著者
小野 健吉
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.61-81, 2014-09-30

景観年代が寛永十年(一六三三)末~十一年初頭と考えられる『江戸図屏風』(国立歴史民俗博物館所蔵)には、三邸の大名屋敷(水戸中納言下屋敷・加賀肥前守下屋敷・森美作守下屋敷)と二邸の旗本屋敷(向井将監下屋敷・米津内蔵助下屋敷)で見事な池泉庭園が描かれているほか、駿河大納言上屋敷や御花畠など、当時の江戸の庭園のありようを考える上で重要な図像も見られる。本稿では、これらを関連資料等とともに読み解き、寛永期の江戸の庭園について以下の結論を得た。
著者
小野 健吉
出版者
山川出版社
雑誌
歴史と地理 (ISSN:13435957)
巻号頁・発行日
no.630, pp.31-41, 2009-12
著者
小野 健吉
雑誌
観光学 (ISSN:21852332)
巻号頁・発行日
no.20, pp.13-25, 2019-03-08

Temple gardens have played an important role for development of garden tourism in Japan since the 17th century. It is unique in the world. This paper first organizes historical events that represent the temple-garden relationship in Japan as follows: 1)A type of pure land garden built in the precinct of Amida-jodoin temple of Hokkeji grand temple in Nara in the 8th century was the first temple garden in Japan. 2)During the 9th-10th centuries, royal and aristocratic villas including their gardens in the suburbs of Kyoto were converted to temples. 3)Pure land garden style was established in the 11th century and many temples adopting this style had been built until the 14th century. 4)A group of monks called Ishidate-so were engaged in building gardens as specialists during the 12th-14th centuries. 5)In the 13th century, a garden located behind the temple building complex was introduced to Zen Buddhism temple. 6)A distinguished Zen monk Soseki Muso designed magnificent gardens such as those in Tenryuji temple and Saihoji temple in the 14th century. 7)Kitayama-dono villa and Higashiyama-dono villa which had beautiful gardens were built by Ashikaga shoguns, and they were soon converted to Kinkakuji temple and Ginkakuji temple respectively in the 14th -15th centuries. 8)A number of dry landscape gardens were built in Zen Buddhism temples mainly in Kyoto by Zen monks around the 16th century. 9)Many gardens were built in temples of any Buddhism sects in Kyoto, and the trend of garden-building in temples spread across the country in the Edo period (17th -19th centuries). The paper then confirms the thriving of religious tourism in the Edo period. By consulting historical materials including Miyako-meisho-zue, a general guidebook of Kyoto published in 1780, and Miyako-rinsen-meisho-zue, a garden guidebook of Kyoto published in 1799, the paper argues that temple gardens were important tourist attractions in Kyoto and one of the main destinations for religious tourists. The paper concludes that Japanese temple gardens had been developed in the long history of temple-garden relationship and they became tourist attractions during the Edo period. These facts represent the unique feature of Japanese garden tourism.
著者
小野 健吉
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌 : journal of the Japanese Institute of Landscape Architecture (ISSN:13408984)
巻号頁・発行日
vol.68, no.5, pp.369-372, 2005-03-31
参考文献数
15
被引用文献数
2

Luis Frois (1532-1597), a Portuguese Catholic missionary, described some gardens of temples and mansions in Kyoto which he visited in 1565, in his work History of Japan. Through the examination of the description, I offer the following interpretation that could enrich the image of the late 16th century gardens and their social function in Kyoto: 1) Pruning technique, which Frois referred to as a kind of topiary in the article on the mansion garden of the Ashikaga shogun, might have been originally developed in Japan by this age. 2) A dry landscape garden of a monastery of the Daitokuji temple had flowers of four seasons as components, which suggests that it might have been more usual at that time for a dry landscape garden to have flowers as components than in the Edo period. 3) Some gardens were well maintained and might have functioned as a relaxation place, a kind of tourism resource and a symbol of the order, in spite of the fact that it had been troublous age for one hundred years.
著者
小野 健吉
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.61-81, 2014-09

景観年代が寛永十年(一六三三)末~十一年初頭と考えられる『江戸図屏風』(国立歴史民俗博物館所蔵)には、三邸の大名屋敷(水戸中納言下屋敷・加賀肥前守下屋敷・森美作守下屋敷)と二邸の旗本屋敷(向井将監下屋敷・米津内蔵助下屋敷)で見事な池泉庭園が描かれているほか、駿河大納言上屋敷や御花畠など、当時の江戸の庭園のありようを考える上で重要な図像も見られる。本稿では、これらを関連資料等とともに読み解き、寛永期の江戸の庭園について以下の結論を得た。 将軍の御成などを念頭に置いて造営された有力大名下屋敷の広大な池泉庭園では、滝・池・護岸石組・州浜といった水をめぐる各種デザインが大きな見せ場であった。そのため、水源の確保が極めて重要な課題であり、各大名屋敷では、湧水のほか上水道や小河川・都市水路などからの導水に大きな努力を払ったと見られる。一方、隅田川沿いの旗本屋敷では潮汐の影響を受ける隅田川から直接導水する「潮入り」の手法が発明され、これがその後に海岸沿いの大名屋敷の庭園でも採用されることとなったと考えられる。また、庭園を眺める視点場として二階建て数寄屋楼閣が重要な役割を果たしていたことも注目される。さらに、池泉庭園を備えない上屋敷などでは市中にあって山居をイメージさせる、都市文化の極みともいうべき茶室と露地が設えられていたことが駿河大納言上屋敷の様子から窺える。庭園管理という観点では、例えば樹木を剪定整枝して仕立てる技術がすでにしっかりと定着していたことが植物の描き方に示される。加えて、御花畠からは、花卉を中心とする園芸文化が、いわば江戸の主人たる将軍の先導のもと、文字通り豊かに花開いていたことがわかる。以上のように、慶長八年(一六〇三)の開府からおおよそ三十年を経た江戸では、庭園をめぐる文化は多様で多面的なありようを見せていたのである。
著者
小野 健吉
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.50, no.5, pp.13-17, 1986-03-31 (Released:2011-07-19)
参考文献数
9
被引用文献数
1

小川治兵衞 (『植治』) は、明治中期から昭和初期にかけて、無隣庵 (山縣有朋別邸) をはじめとする数多くの別荘庭園を作庭した。そうした別荘庭園の代表的なものの一つである封龍山荘庭園について、『京華林泉帖』(明治42年)『日本美術と工芸』(明治45年) の記事などから作庭当初の構想、世評を考察した。その結果、借景、庭園の構成についての小川治兵衞の考え方及び本庭園の世評の高さが明らかになった。
著者
松本 健 小野 健吉 青木 繁夫 大井 邦明 川西 宏幸 藤井 英夫
出版者
国士館大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
1996

近年の海外における日本の考古学的、人類学的、民俗学的調査研究はめざましいものがある。また同時に海外の文化遺産の保存・修復事業も盛んに行われるようになり、日本も国際貢献の立場からその協力を求められている。国際協力にはその地域の文化遺産を中心とした基層文化を研究し、また保存修復に関わる法律の整備、環境の調査や技術的研究が必要である。さらに各地域において長期に渡って調査研究に携わっている各分野の専門家による調査研究で、文化遺産を護る現在の経済的、政治的、文化的要因や環境が地域によって極めて異なることが明らかになった。従って文化遺産に対する画一的な経済的、技術的協力ではむしろ問題を残す結果となる。また従来のように、学術的調査研究や保存修復研究だけでは真の文化遺産の研究とは言いがたい。今後は各地域の文化遺産の学術的研究特に人文科学的研究を推進するとともに、保存科学や分析などを中心とした自然科学的研究、そしてさらに学術的価値の高い文化遺産を単に保存修復するだけでなく、それらを未来へ活かす研究、すなわちその地域における現在の政治、経済、宗教、社会教育、地域などと文化遺産の関わりを調査研究する社会科学的研究を実施していくことが不可欠となる。
著者
小野 健吉 山梨 絵美子
出版者
奈良国立文化財研究所
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1994

近代京都画壇で活躍した3人の日本画家の作庭について、それぞれ、以下のような成果を得た。(1)山元春挙:(1)春挙は、芦花浅水荘の庭園を機能的にも形態的にも琵琶湖と一体のものとしてデザインした。(2)庭園は建築と平行して施工された。(3)施工は、当初、京都の庭師・本井政五郎、その後、大津の庭師・木村清太郎が引き継ぐ。(2)橋本関雪:(1)関雪は、蟹紅鱸白荘にはじまり、白沙村荘,走井居、冬花庵と、生涯、建築や作庭に情熱を保ち続けた。(2)建築や作庭も、絵画と同様の創作と見なしていた。(3)白沙荘の施工は、青木集、本田安太郎などの庭師がおこなったが、細部にわたり、関雪の指示があった。(4)関雪の庭園には、中国の文人趣味に対する傾倒や歴史的教養主義がうかがえるが、明治大正時代に京都で主流をなした写実的風景式庭園のはんちゅうに入るものといえる。(3)竹内栖鳳:(1)霞中庵庭園の築造は、従来いわれていた大正元年ではなく、大正3年頃の可能性が大きい。(2)庭園のデザインは、建築同様、栖鳳の考案によるものである。施工にたずさわった庭師は本井政五郎である可能性がある。(3)霞中庵庭園は、芸生の広がり、カエデの樹林、流れ外部景観(嵐山)などで構成され、その平明さ、軽快さは、栖鳳の画風と一脈通じるものがある。上記の各画家の作庭を観察すると、関雪・栖鳳については、作庭と画風に共通性が見出せるが、春挙の芦花浅水荘は大和絵風の明るさ・のびやかさがあり、峻厳な画風とはやや趣を異にする。しかし、その春挙にしても、写真に熱中したという写実を重んじる基本的な態度が、その作庭の中に着取できる。
著者
小野 健吉
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌 : journal of the Japanese Institute of Landscape Architecture (ISSN:13408984)
巻号頁・発行日
vol.58, no.5, pp.1-4, 1995-03-31

蘆花淺水荘は、近代京都画壇で活躍した日本画家・山元春擧が、郷里滋賀県大津市の琵琶湖畔に営んだ別荘である。庭園は、大正4〜6年ごろを中心に、春擧の指示のもと京都の庭師・本井政五郎らにより作庭された。築造時の記録、築造後間もない時期の写真・図面・文献、関係者の証言などから、この庭園が建築と並行して築造されたこと、風景画にすぐれていた春擧が絵を描く感覚でこの庭園のデザインに取り組んだこと、琵琶湖を視覚的にも利用の上でも主たる構成要素とする傑出したデザインの写実的風景式庭園であったことなどを確認した。
著者
小野 健吉
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.49, no.5, pp.49-54, 1986-03-31
被引用文献数
1

明冶中期〜昭和初期にかけて京都を中心に多岐にわたる分野で活躍した日本画家・神坂雪佳は、庭園にも関心を示し、設計にかかわった大橋氏松ヶ崎別邸(無盡庵)庭園では雪佳らしい特色も出した庭園意匠を見せている。この時期、雪佳のほかに竹内栖鳳、橋本関雪らの画家も庭園に関心を持ち、自邸の庭園を作っている。そしてこれらの画家の庭園への関心が、この時期の京都の庭園の水準を引き上げる要因の一つであった。