著者
佐久間 秀範
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.1112-1120, 2007

<b>ねらい (目的)</b>: 五姓格別というと唯識教学の旗印のように日本では考えられてきたが, 吉村誠氏, 橘川智昭氏などの研究から法相宗の事実上の創始者窺基に由来することが判った. 窺基はそれ以前の中国唯識思想が如来蔵思想に歪められていたことへの猛反発から玄奘がもたらした正統インド唯識思想を宣揚しようとし, 一乗思想の対局の五姓格別を持ち出したと考えられる. それならば五姓格別思想も, その起源をインドに辿れるはずである. これまでインドの文献資料の中にその起源を位置づける研究が見あたらなかったので, これを明らかにすることを目的としたのが当論文である.<br><b>方法 (資料):</b> 全体を導く指標として遁倫の『瑜伽論記』の記述を用い, 法相宗が五姓格別のインド起源の根拠と位置づける『瑜伽論』『仏地経論』『楞伽経』『大乗荘厳経論』(偈文, 世親釈, 無性釈, 安慧釈) と補足的資料として『勝鬘経』『般若経』に登場する当思想に関連するテキスト部分を逐一分析し, その歴史的道筋を辿った.<br><b>本論の成果等</b>: 諸文献のテキスト部分を分析した結果, 五姓格別思想は三乗思想と無因子の無種姓とが合成されたものであることが判った. その過程を辿れるのが『大乗荘厳経論』第三章種性品であり, 無種姓という項目が声聞, 独覚, 菩薩, 不定種性と並列された第五番目に位置づけられるようになったのは, 最終的には安慧釈になってからであることが歴史的な発展過程とともに明らかになった. その場合玄奘のもたらした瑜伽行派文献の中国語訳に基づく五姓格別思想は, 玄奘が主として学んだナーランダーの戒賢等の思想と云うよりも, ヴァラヴィーの安慧系の思想を受け継ぐものと考えられる. これは智と識の対応関係などにもいえることであるが, 法相宗の思想の基盤が従来考えられたようなナーランダーにあると云うよりも, ヴァラヴィーなど他の地域に依拠しているケースが認められたと云うことであり, これまでの常識とされていた中国法相教学の思想の位置づけを含めて, 教理の内容を吟味してゆくことを要求する内容となった.
著者
佐久間 秀範
出版者
仏教思想学会 ; 1976-
雑誌
仏教学 (ISSN:0387026X)
巻号頁・発行日
no.55, pp.59-86, 2013-12
著者
佐久間 秀範 Hidenori SAKUMA
出版者
佛教思想學会
雑誌
仏教学 (ISSN:0387026X)
巻号頁・発行日
no.55, pp.59-86, 2013-12

英文抄録:p.169-170
著者
佐久間 秀範
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.1112-1120, 2007-03-25 (Released:2010-03-09)
参考文献数
7

ねらい (目的): 五姓格別というと唯識教学の旗印のように日本では考えられてきたが, 吉村誠氏, 橘川智昭氏などの研究から法相宗の事実上の創始者窺基に由来することが判った. 窺基はそれ以前の中国唯識思想が如来蔵思想に歪められていたことへの猛反発から玄奘がもたらした正統インド唯識思想を宣揚しようとし, 一乗思想の対局の五姓格別を持ち出したと考えられる. それならば五姓格別思想も, その起源をインドに辿れるはずである. これまでインドの文献資料の中にその起源を位置づける研究が見あたらなかったので, これを明らかにすることを目的としたのが当論文である.方法 (資料): 全体を導く指標として遁倫の『瑜伽論記』の記述を用い, 法相宗が五姓格別のインド起源の根拠と位置づける『瑜伽論』『仏地経論』『楞伽経』『大乗荘厳経論』(偈文, 世親釈, 無性釈, 安慧釈) と補足的資料として『勝鬘経』『般若経』に登場する当思想に関連するテキスト部分を逐一分析し, その歴史的道筋を辿った.本論の成果等: 諸文献のテキスト部分を分析した結果, 五姓格別思想は三乗思想と無因子の無種姓とが合成されたものであることが判った. その過程を辿れるのが『大乗荘厳経論』第三章種性品であり, 無種姓という項目が声聞, 独覚, 菩薩, 不定種性と並列された第五番目に位置づけられるようになったのは, 最終的には安慧釈になってからであることが歴史的な発展過程とともに明らかになった. その場合玄奘のもたらした瑜伽行派文献の中国語訳に基づく五姓格別思想は, 玄奘が主として学んだナーランダーの戒賢等の思想と云うよりも, ヴァラヴィーの安慧系の思想を受け継ぐものと考えられる. これは智と識の対応関係などにもいえることであるが, 法相宗の思想の基盤が従来考えられたようなナーランダーにあると云うよりも, ヴァラヴィーなど他の地域に依拠しているケースが認められたと云うことであり, これまでの常識とされていた中国法相教学の思想の位置づけを含めて, 教理の内容を吟味してゆくことを要求する内容となった.
著者
佐久間 秀範
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.035-050, 2016 (Released:2019-02-22)
参考文献数
22

「あるがままにものを見る(yathābhūtam prajānāti)」とはどういうことであろうか。日常我々は目の前にあるものをあるがままに見ていると信じている。最近は脳科学や認知科学の成果の一端をテレビ番組などで一般人にもわかりやすく解説しているので、何らかのきっかけで脳の機能のどこかに障害を持つと、それまでに見えていたものが違って見えることや、昆虫と人間とで同じ花を見ても異なって見えていることを知ることができるようになっている。また高感度カメラで、高速度で動くあるいは変容する物体を撮影し、それをスローモーションで再生したときに、人間が認知している現象世界が現実に起きていることと一致していないことを認識し、我々が事象をそのまま認知していないことに気づかされる。例えば100万分の1のスピードで記録できる高速度カメラで、水の入った風船に針を刺して割れる様子を撮影し、スローモーションで再生した場合、普段我々が認識できない割れる瞬間の様子をつぶさに見ることができ、その様子に驚くのである。最近では、これは人間の脳が暴走しないために情報を制御しているということも我々は知っている。こうした情報によって我々は普段認知している目の前の現象が「あるがままの姿」では必ずしもないと意識することができる。しかし現実世界の真っ只中で常にそのことに思い至ることは難しいのである。我々は「わかっちゃいるけどやめられない」世界に生きているのである。では「あるがままの姿」とは何であろうか、ものを「あるがままに見る」とは何であろうか、普段見ている映像はいったい何なのか、と疑問に思えてくるのではないだろうか。 釈尊が「あるがままにものを見よ」と説いたのであるなら、普段の見え方が幻影であり、その幻影から目覚めたことでブッダとなったことを我々に伝えようとしていたのではないだろうか。釈尊は出家しヨーガの修行を積んだ上でブッダとなったと仏伝は伝えている。インドの宗教者の状況から考えても釈尊が修行者、つまりはヨーガ行者であったことは認められる事実である。そして「あるがままにものを見る」ことがどのようなことかを仏弟子達のヨーガ修行者達はレベルの差はあるとしても、体験として知っていたはずである。こうした事情をヨーガの修行者達の集団から生み出された瑜伽行唯識文献の中に求めて行くことにする。
著者
蓑輪 顕量 林 隆嗣 今水 寛 越川 房子 佐久間 秀範 熊野 宏昭
出版者
東京大学
雑誌
挑戦的研究(開拓)
巻号頁・発行日
2018-06-29

仏教分野は文献を中心に、止観の実践と理論とがどのように形成されたか、実践に伴う負の反応にどう対処したのかを明らかにし、また心理学、脳科学(認知行動科学)との接点を探る。脳科学分野では瞑想時の脳活動を熟練者、中級者を対象に計測し、瞑想時の脳活動を計測し、予想される負の側面について、注意機能に与える影響を検証する。心理学分野ではマインドフルネス瞑想のグループ療法の参加者を対象にランダム化比較試験を実施し、媒介変数の絞り込み、意図通りに進まない場合の対処法、有害事象の有無について検討する。さらに初学者に止と観の瞑想の順番を変えて実習させた場合に生じる問題点、およびその対処方法について検討する。
著者
佐久間 秀範
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.35-50, 2016

&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;「あるがままにものを見る(yathābhūtam prajānāti)」とはどういうことであろうか。日常我々は目の前にあるものをあるがままに見ていると信じている。最近は脳科学や認知科学の成果の一端をテレビ番組などで一般人にもわかりやすく解説しているので、何らかのきっかけで脳の機能のどこかに障害を持つと、それまでに見えていたものが違って見えることや、昆虫と人間とで同じ花を見ても異なって見えていることを知ることができるようになっている。また高感度カメラで、高速度で動くあるいは変容する物体を撮影し、それをスローモーションで再生したときに、人間が認知している現象世界が現実に起きていることと一致していないことを認識し、我々が事象をそのまま認知していないことに気づかされる。例えば100万分の1のスピードで記録できる高速度カメラで、水の入った風船に針を刺して割れる様子を撮影し、スローモーションで再生した場合、普段我々が認識できない割れる瞬間の様子をつぶさに見ることができ、その様子に驚くのである。最近では、これは人間の脳が暴走しないために情報を制御しているということも我々は知っている。こうした情報によって我々は普段認知している目の前の現象が「あるがままの姿」では必ずしもないと意識することができる。しかし現実世界の真っ只中で常にそのことに思い至ることは難しいのである。我々は「わかっちゃいるけどやめられない」世界に生きているのである。では「あるがままの姿」とは何であろうか、ものを「あるがままに見る」とは何であろうか、普段見ている映像はいったい何なのか、と疑問に思えてくるのではないだろうか。<br> 釈尊が「あるがままにものを見よ」と説いたのであるなら、普段の見え方が幻影であり、その幻影から目覚めたことでブッダとなったことを我々に伝えようとしていたのではないだろうか。釈尊は出家しヨーガの修行を積んだ上でブッダとなったと仏伝は伝えている。インドの宗教者の状況から考えても釈尊が修行者、つまりはヨーガ行者であったことは認められる事実である。そして「あるがままにものを見る」ことがどのようなことかを仏弟子達のヨーガ修行者達はレベルの差はあるとしても、体験として知っていたはずである。こうした事情をヨーガの修行者達の集団から生み出された瑜伽行唯識文献の中に求めて行くことにする。
著者
佐久間 秀範
巻号頁・発行日
2012

科学研究費助成事業(科学研究費補助金)研究成果報告書:基盤研究(C)2009-2011
著者
吉水 千鶴子 佐久間 秀範 小野 基
出版者
筑波大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

本研究は、チベット人シャン・タンサクパ著『中観明句論註釈』の写本解読により、インドからチベットへ、チャンドラキールティの帰謬論証を用いる中観思想がインドの仏教論理学と融合しながら伝承された11~12世紀の時代思潮を明らかにした。すなわちチャンドラキールティ自身が先行するディグナーガの論理学を取り入れており、中観派によって他者に真実を知らしめるための命題と論理の使用は是認される。この新しい知見により、本研究は中観仏教思想史を見直し、論理学との融合過程に焦点をあてて再構築した。
著者
佐久間 秀範 吉水 千鶴子 ALBERT Muller 馬淵 昌也 吉村 誠 橘川 智昭 岡田 憲尚
出版者
筑波大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2009

研究期間内に以下の三つのプロジェクトを完成させた。1.『大乗荘厳経論』第三章、第六章、第十九章の偈頌(サンスクリット語、チベット語訳、漢訳)、世親釈(サンスクリット語、チベット語訳、漢訳)、無性釈(チベット語訳)、安慧釈(チベット語訳)の対照テキスト。2.研究チームで五姓各別のインド、中国、韓国、日本の総合研究。3.研究チームで玄奘訳『仏地経論』全体の日本語訳(日本初)の吟味。