著者
日下 渉 初鹿野 直美 伊賀 司 小島 敬裕 宮脇 聡史 今村 真央 日向 伸介 北村 由美 新ヶ江 章友 青山 薫 小田 なら 田村 慶子 岡本 正明
出版者
名古屋大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2016-04-01

世界各地の国家と市民社会は、性的マイノリティに対して「黙認」「抑圧」「矯正」「支援」など多様な対応をとってきた。なぜ国家と市民社会による性的マイノリティへの対応は、かくも多様なのか。一般に西洋では、民主主義と自由な市民社会が性的マイノリティの権利拡大に寄与するとされる。しかし東南アジアでは、性的マイノリティの権利要求は、民主主義体制のもとで何十年も放置されたり(フィリピン)、暴力的な弾圧されたり(インドネシア)、一党独裁制や軍政の下で進展を見せたり(ベトナム、タイ)、権威主義体制下で限定的に認められることもある(シンガポール)。このように、性的マイノリティの権利拡大の異なる程度は、政治体制の違いや市民社会の自由度からでは説明できない。本研究では、諸国家と市民社会による性的マイノリティへの異なる対応は、国民国家の正統性を支える「象徴」として、彼女/彼らがどのように利用されているかによって説明できるのではないかと仮説を立てて研究してきた。本年度は、6月にアジア政経学会において「アジアにおける性的マイノリティの政治:家族・宗教・国家」と題したパネルを開き、田村慶子が台湾とシンガポールについて、伊賀司がマレーシアについて、宮脇聡史がフィリピンについて、それぞれの事例を報告した。10月中旬には合宿を行い、2日間にわたってメンバー全員が報告を行い、共通の課題について徹底的に議論した。10月末には、マレーシアからPang Khee Teik氏 、インドネシアからAbdul Muiz氏を招いて、国際ワークショップを開催した。翌年2月にも、マレーシアからtan beng hui氏、フィリピンからJohn Andrew G. Evangelista氏、オーストラリアからPeter A. Jackson氏、タイからAnjana Suvarananda氏を招聘して、国際ワークショップを開催した。
著者
日向 伸介
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.115, pp.107-130, 2020

タイ中部チョンブリー県の海岸沿いに位置する特別市パッタヤーは, 世界でも有数のビーチリゾートとして知られている。本稿は, その黎明期において, ホテル・飲食店・性風俗店・エンターテイメント施設の開業に関わった人々の記録から, パッタヤー歓楽街の形成史を素描することを試みた。パッタヤーの開発は, バンコクの官僚・実業家であるパリンヤー・チャワリットタムロンによって1940年代後半に着手され, 1950年代にバンコク在住のエリート向けマリーンスポーツ地として知られるようになった。ベトナム戦争期に入るとタイ東北部に駐留していた米軍がR&R休暇のためにパッタヤーを訪れるようになり, 1960年代には米軍の保養地として宿泊施設や飲食店が増加したが, 1970年代に入ると米軍の撤退とともに観光客の多様化と大衆化が進んだ。しかし歓楽街に限ってみれば, 米軍向けの場所は基地近辺に別に存在しており, 1970年代初頭までのパッタヤーには静かなビーチの雰囲気が残されていた。その後, ビル・ジョーンズがパッタヤー初のパブBJ Barを開業し, ウィチャイ・ルートリットルアンシンがトランスジェンダーの女性によるキャバレーショーを始めたのが同じ1974年であることから, パッタヤー歓楽街の萌芽期は1970年代中頃と推測される。1980年代に入ると, 両替業で成功していたスッタム・パントゥサックが, ウィチャイの経営するキャバレーショーに投資をおこない, Tiffany's Showとして1980年に開業した。また, 後にゲイタウンBoyztownの中心人物となるマイケル・バーチャルがゲイ男性向けのゴーゴーバーCockpit Barの権利を買い取って1985年に再開業した。両者は性的マイノリティという点で共通していただけではなく, キャバレーショーを通して人的交流がおこなわれていた。劇作家のテネシー・ウィリアムズと親交のあったエディ・ウッズは, 1970年代のバンコクはゲイ男性にとって自分らしくいられる場所であり, ホテルや飲食業を営む西洋人の多くもゲイ男性であったと指摘している。バンコクの資本・人脈のもとで発展を遂げたパッタヤーの歓楽街も, 性的多様性を内包しながら形成されてきたのである。