著者
岡崎 康浩
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.54, no.3, pp.1133-1138, 2006-03-25

本論は,アヴィータ論のシャスティタントラからウッドヨータカラにいたる展開を因の三相の観点から論じ,ウッドヨータカラのこの論に対する貢献を明らかにしようとしたものである.シャスティタントラのアヴィータ論は,夙にフラウワルナーによって再構成されたが,彼の再構成は,その論証式,論証形式という点でいくつか不足している点がある.その不足部分を補って再考した場合,アヴィータの論証は五肢作法の理由・例示・適用・結論に残余法を加えたような論証形態になっており,これを後の三相説から見ると残余法の部分が余計であるように思われる.ディグナーガは残余法を除き三肢作法の理由が帰謬形式になっているものをアヴィータとして提示したが,因の第1相と抵触するとした.これに対し,ウッドヨータカラは否定的属性も主題の属性になりうることを主張し帰謬的性格を保持したまま因の三相説の枠組みに組み入れたのである.
著者
立川 武蔵
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.54, no.2, pp.564-571, 2006-03-20
被引用文献数
1
著者
村上 真完
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.55, no.2, pp.856-849,1269, 2007

It is to be reconsidered how to study Early Buddhism. I stress the importance of the text-critical investigations and demonstrations.<br>It seems peculiar to Buddhism from early on that our human existence is analytically grasped as consisting of five aggregates (<i>khandha</i>), i. e. the sensible (<i>rupa</i>), sensation (<i>vedana</i>), conceptual image (<i>sañña</i>), mental and physical latent forces (<i>samkhara</i>) and cognition (<i>viññana</i>). But there are other orders of aggregates. According to the traditions of the Vedanta, i. e., Sankara and others (ad <i>Brahma-sutra</i> 2.2.18) the order is <i>rupa-vijñana-vedana-samjña-samskara</i>, and according to Jaina-tradition, i. e., Haribhadra-suri (<i>Saddarsana-samuccaya</i> 1.5) it is <i>vijñanam vedana samjña samskaro rupam</i>. Harivarman's <i>Chengshi lun</i> 成実論 (vol. 3, <i>T</i>. 32, No. 1646, 261a<sup>7-</sup>) which was translated by Kumarajiva in 412 enumerates <i>rupa-vijñana-samjña-vedana-samskara</i>. In the fifth century Buddhaghosa in his <i>Visuddhimagga</i> (PTS ed. 452<sup>15-</sup>) explained the five aggregates in the same order as that of Sankara's enumeration. So Sankara and others must have had some credible Buddhist sources.<br>I investigate original and developed meanings of each of the five aggregates, and lastly consider the original and developed meaning of <i>nama-rupa</i> (name and form) which is looked upon as the cause (<i>samudaya</i>) of cognition (<i>viññana</i>) It means originally name and personal looks, then mind and body, and is explained as being composed of five aggregates or four aggregates except cognition.
著者
小池 清廉
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.58, no.3, pp.1154-1158, 2010-03-25

サンガのビクが律に違反しても,狂羯磨により「狂者」(精神障害者)と認定されれば,違反は原則的に不犯(無罪)とされる.波羅夷罪のような最重罪でも,狂癡者,心亂者は不犯である.不犯と認定された「狂ビク」は,ビクの資格を剥奪される.後に「狂ビク」本人から復帰申請があり,不癡毘尼において不癡と裁定されれば,過去の違反行為は免罪され,ビクの資格を復権することができる.現代の刑法やリハビリテーション医学と類似の律の病者処遇システムが何故成立したのか.そのためにはサンガの精神障害者観を知る必要がある.共同体から排除されがちな「狂ビク」処遇の解明は,仏教の倫理思想の解明につながるであろう.初期仏典は何人ものわが子を亡くしたバラモン女性の重症精神病や,愛児と死別した資産家の悲嘆・うつ状態を記載した.世人の苦の典型・愛別離苦であり,これに仏教が対処した例としてである.律では「顛狂心亂多犯衆罪非沙門法言無齊限行來出入不順威儀」のビクを挙げる.『婆沙論』等アビダルマや律は狂の五因縁を挙げるが,それは心因,経済因,身体因,非人因(幻覚,憑依),業因(業病)に相当すると考えられる.あるビクの言動が逸脱して律に違反し,サンガの義務を果たさなければ,他ビクから非難が発せられる.不癡毘尼においては過去の違反が責められるが,数の多数決ではなく,少欲知足のビクの意見を尊重して最終決定がなされる.現代刑法における心神喪失者が無罪であることと,律の狂者不犯には一定の共通性があるが,律では過去の犯行を贖罪している点が異なる.何故に律は狂者不犯を認めたのか.サンガは精神医学及び法律上の知識を蓄積していたからであろう.縁起の理法や慈悲など仏教の基本思想は,狂者不犯の思想的基盤をなしていたといえる.
著者
大沢 聖寛
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.56, no.2, pp.618-625, 2008-03-20
著者
宮本 城
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.56, no.3, pp.1054-1057, 2008-03-25

南インドのタミル文学の起源は,紀元前に遡り,古来から,北インドのサンスクリット文学とは異なる独自の伝統を保持してきた.しかし,中世以降,タミル社会のヒンドゥー化が進むにつれて,文学の分野でも,サンスクリット文学の影響を大きく受けるようになり,『ラーマーヤナ』,『マハーバーラタ』,プラーナ文献などのサンスクリット作品が,タミル語で翻案されるようになった.そのような潮流の中,『ナラ王物語』に対しても,タミル語版Nalavenpa(『ナラ・ヴェンバー』)という作品が,13世紀頃(?)に,Pukalentiによって作られた.このNalavenpaによって,Pukalentiは,当時,大きな名声を得たといわれている.しかし,近現代のタミル文学研究では,Nalavenpaは,『ナラ王物語』の単なる翻案に過ぎないとみなされ,これまで重要視されることはなかった.ところが,実際に同作品を読んでみると,話の筋そのものは,サンスクリット文学の『ナラ王物語』に従いつつも,サンスクリット文学特有の長大な装飾表現を用いず,タミル文学の伝統に従って著されたものであることが見てとれる.本論文では,まず,『ナラ王物語』とNalavenpaの類似点,相違点を示すとともに,Nalavenpaの中で,タミル文学の伝統表現がどのように用いられているかを例示した.そして,Nalavenpaは,『ナラ王物語』をただタミル語に翻訳したものではなく,『ナラ王物語』をタミル文学の伝統に基づいて改変したものだからこそ,タミル地方で大きな名声を博したのではないか,ということについて考察した.
著者
藪内 聡子
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.56, no.3, pp.1202-1207, 2008-03-25

アヌラーダプラ時代後期,Mahjnda V(982-1029)の治世下においてスリランカ北部はチョーラの侵略によりその占領下に入ったが,Vijayabahu I(1055-1110)はチョーラ軍を駆逐し,ポロンナルワから即位してシーハラ政権を奪回した.史書Culavamsaによれば,チョーラの侵略時には寺院が主たる略奪の対象となり,Vijyabahu Iはこの戦いにおいてダミラ人を根絶したと伝承されるが,この伝承に反してポロンナルワ時代以降もダミラ人は島内に残留していたことが種々の碑文の記録により確認される.また首都ポロンナルワにおいて,ポロンナルワ時代のものと推定される神像,南インド様式の天祠の痕跡も発掘され,ダミラ人との激しい戦闘ののちにも,ダミラ人の宗教に関してシーハラ王は寛容的であったとみられる.シーハラ王Vijayabahu Iとチョーラとの戦闘は,チョーラ軍との戦いであり,民族としてのダミラ人に対する戦いではなかったといえよう.スリランカの王は,仏教を守護し,かつ絶対に勝利をおさめる英雄たるシーハラ人でなければならないという編纂者の意図のために,ダミラ人に対するシーハラ人の優位性に関する誇張表現が史書には存在する可能性に留意すべきである.
著者
原田 和宗
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.52, no.2, pp.836-833, 2004-03-20
被引用文献数
1