著者
小池 順子
出版者
千葉経済大学
雑誌
千葉経済論叢 = CHIBA KEIZAI RONSO (ISSN:21876320)
巻号頁・発行日
no.54, pp.1-19, 2016-07-21

本論文は、音楽における表現とはいかなる営為かという問いの解明を目指している。この課題を遂行するにあたり、美学と音楽美学の知見を手がかりに、表現の概念が様々に揺れ動いてきたことを論証した。造形芸術においては、表現概念の中で描写と表出の対立が長くあった。対照的に、音楽芸術は造形よりも早く、表出芸術として認識された。19世紀には作曲家が表現の主体として存在価値を高めた。しかし作曲家の表現としての音楽は、演奏行為を通じて初めて直観的になる。演奏行為が演奏者という別の主体に委ねられるとき、次の問いが導かれる。第一の問いは、演奏者の行為は作曲家の表現を単に再現する行為なのかという問い、第二の問いは、演奏者の演奏行為は表現になりうるか、なりうるとしたら表現者としての演奏者はいかなることを遂行しているのかという問いである。
著者
小池 順子
出版者
千葉経済大学
雑誌
千葉経済論叢 The proceedings of Chiba Keizai University (ISSN:21876320)
巻号頁・発行日
no.54, pp.1-19, 2016-07

本論文は、音楽における表現とはいかなる営為かという問いの解明を目指している。この課題を遂行するにあたり、美学と音楽美学の知見を手がかりに、表現の概念が様々に揺れ動いてきたことを論証した。造形芸術においては、表現概念の中で描写と表出の対立が長くあった。対照的に、音楽芸術は造形よりも早く、表出芸術として認識された。19世紀には作曲家が表現の主体として存在価値を高めた。しかし作曲家の表現としての音楽は、演奏行為を通じて初めて直観的になる。演奏行為が演奏者という別の主体に委ねられるとき、次の問いが導かれる。第一の問いは、演奏者の行為は作曲家の表現を単に再現する行為なのかという問い、第二の問いは、演奏者の演奏行為は表現になりうるか、なりうるとしたら表現者としての演奏者はいかなることを遂行しているのかという問いである。
著者
小池 順子
出版者
千葉経済大学
雑誌
千葉経済論叢 (ISSN:0915972X)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.1-14, 2008-07-26

本論文は、道徳教育に関する学習指導要領の中から特に「法や決まりの意義を理解する」という文言に着目し、これを学校の教育内容とすることの難しさについて考察している。現代日本で道徳教育を難しくしている「問題状況」は、資本主義が抱える矛盾に着目するベル(1976)の論考によれば、社会の「発展」上必然的な帰結である。したがって、学校や教師は「法やきまり」を教える難しさの内実を認識する必要がある。さらにこれらの意義を学校で教えるに当たっては、現代の子どもたちがもつ自己実現の欲望に依拠することに可能性があることを明らかにした。