著者
栗原 悠
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.112-127, 2019-11-15 (Released:2020-11-15)

本稿は島崎藤村「ある女の生涯」において主人公おげんが晩年を過ごした「根岸の病院」において精神病〈患者〉として亡くなったという点に注目した。そこで、まず舞台のモデルとなった根岸病院の院長・森田正馬の言説を整理し、森田が特に〈患者〉たちの土着的な因習や信仰を精神医学の症例として読み替えていったことを指摘した。また、そこには当時の社会における宗教への脅威に合理的な説明を与えることで科学としての精神医学を確立したいというねらいがあり、テクストにおいて周囲の人々がおげんの御霊さまへの帰依を病の兆候として入院を仕向けるのはかような論理を内包したものだったとし、語りがもたらすおげんと周囲の認識の不一致によってそうした問題が批判的に捉えられていることを論じた。
著者
野田 康文
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.93, pp.106-121, 2015-11-15 (Released:2016-11-15)

本稿の目的は、内田百閒の小説『柳検校の小閑』(一九四〇年)に描かれた盲者の視覚性の特徴と達成を、谷崎潤一郎の小説『春琴抄』(一九三三年)を補助線としつつ明らかにすることにある。まず、『春琴抄』に対する内田百閒の共感と対抗意識を踏まえつつ、『柳検校の小閑』のテクストの構造に盲者の視覚性がどのように方法的に組み込まれているのかを、記憶の表象との関わりから考察し、同時に盲者の視覚性に着目することによって拓ける読解の可能性を導き出す。次に、百閒と親交のあった盲目の筝曲家・宮城道雄の随筆との関連について、盲者の視覚性の形象をめぐって、内田百閒と宮城道雄双方が互いの作品に及ぼした相互作用・相乗効果を考察し、その共同作業によって、盲者の視覚性についての互いの認識を、単独ではたどり着けなかったであろう深みにまで達せしめたことを証明する。
著者
広瀬 正浩
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.97, pp.80-93, 2017

<p>小説の読者は文字を目で追いながら、想像上の音声的な発信主体「語り手」の存在を感じ、それが語る幻の声を聴き取る。このとき読者は、想像上の存在である語り手に向き合う、「聴き手」の身体を獲得する。だが、この聴き手としての経験とはどのようなものなのか。この問題を考える手掛かりとして、シチュエーションCDという現実的な音声の表現に注目する。シチュエーションCDは一人称小説と類比的な関係にある。本稿では、この二つの表現の受容者がそれぞれどんな発声主体と向き合い、どんな身体を獲得するのかを検証する。そして、この聴き手についての考察が、虚構世界に没入する者の経験を問う上で重要であることを確認する。</p>
著者
高田 里惠子
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.15-28, 2018

<p>本稿では、漱石門下生のうちで、例えば安倍能成や和辻哲郎など、帝国大学文科大学に進み、「教授」となった者たちに注目する。彼らは、戸坂潤によって批判を込めて「漱石文化人」と名付けられたが、そのさい重要なのは、戸坂が「(「門下的漱石文化」は)もはや漱石自身の文化的伝統とは必ずしも関係のない現象」であると述べていることだ。「漱石文化人」たちは学歴エリートでありながら、あえて世間的栄達を捨てた「高等遊民」あるいは反骨の若者として出発するが、やがて帝大に職を得、現状肯定的な文化の守護者、体制側の「教授」と見なされるようになった。また、堅実な「学者」にも独創的な「作家」にもなれなかったどっちつかずのディレッタントと批判されもする。本稿は、こうした「漱石文化人」をめぐるさまざまな言説が近代日本における大学観や作家観などを図らずもあぶりだしてしまう様子を示す。</p>
著者
井川 理
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.95, pp.17-32, 2016

<p>本稿では、一九三〇年前後の犯罪報道に用いられた「陰獣」という語が変態的な犯罪者を指す語として転用されていく過程に、『陰獣』を含めた同時期の探偵小説と、乱歩を中心とする探偵小説家の位相の変遷が関わっていたことを明らかにした。さらに、『陰獣』において探偵小説家・大江春泥を「犯罪者」として実体化していく「私」の在り様が、探偵小説家を現実の犯罪の「犯人」と同一視する探偵小説の読者と相同的なものであったことを指摘した。以上のことから、『陰獣』にはテクスト発表以降に顕在化するジャーナリズムと探偵小説ジャンルの連関が先駆的に描出されるとともに、そのテクストの流通プロセスが探偵小説のジャンル・イメージの生成動因としても作用していたことが明らかとなった。</p>
著者
佐藤 未央子
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.136-151, 2016

<p>映画監督の小野田吉之助が作中で撮る映画「人魚」の機能と、吉之助また女優グランドレンの動向の相関性に焦点を当てた。観客を没入させる一方で見る主体と対象との間に隔たりがある装置として水族館と映画館は類似する。「人魚」のプリンスと人魚がその隔絶を越えて結ばれたように、吉之助もグランドレンとの交情に惑溺、映画と現実を混同したうえブルー・フィルムを製作する。映像の視覚美に加え、フィルムへの触覚的な接し方も人魚の比喩を用いて表された。映画的な視覚性を持ちつつ肉体を持つ人魚が泳ぐ水族館は物語の象徴として機能した。「人魚」は本作のプロットを方向づけており、吉之助において映画と人魚への欲望は一体となっていた。本作は「見る」ことの誘惑から、触覚、嗅覚を刺激する〈肉塊〉の歓楽に達する動態を映画の存在論に沿って描いた作品であると論じた。</p>
著者
片野 智子
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.99, pp.64-79, 2018-11-15 (Released:2019-11-15)

本稿では、『聖少女』における「ぼく」とその姉、未紀とその父による二つの近親相姦を比較することで、少女が実の父への近親相姦的欲望を諦めることで父に似た別の男性と結婚するという、女性のエディプス・コンプレックスの克服を無批判に描いているかに見えるこの作品が、実はマゾヒストたる未紀が自らの求める苦痛=快楽のために父への近親愛や近親相姦の禁止という〈法〉さえも利用するラディカルな物語であることを明らかにした。更に、未紀は苦痛=快楽を得るために「ぼく」との結婚をマゾヒズム的な契約関係へすり替えもする。そうした未紀のマゾヒズムは、近親相姦の禁止という〈法〉が実は父権的な家族を維持するためのシステムにすぎないことを暴くと共に、男性中心的な快楽のありようや結婚という制度を内側から解体していく契機を孕んでいることを示した。
著者
秋吉 大輔
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.102, pp.55-70, 2020-05-15 (Released:2021-05-15)

六〇年代後半から寺山修司は月刊受験雑誌『高3コース』『高1コース』の文芸欄の選者を務める。文芸欄での活動は、寺山の創作源の一つでもあった。実際、文芸欄での経験をもとに詩論『戦後詩』(一九六五)が書かれ、文芸欄の投稿者たちによって天井桟敷公演『書を捨てよ町へ出よう』(一九六八)が生まれていく。本稿では、寺山の詩論=制作論を参考に、投稿者の作品空間において何が起こっているのかを内在的に分析する。投稿者たちが文芸欄で「書くこと」によって、自らの環境を相対化し実際に移動しながら、固有の領域を制作していたことを明らかにする。そして、そのような文芸欄の制作空間が、同時代の「町」とも地続きであることを示した。
著者
西野 厚志
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.88, pp.65-80, 2013-05-15 (Released:2017-06-01)

Tanizaki Jun'ichiro is known to have owned a six-volume set of The Works of Plato (Bohn's Classical Library; London : George Bell and Son, 1848-54). There is some evidence that he was particularly familiar with the content of the second volume, which contained The Republic. It is in The Republic that the famous "Allegory of the Cave" appears. There are previous studies that point out the similarities between what the allegory describes and the mechanism of film projection. This paper argues that Tanizaki made use of the concept of the limitations of human perception described in the "Allegory of the Cave," as well as the concept of Idea, in those of his works that feature blindness, such as Shunkin sho (A Portrait of Shunkin,1933). The ultimate goal for Plato was for humans to see the light itself. Tanizaki seems to have wanted to warn against the danger of too much light, by transferring this allegory into the projection of films in modern times. In his time, films were made with nitrate, and they often caught fire while being projected, causing the destruction of the images on the screen. A Portrait of Shunkin and other stories with the theme of blindness can be understood as Tanizaki's expression of what may be called "the degree zero of representation" caused by excessive light.
著者
佐藤 未央子
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.136-151, 2016-05-15 (Released:2017-05-15)

映画監督の小野田吉之助が作中で撮る映画「人魚」の機能と、吉之助また女優グランドレンの動向の相関性に焦点を当てた。観客を没入させる一方で見る主体と対象との間に隔たりがある装置として水族館と映画館は類似する。「人魚」のプリンスと人魚がその隔絶を越えて結ばれたように、吉之助もグランドレンとの交情に惑溺、映画と現実を混同したうえブルー・フィルムを製作する。映像の視覚美に加え、フィルムへの触覚的な接し方も人魚の比喩を用いて表された。映画的な視覚性を持ちつつ肉体を持つ人魚が泳ぐ水族館は物語の象徴として機能した。「人魚」は本作のプロットを方向づけており、吉之助において映画と人魚への欲望は一体となっていた。本作は「見る」ことの誘惑から、触覚、嗅覚を刺激する〈肉塊〉の歓楽に達する動態を映画の存在論に沿って描いた作品であると論じた。
著者
木村 政樹
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.90, pp.93-108, 2014-05-15 (Released:2017-06-01)

本稿は、純文学論争における平野謙の批評を、「アクチュアリティ」という語が文芸雑誌で流通していた歴史的文脈に置き直して考察したものである。純文学論争をきっかけとして、「アクチュアリティ」という語は文芸雑誌において急速に流布してゆく。この言葉は、論争以前から、新日本文学会や記録芸術の会といった文学・芸術運動のなかで、キーワードとして用いられていた。平野はそのことを意識しながら、小説アクチュアリティ説を展開した。こうした平野の一連の批評は、文学・芸術運動の動向に応じた言説戦略として捉えることができる。
著者
服部 徹也
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.100-115, 2018-05-15 (Released:2019-05-15)

本稿は夏目漱石の講義とその書籍化『文学論』との間の変容を明らかにするため、学生の受講ノートと日記、『文学論』原稿を用いて作家出発期(一九〇四年末から一九〇五年初頭)の刊本未収録の講義内容を論じた。講義の段階では騙されることと虚構を楽しむことを類似した表現で論じ、『ドン・キホーテ』やシェイクスピア戯曲を用いて悲劇と喜劇は同型であり異なるのは観客の心理的態度であると論じる箇所があった。この未収録箇所は、情緒によって読者・観客が催眠的に物語世界にのめり込むという漱石の虚構論の根幹に関わる。漱石は講義と『文学論』では虚偽と虚構をうまく区別して定義できなかったが、『倫敦塔』では虚偽をしかけに用いつつ、虚構ならではの真偽の宙づりが効果的に用いられている。
著者
木村 政樹
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.90, pp.93-108, 2014-05

本稿は、純文学論争における平野謙の批評を、「アクチュアリティ」という語が文芸雑誌で流通していた歴史的文脈に置き直して考察したものである。純文学論争をきっかけとして、「アクチュアリティ」という語は文芸雑誌において急速に流布してゆく。この言葉は、論争以前から、新日本文学会や記録芸術の会といった文学・芸術運動のなかで、キーワードとして用いられていた。平野はそのことを意識しながら、小説アクチュアリティ説を展開した。こうした平野の一連の批評は、文学・芸術運動の動向に応じた言説戦略として捉えることができる。
著者
小泉 京美
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.92, pp.17-32, 2015

<p>記号活字やリノカットを駆使して視覚性を強調した萩原恭次郎の『死刑宣告』(長隆舎、一九二五年)は、これまで詩的言語の言語(symbol)から図像(icon)への移行を示す記念碑的詩集として捉えられてきた。だが、表現規範の革新を目指す前衛的な芸術運動を後押しした関東大震災という出来事に密着して考えるならば、『死刑宣告』は表象の秩序を根柢から揺るがす、より本質的な言語の変容を記録していたことが見えてくる。震災による活字不足と新聞紙面の混乱、震災を契機に普及した素材リノリウムとリノカットという表現手法、これらを取り巻く文化史的な背景を検証することで、その表現の独自性と詩の新たな読解可能性を開示する。</p>