著者
陳 永裕(本覺)
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.1038-1030, 2014-03
著者
関戸 堯海
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.60, no.2, pp.636-642, 2012-03-20

1 0 0 0 OA 有部の極微説

著者
佐々木 閑
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.57, no.2, pp.932-926, 2009-03-20
著者
森 新之介
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.107-110, 2013-12-20
著者
金 京南
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.54, no.2, pp.1089-1086, 2006-03-20
著者
張 欣
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度学仏教学研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.64-67, 2005-12
著者
吉村 誠
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.235-241, 2010-12-20
著者
Muller A. Charles
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.59, no.3, pp.1272-1280, 2011-03-25

唯識思想における本質(bimba)および影像(pratibimba)という概念は,最初に,その一組の形で『解深密経』に登場し,奢摩他・毘婆舎那に関する教説の中に使用されている.ただ,影像が詳細に説かれるのに比して,本質についてはかなり不明瞭である.東アジアの唯識教学をみると,『成唯識論』の登場ののち,これら二概念の意味と関係が,主に窺基や他の唯識学僧の解釈を通じて,一層詳細に論じられるようになる.窺基は,冥想における役割というよりも,むしろ目覚めているときの日常意識における役割という観点から本質・影像を解釈しているが,こうした窺基の提出したもの以外に,他の学僧による詳細な解釈を殆ど見出しにくい.ただ例外的に注目に値するものとして,圓測(613-696)の『解深密経疏』にみえる本質・影像の議論をあげることができる.圓測は,『解深密経疏』における二箇所で,この一組の概念について解釈を展開する.一つは,『解深密経』の冥想に関する箇所で本質と影像との様相について論じており,もう一つは玄談にみえ,そこでは本質と影像との観点から「宗体」が分析されている.この一組の概念を用いた手法は他論師の資料にはみえず,全く新しい取り組みといえる.本論文では,まず唯識文献にみえるこれら二概念の使用法の概要について述べ,そして後半で「宗体」の分析にみえる圓測独特の学説に焦点を合わせていくこととしたい.
著者
里見 英一郎
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.56, no.2, pp.781-778, 2008-03-20
著者
小谷 幸雄
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.57, no.3, pp.1293-1299, 2009-03-25

本稿は昭和前半期における二人の人物による佛教とゲーテの,二重義の比較文化研究である.B.ペッツオルト教授(元一高)・元天台宗大僧都(1873-1949)にとつてヨハネの福音書に影響されたゲーテにはキリストは「宇宙の眞理の總括」であつた.一方,粹人求道の民間學者・富永半次郎(1883-1965)は宇宙の中の人間の在り方と日本人としての在り方との調和を目指して古今東西の典據を模索する.その途上で『法華經』の<一>に遭遇するも,羅什譯に慊らず梵文原典からゲーテ形態・發生學の方法でそれの原型を摘出したのが自稱「根本法華」である.同教授はゲーテの<原現象>を眞言のマンダラに,<兩極性>・<高昇>は,『大乗起信論』にそれぞれ親縁であるとし,華嚴・天台の眞如・無明の不二一元形而上學の前段階であるとする.自著『ゲーテと大乗佛教』の中の『ファウスト』書齋の場での主人公による『ヨハネ傳』冒頭の<Logos>の譯語<行爲>を,教授は<無明-行>と對比する.教授が板書した「天上の序言」の「人間は努力する限り迷ふ」と,人間理性の濫用へのメフィストの椰揄を早くから好んで引用した富永は其の「自我錯覺のサンカーラが正に五執蘊の正體」とする一方,サンカーラの圓熟・徹底・正観こそがrddhyabhisamskara(「サンスカーラの完成」・法華涌出品;cf.羅什譯<神通力>)であり,更に釋尊末語のvaya-dhamma samkhra(譯ナシcf.傳統解:<諸行無常>)である,として後者を多年無言念稱により實習し,四十五年を距てるガヤー正覺とチャーパーラー正覺のそれぞれの心理過程を文學化した.富永老師による,今日まで問題にされて來なかったゲーテ最晩年の不安・『ファウスト』創作頓挫と打開・成功の經緯(『釋迦佛陀本紀余論』)の紹介解説は次回に讓る.
著者
佐々木 閑
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.338-331, 2013-12-20