著者
木原 淳
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.60, no.3, pp.417-442, 2015-03

何故に労働の投下が,物件と身体を同質化するのか,またそのことと,身体の法的性質はどのような関係にあるのだろうか。本稿はこの問題の端緒としてロックとカントの所有論と対照する。両者は共に,契約による所有の根拠づけを拒否する点では共通するが,カントはロックの労働所有説を批判し,所有制度の淵源を,領土高権を背景とする土地所有制度に求める。これは所有権のもつ公共性を重視した現実的な思考ではあるものの,この思考は身体と所有との密接な関わりを完全に排除しており,身体と所有にかかわる限界事例に対して無力なものとなっている。そのような観点から,熊野純彦の議論を参照しつつ,所有と身体ないし生命との密接な関連を明らかにし,身体をめぐる法的問題の指針とすることを目的とする。
著者
竹地 潔
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富山大学紀要.富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.1-19, 2017-07

ビッグデータの利活用の進展に伴って,プロファイリングの精度が飛躍的に向上し,対象者の人物像をよりいっそう詳細に描くことが可能になった。このことにより,プロファイリングは,行動ターゲティング広告や不正検知のための手法として利用されるばかりではなく,人事労務管理の分野にもその利活用が広がりつつある。人事労務管理の分野においてプロファイリングを用いると,上司による「主観的」な評価に左右されることなく,「科学的」な分析を通じて労働者の「客観的」な評価を行うことができる,と喧伝されているが,プロファイリング自体に内在する諸問題,つまり,「不可視性」,「脱個人化」,「不確実性」および「脱文脈化」のせいで,求職者や労働者にとって,プロファイリングはプライバシーへの侵害や差別などの重大な脅威になりうる,と懸念されている。海外では,プロファイリングの問題性をいち早く認識して,個人情報やプライバシーの保護などの観点から,それに対する法的対応を検討し,実際に法的規制を加える取り組みも見られる。他方,わが国は,プロファイリングの利活用が進んでいるにもかかわらず,海外の状況に比べてほとんど手つかずの状態で,その法的対応の検討すらほとんどなされてはいない。本論は,まず,プロファイリングの現状および人事労務管理の分野におけるその利活用を概観して,プロファイリングの利活用が労働者にいかなる脅威を及ぼしうるかを指摘する。次に,懸念される労働者への脅威に対して,わが国の現行法が十分な対応を行えるのかどうかを検討する。さらに,海外(米国および欧州連合)における法的取り組みを踏まえたうえで,わが国における今後の課題を論じることにする。
著者
高山 龍太郎
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富山大学紀要.富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.52, no.3, pp.603-652, 2007-03

富山県の地域性は、しばしば東西に分けて語られる。県中央部にある呉羽丘陵を境に、県東部を「呉東」(ごとう)、県西部を「呉西」(ごせい)とする呼び方は、そうした人びとの認識の一例である。たとえば、富山県を全国の人びとに紹介するある本は、富山県の市町村を呉東と呉西に分けて紹介している(須山 1997)。また、国民的作家と呼ばれた司馬遼太郎も、『週刊朝日』の連載「街道をゆく」のなかで、呉東と呉西という言葉にふれ、「人文的な分水嶺を県内にもつというのは、他の府県にはない」(司馬 1978:116)と紹介している。今回の私たちの調査でも、回答者の95%の人が、富山県を呉東と呉西という呼び名で二分されることを知っており、75%の人が、呉東と呉西の間に全般的な違いがあると考えていた。このように、富山県を東西に分けて把握する認識は、かなり一般的である。しかし、こうした認識枠組みがある一方で、現実の富山県の東西の違いはなくなりつつある。自動車を中心とする交通手段の発展は、富山県をますます一体化させている。本稿の目的は、こうした問題意識にもとづき、富山市と高岡市でのサーベイ調査から、富山県の東西の違いが、実際にどのくらい存在するのかを、実体と人びとの意識の両面から具体的に明らかにすることである。調査の概要は、以下の通りである。富山県の東西をそれぞれ代表する都市として、富山市(東)と高岡市(西)を調査対象に選んだ、調査は、2005年12月から2006年1月にかけて、自記式郵送法による標本調査でおこなっている。実査の対象者は、富山市と高岡市から、500めいずつ合計1000名を選んだ。実査対象者の標本抽出には、選挙人名簿を台帳として二段階抽出法によっておこなった。回答者は446名(富山市213名、高岡市233名)で、回収率は全体で44.6%(富山市42.6%、高岡市46.6%)であった、
著者
神山 智美
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富山大学紀要.富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.279-324, 2016-12

財政活動における公的資金助成(いわゆる補助金のこと。本稿では公的部門による補助金等を扱うこととし,以下「補助金」と記す。)の運用には,その適法性において少なからずの論点がある。例として以下に挙げる原則に係ることが少なくない。財政民主主義の原則,公共目的(公益性)原則,有効性原則・比例原則,平等・公平原則,偶発債務抑制原則,公正決定原則等である。筆者が専門とする環境行政分野においても多くの補助金が運用されている。第10回生物多様性条約締約国会議(COP10)で策定された愛知目標の3には,「生物多様性に有害な補助金を含む奨励措置が廃止,又は改革され,正の奨励措置が策定・適用される(環境省仮訳)」が掲げられ,補助金の奨励効果に対する基本的な認識やルールの検討も求められている。本稿は,以上のような補助金の適法性全般またはその奨励効果の発揮に係る民主的統制のためのルールメイキング等を試論するものではない。本稿では,はじめに補助金返還の概要をつかみ(1),そのうえで補助金交付後に発生した諸事情による返還に関して生じてくる法的論点について,近年の補助金返還訴訟の分析からいくばくかの問題点の提示を試みる(2)(3)。なお,本稿が重きを置く視点としては,(1)の検討から,補助金が,①基本的には公的部門による助成であり適正な運用が求められることを踏まえ,そのうえで,②発展的には当該助成された事業等の支援,誘導および奨励等の効果を持つこととする。
著者
大坂 洋
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富山大学紀要.富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.60, no.3, pp.603-632, 2015-03

松尾匡氏は一般読者向けの新書を含めて,極めて活発な執筆活動をしているマルクス経済学者である。本稿は,松尾匡氏とかわした議論をもとに,従来見過ごされがちであった松尾疎外論の論点を明確化し,その分析にふさわしい枠組みを提案する。
著者
高山 龍太郎
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富山大学紀要.富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.46, no.1, pp.1-50, 2000-07

前稿,前々稿において,トマスとズナニエツキ著fヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民』の第一次集団論序論を詳しく見てきた。そこでは,家族を単位とする等質的・固定的な社会から,個人を単位とする異質的・流動的な社会へという変動過程が,様々な角度から検討されていた。家族に代表される伝統的な第一次集団は,相補的な援助に基づく「連帯」によって特徴づけられる。その成員は,見返りを求めずに互いに犠牲を払って助け合い,完全に集団の中に埋没していた。しかし,こうした伝統的な第一次集団は,移民による社会圏の拡大や産業経済などの景簿によって,次第に解体していく。その結果集団の統制に従わない自己本位的な個人が析出されていった。本稿では,以上のような第一次集団論序論の基本的枠組に従い,ポーランドの農民家族と,アメリカに渡った家族員との間で交わされた手紙の分析を見ていく。前々稿において『ポーランド農民』には「抽象度の高い形式主義的な方法論のレベル」「農民の近代化を扱ったより実質的な理論のレベル」「資料のレベル」という三つのレベルが想定できることを指摘しだ。本稿は,その「資料レベル」を扱うものである。そこには急激な社会変動期における農民たちの生活が,生き生きと表れている。
著者
高山 龍太郎
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富山大学紀要.富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.45, no.2, pp.431-477, 1999-11

本稿では, 前稿に引き続き,トマスとズナニエツキ著『ヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民』の第一次集団組織論序論を詳細に検討していく。前稿では,その前半部分,「農民家族」「結婚」「ポーランド社会における階級システム」「社会環境」「経済生活」について紹介してきた。本稿では,後半部分にあたる「宗教的・呪術的態度」「理論的・審美的関心」を紹介し,最後に,『ポーランド農民』の第一次集団組織論序論の特質をまとめたい。
著者
高山 龍太郎
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.46, no.1, pp.1-50, 2000-07

前稿,前々稿において,トマスとズナニエツキ著fヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民』の第一次集団論序論を詳しく見てきた。そこでは,家族を単位とする等質的・固定的な社会から,個人を単位とする異質的・流動的な社会へという変動過程が,様々な角度から検討されていた。家族に代表される伝統的な第一次集団は,相補的な援助に基づく「連帯」によって特徴づけられる。その成員は,見返りを求めずに互いに犠牲を払って助け合い,完全に集団の中に埋没していた。しかし,こうした伝統的な第一次集団は,移民による社会圏の拡大や産業経済などの景簿によって,次第に解体していく。その結果集団の統制に従わない自己本位的な個人が析出されていった。本稿では,以上のような第一次集団論序論の基本的枠組に従い,ポーランドの農民家族と,アメリカに渡った家族員との間で交わされた手紙の分析を見ていく。前々稿において『ポーランド農民』には「抽象度の高い形式主義的な方法論のレベル」「農民の近代化を扱ったより実質的な理論のレベル」「資料のレベル」という三つのレベルが想定できることを指摘しだ。本稿は,その「資料レベル」を扱うものである。そこには急激な社会変動期における農民たちの生活が,生き生きと表れている。
著者
高山 龍太郎
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富山大学紀要.富大経済論集 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.48, no.2, pp.313-366, 2002-11

本稿ではシカゴ学派社会学の諸成果を素描し, 1920年代を中心にアメリカの社会状況との関連性を考えていきたい。
著者
神山 智美
出版者
富山大学経済学部
雑誌
富大経済論集 = The journal of economic studies, University of Toyama : 富山大学紀要 (ISSN:02863642)
巻号頁・発行日
vol.63, no.3, pp.253-275, 2018-03

就活(就職活動)ならぬ「終活」ということばが生まれてきた。これは,2008(平成21)年に週刊朝日(朝日新聞出版)が造ったことばで,当初は葬儀や墳墓(お墓)等の人生の終焉に向けての事前準備のことを指していた。現在では「人生のエンディングを考えることを通じて自分を見つめ,今をよりよく,自分らしく生きる活動」のことを指すようである。人生のエンディングを考えるに当たり,多様な選択肢のなかで葬儀のあり方や埋葬の仕方等は重要な事項となる。また,これは決して自身のことだけとは限らない。人口の多くが都市域に集中する時代にあって,地方に住む老親と離れて暮らしているケースや,先祖代々からの墳墓が地方にある場合は少なくない。そうした場合には,地方で「孤独」に住まう老親の今後や,墳墓の移設等が家族会議で議論されることもあるのではなかろうか。他方,都市域という人が多く集う空間にあっても「孤独」は存在する。配偶者,子孫および近しい親類等がいない人というのも珍しくはない。これらの人が人知れず寂しく死を迎える状態を「孤独死」と表現される。こうした孤独死および継承する人がいないケース等については,どのような葬儀のあり方や埋葬の仕方等をとることができるのかということも考えねばならない。地域や自治体の役割も問われてくるであろう。ちなみに,2000(平成12)年からは,地方分権改革に伴い,「墓地,埋葬等に関する法律(墓地埋葬法,1948(昭和23)年法律48号)」における都道府県および市町村のすべての事務が自治事務とされている。以上のように,1948(昭和23)年に墓地埋葬法が制定された後も,墓地および墳墓に係る状況は変化を遂げてきている。1997(平成9)年には厚生省に「これからの墓地等の在り方を考える懇談会」が設置され,墓地を利用する者の視点に立って1998(平成10)年に報告書がまとめられた。こうした時代背景のもとで,本稿は,廃棄すべき廃墓石および措置すべき遺骨,なかでも孤独死の遺骨というものの扱いの検討を試みる。「終活」や「孤独死」という問題には,観念的なものが伴いがちであるが,それらとは一線を画して即物的なものとして捉えることを試みるものである。なお,実際の訴訟として墳墓(お墓)の所有権および祭祀主催者の承継等に係る争訟は少なからずであり,加えて,人の終期についても,法学上は「臓器移植」「脳死」等の大きな議論があるところ,本稿はそれらを扱うものでもないことをお断りしておく。