著者
岡田 英己子
出版者
首都大学東京
雑誌
人文学報. 社会福祉学 (ISSN:03868729)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.23-97, 2005-03-25

1990年頃から「平塚らいてうは優生思想の持ち主」論が通説として流布している。その典拠とされるのが、平塚執筆の「避妊の可否を論ず」に記された断種法要求であるが、実は原稿は3種類あり、刊行時期も食い違う。では、フェミニズムの旗手である平塚は、いつ、どのようにして女性の「性と生殖の自己決定」から、「性と生殖の国家管理」断種法要求にまで暴走していくのか。平塚著作の検討を通して、新婦人協会の花柳病男子結婚制限法案の修正経緯を概観し、同時に民族衛生学会の永井潜やドイツ社会事業に精通する海野幸徳との比較から、「いか程の優生思想の持ち主なのか」を査定した。これは優生学歴史研究方法の再考であり、また第一波フェミニズムの最初の敗退の背景解明にも繋がるものである。
著者
岡田 英己子
出版者
東京都立大学人文学部
雑誌
人文学報. 社会福祉学 (ISSN:03868729)
巻号頁・発行日
no.21, pp.23-97, 2005-03-25

1990年頃から「平塚らいてうは優生思想の持ち主」論が通説として流布している。その典拠とされるのが、平塚執筆の「避妊の可否を論ず」に記された断種法要求であるが、実は原稿は3種類あり、刊行時期も食い違う。では、フェミニズムの旗手である平塚は、いつ、どのようにして女性の「性と生殖の自己決定」から、「性と生殖の国家管理」断種法要求にまで暴走していくのか。平塚著作の検討を通して、新婦人協会の花柳病男子結婚制限法案の修正経緯を概観し、同時に民族衛生学会の永井潜やドイツ社会事業に精通する海野幸徳との比較から、「いか程の優生思想の持ち主なのか」を査定した。これは優生学歴史研究方法の再考であり、また第一波フェミニズムの最初の敗退の背景解明にも繋がるものである。
著者
中村 満紀男 平田 勝政 岡田 英己子 二文字 理明 星野 常夫 荒川 智 宮崎 孝治 渡辺 勧持
出版者
筑波大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1999

19世紀末にイギリスで誕生した優生学は、瞬く間に欧米列強にも後進国にも受容される。それは、それぞれが優生学を必要とする国内情勢と国際環境に置かれており、民族自滅を回避し、人種(種族)改良をめざしていたからである。その具体策として、肯定(積極)的優生学よりは否定(肯定)的優生学が諸科学の関与のもとに展開される。その主たる対象としては「精神薄弱」「狂気」等が、方法としては断種が選択される。断種の当初の目的は、優生学を目的とする劣等種の減少・解消と収容施設の不足に対する補完を意図する優生断種にあったが、優生学の科学的根拠に対する疑問とともに、精神薄弱者のコミュニティ生活可能論および性行動受容論、子どもをもつことによる生活・養育の困難等の社会適応上の理由に基づく選択断種へと転換することになる。この過程において、精神薄弱者およびその行動を正常とみる範囲が拡大したことは確かである。このような優生学とその影響は、国と地方によって差異があったが、それは優生学に対する支持勢力の有無に基づいていた。宗教的要素と科学の関与の度合いが最大の要因となる。概ね優生学を歓迎したプロテスタント教会と社会学等の関与が強力な場合は、優生学運動は拡大し、断種法が可決されたが、ローマ・カトリック勢力が強大で、科学が消極的な場合は、優生学運動の影響は限定され、断種は促進されなかった。20世紀末に至ってても優生学は消失していない。生殖医療と先端医療技術の普及にともなって、障害発生予防を目的として、優生学的思考を孕んだ新優生学として、社会下層やマイノリティや特定のエスニシティに関連して発展しつつある。
著者
岡田 英己子
出版者
首都大学東京
雑誌
人文学報. 社会福祉学 (ISSN:03868729)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.1-46, 2002-03-25

都の重度障害者政策の転機となる療護施設の設立経緯を通して、ケア(介護)・援助の当事者性と専門職性の相互補完性を検討する。具体的には救護施設での「永久」介護拒否宣言と、府中療育センター「闘争」での二つの問題提起から、女性障害者が主導する障害者の権利運動論の形成過程をみる。また自立に向けた療護施設での条件整備と施設職員の1970年代の自己の職業像の変化を辿りつつ、基礎構造改革で見直しを迫られる療護施設の限界にも言及する。
著者
岡田 英己子
出版者
首都大学東京
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

1990年代から「平塚らいてうは優生思想の持ち主」論が流布している。しかし、その説の典拠はあいまいで、史資料の誤った引用が目立つ。平塚はたしかに優生思想の持ち主であるが、断種法制定運動を率いたわけではな、いからだ。本研究では、いつ頃から、どのようにして、平塚が優生思想に親近感を持つのかの解明を、主目的とする。III部構成である。I部「平塚らいてうの優生思想形成過程-大澤謙二・永井潜の『反』フェミニズムとの対比を通して」では、日独の結婚制限・断種法情報比較から、若き平塚の優生思想形成過程を追う。平塚は日本女子大学校時代に東大医学部生理学教室初代教授の大澤謙二講義を聴く。大澤の後継者である永井も、同時期に大澤講義を通して結婚制限に研究関心を待つことが明らかにされる。II部「断糎法制定(国民優生法)に至る動き」では、永井に代表される東大医学部の一群が、ナチ断種法に傾倒していく経緯を年表で提示し、それが平塚のフェミニズムに依拠する優生思想とは異なることを示す。III部「戦後優生思想の読みかえと隠蔽・忘却」では、優生保護怯制定時の平塚(1949)と永井(1948/49)の原稿を比べ、永井は「反」フェミニズムの姿勢を貫き、かつ彼の優生学テキストは戦後も変化がない点を明らかにする。研究成果は三点である。1.1990年代に流布する「平塚は優生思想の持ち主」論を批判し、「母性主義フェミニズム」とは別の平塚フェミニズム論の新たな可能性を探った。2.東大教授永井が優生学研究と断種法制定運動に没頭する理由が明らかにされた。3.日独比較を機軸にする優生学の歴史研究方法論のモデル例が示された。
著者
岡田 英己子
出版者
東京都立大学人文学部
雑誌
人文学報 (ISSN:03868729)
巻号頁・発行日
no.361, pp.23-97, 2005-03

1990年頃から「平塚らいてうは優生思想の持ち主」論が通説として流布している。その典拠とされるのが、平塚執筆の「避妊の可否を論ず」に記された断種法要求であるが、実は原稿は3種類あり、刊行時期も食い違う。では、フェミニズムの旗手である平塚は、いつ、どのようにして女性の「性と生殖の自己決定」から、「性と生殖の国家管理」断種法要求にまで暴走していくのか。平塚著作の検討を通して、新婦人協会の花柳病男子結婚制限法案の修正経緯を概観し、同時に民族衛生学会の永井潜やドイツ社会事業に精通する海野幸徳との比較から、「いか程の優生思想の持ち主なのか」を査定した。これは優生学歴史研究方法の再考であり、また第一波フェミニズムの最初の敗退の背景解明にも繋がるものである。