著者
岡本 英明
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1986, no.53, pp.18-22, 1986-05-10 (Released:2009-09-04)
参考文献数
12

解釈学はもと文献の解釈技術から出発し、十九世紀初頭においてシュライエルマッヘルなどにおいて大きく開花し、さらにディルタイによって精神諸科学の基礎理論として一般化され、大きな影響力を及ぼした。現在ではボルノウやガダマーの尽力によって、哲学的解釈学ないし解釈学的哲学にまで発展してきている。そこからまた、教育学においては「解釈学的教育学」 (hermeneutische paädagogik) が言われている。解釈学的方法は、具体的にはたとえば、一、理解できないテクストの個所を全体との関連で理解する。一、個々の言明に、それとパラレルな個所の他の言明を引き寄せる。一、中途半端な思想を、原著者を越えて解釈者の努力で考え抜き、そこから原著者の意図をよりよく理解する。一、歴史的事情を取り込む。伝記的、心理学的、社会学的視点を考慮する。などが挙げられるが、ここでは本テーマとかかわって、特に次の三点を取り上げて論じることにしたい。I 史的=体系的アプローチII Besser-Verstehen(よりよく理解すること)III トポス論的アプローチ
著者
田代 尚弘
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1986, no.53, pp.47-60, 1986-05-10 (Released:2010-01-22)
参考文献数
62

The purpose of this paper is to clarify the moral (practical) and political side of the goal of postwar Spranger's education of the conscience. One problem which Spranger after living through the Nazi period faced in the formation of democracy was the phenomenon of lack of individual conscience which is supposed to support democracy. According to Spranger the lack of conscience in the single individual leads to a break-down of democracy. What he calls 'education of the conscience' aimed at the formation of men who support democracy at their interior spirit. In this paper this problem shall be discussed from the following viewpoints. First, I shall try to arrive at an understanding of the characteristics of Spranger's view of the conscience, then proceed to explain the social meaning of conscience by examining the connection of conscience and cultural criticism, and then go on to discuss the content of the goal of conscience education from the viewpoint of reconstruction of democracy in postwar Germany.
著者
毛利 猛
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1985, no.52, pp.88-91, 1985-11-10 (Released:2009-09-04)
参考文献数
6

ハイデッガーは、彼の主著である『存在と時間』(一九二七)の中で、自らの哲学を「現存在の解釈学から出発する」「現象学的存在論」であると規定する。ハイデッガーにとって、哲学とは、その対象の面から見れば存在者の存在(Sein des Seienden)をその意味へと向けて問う「存在論」であり、これをその対象(存在)の取り扱いの面から見れば「現象学」である。ところで、存在は如何なる存在者でもないが、しかし常に存在者の存在であるから、我々はこの存在者を手掛りに存在(の意味)を読みとる他はない。存在(の意味)がそれに即して読みとられるべき範例的存在者は、我々人間存在である。人間存在のみが、他ならぬおのれの存在へと態度を取りつつ、「存在とは何か」を既に理解している特殊な存在者であり、存在(の意味)がそこで顕わになる「場」(Da)である。かかる意味で、ハイデッガーは我々人間存在を「現存在」(Dasein)と術語化し、この著作の第一篇で、「存在一般の意味」へと到る方法的通路として、まず現存在の存在を、その根本的な存在機構である「世界内存在」(lnder-Welt-sein)の三契機-(1)世界内、(2)世界内存在という仕方で存在する存在者、(3)内存在-に即して実存論的に分析したのである。では、ハイデッガーのこの「現存在の実存論的分析論」は、教育哲学の学理論上の諸問題に対して如何なる意義をもつのであろうか。
著者
小笠原 道雄
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1986, no.53, pp.6-12, 1986-05-10 (Released:2010-05-07)
参考文献数
16

一般に、どのような学問領域にとっても、学説史は現在の学問のあり方を考える上で欠かすことのできない研究領域である、と考えられている。すなわら、ある学問にとって重要な問題設定が何であるかについて、少なくとも、その学問の理論の伝統への観点を提示するものだからである。しかし、わが国においては、本格的な教育学説史研究の蓄積が乏しいこと、否、教育研究の中での位置づけが不明確である点、さらには、教育学の研究者に学説史研究の意義が十分に意識されていない点を指摘せざるをえない。もとより、教育学説史の対象は、教育理論の伝統への観点という本来過去の教育の理論体系であって、われわれが現在の関心から主観的に解釈してよいものではない。過去の教育思想家、教育理論家が問題とした歴史的所与を含めて、すなわち史料的考証によってわれわれは厳密に客観的であるよう心掛けなければならないであろう。このような認識に立って、本課題の「学説史研究の立場から教育思想研究」を考えれば、広く、 (一) 、学説形式の背景、つまりそれぞれの時代についての教育思想 (家) の当面した〈状況〉をまず見ること、 (二) 、教育を論ずるに当たって用いられてきた〈用語〉や〈概念〉に注意を払い、その形式や意味内容の〈変化〉を跡づけること等が指摘されよう。従って、学説史研究では、思想、理論両者の往復運動 (思想の理論化、理論の思想化) に注意を払いつつ、教育認識の自覚的展望を焦点化することになる。さらに、「方法論的検討」といった視座からは、理論形成の歴史的状況を視野に入れつつ、理論に対する思想の役割を鮮明にする方法、思想と理論両者の往復運動のあり方 (方法) をどのようなものとして自覚し、把握するか、といった問題等が考えられよう。これらの諸問題をドイツにおける「科学的教育学」の形成を中心に、とりわけ「一般教育学」 (Allgemeine Pädagogik) における “Allgemeine” 概念の歴史的変容を事例にし、学説の体系性と歴史性とを指摘し、教育哲学における思想研究の意味を考察したい。
著者
大西 勝也
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1985, no.52, pp.43-56, 1985-11-10 (Released:2009-09-04)
参考文献数
100

Der Zweck dieses Aufsatzes ist es, die Bedeutung der christlichen Idee der Menschenbildung vermittels einer Untersuchung der christlichen Auffassung des Menschen bei Wichern (Johann Hinrich, 1808-1881) und vermittels einer Untersuchung der padagogischen Bedeutung der inneren Mission, die Wichern vertrat, zu klären.Christus lässt die Menschen ihre Sünde erkennen und führt sie zu der Gemeinschaft mit Gott und mitdem Nächsten. Christus ist der Erloser und der Erzieher der Menschen. Nach Wichern sind Erlosung und Erziehung identisch und nach ihm ist jedes christlich?menschliche Tun Erziehung. Darum ist auch jede kirchliche Tätigkeit Erziehung. Christus hat das Wort und die Tat des Glaubens in seiner rettenden Liebe verknupft. Die Tätigkeit der rettenden Liebe ist die eigentliche Aufgabe der Kirche.In diesem Sinn bedeutete die Innere Mission, die in der Nachfolge Christi die Tätigkeit der rettenden Liebe für das gesamte Volk in seiner sozialen Not ausübte, zugleich kirchliche Tätigkeit und christliche Erziehung.