著者
次山 淳
出版者
独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2006

日本列島の弥生時代終末から古墳時代前期にあたる3・4世紀において、中国大陸・朝鮮半島をはじめとする東アジア諸地域との間にさまざまなかたちの交流があったことは、彼我の多様な考古資料と、『魏志倭人伝』等の文献史料の記載からうかがい知ることができる。本研究では、考古資料、なかでも土器を主たる材料として、当時の日本列島と朝鮮半島の交流のありかたを考察した。日韓双方の土器の分布状況の分析から、当該期には遺構の密集度の高い大規模な集落群を結ぶ交通路が形成され、対外交渉の場を博多湾沿岸におく極めて方向性の明確な通交体制が形成されていた様子が理解された。
著者
渡辺 晃宏 馬場 基 市 大樹 山田 奨治 中川 正樹 柴山 守 山本 崇 鈴木 卓治
出版者
独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所
雑誌
基盤研究(S)
巻号頁・発行日
2003

奈良文化財研究所では、1961年に平城宮跡で初めて木簡を発掘調査して以来、20万点を超える木簡を調査・研究してきた。今回の研究では、この蓄積と、文字認識や情報処理に関する最新の情報学・情報工学との連携を図り、(1)木簡の情報を簡易にデジタル化するシステムの開発、(2)木簡の文字画像データベースの作成、(3)木簡解読支援データベース群の構築、(4)木簡の文字自動認識システム(OCR)の開発の4点を軸に研究を進め、木簡の文字画像データベース「木簡字典」と、木簡の文字解読支援システム「Mokkan Shop」(モッカンショップ)を開発した。「木簡字典」には、カラー・モノクロ・赤外線写真・記帳ノート(木簡の読み取り記録)の4種類の画像を掲載しており、これまでに約1,200字種、約20,000文字を収録した。「Mokkan Shop」には、今回開発した墨の部分を抽出するための画像処理手法や欠損文字に有効な文字認識システム、及び今回入力した古代の地名・人名・物品名のデータベースに基づく文脈処理モジュールを搭載し、解読の有効性を高めることができた。これにより、全体が残るとは限らない、また劣化の著しい、いわば不完全な状態にあるのを特徴とする木簡を対象とする、画期的な文字の自動認識システムの実用化に成功した。「木簡字典」と「Mokkan Shop」は、木簡など出土文字資料の総合的研究拠点構築のための有力なツールであり、当該史料の研究だけでなく、歴史学・史料学の研究を大きく前進させることが期待される。なお、今回の研究成果の公開を含めて木簡に関する情報を広く共有するために総合情報サイト「木簡ひろば」を奈良文化財研究所のホームページ上に開設した。また、WEB公開する木簡字典とは別に、『平城宮木簡』所収木簡を対象とした印刷版「木簡字典」として、『日本古代木簡字典』を刊行した。
著者
松井 章 石黒 直隆 南川 雅男 中村 俊夫 岡村 秀典 富岡 直人
出版者
独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2003

本研究を通じて、日本列島における家畜出現の実相、特にブタの存在、牛馬の出現、韓国忠南考古学研究所、中国浙江省文物考古研究所、台湾中央研究院語言研究所、ロシア科学アカデミー極東支部などと研究交流を行い、日本列島の周辺地域における家畜の出現についての見通しを明らかにすることができた。日本列島では、長崎県原の辻遺跡の弥生時代中期の層から出土したイノシシ属のDNA及び安定同位体による食性分析を行ったが、いずれも野生の結果が出た。愛媛県阿方貝塚の弥生時代前期層と宮前川遺跡群北齊院遺跡弥生終末、庄内期出土のイノシシ属には、東アジア系ブタの値を持つものが得られた。牛馬は畿内では馬は5世紀、牛は6世紀という従来の結果を踏襲した。海外では韓国忠南考古学研究所による金海ヘヒョンニ貝塚の発掘に参加し、ブタや牛馬が紀元前1世紀にさかのぼることを確かめた。中国では浙江省田螺山遺跡の調査に参加し、7千年前の層から水牛、ブタの出土を確かめることができた。台湾では、台南、恒春半島の遺跡から出土した動物遺存体を調査し、イノシシ属のサンプルを採取したが、野生・家畜の判別をつけることはできなかった。台湾とは今後、本研究を継続することになっている。ロシアはウラジオストック所在の科学アカデミー極東支部を訪問し、新石器時代ボイスマン貝塚1、2から出土した動物遺存体を調査し、サンプリングを行ったが、その分析はまだ結果が出ていない。以上のように、日本と周辺地域の家畜の出現時の様相を明らかにする目処をつけることができ、今後の共同研究の道を確保することができたことは大きな成果と言える。本研究で培った共同研究の基礎を今後、さらに発展させ、真に総合研究として東アジアにおける家畜の起源とその伝播を明らかにすることができればと考える。
著者
深澤 芳樹
出版者
独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1999

日本列島にタタキ技法が初めて現れるのは、弥生土器においてである。その技法は、すでに高い水準にあったことから、自生したとは考えられず、その由来を海外に求めざるをえない状況にあった。その候補にはこれまで、灰陶系統の瓦質・陶質土器があったが、これは本研究の3つの視点、つまり道具・製作工程・身体技法から、とても肯首できるものではないことが明らかである。最近、朝鮮半島の無文土器のうち、松菊里式土器にタタキメとおぼしき凹凸痕が、発見されることが増えてきた。本研究経費を用いて、大韓民国で忠清南道寛倉里遺跡や忠清南道古南里貝塚の資料を詳細に観察した。そしてこれらの凹凸痕に揺れや振れなどがなく、器具を圧着してできた痕跡であることを確認し、5〜6cmごとで不連続部分があり、その圧着は円弧状タタキメのパターンを描くことを確かめた。この結果、これら松菊里式土器の平行条線は、平行タタキメそのものであり、さきの3つの視点からみて、この松菊里式土器製作にかかわった技法こそが、日本列島の弥生土器が習得したそのものであるとの結論に達した。現在、このタタキメをもつ松菊里式土器は、朝鮮半島の南西部に偏在する。このタタキ技法は、楽浪土器のそれとは異系統であることから、その伝播経路は、海を越えて山東半島に求めることになる。中国大陸海洋沿岸部には、縄タタキによらない印紋硬陶文化があるので、その起源地にこれを据えることが最も蓋然性の高い理解であると考える。つまり弥生土器のタタキ技法は、大陸沿岸から朝鮮半島西南部に伝わり、これが日本列島に達したものである、との仮説を提起する。今後は、これらの技法と楽浪・三韓土器の技法を比較検討し、研究対象地域を広げたい。
著者
千田 剛道 ちだ たけみち Chida Takemichi
出版者
独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所
雑誌
奈良文化財研究所紀要 (ISSN:13471589)
巻号頁・発行日
no.2005, pp.28-29, 2005-06-10

法隆寺若草伽藍出土の蓮華文鬼瓦と、その直接の源流と思われる百済の鬼瓦の様相の比較から出発して、鬼瓦を含む道具瓦における古代日本と百済の様相の一端に言及する。
著者
吉川 聡 よしかわ さとし Yoshikawa Satoshi
出版者
独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所
雑誌
奈良文化財研究所紀要 (ISSN:13471589)
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.46-47, 2006-06-20

先年当研究所が編集・出版した『興福寺典籍文書目録』第3巻には、第69函80号として、「有法差別本作法義」を収録した。その後皆川完一氏より、この史料に据えられた花押は、鎌倉時代に興福寺再建を進めた興福寺別当として著名な、信円の花押である旨のご教示を頂いた。重要な指摘であり、その結果新たな問題も生じるので、ここに報告したい。
著者
箱崎 和久
出版者
独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所
雑誌
奨励研究(A)
巻号頁・発行日
2000

室生寺灌頂堂の建築史的評価 昨年の検討から、室生寺灌頂堂(現本堂)は、後宇多法皇の帰依により、北京律僧である空智房忍空の建立となることが判明した。これにより、灌頂堂は鎌倉後期における天皇家の第1級の建築に近い形態とみられ、遺構が残らない当時の天皇家・公家の建築を具体的に知ることのできる資料になると考えられる。一方で造営主体が北京律僧であることは、これも具体的な建築遺構が明確でない北京律僧による建築を知る好資料となるであろう、灌頂堂の建築意匠・技術は、このような背景を反映したとみれば理解しやすい。灌頂堂には、奈良地方に希薄な禅宗様建築の細部様式が認められ、泉涌寺に禅宗様が採用されていた可能性が大きいことを勘案すれば、北京律僧が禅宗様を導入したと考えられる。また、内部の住宅的要素については、京都風の意匠というより、むしろ天皇家・公家の影響と理解できるだろう。派生する問題 室生寺御影堂に用いられた木製礎盤は禅宗様の影響が及んだものであり、これも北京律僧が関与したためと推定される。このように、少なくとも南都における禅宗様系の細部形式の伝播には、北京律僧の影響を考慮しなければならなくなった。当時、北京律僧は東寺・東大寺の大勧進をつとめたほか、高野山・四天王寺・鎌倉などでも活躍しており、これらの寺院や地域における建築の様相を、禅宗様の伝播という観点も含めて、北京律僧の活動からとらえ直してみる必要がある。また、本例は遺構として残る建築の帰依者を特定できる好例であり、建築意匠・空間を考えるうえで、工匠や本寺-末寺の関係のほかに、帰依者について再考する必要性を再認識させた。北京律僧の特質をとらえるには、西大寺系律宗には明確でない、有力帰依者との関係をとらえることが重要である。
著者
沢田 正昭 巽 淳一郎 西村 康 町田 章 村上 隆 二宮 修治
出版者
独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1999

陶磁器研究は肉眼観察が基本であるが、さまざまな自然科学的手法を駆使して得られた新しい知見が、産地や年代、さらには製作技法に関する理解を深める可能性を秘めている。本研究は、陶磁器の流通の実態を解明するために、自然科学的な方法論とその具体的な検証法の確立をめざすことを目的とし、米国スミソニアン研究機構と、奈良文化財研究所をはじめとする文化庁関係機関との間で1990年から実施している日米国際共同研究の一環として行なった。まず、陶磁器の産地推定に対する分析手法の確立をめざして、胎土に対する熱中性子放射化分析、蛍光X線分析の比較検討を行なった。分析対象には17世紀中葉の肥前産磁器を選び、生産地資料として現地窯跡出土資料、消費地資料として、東大構内遺跡やベトナムなど海外での出土資料も含めて検討した結果、双方の分析結果は良い一致を示すことがわかった。また、同じ資料に対して大型放射光施設SPring-8において高エネルギー蛍光X線分析を行い、新しい分析手法としての可能性を検証した。釉薬に関しては、瀬戸美濃産陶磁器資料を研究対象とし、蛍光X線分析による成分分析、電子線プローブマイクロアナライザー(EPMA)による釉薬層の微細構造解析を行い、不均一な元素分布状態に対する新しい知見を得た。また、スミソニアン研究機構フリーア美術館所蔵の漢代緑釉に対する鉛同位体比測定から、産地推定の可能性を示唆することができた。さらにカンボジアにおける窯跡群の探査を実施し、窯構造の調査を行なうとともに、出土陶器片に対して熱ルミネッセンス法による年代測定も試みた。関係者の相互理解を深めるために研究会に加えて、日米の研究者が一堂に会する国際シンポジウムを開催し、本研究の成果を公開すると共に、陶磁器資料研究に対するさまざまな問題点を議論する機会を設けた。
著者
小林 謙一
出版者
独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2004

日本列島、韓半島、中国における武器・武具の資料を比較すると、それぞれの地域間の交流を示す資料が明らかになる一方で、各地域に特徴的な在地の独自性を示す資料の存在も明らかになった。日本列島に関しては、弥生時代以降、弓矢をはじめとする攻撃用武器と甲冑等の防禦具は、相互に関連しつつ変遷してきたが、5世紀中葉には、同時に、新式の攻撃用武器、防禦具が導入された。これらは基本的に騎兵装備であり、中国東北地方、高句麗から韓半島を経由して日本列島にもたらされたことが明らかになった。ただし、中国東北地方で4世紀に成立した、馬も鎧を着用した重装騎兵の装備は、韓半島南端においても出土しており、両者が同一の系譜であることが確認できるのであるが、日本列島では、馬甲・馬冑の出土が皆無に近い状況であることから、ほとんど普及しなかったと考えられる。このことは、騎兵装備が騎兵戦という戦闘方法と一体で導入されたのではなく、より性能の高い新式の武器・武具として取り入れられたことを物語っている。当時の日本列島において、重装騎兵の装備は、必要とされなかったのである。東アジア各地域における武装の相違は、戦闘方法の違いでもあった。一方、防禦施設についても、高句麗古墳の壁画に描かれた城壁や土城を巡る高い土塁は、日本列島で確認されていない。こうした点も、武器・武具は、日本列島内における戦いに対処する装備として整えられてきた一因と考えられる。さらに、騎兵と関連する馬に関して、日本列島においては、馬具の出現が、騎兵装備より時期的に先行している事実も加味すれば、その時点における必要なものを選択して取り入れるという、受容する側の状況があったことも考慮すべきであろう。