著者
松山 洋平
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.29, no.1, pp.145-159, 2013-07-15 (Released:2018-03-30)

The recent few decades have seen a growing number of studies on Māturīdism. At the same time, revision and publication of writings of Māturīdītes are proceeding apace. This study reconsiders past and present studies regarding Māturīdism and measures their scope and possible applications. Māturīdism can be helpful in four categories of applied research. First, Māturīdism should be reconsidered as a representative of the rationalistic tide in Sunnī theology. Therefore, it could lead to the societal cultivation of common ethics that can be shared with non-Muslims who do not accept the same revelatory values that Muslims do. Second, studies in Māturīdism may be applied to examine the internal and theoretical correlations between a legal madhhab and theological school, because Māturīdism is strongly connected to the Ḥanafī school of law. Third, studies on Māturīdism would be useful for reconsideration of the expansion process of Islam and development of thoughts in respective areas. Finally, Māturīdism may be an undeniable factor in contemporary activities and issues, e.g., in da‘wah activities in non-Muslim countries, and in the theological disputes between Salafism and traditional Sunnī regime, i.e., Ash‘arī-Māturīdism. Studies of Māturīdism may enrich the research perspectives of Islamic thought and Sunnī speculative theology, adding a new element to the ongoing discussion of contemporary issues.
著者
松山 洋平
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.1, pp.75-98, 2011-06-30 (Released:2017-07-14)

本稿の目的は、ターハー・ジャービル・アル=アルワーニーのクルアーン解釈理論に焦点を当て、その思想のポストモダン性を描出することである。アルワーニーは、クルアーンの啓示と預言の封緘によって、神が明示的に世界に介入する「神的主権」が終結し「クルアーンの主権」の時代へ移行したと論じる。この「クルアーンの主権」理論は、シニフィエとしての神本体ではなく、クルアーンというシニフィアンに対して主権性を付与するものだ。但し彼は、「世界のキラーア(読解)」と「クルアーンのキラーア」の相互依存関係を指摘することで、その思考を法的な問題領域の内に留めた。そして、現代におけるイスラーム法の望ましい形として「少数派フィクフ」を提唱する。「少数派」として生きることを前提とするこの法概念は、ミクロロギーの世界でのみ正当性を持つ「小さな物語」を作り出す。本稿は、アルワーニーに限られない現代イスラーム思想界全体に密に浸透しつつあるポストモダン的なエートスを指摘するための準備作業の一環である。
著者
松山 洋平 マツヤマ ヨウヘイ Matsuyama Yohei
出版者
同志社大学一神教学際研究センター(CISMOR)
雑誌
一神教世界 = The world of monotheistic religions (ISSN:21850380)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.89-101, 2014-03-31

本稿の目的は、「不信仰の地」においてイスラームがいかに語られるべきかという課題に対するイスラームの神学的基盤を提示することである。そのために本稿では、スンナ派の代表的神学派の一つであるマートゥリーディー学派の信仰論に着目し、「不信仰の地」の非ムスリムの地位と、「不信仰の地」における信仰の要件の議論を考察する。マートゥリーディー学派においては、イスラームの教説が知られていない地域=「不信仰の地」の人間にも、造物者の存在を認識する義務が課される。これは一見「厳しい」見解であるが、この教説は逆説的に、「不信仰の地」においては、イスラームの正しい知識に基づかない神信仰が全き信仰として承認されるとする言説を生む。つまり、「不信仰の地」において人は、造物者の承認一点をもって信仰者として承認される。この圏域においてイスラームという宗教は、固有の信仰箇条の総体としての実定宗教としてよりも、唯一神信仰を呼びかける包括的メッセージとしての側面を強調し、提示されるべきである。This paper considers the theological basis for re-thinking how Islam is to be represented to non-Muslims in a land of infidelity, where little or no teachings and practices of Islam are known, with special reference to theories of Māturīdism. Regarding the theory on those who did not receive the propagation of Islam, Māturīdism, contrary to Ash`arism, does not acknowledge their immunity from the responsibility of believing in the Creator's existence, and requires them to have faith in it based on `aql (reason). This idea results in an attitude that validates the faith of an individual in a land of infidelity, who lacks knowledge about the essentials of the Islamic creed and does not fulfill core religious duties, and regards him as a true believer. This tenet of Māturīdism leads to the idea that in a land of infidelity, Islam could assume the form of a comprehensive call to monotheism, not the form of a positive religion, or cluster of specific tenets.
著者
矢萩 恭子 松山 洋平
雑誌
田園調布学園大学紀要 = Bulletin of Den-En Chofu University
巻号頁・発行日
no.5, pp.217-256, 2010

本研究は、田園調布学園大学が平成18年4月に4年制・共学の保育者養成学科を開設して以来、1年次の必修科目として開講されている「子ども家庭福祉演習」において行ってきた授業内容の一部である「田園調布学園大学・川崎フロンターレ『託児室』」の過去5年間の総括と、そこから導き出された保育という専門分野への導入教育としての意義と課題を明らかにするものである。地域における大学の果たすべき役割の一つとして、保育者養成大学が地域や市民に向けて行っている子育て支援事業は、種々行われているが、プロサッカーチームとの産学協働事業として展開されている本事業は他に例を見ない試みであると言える。限られた時間と空間と人材を用いて、サッカー観戦に訪れるサポーターを保護者とする乳幼児を試合時間の前後にかけて預かることが果たして真の子育て支援と言えるかどうかの議論はもちろん欠かせないが、今回は、科目担当者として託児室実習に参加してきた受講生の参加レポートおよび授業アンケート等をもとに、保育の初学者である1年次生が本実習をどのように経験し、本実習が保育への導入教育としてどのような意義を発揮できているかを見ることとした。その結果、どの年度においても託児室実習は、受講生に強い印象と経験内容を保障していることが確認され、託児室実習から学生が子どもとかかわる上での疑問や困難を感じ、自分自身の体験を通して子どもや保育に関する多岐にわたる学びや気づきを得ていることが分かった。しかし、同時に、学外実習である託児室実習の運営および実施上の課題も否めない。今後も継続していく上での課題としては、大学とサッカーチームとの連絡・協力体制の維持・強化、専任スタッフ・運営事務局・科目担当教員との連携・協力、学科専任教員による引率分担、試合日程に左右される授業内容進行上の問題、2年次以上の経験者の参加希望の受け入れや1年次生との同時参加、事前・事後指導授業のもち方、などが託児室スタッフへのインタビューや、託児室を利用する保護者アンケートなどから明らかとなった。より意義のある導入教育とするために、サッカーチーム・大学・学科の協力を得ながら、改善を積み重ねていくことが今後も求められていると言える。
著者
松山 洋平
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.1, pp.75-98, 2011-06-30

本稿の目的は、ターハー・ジャービル・アル=アルワーニーのクルアーン解釈理論に焦点を当て、その思想のポストモダン性を描出することである。アルワーニーは、クルアーンの啓示と預言の封緘によって、神が明示的に世界に介入する「神的主権」が終結し「クルアーンの主権」の時代へ移行したと論じる。この「クルアーンの主権」理論は、シニフィエとしての神本体ではなく、クルアーンというシニフィアンに対して主権性を付与するものだ。但し彼は、「世界のキラーア(読解)」と「クルアーンのキラーア」の相互依存関係を指摘することで、その思考を法的な問題領域の内に留めた。そして、現代におけるイスラーム法の望ましい形として「少数派フィクフ」を提唱する。「少数派」として生きることを前提とするこの法概念は、ミクロロギーの世界でのみ正当性を持つ「小さな物語」を作り出す。本稿は、アルワーニーに限られない現代イスラーム思想界全体に密に浸透しつつあるポストモダン的なエートスを指摘するための準備作業の一環である。
著者
松山 洋平
出版者
一般社団法人 日本オリエント学会
雑誌
オリエント (ISSN:00305219)
巻号頁・発行日
vol.57, no.1, pp.18-32, 2014-09-30 (Released:2017-10-01)
参考文献数
65

This study considers the increase and decrease in īmān (belief) in Māturīdism and illustrates the structure and concept of īmān within this school. It is commonly understood that, contrary to the majority of Ash‘arītes and ahl al-ḥadīth (people of ḥadīth), who admit the increase and decrease in īmān, a vast majority of Māturīdītes deny this because, according to their theory, work is not a constituent of īmān, and īmān is composed of only taṣdīq (assent) by the heart, or by another perspective, taṣdīq by the heart and iqrār (confession) by the tongue. Even among the Māturīdītes, who deny the increase and decrease in īmān, a changeable aspect related to this concept is perceived, but it is believed that the core structure of īmān is unchangeable. The changeable aspect is referred to as nūr (light), ḍiyā’ (brilliance), or thamara (fruit) of īmān. These changeable aspects of īmān are not components of īmān, even though they originate from īmān. However, a group of Māturīdītes, all of whom are scholars from the Ottoman era, believe that īmān is unchangeable only when it refers to mu’man bi-hi (what should be believed), and it accepts the increase and decrease in īmān when it refers to assent. The author focuses on the following two results of the study. First, those scholars among the Māturīdītes who admit the increase and decrease in īmān are all from the Ottoman era. This perspective could be interpreted as the later Ottoman Māturīdītes' approach to the Ashartes theories on īmān-related issues. Second, the Māturīdītes who admit that there is something changeable, separate these mutable concepts cautiously from the structure of īmān, which are immutable. By doing so, this school succeeds in describing the precise relationship between the concept of īmān and its related concepts.
著者
松山 洋平 マツヤマ ヨウヘイ Matsuyama Yohei
出版者
同志社大学一神教学際研究センター(CISMOR)
雑誌
一神教世界 = The world of monotheistic religions (ISSN:21850380)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.65-77, 2010-02-28

本稿の目的は、アメリカ合衆国で活躍するイラク出身のウラマー、ターハー・ジャービル・アル=アルワーニーの提起する「クルアーンの主権」理論と、そこから導出される政治論の意味、及びアルワーニーの思想全体に与えるそのインパクトを考察することにある。「クルアーンの主権」理論は、神の最終啓示であるクルアーンを啓示「封緘」以降の時代を生きる人間の行為規範における最高権威として規定し、クルアーンを人間的読解によって解釈する学的努力の必要性を主張する。それは、預言の「封緘」以前に適用されていた、強制的・直接的介入に基づく「神的主権」とは性質を異にする、神の新たな主権形態である。またアルワーニーは、「クルアーンの主権」実現の手段としてジハードを定義し、独自の政治論を展開する。この「クルアーンの主権」理論は、アルワーニーが提起する諸言論の理論的素地として、また「ウラマー」が発信する新しい「形式」のイスラーム思想の萌芽として認識することが可能である。