著者
武藤 文夫
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1983, no.47, pp.38-42, 1983-05-15 (Released:2009-09-04)
参考文献数
4

1、戦後思想の根底の問題-「人間」と「国家」-2、民主主義社会実現の問題-住民自治との関りにおいて-3、「経済大国」決意の問題-一九五〇年代末からの動向-4、人間主義の回復-人間の全体性の回復-「戦後教育における人間像」に関してこのような筋において発表したい。教育における人間縁はその根底においてその時代の思想に強く影響を受ける。戦後思想の根底 (というより戦後思想の出発というのがふさわしいと考える) は、「人間」と「国家」との関係をどうとらえるかにその核がある。民主主義社会実現の問題もそのことを抜きには不可能なことであり、あらためて再認識しておく問題と考える。今日の深刻な諸問題は (特に教育にとって) 一九五〇年代末にその源泉があることはほぼ常識となっている。「軍事大国」と「経済大国」とを交替すれば明治国家のとった政策と極めて類似し、より問題は深刻な様相を呈している。強力な中央集権国家主義のもたらす管理社会化の透徹は、教育を「自明の理」のごとき国家統制の教育に囲い込んでいく。一方、「経済大国」のもたらした「快適」原理は、八割方の日本人を中流意識に導き、自律的人間の破壊にも通じている。教育における人間像、その反省をふまえての展望は、戦後思想の出発であった「人間主義」に回帰し、新たな「人間の全体性の回復」をめざすことが不可欠である。以下の諸側面より考察した。・民主主義社会の形成者として-民主主義の質的向上の問題として-・自分 (達) のことは自分 (達) で決められる・「地域」の再確認・自立と連帯 (自律的人間)・生態系の認識と実践として・「生産第一主義」から「生活第一主義」へ・自分 (達) を自分 (達) でひきうける人間 (自律的人間)・快適原理に埋没しない人間性 (生物的.心理的・社会的に解放されることの必要性)・経済的側面として・「アジア」を踏み台としての高度成長・人的能力・能力主義・人間の部分品化・都市化・核家族化・「商品主義」の浸透とその克服 (自律的人間) 。科学史の示す「科学」の問題・科学偶像視の否定・「進歩」の幻想 (人間性の視座)「自律的人間」は今日あらためて教育のめざす人間像であり、「人間の全体性の回復」の指標である。今日その内実は、行動する市民、自らの生活を創造していく人間、「一様な序列性」の否定としての個性的人間、解放された健康な人間、等々である。とりわけ「生活を創造していく人間」こそはその核心といえよう。右のような要旨にそって課題である「戦後教育における人間像-反省と展望-」について発表をした。発表における重点は1~3におき4は要項を参照として展望である「自律的人間」について少しふれた。ここで再整理することも含め発表の概要を述べてみたい。
著者
隈元 泰弘
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1983, no.47, pp.46-60, 1983-05-15 (Released:2010-01-22)
参考文献数
75

Traditionally Hegel's educational theory was generally interpreted as a nationalistic pedagogy because it was considered on the basis of his work dealing with national sociology, i. e. The Philosophy of Law. On the contrary, in this paper we would like to bring out a different viewpoint which is not solved in his national educational theory, but based on his Phänomenologie des Geistes. The reason is that the self-formation of man is the theme of the Phenomenology, while the problem of the state there remains in the background. More in detail, we investigate the educational meaning of 'training in obedience' dealt with in the chapter 'dominion and servitude' ('Herrschaft und Knechtschaft'). According to Hegel, only through 'exercise in obedience' is the child enabled to form his own self with his own spontaneous will. If it is true that the essence of education does not consist merely in acquiring knowledge or developing skills, but rather in fostering in children the will to form themselves, it may be said that this 'training in obedience' is of great educational importance.
著者
堤 正史
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1983, no.47, pp.61-75, 1983-05-15 (Released:2009-09-04)
参考文献数
55

Zum Verständnis von Jaspers pädagogischen Gedanken ist vor allem der Begriff der “sokratischen Erziehung” durch “existentielle. Kommunikation” wichtig, den Jaspers in “Die Idee der Universität” entfaltet. Existentielle Kommunikation nun hat, wie in meinem Aufsatz gezeigt wird, die Züge von Exklusivität, Zufälligkeit und Augenblicklichkeit. Demgegenüber ist zu fragen, ob das ganze erzieherische Verhalten nur durch diese sokratische Form bestimmt werden kann und ob Erziehung sich auf derartige unstetige Züge beschränken und der stetigen Seite entbehren kann.Ander gesagt ist es das Problem, wie die unstetige Seite in der Erziehung mit der stetigen vereinigt werden kann. Bekanntlich hat Bollnow eine mogliche Losung dieses Problems vorgeschlagen. In meinem Aufsatz wird nun eine Losung aus Jaspers selbst gesucht. Es wird gezeigt, daß die Vereinigung der unstetigen und stetigen Züge in der Erziehung durch die “Vernünftigkeit” der existentiellen Kommunikation moglich ist.
著者
永井 道雄
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1983, no.47, pp.1-5, 1983-05-15 (Released:2009-09-04)

今日、教育の現実は、きわめて複雑であり、また、多岐にわたっている。それだけに、教育について考えるうえで、何が重要な歴史的課題であるかを、見きわめる必要があると思われる。今日、教育について考えるうえで、重要なのは二つの観点である。第一は、現代が学校教育中心の時代から、生涯教育を尊重する学習社会への移行期であるということ、第二は、国民教育中心の時代から、世界史のなかに生きるものとしての教育を重視したそれに移行しつつあることである。[学習社会] 学習社会の問題として目につくのは、科学技術の進歩と経済の発展に支えられて、急速に高齢化社会を迎えようとしており、高齢者自身も、他の人々も、これに対応する学習を迫られていることである。しかし、それだけではない。急速な科学技術の変化に対応するために、企業や官庁に職場内の教育や研究の制度が整備され、なかでも研究については、学校制度内のそれよりも多額な投資が行われている。また、昭和五十年以降、従来の学校体系に加えて、専修学校制度も整備されつつあり、そのほかに、マス・メディアも年ごとに重要な役割を果しつつある。だからといつて、学校教育が不要になったのではない。社会の変化に対応して、生涯学習の時代における学校教育とは何であるかを根本から検討しなければならない。学校だけではなく、家庭の教育についても、深い検討が必要である。こうした観点から学校教育体系、大学入試制度、初等・中等の教育内容や方法を見なおすことも必要である。[国民教育と世界] 日本にかぎらず、すべての国々で、学校教育は基本的に、国民教育を主眼として行われてきた。しかし、今日の世界経済の現実は、国民国家といわれるものも、相互依存、さらに相互浸透の時代に入ったことを示している。そればかりか、一六〇をこえる主権国家が平和的に共存することも、人類の存続に欠くことができない条件である。さらに、世界を歴史的にみると、今日、人類が、大きな転換期にさしかかっていることも明らかである。核兵器は人類絶滅を可能にする武器である。世界の人口は急速に増大しつつあるが、その生存の条件である食糧の生産を確保する保障はない。工業化は進行しているが、それにともなって自然的、文化的環境の破壊が進行している。このようにみると、人間・社会と科学技術との基本的な関係が、いま、深い歴史的省察を必要としているといわなければならない。脱工業化社会の先には情報化社会があると主張するものもあるが、その内容も必ずしも明らかではない。国民教育は、こんごも重要であるが、上述した世界史的観点から、これを見なおすことこそ、今日の基本的な課題である。