著者
上倉 庸敬 田之頭 一知 渡辺 浩司
出版者
大阪大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2003

本研究は、ドラマ繰り広げられる場で音楽がはたす役割を観客の観点から実証的に解明しようとするものである。そのさい研究の最大の動機(モティーフ)となったのは、研究対象としての、ドラマにおける音楽および効果音楽というものが美学においても音楽学においても、従来あまり主題的にはとりあつかわれないまま充分に研究されてこなかったということである。ないよりも強調されねばならないのは、ドラマ空間や劇場における音楽ないし効果音楽なるものとは、ドラマそれ自体、劇それ自体とは異なる独自の効果を観客に与えているということである。本研究が当初その解明をめざしていた問題は多岐にわたるが、とりわけ重点をおいていたのは、1.ドラマや劇に附けられた音楽ないし効果音楽がドラマや劇とは独立した一つの芸術ジャンルたりうるか、2.音楽ないし効果音楽がドラマや劇と独立して観客の感情におよぼす影響がどれほどのものであるのか、3.ドラマや劇の構成を観客が理解するさいに音楽や効果音楽がどれほどの・どのような役割を担っているのか、といった問題である。そのうちでも2と3とに最も重点がおかれており、ドラマや劇と密接に関係があると思われている附帯音楽や効果音楽が、ドラマや劇の構成や演出に多分に左右されながらも、ドラマや劇に対する観客の理解をたすけ、観客の感情面をも支配しうるという側面が明らかにされるとともに、ドラマや劇の附属とされ二次的なものとする従来の考え方との違いということもいっそう際立ってきたと思われる。その意味では、附帯音楽や効果音楽について今日それなりにおこなわれている、音楽学的ないし映像(画)学的といった支配的な諸研究とことなる本研究の意義が多少とも示されたということができる。研究の実際において特筆すべきは、まず第一に、具体的な映像作品を取り上げ、映像に対する観客の反応と日楽に対する観客の反応、ならびに映像を理解するときにはたす音楽の役割を実証的な研究をおこなったことである。第二に、音楽と感情効果との関係を哲学的な原理からも追及し、その実例を文化史のなかに求めて歴史的に実証したことである。
著者
渡辺 浩司 伊達 立晶 田之頭 一知 森谷 宇一 戸高 和弘 菊池 あずさ 石黒 義昭 萩原 康一郎 吉田 俊一郎
出版者
大阪大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2006

キケロ、クインティリアヌスといった古代ローマの弁論家は、弁論術の学的な根拠を追求するわけではなく、学的な根拠は古代ギリシアのアリストテレスによって作られた弁論術を継承している。18世紀になると弁論術の学的な根拠はバウムガルテンによって書きかえられた。現代におけるレトリック復興は、古代の弁論術を継承するものではなく、古代の弁論術への誤解と「認識がレトリカルだ」とする現代の考え方とによる。
著者
篠田 知和基 松村 一男 山本 節 吉田 敦彦 渡辺 浩司
出版者
名古屋大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
1998

平成10年よりフランス側の研究者としてグルノーブルのワルテル、シガノス、ソルボンヌのルクトゥ、アンジェのブルミエ、ブザンソンのエル、パリのポノを加えてた海外共同研究として発足し、平成11年より、制度の変更により、基盤Bとなった。共同研究としては都合4回の国際シンポジウムでの討議と、フランスでの共同調査でその実をあげた。一回目は「荒猟師の東西」と題し、ヨーロッパ中世の「荒猟師伝承」を古代にさかのぼってその起源と変遷を追求し、それと日本の怨霊伝承との接点をさぐった。このうち重要な部分がグルノーブルの研究雑誌IRISに掲載された。二回目はソルボンヌの北欧神話学の泰斗レジス・ボワイエとスイスの神話学者で「神々の母」を発表して注目をあつめているフィリップ・ボルジョ、それにインド・ヨーロッパ神話学のベルナール・セルジャンをまねいて「冥界の母神」として大母神の姿を比較検討した。三回目は「東西の老賢者」とし、ヨーロッパのアーサー王伝承におけるマーリンにみられる魔術師、あるいは世界の陰の演出者としての老人像にスポットをあてた。日本では役の行者、阿倍清明、久米仙人などのほか、サルタヒコに照明があてられた。4回目は母神にだかれた「おさな神」をとりあげ、オリエントの水辺の豊饒の女神と、犠牲神との対について考えた。わがくにではスクナヒコナ、ニニギ、あるいはオオクニヌシに幼児神の相貌が明らかだが、中世の寺院世界では稚児伝承があり、観音の奇瑞にもつらなるとともに、また、罪障と聖性の交錯する神話世界の特性もあきらかにされた。このほかに1日のみのシンポジウムを名古屋で2回、東京で一回行った。またフランスでの研究発表を5回行った
著者
上倉 庸敬 藤田 治彦 森谷 宇一 神林 恒道 渡辺 浩司 永田 靖 天野 文雄 奥平 俊六
出版者
大阪大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1999

最終年度をむかえるにあたって本研究が直面していた課題は以下のとおりであった。現在、日本の「芸術」は二極化している。ひとつは純粋化を維持しようとする「芸術」であり、いまひとつは「あたらしさ=総合」という視点からクロスオーバーをめざす「芸術」である。それは実は、日本のみならず、世界の各局地における「芸術」概念の共通構造である。「芸術」の事象における世界的な傾向とは、各局地に通底する先述の構造を孕みつつ、各局地で独自の展開をくりひろげている多様さのうちにこそある。では、(1)日本の近代「芸術」概念が成就し、また喪失したものはなんであるか。(2)なぜ、近代の芸術「概念」は死を迎えねばならなかったか。(3)「ユニ・カルチャー」の傾向にある現代世界で、日本に独自な「芸術」概念の現況は、どのような可能性をもっているか。(4)その可能性は日本のみならず世界の各局地に敷衍できるかどうか。解答の詳細は成果報告書を見られたい。解答をみちびきだすために準拠した、わたくしたちの基本成果はつぎのとおりである。(1)西欧で成立した「芸術」概念が19世紀半ばから100年、世界を支配した。(2)その支配は世界の各局地で自己同定の喪失をもたらした。日本も例外ではない。(3)20世紀半ばから世界の各局地で自己「再」同定がはじまった。(4)再同定は単なる伝統の復活ではなく、伝統による「死せる芸術概念」の取り込みである。(5)再同定は芸術「事象」において確立され、芸術「概念」において未完である(6)日本における「芸術」概念の誕生と死が示すものは、2500年におよぶ西洋美学理論の崩壊である。