著者
長尾 光恵
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.66, no.2, pp.566-569, 2018

<p>In Huaigan's <i>Shijingtugunyilun</i> (釈浄土群疑論) stress is placed on the idea that followers of the Śrāvaka and Pratyekabuddha vehicles will obtain rebirth in the Pure Land and attain the Mahāyāna, the influence of Wönch'uk's idea of the five <i>gotra</i>s (五姓各別説), and the criticism offered again Ji's fundamental denial that Śrāvakas and Pretyelabuddhas are capable of rebirth in the Pure Land.</p>
著者
BARUA Titu Kumar
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.60, no.3, pp.1289-1293, 2012

Tel-lonaniはバングラデシュのバルア仏教徒が結婚式当日に式前に家庭で行なう儀礼で,「頭に油を注ぐこと」を意味するチッタゴン方言に由来する.本論では,この儀礼の次第と,儀礼の随所に込められた象徴的な意味を取り上げた.まず僧侶に日取りを相談するのだが,バルアにとっては川の満潮時がめでたい時である.儀礼に際してはドゥルヴァ草やグアヴァなどを準備するが,それらには,「成就」や「繁栄」などの意味が込められている.Tel-lonani儀礼は新郎新婦それぞれの家で一連の儀式を5回行う.竹と布で仕切られた空間にカップルが座り,列席者が一人ずつ5回ドゥルヴァ草で二人の額に触れる.その後全員の手を添えて同じことをする.これらには,「一人から結び合いへ」,「調和」の意味があるとされる.二人が座る敷物は,一回の儀式が終わるごとに剥がして揺すられるが,浄化儀礼で二人の体から落ちた穢れがついたために敷物をきれいにすることを含意している.儀礼の終盤には,母親と親戚の女性が二人の頬と額にターメリックをつけ,それを自分のサリーの端で拭う.これには,子供に別れを告げることが象徴されている.そして最後には,マスタードの種と油が清水とともに二人の頭頂に塗られる.バルア仏教徒はマスタードは風邪の予防,清水は浄化と長寿をもたらすと信じている.このように,Tel-lonani礼は,主たる結婚式に臨む前に新郎新婦の心身を浄化するために行なわれるが,そこで用いられる物や種々の所作には,長寿,繁栄など,二人の新生活への願いが込められている.また,この儀礼には僧侶は参加せず家族や親族が関わるのだが,親子としての別れの後に,新たな家庭を築く二人を親族が今後も支えていくという,通過儀礼としての特徴が色濃く映し出されている.

1 0 0 0 禅と福祉

著者
池田 豊人
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.28, no.2, pp.628-629, 1980
著者
Shakya Sudan
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.54, no.3, pp.1176-1180, 2006

Ma&ntilde;jusrikirti 著 <i>Aryama&ntilde;jusrinamasamgititika</i> (Tohoku 2534=<i>Tika</i>) は<i>Namasamgiti</i> (<i>NS</i>) を瑜伽タントラの立場から解説した最大の註釈書である. <i>NS</i>の第78偈に「法螺貝(dharmasankha)」という語がある. Ma&ntilde;jusrikirti はその語を説明するために,「法螺貝の三摩地 (<i>Tika</i>, 213a<sup>4</sup>-214a<sup>1</sup>=Dh-samadhi)」という「観法」を紹介している. それは以下の八項目に分けられる.<br>[1] 水輪の観想; Mam字所変の文殊を観想及び我慢 [2] Kham字所変の螺貝の観想 [3] マンダラを描く方法 [4] 供養 [5] 無量光仏としての我慢 [6] 収斂 [7] 拡散 [8] 観法の功徳<br>以上を検討した結果, 以下の二点に纏められる.<br>(1) 螺貝と音声を発生する器官である喉との類似性から, Ma&ntilde;jusrikirti が音声の発生の構造を Dh-samadhi の中で解釈していると推定される.<br>(2) <i>Tika</i> で「観法」として説かれている Dh-samadhi と殆ど同内容が, <i>Sadhanamala</i> (<i>SM</i>) に <i>Dh-sadhana</i>(<i>SM</i> No. 81) として収録されていることが判明した. この <i>Dh-sadhana</i> のチベット語訳 (Tohoku 3474) は, Grags pa rgyal mtshan 訳 <sup>*</sup> <i>sadhanasagara</i> のみに収録されており, 梵本・チベット語訳ともに著者名が伝えられていない. しかし, 内容上の類似及び <sup>*</sup> <i>Sadhanasagara</i> の翻訳年代から見て, <sup>*</sup> <i>Sadhanasagara</i> 編纂の時点で, <i>Tika</i> から Dh-samadhi の部分だけを抜き出し独立した儀軌として扱おうとする仕方があった可能性が強い.
著者
野呂 靖
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.66, no.2, pp.614-620, 2018-03
著者
清水 俊史
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.61, no.3, pp.1158-1162, 2013-03-25

本稿は,有部と上座部との資料を検討し,阿羅漢の造業の問題について考察した.阿羅漢は,すべての煩悩を断っているのであるから悪心を起こさず,人殺しや盗みをして悪業をつくることはない.しかし,阿羅漢は善業をなすことがあるのだろうか.仮にもし,「人助け」や「社会貢献」を阿羅漢がなした場合,これらの行いは仏道修行とは無関係の世俗的な善業(すなわち福徳)であるから,輪廻しない阿羅漢にも来世の生存を生みだすという問題に陥ってしまう.このような「もはや輪廻しないはずの阿羅漢であっても,新たに業を積むのか」という問題が,有部および上座部の資料に現れている.この問題に対し両部派は,次のように全く異なる見解を示している.上座部は,阿羅漢になった者はもはや業をさらにつくることはないと解釈している.しかしこれは,仏道修行とは無関係の世俗的に「よい」とされる行為を,阿羅漢が全くなさないという意味ではない.そのような場合,阿羅漢には善心ではなく,阿羅漢のみに起こる唯作(kiriya)という特殊な無記心が起きており,その心がそのような世俗的な行為を成立させていると解釈する.一方の有部は,阿羅漢となった者も業をつくることがあると解釈している.すなわち,仏道修行とは無関係の世俗的に「よい」とされる行為をなす場合,阿羅漢にも三界繋有漏心が起こり,それらは善業になる.しかしこの阿羅漢の善業は,阿羅漢の最後生で異熟を受ければ済むもので,来世を導く能力はないものにしかならないと解釈されている.阿毘達磨の法相は一見無味乾燥としているが,このような具体的な問題にも回答しうるよう厳密に定義されていることがわかる.