1 0 0 0 OA 観客の現在

著者
上倉 庸敬
出版者
美学会
雑誌
美学 (ISSN:05200962)
巻号頁・発行日
vol.33, no.3, pp.16-26, 1982-12-31 (Released:2017-05-22)

The actor produces a work of theater. The artist's own awareness of the final product develops simultaneously to this process of production. This awareness does not belong to the speculative oder, but to the wholly different order of factivity. The actor has to consider the work outside himself i.e. in the spectator. The actor makes his own the awareness of the spectator. How can the spectator's awareness become the actor's? Maybe through the time which they live in common, but man's real time cannot be other than "my present". "My present" means the time of my activity. "I" must be responsible for "my act". When I have the responsibility, I have a personality. Both the actor and the spectator make a decision to live in the theatrical "milieu" and this is their activity. When they act and join their common theatrical "my present", there is established the communion between the actor and the spectator, between these two personal subjects, where we find the significance of the theater. In this communion, the knowing (and the making) of a work of theater will be intersubjective, and the work will start to exist, not as a form in suspension, but as a definite and clear form. The spectator's "present" guarantees his privileged state by which he can not only understand, but also create, an essentially spatial being, a work of theater. The participation of the spectator in the theatrical work is conceivable only along these lines.
著者
上倉 庸敬
出版者
美学会
雑誌
美学 (ISSN:05200962)
巻号頁・発行日
vol.30, no.1, pp.51-61, 1979-06-30 (Released:2017-05-22)

On use du mot "metaphore" en deux sens. Le sens aristotelicien de transposer (metapherein), c'est-a-dire, d'appliquer des mots a des choses qu'ils ne designent pas proprement. Et le sens de la ressemblance (semblance), que S.K. Langer emploie comme ce qui s'abstrait de l'ordre physique et causal pour designer ce qui est vu seulement par une perception. La ressemblance est la qualite virtuelle de l'objet esthetique. Mais, il me semble que Langer confond le premier avec le deuxieme quand elle applique le mot "semblance" aux oeuvres en prose. C'est Gaston Bachelard qui comprend la ressemblance comme image, et etudie son devenir. Par les etudes des images il decouvre que le langage poetique est ce qui porte en soi la dialectique de l'ouvert et du ferme. Ce langage a une relation intime et inseparable avec l'homme qui est "l'etre entr'ouvert". Mais d'une part on peut dire que cette relation n'est pas propre au langage poetique, elle s'etend du langage en general. D'autre part le mot a deux fonctions : la designation et le son. La philosophie de l'art poetique devrait commencer par l'etude de la relation entre ces deux sens de preference a celle de l'image.
著者
上倉 庸敬 田之頭 一知 渡辺 浩司
出版者
大阪大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2003

本研究は、ドラマ繰り広げられる場で音楽がはたす役割を観客の観点から実証的に解明しようとするものである。そのさい研究の最大の動機(モティーフ)となったのは、研究対象としての、ドラマにおける音楽および効果音楽というものが美学においても音楽学においても、従来あまり主題的にはとりあつかわれないまま充分に研究されてこなかったということである。ないよりも強調されねばならないのは、ドラマ空間や劇場における音楽ないし効果音楽なるものとは、ドラマそれ自体、劇それ自体とは異なる独自の効果を観客に与えているということである。本研究が当初その解明をめざしていた問題は多岐にわたるが、とりわけ重点をおいていたのは、1.ドラマや劇に附けられた音楽ないし効果音楽がドラマや劇とは独立した一つの芸術ジャンルたりうるか、2.音楽ないし効果音楽がドラマや劇と独立して観客の感情におよぼす影響がどれほどのものであるのか、3.ドラマや劇の構成を観客が理解するさいに音楽や効果音楽がどれほどの・どのような役割を担っているのか、といった問題である。そのうちでも2と3とに最も重点がおかれており、ドラマや劇と密接に関係があると思われている附帯音楽や効果音楽が、ドラマや劇の構成や演出に多分に左右されながらも、ドラマや劇に対する観客の理解をたすけ、観客の感情面をも支配しうるという側面が明らかにされるとともに、ドラマや劇の附属とされ二次的なものとする従来の考え方との違いということもいっそう際立ってきたと思われる。その意味では、附帯音楽や効果音楽について今日それなりにおこなわれている、音楽学的ないし映像(画)学的といった支配的な諸研究とことなる本研究の意義が多少とも示されたということができる。研究の実際において特筆すべきは、まず第一に、具体的な映像作品を取り上げ、映像に対する観客の反応と日楽に対する観客の反応、ならびに映像を理解するときにはたす音楽の役割を実証的な研究をおこなったことである。第二に、音楽と感情効果との関係を哲学的な原理からも追及し、その実例を文化史のなかに求めて歴史的に実証したことである。
著者
上倉 庸敬
出版者
美学会
雑誌
美學 (ISSN:05200962)
巻号頁・発行日
vol.28, no.1, pp.1-11, 1977-06-30

Gilson definit les beaux-arts comme arts poietiques. Ceux-ci incluent l'ordre entier de la factivite qui se propose la production du beau. En cela cet ordre est distinct de celui de la connaissance et de l'activite. Il distingue la fonction poietique de l'entendement, de sa fonction noetique. En effet toute la contribution de l'entendement aux arts poietiques se trouve incluse dans la fonction poietique et integree a la fonction poietique. Cette definition de la poietique peut se considerer comme justifiee pour trois raisons. D'abord, elle ne se perd pas dans les apories des doctrines qui reduisent les arts a une espece de connaissance. Puis, elle empeche les arts comme la poietique d'envahir l'ordre de la connaissance. Enfin, elle pretend conduire la philosophie de l'art a la metaphysique chretienne, qui, d'apres lui, a decouvert l'acte d'etre a la fecondite auquel se rattache la notion des arts poietiques.
著者
上倉 庸敬
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.26-38, 1989-09-25 (Released:2017-07-31)
参考文献数
5

Yoshimitsu Morita est un directeur de film qui attache beaucoup d’importance à la méthode de production. Sa méthodologie révèle non seulement une grande logique mais aussi une profonde sensibilité. Dans cet article à partir de la méthodologie de Morita, on peut découvrir un certain point de vue sur l’essence du cinéma. Dans son premier film, Morita se demandait s’il devait attacher l’importance à l’histoire elle-même ou à la façon de la raconter. Il donna la préférence à la façon de raconter, non pas à l’histoire elle-même, mais l’histoire des personnages. Il en est arrivé à ce que l’histoire des personnages expriment le temps de leur vécu quotidien, (c’est-à-dire) les moments spatials qui peuvent être mal interprêtes. Selon lui le film nous fait visionner les moments vides et spatials de la vie quotidienne et la nature de l’art cinématographique devient le quotidien et change les moments vides, graduès par la vision, en temps véritable qu’on vit. Le problème du cinéma est de changer le temps spatial en temps vécu, i. e., donner au vide du quotidien un sens et une âme.
著者
神林 恒道 渡辺 裕 上倉 庸敬 大橋 良介 三浦 信一郎 森谷 宇一 木村 和実 高梨 友宏
出版者
大阪大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1995

この「三つの世紀末」という基盤研究のタイトルから連想されるのは、十九世紀末の、いわゆる「世紀末」と呼ばれた時代の暗く停滞したム-ドかもしれない。われわれはいままさに「二十世紀末」を生きている。そこからややもすれば「世紀末」という言葉に引きずられて、われわれの時代をこれと同調させてしまうところがあるのではなかろうか。しかしまた実際に、六十年代頃から現在に及ぶ芸術の動きを見やるとき、そこには芸術それ自体としてもはや新たなものは生み出しえない一種の先詰まりの状況が指摘されもする。といってかつての「世紀末」のような暗さはあまり感じられない。ダント-の「プル-ラリズム」、つまり「何でもあり」という言葉が端的に示すように、その気分は案外あっけらかんとしたものだと言えなくもない。今日の「何でもあり」の情況の反対の極に位置づけられるものが、かつて「ポスト・モダン」という視点から反省的に眺められた「芸術のモダニズム」の展開であろう。ところで「ポスト・モダン」という言い方は、いってみれば形容矛盾である。なぜならばmodernの本来の語義であるmodoとは、「現在、ただ今」を意味するものだからである。形容矛盾でないとすれば、この言葉のよって立つ視点は、「モダン(近代)」を過ぎ去ったひとつの歴史的時代として捉えているということになる。それでは過去にさかのぼって、いったいどこに「芸術における近代」の始まりなり起点を求めたらよいのだろうか。そこから浮かび上がってくるのが、「十八世紀末」のロマン主義と呼ばれた芸術の動向である。ロマン主義者たちが掲げた理念として、「新しい神話」の創造というものがある。そこにはエポックメイキングな時代として自覚された「近代」に相応しい芸術の創造へ向けての期待が込められている。この時代の気分は、「世紀末」の暗さとは対照的であるとも言える。つまりこの「三つの世紀末」という比較研究を貫く全体的テーマは、「芸術における近代」」の意味の問い直しにあったのである。
著者
阿部 好一 黒坂 俊昭 塚田 康弘 上倉 庸敬 岡田 行雄
出版者
神戸学院女子短期大学
雑誌
一般研究(B)
巻号頁・発行日
1985

舞台における空間と時間について, その特色を明らかにし, 併せて現代演劇の独自性と将来への展望を考察した. 舞台の空間については, その一種の「曖昧さ」に着目した. たとえば映画では, カメラは対象を接写から遠景にいたるまで様々の距離において把えることが出来る. この事実は, 映画空間が観客の目にとって自由に縮小・拡大するのと同じ意味を持つ. 演劇の場合, 観客にとって舞台空間はつねに一定の大きさと形態をしか持てない. だから時にはストーリー展開に直接関係のない夾雑物まで観客の目にさらけだす. このことは舞台空間の不自由さと否定的に考えられているが, チェーホフやウェスカーの作品のある場面のように, 舞台上のふたつの人物群が互いに無関係な行動, 台詞をとることによって本来の意味以上の深い意味を表わすことがある. この「多義性」は極めて演劇的な表現である. と我々は考える. ついで舞台の時間については, その「流動性」に着目した. 映画に比べ演劇は, 時間の転換が不自由であると言われてきたが, 現代演劇では自由で柔軟な時間構造を持つようになってきている. それらは主として演出の技法によって試みられてきたが, 近年はシェーファーの『アマデウス』のように, ドラマトウルギーそのものに自由な流動性を持つものが現われている. その流動性は, ドラマに一種の「抽象性」をとりいれることによって保証されている, と我々は考える. 現代演劇にあらたな可能性をもたらすものは, 「再生された異化」であろう, と我々は推定する. 演劇のコミュニケーションは, 舞台上の人物相互のあいだに行なわれるものと, 舞台・客席のあいだに行なわれるものとの二重構造を示している. しかし実際の演劇の場では, 多くの観客はこの両者を混同し, 舞台上の人物に同化しがちである. だからこそブレヒトは「異化」が必要であると考えた. 現代演劇はこの異化を, あたらしい技法によって, 再活性化するのだ.
著者
上倉 庸敬 藤田 治彦 森谷 宇一 神林 恒道 渡辺 浩司 永田 靖 天野 文雄 奥平 俊六
出版者
大阪大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1999

最終年度をむかえるにあたって本研究が直面していた課題は以下のとおりであった。現在、日本の「芸術」は二極化している。ひとつは純粋化を維持しようとする「芸術」であり、いまひとつは「あたらしさ=総合」という視点からクロスオーバーをめざす「芸術」である。それは実は、日本のみならず、世界の各局地における「芸術」概念の共通構造である。「芸術」の事象における世界的な傾向とは、各局地に通底する先述の構造を孕みつつ、各局地で独自の展開をくりひろげている多様さのうちにこそある。では、(1)日本の近代「芸術」概念が成就し、また喪失したものはなんであるか。(2)なぜ、近代の芸術「概念」は死を迎えねばならなかったか。(3)「ユニ・カルチャー」の傾向にある現代世界で、日本に独自な「芸術」概念の現況は、どのような可能性をもっているか。(4)その可能性は日本のみならず世界の各局地に敷衍できるかどうか。解答の詳細は成果報告書を見られたい。解答をみちびきだすために準拠した、わたくしたちの基本成果はつぎのとおりである。(1)西欧で成立した「芸術」概念が19世紀半ばから100年、世界を支配した。(2)その支配は世界の各局地で自己同定の喪失をもたらした。日本も例外ではない。(3)20世紀半ばから世界の各局地で自己「再」同定がはじまった。(4)再同定は単なる伝統の復活ではなく、伝統による「死せる芸術概念」の取り込みである。(5)再同定は芸術「事象」において確立され、芸術「概念」において未完である(6)日本における「芸術」概念の誕生と死が示すものは、2500年におよぶ西洋美学理論の崩壊である。