著者
加野 芳正 矢野 智司 湯川 嘉津美 鳶野 克己 村上 光朗 古賀 正義 越智 康詞 松田 恵示 毛利 猛 櫻井 佳樹 西本 佳代
出版者
香川大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2008

マナーに関する理論研究と実証的研究を平行して進めてきた。その結果、以下のような知見が得られた。(1)法律や道徳と比較したときにマナーは独自の領域を構成している。(2)マナー(あるいは礼儀作法)は人と人を結びつけ、公共的な社会に参加していく上で不可欠なものである。(3)マナーは文明化や社会の近代化とともに私たちの社会に出現してきた。(4)日常生活におけるマナーとしては挨拶を重視する人が多い、また、家庭でのマナー教育に焦点を絞れば、食事の場面を重視する人が多い。(5)どのようなマナーが求められるかは、文化によって規定されている。
著者
毛利 猛
出版者
香川大学
雑誌
香川大学教育実践総合研究 (ISSN:1345708X)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.1-6, 2007
被引用文献数
1

ゼミナールに関するFDは,ゼミのやり方を規格化しようとするものではない。それぞれの「教育する場」の条件によって,また,担当する教員の得手不得手によってゼミのやり方は違っていて当然である。ただし,いくらゼミのやり方が多様であることを認めるからといって,この多様性を隠れみのにして「手抜きのゼミ」が放置され,「低調なゼミ」が改善されないのは困ったことである。本研究では,ゼミ形式の授業に関するフォーマルおよびインフォーマルなFDの可能性と必要性について考察する。
著者
毛利 猛
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1997, no.76, pp.99-109, 1997-11-10 (Released:2009-09-04)
参考文献数
4
被引用文献数
1

Freud's concept of transference and counter-transference teaches us why the pedagogical relationship of a type of student and his “devoted teacher” gets complicated. The expectations of a type of student toward his teacher as well as those of the teacher toward his poor student become out of proportion to what actual pegagogical situations warrant. As a consequence, both will remain ultimately unsatisfied. In their partnership, both the student and his “devoted teacher” are destined to be badly disappointed. In his present relations with the teacher, the student undergoes an emotional conflict similar to what he had already experienced with his parents. The “devoted teacher” will be inevitably involved in this same conflict because he himself is also neurotic. In this paper I will clarify that the eagerness of the “devoted teacher” arises from the “unrecognized counter-tranference” which, in turn, derives from his narcissistic desire. I will also refer to the dual tendency in pedagogical attitude which becomes especially conspicuous in a comparison of Freud's and modern attitudes toward counter-transference.
著者
毛利 猛
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1985, no.52, pp.88-91, 1985-11-10 (Released:2009-09-04)
参考文献数
6

ハイデッガーは、彼の主著である『存在と時間』(一九二七)の中で、自らの哲学を「現存在の解釈学から出発する」「現象学的存在論」であると規定する。ハイデッガーにとって、哲学とは、その対象の面から見れば存在者の存在(Sein des Seienden)をその意味へと向けて問う「存在論」であり、これをその対象(存在)の取り扱いの面から見れば「現象学」である。ところで、存在は如何なる存在者でもないが、しかし常に存在者の存在であるから、我々はこの存在者を手掛りに存在(の意味)を読みとる他はない。存在(の意味)がそれに即して読みとられるべき範例的存在者は、我々人間存在である。人間存在のみが、他ならぬおのれの存在へと態度を取りつつ、「存在とは何か」を既に理解している特殊な存在者であり、存在(の意味)がそこで顕わになる「場」(Da)である。かかる意味で、ハイデッガーは我々人間存在を「現存在」(Dasein)と術語化し、この著作の第一篇で、「存在一般の意味」へと到る方法的通路として、まず現存在の存在を、その根本的な存在機構である「世界内存在」(lnder-Welt-sein)の三契機-(1)世界内、(2)世界内存在という仕方で存在する存在者、(3)内存在-に即して実存論的に分析したのである。では、ハイデッガーのこの「現存在の実存論的分析論」は、教育哲学の学理論上の諸問題に対して如何なる意義をもつのであろうか。
著者
毛利 猛
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.87, no.2, pp.203-213, 2020 (Released:2020-09-30)

少子化の進行に伴って新しい「大学の大衆化」の段階に突入し、教員養成の自然な基盤が掘り崩されている中で、教職が労働市場で急速に魅力を失いつつある。教員の「量の確保」の問題は「質の担保」の問題と必ず連動する。これらの教員養成をめぐる危機について考察した上で、実践力養成への期待の高まりと失望、それへの「大学における教員養成」と「教育学」教育の側からの対応について、この間の教員養成政策とも絡めながら論じた。
著者
毛利 猛
出版者
香川大学
雑誌
香川大学教育実践総合研究 (ISSN:1345708X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.29-34, 2006-03
被引用文献数
1

多くの文科系の大学数員にとって,大学における代表的な授業形式と言えば,講義と演習(ゼミナール)を意味することは間違いなかろう。近年,大学の授業を見直そうという動きが強まり,高等教育研究もかなりの活況を呈しているが,しかし,上の二つの授業形式のうち,ゼミナールのあり方に関する研究はあまりなされていない。本研究では,教員養成学部で教えている私自身の経験の反省に基づいて,ゼミナールにおける教育活動について考察する。