- 著者
-
伊藤 創祐
沙川 貴大
- 出版者
- 一般社団法人 日本物理学会
- 雑誌
- 日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
- 巻号頁・発行日
- vol.72, no.9, pp.658-662, 2017-09-05 (Released:2018-07-25)
- 参考文献数
- 11
情報は生物にとって欠かせないものである.生物たる我々は日々情報を取得し,様々な状況でそれを利用している.その意味で情報は身近なものである一方,情報が科学的に広く研究され始めるのは物理学の歴史と比較すると最近のことであり,C. E. Shannonの1948年の論文に端を発する情報理論の成立まで待たなければならない.しかしながら,Shannonが情報理論を創始する20年以上前,物理学の文脈で情報について考え,Shannonにも影響を与えた研究があった.熱力学におけるMaxwellのデーモンのパラドックスの本質を描き出したL. Szilardによる1922年の研究である.そして1960年代以降,R. Landauerらによって,情報と熱力学の関係は本格的に研究されるようになった.現在では情報理論と物理学の融合は熱力学に留まらず様々な分野で盛んに行われており,「情報は物理的な実在である(Information is a physical entity)」というLandauerの主張に深く広い意味づけがなされるようになってきている.とくに情報理論と熱力学の融合分野である「情報熱力学」は,この10年で理論実験ともに急速に発展した.その背景の一つは,1990年代後半から盛んに研究が行われてきた「ゆらぎの熱力学(stochastic thermodynamics)」である.Szilardがその萌芽を見出しShannonが創始した情報理論は,ゆらぎの熱力学と深い関係があることが明らかになってきた.また近年の実験技術の進歩により,単一分子のような微小な系の熱ゆらぎを精密に測定できるようになり,実際にMaxwellのデーモンが実現されるようになってきた.たとえば単一コロイド粒子系の電場制御によって,定量的なMaxwellのデーモンが2010年に世界で初めて実現された.その後デーモンは単一電子箱や核磁気共鳴(NMR)など多彩な系で実現されるようになっている.我々は生体システムへの応用を目標の一つとし,情報熱力学の理論を発展させてきた.複雑な確率過程を記述可能なベイジアンネットワークという概念を活用し,ゆらぎの熱力学を拡張することで,情報熱力学の適用範囲を広げることに成功した.その結果として,生体内部における化学反応の熱力学と,生体システムが受容体などのセンサーで感じる「情報」の関係を,定量的に議論することが可能になった.たとえば大腸菌(E. coli)が餌を探すための仕組みである走化性は,生体情報処理の代表例の一つとしてよく研究されている.我々は,この大腸菌の化学反応ネットワークに情報熱力学を適用した.その結果として,生体系の情報伝達のロバストさ(頑健性)を熱力学の観点から定量化し,それと移動エントロピー(transfer entropy)と呼ばれる情報量の関係を明らかにすることに成功した.さらに大腸菌においては,通常の熱力学的な効率は低いが,情報熱力学的な効率は高いことが,現実的な実験パラメータを用いたシミュレーションによって明らかになった.