著者
バトオチル バルジンニャム Bat-Ochir BALJINNYAM
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.18, pp.(1)182-(15)168, 2022-03-31

本稿は、モンゴル国ウブルハンガイ県ハラホリン郡で行った聞き取り調査をもとに社会主義期モンゴルにおいてノルマを達成するため、牧民同士で相互的に行われていた「家畜泥棒」を互奪性という概念を用いてその実態を明らかにすることを目的とする。「家畜泥棒」とは、文字通り、他者の家畜を盗み、それを自分のものとして所有をすることである。しかし、遊牧民同士での相互的に取り合うという不思議な現象が存在する。モンゴル高原では社会的な役割を持つ「家畜泥棒」が記録されているのは、筆者の知る限り、清朝支配の末期の頃である。この時期、富裕な王侯貴族と漢族の商人に借金を負う遊牧民との間に貧富の格差が広がってきた。そんな中、貴族や金持ちの家畜を盗み、もっと貧しい人々に分配する「シリーン・サイン・エル(平原の良き男)」という義賊たちが生まれたのである。モンゴルにおいて特徴的なのは、比較的平等社会であった社会主義期においても「義賊」が存在したという点である。本稿では、牧畜共同組合の成員たちが家畜の生産頭数のノルマを達成できなかったとき、「サイン・エル(良き男)」と呼ばれる義賊に家畜を盗んできてもらうよう依頼していたことを報告すると同時にその「意義」について考察するものとする。当時のモンゴル人民共和国の計画経済政策により牧畜協同組合(ネグデル)や国営農場(サンギーン・アジ・アホイ)に設定された計画「ノルマ」を達成するため、地方の人々は必死に働くことになった。しかし、その一方で家畜は「生きた財産/生産手段」であるので、季節によってはガン(干害)やゾド(寒害)が起こると家畜が大量死する。そんなときネグデルの家畜を放牧する牧民たちは、何とかしてノルマを達成させるために「家畜泥棒」に他の地域から盗むことを依頼するわけである。こうした社会主義時代の家畜泥棒は、「サイン・エル(良い男)」と呼ばれた。つまり、モンゴル人民共和国では「盗まれた家畜(馬)が操作可能な資源としてインフォーマルな社会関係の源泉のひとつとなっていた」ということである。そして、こうした家畜を盗む人が、人々からサイン・エル、すなわち「良い男」として肯定的に評価されてきたことから判断するに、非公式な形ではあるが、モンゴルの地方の牧民が「家畜泥棒」互奪性によって、ノルマ達成の重圧から救われてきたということである。This article discuss about livestock theft from a viewpoint of the exchange concept in social and cultural anthropology. Research work was conducted based on materials obtained from fieldwork in Kharkhorin Soum, Övörkhangai Province in central Mongolia. One of the purpose of this research is to explore whether livestock theft in the name of the exchange concept existed in Mongolian nomadic pastoral culture for an extended period as a cultural practice or it has taken place as a social phenomenon. Livestock theft is now considered to be a social issue that is usually dealt with through law enforcement. However, in this study, I would like to describe it as a normal social occurrence based on traditional nomadic culture.Now a problem for herders, livestock theft was previously an exchange phenomenon in nature. It has been proved by the facts and fieldwork analysis of the livestock theft process and the theory of exchange.Caroline Humphrey and David Sneath mentioned that “The surplus that is not recovered for reproduction in the mandatory delivery plan (quota) was called “manipulable resources”. By the time there is no “market” in socialist society, such a system of exchanging surplus goods was expressed as the number of inventories, not money. The surplus was a good that could be used as a tool for political negotiations. Humphrey argues that these “manipulable resources” were the source of informal social relations under the socialist regime”. It is undeniable that such transactions may have existed in the pastoral cooperative (Negdel), which corresponds to the Kolkhoz in Mongolia, and the state-owned farm (Sangiin Aj Akhui), which corresponds to the Sovkhoz. On the other hand, what kind of measures were taken when the pastoralists who made up the general Negdel who were not executives could not achieve the quota? Perhaps it was the existence of a thief called “Sain er” who responded to that.From the information obtained in this study, it can be said that in the Mongolian People’s Republic, livestock theft and exchange (of horses) were sources of informal social relations built through manipulable resources. Judging from the fact that those who stole livestock in the context, from a community at the request of another community, were positively evaluated by local people as “Sain er,” that is, a “good man,” in the Mongolian rural pastoral communities, it can be said that theft with “reciprocity” shows that the local people were saved, informally though, from the pressure of achieving quotas.Livestock theft involves many kinds of social and cultural contexts, and therefore, it was allowed as a necessary factor in nomadic pastoralism in the daily process of nomadic people, but under modern laws, it is recognized as “theft” by people today.
著者
森田 大介 Daisuke MORITA モリタ ダイスケ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.16, 2020-03-31

十六世紀は、『中原康貞記』や『中原康雄記』などの古記録があるものの、地下官人に関する研究が停滞している。その理由は、『中原康貞記』と『中原康雄記』が全面的に翻刻されていないことや、当該期の六位外記史に関する職員録がない点にある。そこで、本稿は、基礎的な作業となるが、十六世紀に現われる外記局・弁官局の六位外記史の系統・官職・在職時期などの考証を行う。これによって、中世から近世に至る六位外記史や外記局・弁官局の実態を解明するための礎を築くものである。その結果を述べると、まず、十五世紀半ばの外記局の構成員一族は、隼人正流中原氏と「種」流清原氏となっていたが、長禄年間(一四五七~六〇)を境に「種」流清原氏は姿を消し、それに代わって「賢」流清原氏が出現する。そのため、十六世紀は、隼人正流中原氏と「賢」流清原氏が外記を本官として活動する。十七世紀初頭には、隼人正流中原氏の康政と、「賢」流清原氏の賢好が、出家・引退してしまうものの、蔵人方出納を輩出していた中原氏や、京近郊で郷士となっていた隼人正流中原氏の傍流から、新たに六位外記となる一族が現れる。弁官局では、十六世紀前半に三善氏が加わるが、同時期に高橋氏がいなくなる。しかし、高橋氏は後陽成天皇の在位期に再興されるので、十六世紀末から十七世紀初頭に史を本官とする一族は、安倍氏・高橋氏・虫鹿流小槻氏・三善氏の四氏構成となる。これらのことにより、両局ともその構成は、十五世紀半ばから十六世紀末に至るまでいまだ流動的な状況にあったと判断されるのである。十六世紀の六位外記史の多くが「両局兼帯」していたことも確認できる。この「両局兼帯」の一般化によって、両局は多数の構成員一族で運営されることになり、それぞれの局内にいる特定の構成員一族が六位の極臈となる官職を目指し、それ以下の官職を家業習得の場として請け負っていく「下級官史請負」の仕組みは崩れた様子がうかがえる。当該期は、家業習得や極臈になることを目的として下臈から上臈に昇っていく階梯を少数の構成員一族が独占し請け負っていくのではなく、行事運営を支えるためにそれぞれの局を構成する一族が、両局の枠を超えて外記と史の両方を請け負う状態となったと捉える方が妥当である。こうして両局は、「下級官史請負」の進行がもたらした人員不足と、それに伴う少数の構成員一族による局内運営という組織運営上の構造的欠陥を克服し、組織の統廃合や改編を経ることなく近世へと存続したと考えられるのである。Research on low-ranking officials in the 16th century has been stagnant due mainly to an absence of contemporaneous staff records.Accordingly, this paper examines the history, responsibilities, and terms of service at the Rokuishi and Rokuigeki that emerged in the 16th century with the hope of laying a foundation for elucidating the actual situation of the Gekikyoku and Benkankyoku.Our examination confirmed that during this period, members of the main lineage of the Nakahara Hayato family and Shu lineage of the Kiyohara family served as the Rokuigeki Secretariat.Nakahara Yasumasa of the main lineage of the Hayato Nakahara family, and Katayoshi Kiyohara, from the Ken lineage of the Kiyohara family, became priests and retired in the early 17th century. A new family of Rokuigeki Secretariat then appeared from a side lineage of the Nakahara family, which had produced Kurodo-shutsuno or brewers’ treasurers, and from another side lineage of the Nakahara family, which had become country samurai in the suburbs of Kyoto. From the end of the 16th century to the beginning of the 17th century, the Benkankyoku was served by four families; Abe, Takahashi, Mushiga lineage of Oduki, and Miyoshi. In other words, the organizational personnel of the two bureaus was still unstable during the period from the mid-15th century to the end of the 16th century.It can also be confirmed from the history of the 16th century that most of the time the secretariat served both bureaus. When the practice of serving both bureaus persisted, both bureaus were operated by a large number of specific family members who aspired to achieve the position of Gokuro, or head chamberlain. The structure of taking positions as lower-ranking officials as opportunities to learn about their family business eventually disintegrated. During this period, instead of a few members of the family monopolizing the echelons from the lower to the upper ranks, a large number of the family members who were in charge shared the responsibilities beyond the scopes of the bureaus to learn their family business and reach the top Gokuro post. In this way, the two bureaus were able to overcome their structural deficiencies, such as shortages of personnel from excessive taking of positions as lower-ranking officials resulting in management by a small number of family members. The two bureaus survived to early modern times without experiencing organizational elimination, consolidation or restructuring.
著者
植田 めぐ美 Megumi UEDA ウエダ メグミ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.15, pp.65-86, 2019-03-31

本稿では、16世紀ブラジルにおいて、イエズス会が行ったトゥピ語による宣教活動と先住民のシャーマンが先導した抵抗運動を取り上げ、両者を比較することで、シャーマンがどのようにキリスト教を解釈していたのかを再構成することを目的とする。ブラジルにおける宣教活動は1549年にイエズス会によって開始された。初期の活動はトゥピ語系諸語を話す先住民が暮らしていた沿岸地域で行われた。自文化とは全く異なる文化に属する人びとへの宣教は困難であり、宣教師は直面した現実に応じて新しい宣教方法を模索してゆかなくてはならなかった。困難のひとつはキリスト教の教義をトゥピ語へ翻訳する作業であった。この言語にはキリスト教的要素を表す語が欠如しており、その解決策として、宣教師は先住民の文化的要素を転用した。例えば、キリスト教の唯一神には雷を象徴する神話的英雄を指すトゥパンという語が転用された。ポルトガル人が砂糖産業を発展させてゆくと、強制労働や伝染病が先住民を苦しめた。さらに、宣教師によって先住民の文化や慣習は否定された。このような現実から解放されるため、先住民はシャーマンが先導する抵抗運動に加わるようになった。この運動はポルトガル人に「聖性」と呼ばれた。「聖性」運動に見られる特異性は、シャーマンが「教皇」や「神の母」といったキリスト教の人物を自称するなど、キリスト教を排除することが目的であるにもかかわらず、運動の基盤となっているシャーマニズムの儀式にキリスト教の要素が転用されていることである。宣教師は、「聖」の概念を表すため、シャーマニズムの能力を意味する「カライーバ」という語を用いたが、トゥピ語に翻訳されたキリスト教において、「カライーバ」はキリスト教的領域を指す「真の聖」もシャーマニズム的領域を指す「偽りの聖」も意味する語として使用された。その結果、トゥピ語のキリスト教からは完全にシャーマニズムが排除されずに、先住民がシャーマニズムに沿ってキリスト教を再解釈する可能性を与えてしまった。ゆえに、シャーマンは「教皇」や「神の母」から宣教師に打ち勝つことのできるシャーマニズムの力を見出し、これらを「聖性」運動に取り入れたと考えられるのである。
著者
片岡 龍峰 山本 和明 藤原 康徳 塩見 こずえ 國分 亙彦 Ryuho KATAOKA Kazuaki YAMAMOTO Yasunori FUJIWARA Kozue SHIOMI Nobuo KOKUBUN
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.16, pp.17-29, 2020-03

日本最古の天文現象の記録は、『日本書紀』巻二十二、推古二十八年十二月一日(西暦六二〇年十二月三十日)の條に記される「十二月庚寅朔、天有赤気。長一丈餘。形似雉尾」という一節である。「赤気」は、彗星の類と理解され、日本古典文学や歴史学などの研究では悪い兆候を示すもの、といった理解がなされてきた。その一方、地球物理学においては、オーロラと理解され、オーロラの最も早い事例としてこの『日本書紀』が位置づけられてきた経緯がある。今回の考察では、「赤気」だけではなく、文中の「雉尾」という言葉にも着目し、『日本書紀』諸本での記述を踏まえたうえで、扇形をした赤いオーロラが日本などの中緯度で観察されやすく、真夜中より前に見られ、かつ雉の尾に似た形状をし、「長一丈」に該当する角距離十度相当で見えるという最も構造が際立った形態であるということを、雉の生態など、鳥類学の研究も踏まえて明らかにした。文献学的な考察に加え、雉の生態や尾羽の特徴を理解する鳥類学、彗星に関する古天文学の知識も合わせて新たな考察を加えたことによって、『日本書紀』の編纂に当たった人々の記述に対する責任感や知性、私たち日本人のルーツとなった倭の人々の観察眼や感性を伺い知るうえで一定の視点を与えることに寄与しうるものである。The oldest record of an astronomical phenomenon in Japan was recorded in the Nihon-shoki as follows: "On December 30 in 620, a red sign appeared in heaven. The length was more than 1 jo (10 degrees). The shape was similar to a pheasant tail (Suiko-Tennou, 28)". The appearance of a red sign has been recognized as an expression of a bad omen in literature, while it has been interpreted as the northern lights in geophysics. First we examine the description of the pheasant tail in detail. We then introduce the latest scientific findings that the northern lights show a fan-shaped appearance with a red background when appearing over Japan. After showing that the fan-shape is similar to a pheasant tail, also pointing out the low possibility of comets, we conclude that the oldest record of the red sign is consistent with the appearance of the northern lights over Japan. We hope that this examination contributes to increasing awareness of the sensitivity of Japanese people 1400-years-ago who compared a beautiful behavior of birds with a magnificent and rare natural phenomenon.
著者
宋 丹丹 Dandan SONG
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.19, pp.214(47)-198(63), 2023-03-31

本稿は、安産以外の堕胎、間引き、避妊などの産育習俗において、用いられる石の特徴、石の働き、石の呪術性などについて考察し、石に託された民俗の心意を明らかにすることを目的とする。 これまでの民俗学の研究では、子授けや安産などを願う石の習俗について早くから報告がなされ、研究が蓄積されてきた。一方、避妊、堕胎などの「出生コントロール」や間引きに関する石の習俗については、研究がほとんどなされてこなかった。そこで本稿では、民俗学に限らず、近世史における堕胎、間引きなどの研究を参照し、筆者がこれまで研究を進めてきた石や岩石信仰との関わりから、石を用いた避妊、堕胎、間引きなどの習俗について検討していく。 分析の対象とするのは、『日本産育習俗資料集成』、『岡山縣下妊娠出産育兒に關する民俗資料』、『愛知縣下妊娠出産育兒に關する民俗資料』などの資料である。堕胎、間引きと避妊の実施方法や特徴、また石を用いたかどうかなどを分析の指標とした。結果は、以下に示す通りである。 まず石を用いた堕胎と間引きの習俗は、石の呪術性よりも、モノとしての石の重量、堅固という石の物理的な性質を利用していたことがわかった。堕胎の具体的な方法として、石を用いたものはわずかであるが、たとえば石を抱いて高いところから飛び降りる、漬け物石を持って動き廻る、などが挙げられる。間引きの習俗の場合も、石の物理的な性質を利用し、とくに神聖視される場合もある石臼を用いて嬰児を殺す方法などが見られた。 また、妊娠を避ける習俗では、石の持つ霊性または神性を基に、投げるまたは腰掛けるという行為を加えて祈願していたことが明らかとなった。その際、人に見られないように、また、後ろ向きになる、といった日常的な祈願の行為とは意識的に逆の行為を行って避妊の達成を願っていたことがわかった。 堕胎や避妊などの「産まない」こと、「妊娠しない」こと、また間引きという嬰児殺しのなかで、石を用いて子殺しをしたり、石ではないがホオズキの茎を性器に入れるなど、危険な方法で堕胎せざるを得なかった当時の女性たちの性や生が『日本産育習俗資料集成』という断片的な資料の中からも浮かび上がってくる。つまり、石を用いた/石を用いない「出生コントロール」を行う女性たちの切実な願いと現実、そして産まない、産めない女性を石を用いて「石女(うまずめ)」と表現した当時の人々の眼差しも、石に注目することで、明らかにすることができたと言える。The purpose of this paper is to examine the characteristics of the stones used in childbearing practices for purposes other than safe childbirth, such as abortion, infanticide, and contraception and the functions and magical properties of stones and to clarify folk beliefs entrusted to stones.There are earlier reports of folklore studies on the custom of using stones to pray for fertility and easy childbirth, and studies on the subject have been accumulated. On the other hand, research has not been conducted extensively on stone-based customs related to birth control, such as contraception, abortion, and infanticide.The author conducted studies on abortion and infanticide not only in folklore but also in early modern history and examined stone-based birth control, abortion, and infanticide customs in relation to stone and rock beliefs, which the author has been researching.Based on the materials such as Nihon saniku shūzoku shiryō shūsei, Okayama kenka ninsin shusan ikuji siryo, and Aichi kenka ninsin shusan ikuji siryo, the methods and characteristics of abortion, infanticide, and contraception, as well as whether or not stones were used, were used as indices in the analysis. The conclusions are as follows.First, it is clear that abortion and infanticide practices using stones were based more on the physical properties of stones as a tool, i.e., the weight and solidity, than on the magical properties of stones. Only a few specific methods of abortion involve use of stones. For example, jumping down from a high place holding a stone, or moving around while holding a stone. In the case of the custom of infanticide, the physical properties of stones were used to kill infants, especially by using a stone mortar, which is sometimes considered sacred.In the custom of avoiding pregnancy, it was found that people prayed by throwing or sitting on stones based on their spiritual or divine properties. In doing so, it was found that they consciously performed the opposite act of daily prayer, such as turning backward or hiding not to be seen, in order to achieve the goal of contraception.Abortion, contraception, and other forms of infanticide to prevent birth, such as using stones to kill the child or inserting a hozuki stalk (a branch) into the genitals, as described in Nihon saniku shūzoku shiryō shūsei, reveal the sexual practices and lives of women who were forced to use dangerous methods to perform abortions.The author clarifies the compelling desires and realities of the women who performed birth control using or without stones, as well as the viewpoints of the people of the time who referred to stones to describe women who did not or could not give birth, calling them stone women (umazume).
著者
川上 香 Kaori KAWAKAMI
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.19, pp.96(165)-63(198), 2023-03-31

高度経済成長期以前の日本では、多くの山村で、自給を目的とした作物栽培が行われていた。また、焼畑に付随した茶などの換金作物栽培も行われ、人びとは暮らしを維持していた。昭和30年代に焼畑は衰退するが、現在までの山村の耕作地や作物の変化は、具体的に明らかになっていない。本研究では、静岡市井川地域の山村を対象に、個人の事例を通して耕作地の茶畑への転換と、耕作地の変化に伴う作物への影響について論じた。それらは次のようにまとめられる。1 耕作地は、焼畑や常畑、採草地の複合的利用から、高度経済成長期には、茶畑への転換と拡大がおこった。昭和60年頃からは、高齢化により茶畑は縮小化した。2 耕作地の変化に伴い、ヒエやオオムギなどの穀類の自給や、焼畑休閑後に自生した在来茶の利用は、昭和30年代から40年代にかけて終焉を迎えた。3 自給的作物栽培は、昭和30年代から続く常畑と茶畑の一部で現在も持続している。Before rapid economic growth occurred in Japan, crops were cultivated in many mountain villages for subsistence purposes. Cash crops such as tea were also cultivated in conjunction with slash-and-burn farming to sustain people’s livelihoods. Although slash-and-burn farming declined in the 1950s, the specific changes that took place in cultivated land and crops in mountain villages up to the present day have not been clarified. This study discusses the conversion of cultivated land to tea plantations and the impact of changes in cultivated land on crops through an examination of individual cases in mountain villages in the Ikawa area of Shizuoka City. A summary of the study is as follows: 1. Cultivated lands were converted to tea plantations from a combination of burnt fields, common fields, and grassland and expanded during the period of rapid economic growth. Starting at about 1985, tea plantations shrank in size due to the aging of the population.2. With the change in cultivated land, subsistence cultivation of grains, such as Japanese millet and barley, and the use of native tea that grew naturally after the slash-and-burn fallow period came to an end from the mid-1950s to the mid-1966s.3. Subsistence crop cultivation continues to this day in some continuous cultivation fields and tea plantations that have been in existence since the mid-1950s.
著者
新海 拓郎 SHINKAI Takuro
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.18, pp.(65)118-(79)104, 2022-03-31

これまで民俗学において養殖業は漁撈に比べて扱われる機会が少なかった。そこで、本稿は内水面養殖の一例として、奈良県大和郡山市で行われる金魚養殖を対象とした。明治期から現在に至るまでの金魚の養殖業の中で変化してきた技法について明らかにする。大和郡山は全国有数の金魚の産地で、ため池を利用したワキン(和金)の大量生産が中心となっている。そこで、本研究では、文献資料と古老からの聞き取りから得られた情報をもとに双方の比較を行い、技法の変化の内容と要因を明らかにした。本稿では、産卵藻、初期餌料の確保、金魚の養成、運搬方法に着目した。まず、産卵藻についてはその原料である柳の根が高度経済成長期の河川改修の増加によって入手が困難になった。そして、周辺山地に自生するヒカゲノカズラというシダ植物へと代替していった。初期餌料の確保にはかつては赤子すくい(ミジンコ捕り)という方法が用いられていた。また、金魚の養成では「ヨリコ」(選り子)さんと呼ばれる女性たちによる選別作業は現在見られなくなってしまった。運搬方法は重ね桶から酸素詰めのビニール袋へと変化してきた。これらの変化の大きな外的要因は3点挙げられる。まず、大和郡山の都市化による環境の変化は柳の根からヒカゲノカズラへと産卵藻の原料の変化をもたらした。次に、近代化による技術の発達は運搬方法を変化させた。そして、生産品種の転換によるコスト削減(人件費削減)によって赤子すくいやヨリコさんの選別作業は見られなくなった。このように、様々な要因によって大和郡山の金魚養殖に関する技法は変化してきたといえよう。Studies on aquaculture have not been conducted frequently in the field of folklore in comparison to fishing. This paper reports on the transition of aquaculture techniques from the Meiji era to the present, focusing on goldfish aquaculture in Yamato-Koriyama City, Nara Prefecture, one of the leading goldfish farming areas of Japan. In Yamato-Koriyama, the business is mainly mass production of a goldfish breed called wakin using irrigation ponds. This study compares the differences between past and current techniques based on written materials and information obtained from interviews with local elders and clarifies the details of technical changes and their causes.This paper focuses on spawning grass, the procurance of initial feed, goldfish raising, and transportation methods. First, increased river improvement during the period of high economic growth made it difficult to collect willow root, which is the material used for spawning grass. Willow root was replaced by a fern plant called Hikagenokazura, which grows naturally in the surrounding mountains. Next, the initial feed for goldfish was provided by capturing Daphnia pulex, which lives in irrigation ponds, using a scooping method called Akako-sukui. In recent years, sorting work by women called Yoriko is no longer available in local goldfish farming. Finally, the transportation method has changed from using stacking tubs called kasane-oke to water and oxygen-filled plastic bags.There are three major external factors relating to these changes. The first factor is the urbanization of Yamato-Koriyama, which caused environmental changes resulting in the replacement of the material used for spawning grass from willow root to Hikagenokazura. The second factor is modernization, which facilitated the development of technology and transformed the means of goldfish transportation. The third factor is cost reduction due to changes in farmed goldfish varieties, which caused Akako-sukui and sorting work to disappear. In this way, this study has discovered that the techniques used in goldfish farming in Yamato-Koriyama have changed over time due to various factors.
著者
内田 修一 Shuichi UCHIDA
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.19, pp.118(143)-97(164), 2023-03-31

本論考は、マリの首都バマコでソンガイ移民たちが継続してきた精霊憑依の実践を対象に、主に植民地期に出現した精霊ハウカに関する事例をとりあげ、この精霊に関する彼らの認識と彼らにとって重要な実践のコンテクストを明らかにすることをとおして、実践者の視点を重視した視座の構築を試みるための試論である。 既存の研究では、植民地体制を構成していた地位や役職から着想された「ハウカ」と呼ばれる「白人」の精霊のグループは、その信奉者たちが当時の政治体制から敵対的とみなされたという歴史的コンテクストとの関連で解釈されてきた。しかしこうした解釈にはバマコの実践者たちの認識には合致しない等の問題がある。実践者の視点を重視した視座の構築の試みとして、本論ではシステムの視点を重視するネオ・サイバネティクス論の基本的な考え方を参照して、実践者たちの経験や認識に応じて有意なものとなる精霊憑依の実践は、それをつうじて彼らが自身の認知世界を構成し続ける再帰的で自律的な過程としてとらえうると想定し、この観点から彼らにとってハウカがどのような精霊であり、重要な実践のコンテクストはいかなるものかを考察した。 ソンガイの世界観と事例の分析によって、彼らの世界観に独特な仕方で統合されているハウカは植民地体制下での出現という歴史的状況とは全く関連づけられていないこと、並びに、人とハウカの相互行為においては、実践者各自の精霊と霊媒との相互行為の独自の経験、及び人(ソンガイ)と精霊の間での社会関係とそれに付随する道徳性の類似を特徴とするソンガイの世界観に関するコンテクストがいかに重要であるかが明らかになった。これらのコンテクストは、実践者各自の実践の一貫性の確保とアクター(人と精霊)の間の様々な紐帯の形成に関与しているために、出身地、居住地区、精霊憑依の知識や経験に関して様々なソンガイ移民たちが実践を共にする都市環境において、いっそうの重要性を有していると考えられる。 かくして本論は、新しく出現した精霊に関して既存の研究が政治的状況などのマクロなコンテクストを重視して実践者の視点を軽視する傾向があったのに対して、実践者たちにとって有意なコンテクスを明らかにし、これらコンテクストが都市環境において有している意義を解釈した。それによって本論は、観察者の視点と実践者の視点に応じて異なるコンテクストを明確に区別し、実践主体にとっての意味と相関した主観的なものとしてコンテクストをとらえることで、より実践者の視点に即して精霊憑依の実践を理解する可能性を示すことができた。This essay addresses spirit possession practices that have been continuously conducted by Songhay immigrants in the capital city of Mali focusing on the Hauka spirits that appeared during the colonial period. The purpose of this study is to clarify the Songhay immigrants’ recognition of these spirits and the contexts which are important to them when practicing spirit possession, to construct a theoretical perspective taking into consideration the viewpoints of spirit possession practitioners.The group of spirits called “Hauka” by Songhay people, which mimic roles and positions in the French colonial system and which are considered as “white”, has been interpreted in prior studies in relation to the historical context in which followers of the spirits were viewed to be hostile to the political system at that time. However, such interpretations, which place considerable importance on the historical context, do not match practitioners’ conceptions about these spirits in Bamako. In order to establish a theoretical position that may help explore the practitioners’ viewpoints, this paper, referring to basic concepts of the neo-cybernetics, assumes that the spirit possession practices become significant in accordance with the practitioners’ experiences and cognition. From this standpoint, these parctices should be considered as a recursive and autonomous process through which practitioners recreate their own cognitive world.An analysis of Songhay’s worldview and case studies show that Hauka spirits are integrated into practitioners’ worldview in a particular way and are not at all related to the historical context. The analysis and case studies also demonstrate the significance of the following contexts in interactions with Hauka spirits: those relating to the practitioners’ own experiences and those relating to the Songhay worldview characterized by the fact that humans (the Songhay people) and spirits have similar social relations and morality. These contexts are all the more significant in an urban environment, where Songhay immigrants who engage in spirit possession practices are diverse in terms of their native place, residential area, and knowledge and experiences of these practices, since the contexts support the consistence of interactions of each practitioner with mediums and spirits, and the creation of ties between the actors (humans and spirits).This paper, thus, clarifies the contexts that are significant to practitioners and expresses interpretations of their importance in the urban settings, while prior academic literature has attached importance to macro-contexts, such as political situations, and has under-evaluated the practitioners’ viewpoint regarding the new spirits. Therefore, by making a clear distinction between the perspective of the observer and that of the practitioner and considering the context as subjective and correlative in relation to the significance for practitioners, the paper presents the possibility of approaching the practices of spirit possession in a way more matching the viewpoint of the practitioners.
著者
クレインス 桂子 Keiko CRYNS
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.19, pp.144(117)-119(142), 2023-03-31

オランダ東インド会社が最初にアジアへ艦隊を派遣した1603年からオランダ船が日本に初来航する1609年までのあいだに、オランダ側からの日本に対する働きかけはどのような経緯を辿ったのか。この問いを明らかにすることが本稿の目的である。 先行研究においては上記の問いが十分に明らかにされてこなかった。しかし、初期の平戸オランダ商館の活動を理解するためには、商館が設立された背景と経緯の解明は重要な意義をもつ。 本稿では、この時期に東インド会社がアジアへ派遣した四つの艦隊について、日本との関わりに着目しながら、その動向を辿った。このうち日本との接点がみられるマテリーフ、ファン・カールデン、フェルフーフの三つの艦隊の動向については詳細に検討した。調査対象史料としては、各艦隊の航海日誌をはじめ、各艦隊提督の書状・覚書や十七人会の決議録・指令書などを利用した。 オランダ側からの日本に対する働きかけの経緯について精査した結果、次のことが明らかとなった。 東インド会社はアジアへの最初の艦隊派遣時の早い段階から日本を交易対象国としてすでに認知し、1606年にはマウリッツの名前で日本の国主宛の書状を用意し、公式な国交開始の準備を整えていた。とはいえ、東インド会社の最大の関心はモルッカ諸島の香辛料と中国産の生糸にあった。東インド会社にとっての日本は、中国貿易を獲得できた後の渡航先としての二次的な目的地に過ぎなかった。アジア海域におけるオランダ艦隊は、中国貿易の獲得やスペイン・ポルトガルとのアジア各地での戦闘といった、より優先すべき課題に直面していたために、マテリーフも、ファン・カールデンも日本へオランダ船を派遣する状況にはなかった。 1609年にようやく日本へオランダ船が派遣される機会を得たが、その端緒となったのは、ヨーロッパ内の政治的状況であった。スペインとの停戦協定の交渉が始まり、オランダ東インド会社としては、協定締結前にできるだけ多くのアジアの君主との条約を結んで貿易拠点を拡大しておく必要が生じた。この差し迫った課題に対応するために、東インド会社上層部は新たな方針を伝える指令書をフーデ・ホープ号で発送した。指令書を受け取ったフェルフーフ艦隊がバンタムで拡大委員会を開き、その決議のもとに、ジョホールで待機させていた同艦隊所属の2隻を日本へ派遣することになった。 以上のように、東インド会社が日本へ初めて船を派遣したきっかけはヨーロッパ内の情勢によるものであり、平戸商館開設時は東インド会社側の日本貿易の基盤がまだ整っていなかった状態であったと言える。This paper seeks to elucidate the circumstances of early Dutch approaches to Japan between 1603, when the Dutch East India Company first sent a fleet to Asia, and 1609, when the first Dutch ships arrived in Japan.Little research has been conducted on this issue. However, in order to understand the activities of the Dutch trading post in Hirado in the early years, it is important to review the background and circumstances of the Dutch Republic’s initial approaches to trade with Japan.This paper traces the movements of the four East India Company fleets dispatched to Asia during this period, focusing on their relations with Japan. Of these, details of the movements of the three fleets, namely the fleets of Matelief, van Caerden and Verhoeff, which had some connections with Japan are examined. The documents examined include the logbooks of each fleet, letters and memoranda from the admirals, as well as resolutions and directives of the directors (the Heren XVII).A close examination of the circumstances of the Dutch approaches towards Japan revealed the following.The East India Company had already recognised Japan as a possible trading partner as early as the first dispatch of a fleet to Asia, and by drafting a letter to the Japanese sovereign in Maurits’ name in 1606, had already made preparations for the start of official diplomatic relations. Nevertheless, the East India Company’s main interest was in spices from the Moluccas and raw silk from China. For the East India Company, Japan was only a secondary destination after acquiring the China trade. Neither Matelief nor van Caerden were in a position to send Dutch ships to Japan, as the Dutch were facing more pressing issues in Asia, such as gaining access to Chinese trade and fighting with Spain and Portugal in Asian waters as part of the war against the Iberian countries.The opportunity to send Dutch ships to Japan in 1609 was triggered by the political situation in Europe. Negotiations for a ceasefire agreement with Spain had begun and it became necessary for the Dutch East India Company to expand its trading base by concluding treaties with as many Asian monarchs as possible before the agreement was concluded. To meet this pressing challenge, the East India Company’s directors dispatched a directive with the ship the Goede Hoop informing Admiral Verhoeff of the new policy. Upon receipt of the directive, Verhoeff convened an enlarged committee meeting in Bantam, which resolved to dispatch two ships from the fleet that had been on standby in Johor to Japan.As described above, the East India Company’s first dispatch of ships to Japan was largely due to the situation in Europe, and it can be said that a Dutch factory was established in Japan when the foundation for trade with Japan on the Dutch side was not yet in place.
著者
西原 彰一 NISHIHARA Shoichi
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.18, pp.(17)166-(48)135, 2022-03-31

沖縄県女子師範学校・沖縄県立(第一)高等女学校女学生の「改名」とは、伝統的な個人名「童名(ワラビナー)」の日本的な名「ヤマト名(ヤマトナー)」への改変をさすが、1900年代初頭に始まり、大正年間には両校女学生の間で流行したことが、教員・女学生の語り等からみてとれる。この改名は、改変の方向が「ヤマト(日本)化」である以上、沖縄の同化、統合化という文脈上に配置される事象であることは間違いない。しかしながら、改名についての個々の女学生の語りからは、同化、統合化といった「大きな物語」に回収しきれない、それぞれの「近代」への憧憬や、「自身による「名付け」」=「名乗り」としての意味などの、いわば「小さな物語」をみて取ることができる。本稿では、同窓会誌・回想録、同窓会名簿等を資料として、そこから女学生の改名についての「大きな物語」、「小さな物語」を読むことにより改名の意味するところを探り、それを通して個人の名前のあり方を視座として琉球処分・併合以後の沖縄の歴史を読むことを試みた。そのために、まず沖縄の伝統的女子個人名「童名」についての概観を行い、「童名」が個別識別機能よりも継承されることを重視した存在であったこと、また琉球処分・併合直後も、女子個人名は男子のそれと比して変化の少ない存在であったことを指摘した。ついで、女学生の「改名」の苗床となった女子中等教育の展開過程、また県女師・県立(一)高女の沿革を整理し、両校の、女子中等教育におけるトップエンド、また近代とのコンタクトゾーンとしての位置づけを明らかにした。これらを踏まえて、教員・卒業生による語り等から、当事者にとっての県女師・県立(一)高女の教育・生活の実相を、さらに、彼女らの改名に係る語りを読み込み、また『県立一高女同窓会名簿』上の改名事例の整理を行い、それらを踏まえ、1900年代初頭の沖縄での女子個人名の変化と女学生の「改名」との関連を指摘した。さらに、女学生個々の「小さな物語」としての改名を、女学校教育が図らずも育んだ「個」の感覚において理解することで、改名が内胎した「名乗り」としての意味を指摘した。しかし、両校女学生たちは、沖縄の女子の典型では決してなく、本稿の大枠での目的:名前を視座として歴史を読むためには、出稼ぎ女工の名前の問題等へ射程を広げてゆくことが、今後大きな課題となることがより明瞭となった。According to the narratives of teachers and students at Okinawa Prefectural Women’s Normal School and Okinawa Prefectural (First) Girls’ High School, renaming of the schoolgirls, which refers to a change from a traditional individual name, referred to as warabina (childhood name), to a Japanese-style name, referred to as yamatona, began in the early 1900s and was a trend among students at both schools in the Taisho era. As the change was toward Japanization, there is no doubt that renaming was an event in the context of assimilation and incorporation of Okinawa. However, the schoolgirls’ narratives about renaming imply “small stories” of their adoration of modernity and the significance of ‘naming’ oneself or ‘claiming a name’. The small stories may not be integrated into big stories of assimilation and/or incorporation. By using materials such as alumnae magazines, memoirs, and alumnae lists for finding schoolgirls’ big stories and small stories about renaming, this research aims to explore its meaning and then view the history of Okinawa after the Ryukyu Disposition and Annexation from the perspective of the state of individual names. The research provides an overview of traditional girls’ names of Okinawa, warabina first, then points out that warabina was considered more important as a name to be acquired than as an individual identification functionality, and that the pace of change of girls’ individual names was slower than that of boys’ names immediately after the Ryukyu Disposition and Annexation. The research then discusses the development of girls’ secondary education that served as a seedbed for schoolgirls’ renaming and the history of the two schools, and clarifies the status of both schools as topnotch girls’ secondary educational institutions and contact zones with modernity. Based on this exploration, the research uses narratives of teachers and alumnae to find the real state of education and life at the schools as well as stories about renaming. The research also organized examples of renaming on the Prefectural (First) Girls High School alumnae list to clarify, based on the findings, the relationship between the changes of girls’ names in Okinawa in the early 1900s and the renaming of schoolgirls. By studying renaming as a small story of each schoolgirl in the sense of individuality, which girls’ education unexpectedly fostered, the research indicates the significance of claiming a name involved in renaming. Given that students at both schools were never typical Okinawa girls, it became clearer that extending the research range to include the name issue of girls working at factories away from home will be important for the general goal of the research to view history from the perspective of names.
著者
古明地 樹 Tatsuki KOMEIJI コメイジ タツキ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.16, 2020-03-31

大坂の書肆、柏原屋(渋川清右衛門、稱觥堂)は、渋川版と称される『御伽文庫』や、『女大学宝箱』等を出版したことで知られる。一方で、鈴木春信をはじめとする浮世絵師に影響を与えた橘守国画作『絵本写宝袋』(享保五(一七二〇)年刊)、合羽摺り絵本の嚆矢となった大岡春卜画『明朝紫硯』(延享三(一七四六)年刊)等を刊行し、大坂を中心とした享保期以降の絵本流行を支えた板元の一つにも数えられる。これらの影響を考えれば、絵本研究の視点から柏原屋の活動を明らかにする意義は大きい。この考えに基づき、本稿では柏原屋の初期絵本を取り上げ、その出版活動を論じることで、享保期における絵本流行の一端を明らかにすることを目的とする。享保五(一七二〇)年以前の成立となる柏原屋の絵本広告には、『絵本草源氏』『絵本清書帳』『絵本稽古帳』『絵本たから蔵』『絵本忘草』『絵本ふくらすゝめ』『絵本手帳綱目』『万物絵本大全』の八作品が載る。本稿では、これらを柏原屋が刊行した初期における絵本として取り上げ、その書誌を記すと共に作品の成立過程について考察することで、柏原屋の絵本出版の諸特徴を把握することに努める。この伝本調査により、柏原屋の刊記を有する『絵本清書帳』は『絵本手帳綱目』を求板後に改修した内容を持つこと、板木の改修跡より『絵本稽古帳』や『絵本忘草』等の作品が求板版であること等が判明した。また、これらは伝本の少ない稀覯本であるが、上述の作品に対する考察や、作品の構成に改修によって生じたと推測される不和が認められることから、初期の柏原屋絵本が総じて後修本である可能性が高いと判断する。『絵本手帳綱目』、『絵本ふくらすゝめ』、『万物絵本大全』を除く作品に柏原屋の刊記が確認され、全ての伝本が「享保三年五月」(一七一八)の年記を有する。しかし、刊記の分析を行った結果、これら八作品の印時期にはずれが生じている可能性があると推測できる。則ち、柏原屋は享保五年以前に八種の絵本板木を有していたものの、作品によって印・修の時期が大きく異なる可能性を指摘するKashiwara-ya is an Osaka bookstore well-known for publishing Otogi-bunko, a collection of illustrated short stories called Shibukawa-ban, in the Edo period. The bookstore also published many ehon, or books featuring illustrations, that are significant works for ehon studies including Ehon-Shahoubukuro and Minchoshiken. Although Kashiwara-ya played an important role in publishing ehon after the Kyoho era, preceding studies have not considered Kashiwara-ya as a publisher of ehon. Thus, this study investigates Kashiwara-ya's early works and considers its publication activity.Eight books—Ehon-kusagenji, Ehon-seishocho, Ehon-keikocho, Ehon-takaragura, Ehon-techokomoku, Ehon-wasuregusa, Ehon-fukurasuzume and Banbutsu-ehon-taizen—are listed in a Kashiwara-ya advertisement published before 1720. This paper considers these books to be Kashiwara-ya's early works. These books were published to provide patterns of paintings for artists. Since this has rarely been examined in preceding studies, this paper compiles a bibliography and identifies the characteristics of these early works.The paper first organizes a bibliography of each work and makes inferences, e.g. woodblocks of Ehon-techokomoku were bought by Kashiwara-ya and the bookstore repaired them to sell them as Ehon-seishocho. As a result of such inferences and mismatches in the composition of the eight books, it is also possible to ascertain the possibility that almost all the woodblocks used in Kashiwara-ya's early works were repaired after purchase, i.e. these early works were not made by Kashiwara-ya.Secondly, the paper analyzes diversity in publication dates. Although Kashiwara-ya's early works have same publication date of 1718, these descriptions are unreliable because the woodblocks of the publication dates were allocated among o-hon, one of the formats of Japanese books. The degrees of frictional wear of the woodblocks are different, and this difference tells us the sequence of printing.A hypothesis concerning Kashiwara-ya's early works is derived based on the above. Although Kashiwara-ya had woodblocks to publish eight ehon and had rights to publish them before 1718, the eight books were not published at the same time.
著者
花上 和広 Kazuhiro HANAUE ハナウエ カズヒロ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.33-46, 2018-03-31

藤原師通は、京極関白藤原師実男で、母は右大臣源師房女麗子である。摂関家御堂流の藤原道長の曾孫にあたる人物で、従一位関白内大臣にいたるが、康和元(一〇九九)年六月二十八日、三八歳の若さで亡くなる。師通の生きた時代は、白河上皇の院政期にあたり、上皇は親政を推し進め、近臣藤原通俊が『後拾遺和歌集』の撰集を行うという時代であった。王朝和歌から中世和歌への展開を解明するには、この白河院政期の諸活動を明らかにすることが課題といえる。摂関家の和歌活動の中心は師実から師通へと移っていくが、師通の和歌活動を明らかにすることで、院政期における摂関家の和歌活動の動向が見えてくると考える。本稿は、師通の詠んだ和歌一首一首について、詠まれた場や詠作年次また同時詠、交友関係等の考察を通して、歌人としての師通の活動を論ずるための基礎資料として検討したものである。考察を通して、次のことがわかった。年齢と官職の視点から詠まれた歌の数を見ると、一一~二一歳(延久四(一〇七二)年正月~永保二(一〇八二)年 元服~内大臣になる前年まで) 四首二二~三三歳(永保三(一〇八三)年正月~嘉保元(一〇九四)年二月 内大臣就任~関白になる前月) 七首三三~三八歳(嘉保元(一〇九四)年三月~康和元(一〇九九)年 関白就任~亡くなる年) 一首年次未詳歌 一首となる。関白になってからの詠歌が非常に少ないことが指摘できる。次に和歌の詠まれた状況等を考慮して、題詠歌・歌会等の歌・贈答歌に分けて見ると、題詠歌 二首(⑦ ⑬)歌会等の歌 五首(① ② ③ ⑧ ⑫)贈答歌 六首(④ ⑤ ⑥ ⑨ ⑩ ⑪)となる。師通は氏長者や関白といった立場の人の割には、歌会や題詠歌などの晴の歌が少ないように思われる。贈答歌が多いのは、師通に関わりのある周辺歌人が、師通詠を自分の家集におさめたのが理由として考えられる。師通は文芸活動においても一の人としての振舞をしなければならなかったはずである。その際和歌を詠むことは必須と思われる。平安後期の和歌について、橋本不美男氏は「この期の和歌は、管絃・作文とゝもに、宮廷貴族として宮廷生活を行ふ上に、必須の技能として位置づけられる点から出発する。………和歌は、特殊の文芸としてゞはなく、一つの貴族の職能として、宮廷生活圏のなかに、礎地をもつたことにならう」(『院政期の歌壇史研究』六頁 武蔵野書院 昭和四十一年)と述べている。このような状況の中、師通は「学問」の人で和歌より漢詩に重きをおいていた。師通の詠作が少ない理由の一つとして、和歌よりも漢詩の方に心が傾いていたからなのであろう。『後二条師通記』『中右記』等を見ると、師通は内大臣になった永保三年以降亡くなる康和元年まで、自邸で作文会を十六回開いている。それにくらべて自邸での和歌会は『後二条師通記』では二回である。歌を交わした人物をみると、父師実をとりまく人たちとの関係の中で和歌活動が行われたように思う。女流歌人では師実姉四条宮寛子に仕える康資王母や師実女房でのちに令子内親王に仕えた肥後などがあげられる。男性歌人では、源経信大納言があげられる。Fujiwara Moromichi was the son of the Kyougoku Kanpaku, Fujiwara Morozane. He was the great-grandchild of the highly powerful Midouryu, Fujiwara Michinaga, and himself became a kanpaku (chief adviser to the Emperor), but died on June 28, 1099 (Kowa gannen) at the age of thirty-eight years old.Moromichi lived during the Insei period of Japanese history, when Shirakawa, the already-retired Emperor, was in charge. During this age, the retired Emperor Shirakawa promoted emperor-led politics, and arranged that, Fujiwara Michitoshi a subordinate of his, would edit "Goshuiwakashu, an imperial waka anthology".I believe it is important to conduct a thorough study of Moromichi's waka, considering his waka contributions throughout his life. In this paper, I consider each of the thirteen waka Moromichi wrote in turn, finding out about the place and time where it was composed, about other waka composed by different people at the same time, and about the people he associated with socially. Based upon a consideration of these factors I made a summary of Moromichi's waka activities throughout his life.From this, it is discovered that the number of waka poems composed by Moromichi during periods of his adult life, as defined by his professional capacities, are as follows.1) 11–21 years old (January 1072, to 1082): 4 waka poems(Moromichi's coming of age ceremony to the month before becoming Naidaijin)2) 22–33 years old (January 1083, to February 1094): 7 waka poems(Moromichi's assumption of the role of Naidaijin to the month before becoming Kanpaku)3) 33–38 years old (March 1094 to 1099): 1 waka poem(Moromichi's assumption of role of Kanpaku to his death)4) Waka whose year of composition is unknown: 1 waka poemMoromichi produced very few waka poems after assuming the role of kanpaku. I divided the situations which he composed waka into three categories.Daieika (waka written around a particular subject): 2 waka poemsUtakainouta (waka composed at a party): 5 waka poemsZoutouka (waka composed with another person, in a call-and-response style): 6 waka poemsFor someone who assumed high profile positions such as elder of his clan and that of kanpaku, he did not compose a lot of waka during official waka-composing parties. It seems that the reason that there are so many of Moromichi's zoutouka surviving is that waka composed by Moromichi in tandem with others were included in poetry collections created by his freiends.Moromichi would surely have been compelled to show his worth in literary circles, composing waka as part of various social meetigs. There is evidence that in such situations, he placed more importance on Chinese poems more than Japanese waka. According to his diary, during the period from 1083 (Eiho sannen) when he became Naidaijin, until 1099 (Kowa gannen) when he died, he held parties for composing Chinese poems at his house on sixteen occasions. In comparison, he held parties for composing waka only twice.Looking at the people with whom Moromichi exchanged waka, it is my surmise that most of his waka-related activity was carried out with the party associated with his father, Morozane. The female members of this party were Yasusukeounohaha who served Morozane's sister the Empress Shijounomiya, and Higo, who served the Imperial Princess Reishi, while the male member was Minamoto no Tsunenobu.
著者
古明地 樹 Tatsuki KOMEIJI コメイジ タツキ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.15, pp.47-64, 2019-03-31

本論では、江戸時代中期の絵師、橘守国(延宝七(一六七九)年―寛延元(一七四八)年)画作『絵本通宝志』(享保十四(一七二九)年刊、以下『通宝志』)を、「太公望図」を中心に分析することにより、守国が行った作画方法を明らかにし、守国作品の位置づけを試みる。今回の分析から、守国の作図は画題が持つ複数の定型表現を取り合わせて行われていると推定できた。これは、守国が狩野派に学んだ知識を絵師の需要に即して変容させたものであると考えるものである。近世中期以降、町絵師が増加することで、粉本に対する需要が増していた。狩野探幽の弟子である鶴澤探山に学んだ橘守国は、その需要に応じるように大坂で多くの絵手本を作成した。それらの絵手本は浮世絵師を含む町絵師に大きな影響を及ぼしたことで知られる。本論で扱う守国画作の『通宝志』は、柏原屋より刊行された絵手本である。様々な画題を紹介し、人物図や和漢の故事画題に関しては解説を付す形式をとる。自序に従えば、守国は、作画の際に先例となる図様を粉本として用いるべきだと考えており、粉本として『通宝志』を手掛けたという。この主張は典型的な粉本主義と同種のものだと言える一方で、図様の中には先例から逸脱したものが少なくない。特に、巻五上にはその傾向が強く表れる。巻五上は、狩野永徳以来宝永年間まで狩野派が描き続けてきた賢聖障子(けんじょうのそうじ)という画題を掲載している。賢聖障子とは、三二人の漢人物を描いた紫宸殿を飾る画題であり、守国が狩野派の粉本を目にしていたと推測される。しかし、守国が描く賢聖の図は狩野派画の賢聖障子資料と同一の構図ではない。粉本主義の主張と、描いた作品の独自性という矛盾に対し、本論では「太公望図」を中心として分析を行った。その結果、太公望図には、舶載の漢籍などに由来する肖像画的な系統と、故事を絵画化した系統の二系統が存在することが判明した。また、守国の作画は両者を取り入れていることが判明した。これは賢聖障子の画題紹介をすると同時に、絵師の需要に即した図を守国が作画したものであると推測する。このことから、『通宝志』巻五上から見る守国作品は、絵画領域において狩野派という雅文化の知識を、庶民文化へと普及させる一翼を担ったと考えられ、知識が庶民文化へ伝達される近世中期的特徴と一致するものである。In the 18th century, books classified as e-dehon (絵手本) or gafu (画譜), which are illustration books for painters to use in their works, were published in Osaka (大坂). Although these were low-brow media as printed books, some painters who studied drawing from such highly regarded schools as Kanoh-ha (狩野派), the most popular school in the Edo period, made e-dehon and gafu. This characteristic coincides with the character of the 18th century, a period where high culture and low culture converged.Tachibana Morikuni (橘守国) was a painter who studied the methods of the Kanoh-ha school and made many e-dehon in this period. The e-dehon by Morikuni influenced many painters, and this study focuses particularly on the influence on ukiyoe-shi (浮世絵師). Meanwhile, the influences on Morikuni himself are rarely discussed. What knowledge and drawing theories did Morikuni learn from the Kanoh-ha? How did Morikuni use this knowledge and theory in his work? In an attempt to answer these questions, this paper analyzes an illustration of Taikobo (太公望) found in "E-hon Tsuhoushi (絵本通宝志)" Volume 5 by Morikuni.Volume 5 of "E-hon Tsuhoushi" introduces "Kenjo-no-soji (賢聖障子)", an illustration of 32 Chinese people set at the shishinden (紫宸殿), the hall where royal ceremonies were held. Taikobo is one of the Chinese people depicted in this illustration. The Kanoh-ha school considered tracing to be the most important aspect of painting, and Morikuni made the same assertion in "E-hon Tsuhoushi". Thus, one would expect that Morikuni would draw the illustrations to be the same as the original "Kenjo-no-soji" in "E-hon Tsuhoushi". However, the illustrations in "E-hon Tsuhoushi" are different from the original "Kenjo-no-soji" by Kanoh-ha. Based on an analysis of Taikobo, this paper infers that the illustration was made from two traditional Kanoh-ha illustrations. In other words, Morikuni did not deviate from his claim when he made the new Taikobo illustration.These illustrations were likely drawn in response to requests from purchasers such as machieshi (町絵師), painters who also painted for townspeople. The original illustration of kenjo-no-soji is too prestigious for machieshi to use. By adopting Kanoh-ha theory and drawing new illustrations in response to the demands of machieshi, Morikuni successfully made new illustrations that were more convenient for them.
著者
鈴木 昂太 Kota SUZUKI スズキ コウタ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.15, pp.27-46, 2019-03-31

本稿では、備後奴可郡(現広島県庄原市東城・西城町)における神職の中世末から近世にかけての歴史的変遷を明らかにするとともに、奴可郡における神職の組織・階層について論じた。その結果、中世から近世への時代変化が、奴可郡の神職にいくつかの変転を起こさせたことが判明した。その一つが、神職としての立場を保障する方法の変化である。中世末の備北地方における社役の安堵は、備後一宮において開催される座直りへの出席と、在地領主からの宛行状の発行により行われていた。その後近世になると、京都の吉田家から神道裁許状を取得するようになる。こうした変化に伴い、神職の職名・立場を表す言葉として「太夫」という言葉が公の資料に現れることはなくなり、吉田家から取得した官途・受領名が名乗られるようになった。二つ目は、中世に淵源を持つと考えられる備後国一宮の権威や機能の変化である。近世初期には、一宮の祭祀組織の再編、広島藩と福山藩という二つの政治体制の構築、近世中期以降には、京都吉田家による備後国内の神職支配の拡大が起こった。これにより、備後国内の神職に対する一宮の影響力が低下する。その結果、備後国内の広島藩領の神職は、藩内神職の惣頭役を務める広島城下の社家野上氏の統制下に入ることになり、広島藩の支配をより強く受けるようになった。三つ目は、奴可郡における神職組織の在り方の変化である。中世末には、在地領主が広大な領地の産土社(鎮守社)を定め、神職を任じ、祭祀を経済的に支えていた。その後、中世末の在地領主の領土が近世の村切りにより分割されることで、かつての在地領主の領地と一致する広い氏子圏を持つ社格の高い大氏神と、一つの近世村を氏子圏とする小宮が生まれたと思われる。近世初期には、郡内に数社存在する「大氏神」を単位として、共同で神事を執行する神職組織がいくつか形成されていた。その後近世中期になると、吉田家の影響により広島藩の神職組織が整備され、その末端として「郡」を単位とする神職組織が新たに形成される。こうした近世の奴可郡において神社祭祀に関わる者の間には、吉田家から神道裁許状を取得し祭祀を担当する「吉田殿裁許の官」と、日常神社の管理を担った「鍵取(地神主)」の違いがあった。さらに、「吉田殿裁許の官」の間には、大宮の社家(幣頭)/小宮の社家(一本幣)/抱えの小宮を持つ下社家/抱えの小宮を持たず裁許状を取得していない下社家という、中世以来の家格に基づく階層があった。
著者
宋 丹丹 Dandan SONG
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.17, pp.59-80, 2021-03-31

本稿では全国の各地の伝説を所収した『日本伝説大系』と『日本の伝説』をテキストに、身体に関する岩石伝説に着目し、その特徴と背後にある信仰などについて考察したい。本稿では特に身体的な特徴の表れる血の出る岩石、声の出る岩石、成長する岩石、米を食べる岩石の伝説を取り上げ、それぞれの岩石の特徴を分析した。まず、血の出る岩石伝説において、岩石の居場所は境であり、割るまたは悟ることによって不思議な色の血が噴き出した。また同時に、割る人は死ぬか発狂するかなどの罰を受けた。血が出ることによって、岩石への畏敬の気持ちを持ち、依り代またはタマが宿る岩石を神聖視したと言える。次に、声の出る岩石伝説は主に泣く岩石伝説と話す岩石伝説に分けられる。人間の言葉、動物の声、鬼の泣き声などの言語で元の場所に帰りたい、異変の予告などを伝えた。米を食べる岩石伝説では岩石が生きものように食糧を食べる。また、成長する岩石伝説は大きくなる岩石と小石を生む岩石の伝説に分けられ、岩石は成長力と生殖力を持っているとみなされていたこと明らかとなった。血が出る岩石、声を発する岩石、米を食べる岩石と成長する岩石という4つの身体性には、共通の特徴も見られる。まず、岩石の活動時間が夜であること。そして、岩石の言葉は人間に通じるものだけではなく、動物の鳴き声などの岩石特有の言語も発する。そのほかに、岩石の成長する速さは百年、千年かかる。さらに割られたら死ぬ岩石もある。一つの岩石がすべての身体的特徴を備えているわけではないが、小石を生む岩石があり、成長する岩石があり、さらに死ぬ岩石があり、人間の誕生から死までの身体的特徴を備え各種の岩石伝説がある。岩石が身体性を持つのは、岩石が神の依り代だけではなく、岩石そのものにもタマがあると考えられてきたからだ。また、アニミズムの考え方によって、石、木などのあらゆる自然物は人間と同じく、霊魂がやどっていると考えられてきた。また、岩石は人間の一生とも緊密に関わり、通過儀礼にも大きな役割を果たしてきた。このような岩石の特徴が、身体性を持った数多くの多様な伝説を生み出してきたと考えられる。This paper discusses Japanese legends concerning rocks that involve the human body with reference to the Nihon Densetsu Taikei published by Mizuumi Shobo and Nihon-no-Densetsu published by Kadokawa Shoten. The author explores the characteristics of rock legends that involve the human body, as well as the human beliefs behind them.According to the previous research, there are a number of rock legends featuring the human body, and the author categorized them into four types by the characteristics of rocks: bleeding rocks, vocalizing rocks, rice-eating rocks, and growing rocks. In the first type, rocks are observed in a deserted place, and the rocks bleed when they are smashed or men achieve enlightenment. In addition, the legends state that the blood color of the rocks were varied and not only to red, but sometimes also included purple or black. The bleeding rock legend indicates that the rock is not just an epitome of a godly religion, but an animate being. With regard to the second type, the rocks can be further subcategorized into talking rock legends and weeping rocks. The former can express their feelings, such as wanting to return to where they used to be, or predict disaster through human language, animal voices, or the crying sound of ogres. Third are the rice-eating rock legends. These rocks may be interpreted as being alive and eating like creatures. Last, growing rocks can be divided into rocks that increase in size and child-bearing rocks. Some grow and give birth to pebbles.Bleeding, vocalizing, rice-eating and growing are different attributes of human bodylore, but they all share something in common. First, rocks that bleed, talk or eat rice are active at night. The language of rocks that can vocalize is not only human language but also rock-specific languages that are similar to animal voices. In addition, in some legends rocks grow, but at a speed much slower than that of humans, taking 100 or 1,000 years. Nonetheless, it seems that they are born, grow and die like human beings.The author regards that there are three reasons for the physicality of rocks. First, a rock is not just an epitome of a godly religion, but an animate being. Next, in the animistic world, people believed that like rocks, plants and all elements of nature have souls. Last, rocks were believed to be closely related to the process of life. Such rock characteristics may have been one of the factors that produced many diverse legends involving the body, even though they are inorganic.
著者
孫 文 WEN SUN
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.19, pp.240(21)-216(45), 2023-03-31

2008年「5・12 汶川大震災」の発生により、中国四川省の西北部の少数民族地域では甚大な被害を受けた。筆者は2010年から、四川大地震後の復興をテーマとして被災地黒水県のチベット族の調査を始めた。長期間のフィールドワークを通じて、災害の復旧だけではなく、2013年以降の貧困削減計画によって、調査対象の黒水チベット族の日常生活が激しく変化している一方で、彼ら自身の民族意識の表明が顕在化していることが明らかになった。その理由として、経済成長の手段として観光事業が推進され、少数民族文化の資源化が進んでいることが考えられる。しかし政治的には中華民族という国民統合のイデオロギーが強化されているという現実がある。本論文の目的は、このような状況下に、黒水チベット族というチベット族のサブグループが、観光開発を契機に、自身の民族身分をいかに戦略的に用いているかを明らかにすることである。 本研究は、まず中国の少数民族の開発に関する「脱政治化」論とその反論を紹介し、本論文の理論的関心を示す。次に、研究対象としての黒水チベット族の民族的帰属に関する歴史的、文化的特徴について述べ、なぜ黒水チベット族を研究対象にするのかを論じる。そして、現在の観光開発に焦点を移し、黒水チベット族の観光村である羊茸と、黒水県の紅色観光を事例に、黒水チベット族の民族身分の戦略を明らかにする。最後に、黒水チベット族は民族身分を戦略的に利用して、開発に参加する政治的正当性、民族文化の真正性、国家統合のイデオロギーへの参入を確保しようとしていると結論する。The May 12 Wenchuan Earthquake in 2008 caused enormous damage in the ethnic minority areas in the northwestern part of China’s Sichuan Province. The author started research in 2010 on the Tibetan people in the disaster-affected area of Heishui County with a focus on reconstruction after the Sichuan Earthquake. Through an extensive period of fieldwork, it became clear that in addition to recovery from the disaster, but also a poverty alleviation program implemented since 2013 have resulted in a drastic changes in the daily lives of the Heishui Tibetans, while their own expression of ethnic awareness has become more apparent. One of the reasons for this may be attributable to the promotion of tourism as a means of economic growth, transforming the ethnic minority culture into a resource. At the same time, however, the reality is that the ideology of national unity of the Chinese nation is being strengthened. The purpose of this study is to clarify how the Heishui Tibetans, a sub-group of the Tibetan ethnic group, use their own ethnic status strategically with tourism development as momentum.The author first introduces the “depoliticization” theory of the development of China’s ethnic minorities and its counterarguments to demonstrate the theoretical interest of this paper, followed by a discussion of the historical and cultural context of the complex ethnic affiliations of the Heishui Tibetan people and the basis for focusing the Heishui Tibetans. Shifting the focus to current tourism development, this study then clarifies the strategic use of the ethnic status of the Heishui Tibetan people by referring to case studies of Yangrong, a tourist village, and Red tourism in Heishui County. Finally, the author concludes that the Heishui Tibetan people strategically use their ethnic status to secure political legitimacy so that they can participate in development, demonstrate the authenticity of their ethnic culture, and take part in the ideology of national unity.
著者
八木 風輝 Fuki YAGI ヤギ フウキ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.109-126, 2018-03-31

本稿の目的は、モンゴル国バヤンウルギー県にあるバヤンウルギー県音楽ドラマ劇場(以降BMDT)における改良楽器奏者の育成状況を、当県の社会と関連づけて明らかにすることである。バヤンウルギー県はモンゴル国の最西部に位置し、人口の約9割をカザフ人が占めている。社会主義を経たバヤンウルギー県では、1950年代から音楽家の職業化が進み、BMDTは主にカザフ共和国(現カザフスタン)の影響を受けて、カザフの楽器を中心に演奏活動が行われてきた。BMDT内には1959年にカザフ民俗楽器オーケストラが設立されており、そこに所属する団員は主にBMDT入団時に「実習生」として入団し、改良楽器という入団時とは異なる楽器を演奏しはじめる。「実習生」とは、音楽大学卒以外の団員を対象に、「先生」から約6か月の期間、担当する楽器の演奏技術や楽典を学ぶ者のことである。現在のカザフ民俗楽器オーケストラでは団員の約半数が「実習生」を経験した後に、カザフの改良楽器に移行することで新たに改良楽器を学び始めている。こうした団員による改良楽器への移行と学びが生まれた社会的要因として、バヤンウルギー県とカザフスタン及びモンゴル国との歴史的かつ地理的な関係から、次の2点を指摘した。1点目に、現在のカザフ民俗楽器オーケストラの団員育成が「実習生」制度に依存している状況が見られる点である。1959年のカザフ民俗楽器オーケストラ設立時に、「実習生」が基礎となって設立されると同時に、カザフ共和国への留学によって専門的な音楽の指導者の育成がなされた。この「実習生」とカザフ共和国への留学は1990年代初頭まで続けられたが、1990年代以降、カザフスタンの独立による政治的かつ経済的な理由でカザフスタンへの留学が行われなくなり、「実習生」を経た団員が改良楽器を学ぶようになっている。2点目は、対照的に、モンゴル国の首都ウランバートルでカザフ人の音楽を学ぶ公的な教育機関が存在していない点である。同様に、バヤンウルギー県においても改良楽器がBMDTにしか存在しなかったため、改良楽器に関する専門的な教育が行われてこなかった。この2点から、BMDT内で改良楽器を演奏するために、独自に改良楽器を演奏できる人を用意する必要が生じた。そこで、BMDT内部でカザフの改良楽器の技術や楽典の教授といった音楽教育を行いながら、独自に改良楽器の演奏者を育成している状況が見られると結論づけた。
著者
八木 風輝 Fuki YAGI ヤギ フウキ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.109-126, 2018-03-31

本稿の目的は、モンゴル国バヤンウルギー県にあるバヤンウルギー県音楽ドラマ劇場(以降BMDT)における改良楽器奏者の育成状況を、当県の社会と関連づけて明らかにすることである。バヤンウルギー県はモンゴル国の最西部に位置し、人口の約9割をカザフ人が占めている。社会主義を経たバヤンウルギー県では、1950年代から音楽家の職業化が進み、BMDTは主にカザフ共和国(現カザフスタン)の影響を受けて、カザフの楽器を中心に演奏活動が行われてきた。BMDT内には1959年にカザフ民俗楽器オーケストラが設立されており、そこに所属する団員は主にBMDT入団時に「実習生」として入団し、改良楽器という入団時とは異なる楽器を演奏しはじめる。「実習生」とは、音楽大学卒以外の団員を対象に、「先生」から約6か月の期間、担当する楽器の演奏技術や楽典を学ぶ者のことである。現在のカザフ民俗楽器オーケストラでは団員の約半数が「実習生」を経験した後に、カザフの改良楽器に移行することで新たに改良楽器を学び始めている。こうした団員による改良楽器への移行と学びが生まれた社会的要因として、バヤンウルギー県とカザフスタン及びモンゴル国との歴史的かつ地理的な関係から、次の2点を指摘した。1点目に、現在のカザフ民俗楽器オーケストラの団員育成が「実習生」制度に依存している状況が見られる点である。1959年のカザフ民俗楽器オーケストラ設立時に、「実習生」が基礎となって設立されると同時に、カザフ共和国への留学によって専門的な音楽の指導者の育成がなされた。この「実習生」とカザフ共和国への留学は1990年代初頭まで続けられたが、1990年代以降、カザフスタンの独立による政治的かつ経済的な理由でカザフスタンへの留学が行われなくなり、「実習生」を経た団員が改良楽器を学ぶようになっている。2点目は、対照的に、モンゴル国の首都ウランバートルでカザフ人の音楽を学ぶ公的な教育機関が存在していない点である。同様に、バヤンウルギー県においても改良楽器がBMDTにしか存在しなかったため、改良楽器に関する専門的な教育が行われてこなかった。この2点から、BMDT内で改良楽器を演奏するために、独自に改良楽器を演奏できる人を用意する必要が生じた。そこで、BMDT内部でカザフの改良楽器の技術や楽典の教授といった音楽教育を行いながら、独自に改良楽器の演奏者を育成している状況が見られると結論づけた。Modified musical instruments are those altered to widen their range for orchestral music during the time of Socialism. This study focuses on modified Kazakh musical instruments as played in the Theater of Music and Drama in Bayan-Ölgii (BMDT), which functions as the only musical school teaching these musical instruments in Mongolia. Participant observations and semi-structured interviews revealed that the teaching system for modified Kazakh musical instruments in BMDT shifted to comply with the domestic education system after the collapse of the Soviet Union. Since the appearance of professional Kazakh musicians in the 1950s, BMDT has been performing Kazakh music in Mongolia, mainly influenced by the music of Kazakhstan. Therefore, most BMDT musicians played the same instruments as those used in Kazakhstan.In 1959, BMDT established the Orchestra of Kazakh Folk Musical Instruments (the Kazakh Orchestra). Since then, the Kazakh Orchestra has adopted the dagaldan (trainee) system for orchestra members who are not music college graduates. The dagaldan learn the techniques of musical instruments and the theory of music for six months. After finishing the training, they are recognized as jinkhen (real) musicians, and begin to learn the Kazakh modified musical instruments. Nowadays, half of the members of the Kazakh orchestra start out as dagaldan and then transfer to learn Kazakh's modified musical instruments.This study focuses on the relationship between Bayan-Ölgii provinces, Kazakhstan, and Mongolia, and points out two historical and geographical factors standing in the background of the dagaldan's study of the modified musical instruments. Firstly, since the Soviet era ended, the BMDT 'dagaldan system' has been the only means of educating the orchestra's members. When the Kazakh orchestra was first established in 1959, dagaldan members were given a chance to study at music colleges in Kazakhstan. The purpose of this study program was to give professional musical leaders the skills to play Kazakh instruments, including modified musical instruments. This program for the musicians in the Kazakh orchestra continued until the early 1990s, but was drawn to a close due to political and economic issues following the independence of Kazakhstan. Secondly, it was found that Kazakh modified musical instruments exist only in BMDT, and there is no public educational institution for Kazakh music in Ulaanbaatar, the capital of Mongolia. These situations inside and outside of Mongolia after the Soviet era encouraged the development of a unique educational system within BMDT, where skills for playing Kazakh modified musical instruments were passed down.
著者
小野 光絵 ONO Mitsue
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.18, pp.73-91, 2022-03-31

尾崎翠(一八九六―一九七一)のテクストでは、小説やエッセイ、詩や座談録といったジャンルを横断する形で、「チヤアリイ」ことチャールズ・チャップリンへの思慕というテーマが繰り返し表象されている。しかし、これらは従来の研究ではほとんど看過されており、充分な掘り下げがなされてこなかった。本稿は、短篇小説「木犀」(一九二九年)を中心に、その重要性に光を当てるものである。映画をめぐる尾崎の複数のエッセイの中で、「影」というキーワードが繰り返し登場する。「影」という言葉を用いて表象されているのは、映画などの媒体を通すことによって生じる一種の異世界の魅力であり、なおかつ、その中で生身の人間とは異なる異世界の存在として見えてくる人物像への強い関心である。「影の世界」に触れ、没入することによって自身の「心のはたらき方までも」が根本から影響を受けるという、単なる娯楽としての消費に留まらない映画鑑賞のあり方が語られる。また、チャップリンについても生身の俳優としてではなく、映画の幕の上の「影の男性」としての魅力が見出されている。以上を踏まえた上で、「木犀」の「私」の恋のあり方について考察を加えた。「木犀」の語り手である「私」は、学生時代の友人「N氏」からのプロポーズを退けたことで「淋しさ」を感じるが、映画館で観た「ゴオルドラツシユ」の「チヤアリイ」に対する好意を語る時にはじめて「恋してゐる」「愛してゐる」という言葉が用いられる。さらに、「私」が強く関心を示しているのは、億万長者となり恋人を得るハッピーエンドを迎えた成功者としての「チヤアリイ」ではなく、むしろその途上における「孤独な彷徨者」に対してである。その上で、彼の姿に「淋しさ」を見出して共鳴を示す「私」自身もまた、「孤独な彷徨者」の性質をそなえた人物であることを指摘した。また、映画が上映終了となった後、「私」は眼前にありありと「チヤアリイ」を思い描き、幻想上の会話を交わしている。ここに表象されるイメージは、映画「ゴオルドラツシユ」のチャップリンのイメージを借用・変形することによって表現された「私」の分身であり、「私」の〈内なる男性像〉の具現化であると、後続の尾崎翠テクストとのテーマの連続性に言及しつつ結論づける。In the texts of Midori Osaki (1896–1971), the recurrent theme of her admiration for Charles Chaplin or “Charlie” appears across her works such as in novels, essays, poetry and records of dialogues. However, this theme has been largely overlooked in previous studies and has not been explored in depth. This article focuses on the theme by making reference to one of her short stories titled Mokusei (Osmanthus fragrans) (1929) and sheds light on its importance.In some of Osaki’s essays on films, the word “shadow” appears repeatedly. This word suggests a sort of otherworldly fascination that emerges from a medium such as film, and her strong interest in the characters who appear in films as otherworldly beings different from actual human beings. She says movie watching is more than mere entertainment. When watching a film, she touches and is absorbed into the “world of shadow”, and even her way of thinking is influenced. Osaki finds Chaplin attractive as a “man of shadow” in a film rather than an actual human being. In light of the above, the author discusses what “I” is and what “my” love is in Mokusei.While “I”, the narrator of Mokusei, feels “loneliness” after declining a marriage proposal from N, a friend from her school days, she says “I am in love” and “I love you” for the first time when she talks about her fondness for Charlie in The Gold Rush, which she saw in the theater.The narrator is more interested in Charlie as a lonely wanderer than Charlie as a successful man who becomes a millionaire and has a happy ending with his lover in the film. The author points that “I”, the narrator, who finds “loneliness” in him and has sympathy for him, is also a person who may be characterized as a “lonely wanderer”.After the film, the narrator has an imaginary conversation with Charlie with a vivid image of Charlie in herself. The author, based on the thematic continuity in Osaki’s subsequent texts, concludes that the image represented in this novel is an alter ego of the narrator, borrowed and transformed from Chaplin’s image in the film The Gold Rush, and is an embodied “male model” in her mind.
著者
辺 清音 Qingyin BIAN ビアン チンイン
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.87-108, 2018-03-31

華僑・華人研究において、近年のチャイナタウンの変貌が大きな問題の一つとなっている。本稿は日本の神戸市にあるチャイナタウン――南京町でおこった再開発とそこから生み出された店舗の変容について、人々の現場での実践をもとに論じる。1970年代から再開発されてきた南京町は、現在では観光地化され、主に飲食店や雑貨店が集中する商店街になっている。本稿は、南京町を研究対象に、店主や従業員がチャイナタウンで商売することに応じて店舗の独自性をいかに作り上げるのかを明らかにすることを目的とする。本稿で、事例とした三つの店舗は、華僑が経営する香港式茶餐庁と台湾式小籠包店、日本人夫婦が経営する中華らしい要素のある土産を扱う雑貨店である。事例1の茶餐庁は店主が両親の時代から血縁、業縁などに結ばれたネットワークを活かし、祖先の故郷である香港の庶民的な食文化を南京町で再現している。事例2の小籠包店は、業縁のある食品工場を通して、台湾から最新の小籠包量産技術を取り入れてフランチャイズの形で商売活動を展開している。さらに、華僑のように香港や台湾、中国大陸との天然な紐帯がない事例3の雑貨店の日本人店主は、日本の商社を通して中国産の中華らしい要素のある土産の仕入れと中国人従業員の採用によって商売関係を作り出してチャイナタウンでの生き残りの道を模索している。本稿は、店主と従業員たちが店舗の独自性を作り上げる日常の商売活動の中で、日本の地域社会、香港や台湾、中国大陸とのつながりを生かし、モノや情報を戦略的に選択する過程を検討する。それによってチャイナタウンの抽象的な「中華らしさ」を店舗の中に具体化して店舗を変容させたと主張し、店舗における多元的・多変的・共時的な「中華表象」が構築されてきたと結論付けた。本稿は華僑や日本人を含む地元の人々が経営している店舗――食をはじめ、雑貨などのモノによる「中華らしさ」を演じる場、に注目することによって、日常的なチャイナタウンを考察する一つのアプローチを模索したい。