著者
朴 裕河
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.116-122, 2012-11-15
著者
大津 直子
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.93, pp.32-45, 2015-11-15 (Released:2016-11-15)

本稿は、『猫と庄造と二人のをんな』の執筆と、当時取り組んでいた『源氏物語』の翻訳とが、相互に影響を及ぼしあう関係であることを明らかにした。この(猫と)作品は、「若菜上・下」巻、言い換えれば『源氏物語』第二部世界に影響を受けてきたと言われてきた。だが小説の執筆と源氏訳との進捗状況を確認すると、直接の影響は「帚木」巻から受けたと推察される。なぜなら雨夜の品定めにおける左馬頭と二人の女とのエピソードが小説の筋書きに反映されていると考えられたからである。さらに単行本収録段階で本文を削除した点についても言及した。一方、國學院大學蔵『谷崎源氏新訳草稿』から、小説の執筆が第二部世界の訳出に影響を及ぼした可能性についても言及した。
著者
福井 拓也
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.32-45, 2020-11-15 (Released:2021-11-15)

昭和三年一二月二五日の小山内薫の急逝、それに続く築地小劇場の分裂後、新劇界は左翼演劇とその他──〝前衛派〟と〝芸術派〟とに二分されることになった。しかし唯美主義的と理解されてきた〝芸術派〟が、実際に何を目指してきたのかについては、これまで問われてこなかった。本稿はその課題に応じるものである。具体的には築地座と久保田万太郎との関わりに注目し、第二十七回公演でとりあげられた戯曲「釣堀にて」の表現世界を細かに分析した。そして「釣堀にて」の特異なありように、役者や戯曲といった演劇を構成する諸要素の相互的な検討を通じて、個々に新たな表現を、そして演劇の可能性を探究した点にこそ、当時の〝芸術派〟の実相が理解されるのだと結論づけた。
著者
木村 政樹
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.106, pp.80-95, 2022-05-15 (Released:2023-05-15)

本稿では本多秋五「文芸史研究の方法に就いて」について、文芸の「評価」をめぐる議論を中心に考察した。文芸の「評価」とはなにかという問いは、現在においても解決していない問題であり、こうした視座からみれば、本多の文芸史論は人文社会科学という知について考えるうえで今もって重要である。本多は文芸史に「評価」が必要であると唱えたが、それは「歴史」のなかに複数の「可能性」を探ろうとするものであった。本多はプロレタリア文化運動における「実践」の問題として「評価」を捉えながら、このような文芸史研究のあり方について思考していたのである。
著者
永井 聖剛
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.106, pp.34-49, 2022-05-15 (Released:2023-05-15)

文学テクストの作中人物は〈穴〉を潜ってあちら側に赴き、そうすることによって主人公となる。また同時にこのとき、三人称で語られていた物語言説は、おのずから一人称的──自由間接話法的な文体への変成を遂げる。どうしてこんなことが起こるのだろうか。本稿は、『浮雲』『蒲団』『羅生門』『屋根裏の散歩者』『雪国』などにあらわれた〈穴〉と、それに伴って現象した「話法の転換」とに着目しながら、日本近代文学における自由間接話法的な文体生成の歴史的意義もしくはその蓋然性について考察するものである。この試論を通じて、「作家」や「聖典」に拠らない文学史、すなわち間テクスト的な表現史・文体史記述の可能性についても問題提起をおこなってみたい。
著者
多田 蔵人
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.1-15, 2021-11-15 (Released:2022-11-23)

本稿は森鷗外『舞姫』(明治二三年)の分析を通じて、本作を明治二〇年代の文体史に位置づけるものである。一章では「雅文体」と定義される本作に複数の修辞が用いられ、修辞の変動に託されたメッセージがあることを示した。二章では主人公・太田豊太郎の都市描写を同時代の表現と比較し、太田が複数の言語を往還する名文家であることを指摘し、エリスとの関係もまた言葉をめぐる物語であることを示した。三章ではエリスの手紙を同時代書簡文と比較し、手紙が太田に教えられた言葉づかいであることによって太田の言葉を覆い隠す装置になっていることを示した。四章では太田がエリスと育んだ愛の言葉にとらわれながら別れの物語を綴る膠着状態にあることを指摘し、同時代小説論と比較しつつ、文章啓蒙の不可能性を示した作品として『舞姫』を評価している。
著者
伊藤 かおり
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.89, pp.33-48, 2013-11-15

本論は、これまで統一的な構造が見出し難いと評されてきた夏目漱石『彼岸過迄』(一九一二年)の分析を通して、世間から期待される男たちの暗闘を個人-世間-社会を繋ぐメカニズムとして浮かび上がらせる試みである。具体的には、明治期末の新青年たちに向ける年長者たちの期待に着目しながら、『彼岸過迄』に描かれる男たちの<嫉妬>の連鎖を分析する。彼らが抱く<嫉妬>の質を問い直すことで明らかになるのは、男たちの競争意識に根ざした期待が相手の失敗を望むような期待であること、またそれが彼らの不安を生じさせていることである。この分析を通して、これまで議論の中心となっていたこの小説の内容面と構成面を有機的に結びつける糸を新たに浮かび上がらせる。