- 著者
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中谷 功治
- 出版者
- 関西学院大学
- 雑誌
- 基盤研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 2003
平成15年度の研究成果として,8世紀中葉から9世紀初頭にかけてのタグマとは,いまだ国家における「中央軍」としての役割を果たすまでには至っておらず,むしろその司令官を中心として帝国政府の政治過程に深く関わるなど,皇帝あるいはそれを擁立しようとする勢力の手先となって活動する「近衛連隊」と呼ぶべき存在であったことが判明した。以上の成果を受けて,本年度は「近衛連隊」としてのタグマのその後の展開を考察することにした。その際に注目されたのがタグマの兵力規模の問題である。W・トレッドゴールドは,同時代に活躍したイスラム圏の地理学者のデータをもとにして,9世紀初頭に整備された4つの騎兵タグマ(近衛連隊)のそれぞれが4000名,合計1万6千の兵力を擁していたと推計した。これに対してJ・ハルドンからは,これは余りにも大きな見積もりであり,タグマは首都近郊に駐屯するより小規模な集団であると反論がなされている。本研究では,時代はやや下って10世紀となるが,実際の帝国による遠征の軍備・人員を詳細に記録した『ビザンツ帝国儀式について』に収められている記述に注目した。そこに登場するタグマの兵力は,各々の連隊ごとに数百名程度であり,記述内容からタグマごとの総兵力はせいぜい1千名前後であるとの推計が妥当であることが判明した。つまり,十分な整備がなされた時期のタグマの全兵力は4〜5千名前後となるのである。ここからは,トレッドゴールドの推計は修正を求められることとなり,あわせて当時においてさえタグマを「中央軍」といった独立した決戦兵力と見なすことはふさわしくない,との結論が導き出せるのである。