心とする修正解釈の第3世代を経て、1980年代後半から第4世代の時代に入った。この第4 世代の特徴は、1次史料の広範な渉猟、理論の適用や批判的解釈の重視、さらにプリント・カ ルチャーなどへの展開にある。この第4世代の研究の牽引者がウェイン・A.ウィーガンドであ り、本稿はウィーガンドの研究の視点、方法、具体的な解釈の全体を明らかにする。
著者
川崎 良孝
出版者
京都大学大学院教育学研究科生涯教育学講座
雑誌
京都大学生涯教育学・図書館情報学研究 (ISSN:13471562)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.89-97, 2007-03-31

19世紀中葉にアメリカ公立図書館が制度的に成立したが、そののち公立図書館の目的・使命については、大きく変遷して現在にいたっている。本稿では教育主義、知的自由、社会的責任をキーワードに、アメリカ公立図書館の歴史と現状を説明し、あわせてインターネットと2001年9月11日のテロ事件が、アメリカ公立図書館の目的や使命に与えている影響を説明する。
著者
安川 由貴子
出版者
京都大学大学院教育学研究科生涯教育学講座
雑誌
京都大学生涯教育学・図書館情報学研究 (ISSN:13471562)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.31-42, 2007-03-31

本稿では、G.ベイトソンによるダブル・バインド理論を、ベイトソンの「学習とコミェニケ-ションの階型論」との関わりの中から考察していくことを通じて、ダブル・バインドのもつ積極的な意味を見出していくことを目的としている。その際に、ダブル・バインドからの解放の契機となる存在として、第三者的な存在がもつ意味を手掛かりとして読み解いていきたいと考えている。
著者
吉田 正純
出版者
京都大学大学院教育学研究科生涯教育学講座
雑誌
京都大学生涯教育学・図書館情報学研究 (ISSN:13471562)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.19-30, 2007-03-31

本稿の目的は雑誌『土曜日』を中心に展開した「反ファシズム文化活動」を、近年の社会運動研究における「フレーム分析」の知見を援用して改めて「社会運動における学習」のプロセスとして析出することにある。
著者
赤上 裕幸
出版者
京都大学大学院教育学研究科生涯教育学講座
雑誌
京都大学生涯教育学・図書館情報学研究 (ISSN:13471562)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.43-52, 2007-03-31

GHQ(General Headquarters、連合国総司令部)による占領期から特にその終結期にかけて「戦後反戦映画」が多数作られ、興行的にも大きな成功を収めている。1950年の『また逢う目まで』、『暁の脱走』、『きけわだつみの声』、1953年の『ひめゆりの塔』、『君の名は(第1・2部)』、1954年の『二十四の瞳』、『君の名は(第3部)』などがそれにあたる。 これらの反戦映画が、戦時中の映画体制との関わりの中で語られることはほとんどない。しかし、戦意高揚映画が多数作られ戦争に邁進していった戦中と、反戦映画が多数作られ平和国家建設に邁進していった戦後と、一体どれほどの違いがあるというのだろうか。近年のメディア史研究においては、戦前戦後の間に「断絶」ではなく「連続性」が存在すること、すなわち戦後のマス・コミュニケーション学のパラダイムが、戦中の総力戦体制に由来するということが指摘されている。 本論文では、この「総力戦の継続」という視点に着目し、占領期を中心とした時期(1945年~54年)を「戦後総力戦体制」と定義し、戦中も含めたメディア史の流れの中で、いかに「戦後反戦映画」を位置付けることができるかに重点をおいて分析していく。