著者
浦部 浩之
出版者
一般財団法人 日本国際政治学会
雑誌
国際政治 (ISSN:04542215)
巻号頁・発行日
vol.2022, no.207, pp.207_65-207_80, 2022-03-30 (Released:2022-03-31)
参考文献数
37

In the first decade of the 21st century, the following regional integrations were established in Latin America: ALBA (Bolivarian Alliance for the Peoples of Our America), UNASUR (Union of South American Nations), and CELAC (Community of Latin American and Caribbean States). Initially, these new forums demonstrated a strong will to challenge U.S. hegemony and neoliberalism. However, their activities stagnated to the point of collapse in the mid-2010s, which weakened the political independence of Latin American nations.The failure of these post-neoliberal integrations tends to be considered a failure of the left governments’ national projects. However, it should be noted that the concept of anti-hegemonic integration was already present in Brazil in the 1990s, much before the region’s move to the left. Post-neoliberal integration expanded throughout the continent and successfully promoted the integration process. However, the ultimate goal of enforcing the states’ role and capacity by establishing new schemas of integration was not derived solely from left ideology in the post-neoliberal era.It is important to note that by joining in regional integration, Latin American nations pursue not regional but national interests. In other words, the integration process develops only under the condition that each nation considers the objects of the integration to be compatible with national interests. Therefore, the consensus mechanism was highly emphasized in UNASUR’s and CELAC’s decision-making processes. This characteristic contributed to sustaining unity in the region but prevented the establishment of measures to resolve political disputes between member nations, eroding efficiency and the raison d’être of the organizations.It is worth analyzing how regional integration succeeded from 2000–2010. In order to achieve integration, Latin American nations needed an international circumstance unhampered by hegemonic powers or external obstacles. For example, Latin American states benefitted from an increase in national revenue due to the increased prices of natural resources in the international market. Additionally, the U.S. government did not focus on hemispheric matters after the September 11 attacks, choosing to concentrate its foreign policy on combatting terrorism.The UNASUR process finally deadlocked when Venezuelan president Nicolás Maduro was accused of leading an authoritarian administration and destroyed the atmosphere of regional cooperation. Nevertheless, South American nations never returned to the traditional Inter-American system promoted by the U.S. Rather, they sought to establish a new forum, PROSUR (Forum for the Progress and Development of South America), to maintain their own cooperation schema.
著者
浦部 浩之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

【本報告の視点】 31万6000人もの死者を出した2010年1月12日のハイチ大地震から3年が経過した。この間に国際社会から注ぎ込まれた援助は一国に対する災害復興支援としては史上最大の90億ドル(約束額)にのぼる。しかしながら30万以上もの人が今なお仮設住宅にすら移れずテント生活を強いられており、復興の道筋はいまだ見えない。そればかりか、ハイチにはなかったはずのコレラの感染が震災10ヵ月後に突如始まり、2012年末までに死者は約8000人、感染者は国民の16人に1人に当たる64万人近くに達している。なぜハイチの状況はこれほどまで深刻なのか。 本報告では、報告者が2010年11月にJPFからの委嘱で被災者支援事業モニタリング・中間評価のために現地に派遣された際の調査、および2012年1月にハイチ・ドミニカ共和国国境で行った調査もふまえつつ、ハイチが自然災害に対して脆弱であることの政治・経済・社会にわたる構造的要因を、やや長期的視点に立って考察したい。【失敗国家ハイチの現状と繰り返される災害】 ハイチは1人当たりGDPが656ドル(2009年)にすぎず、国民の54.9%が1日1.25ドル以下(2000-08年)で暮らす西半球の最貧国である。汚職が蔓延り(2009年の腐敗認識指数は180ヵ国中168位)、統治の正統性も低い(2008年の民主主義指数は149ヵ国中110位)。2010年地震による被災が甚大化したことの背景には、ハイチがいわゆる「失敗国家」の状態にあり、災害に対する備えや災害発生後の対処能力を著しく欠いていたことがある。 それゆえハイチは、同じイスパニョーラ島で隣り合うドミニカ共和国、あるいはその他の島嶼国と比較しても、高い頻度で自然災害を被ってきた。たとえば2004年に島を襲ったハリケーン・ジーンによる被害はドミニカ共和国でも記録的なものであったが(死者23人、被災者2万2000人)、ハイチでは死者1870人、行方不明者870人、被災者約30万人にまで膨らんだ。【農業生産システムの破綻と食糧問題】 ハイチは貧困のために森林破壊が極端に進み、森林被覆率は3.8%しかない(2005年)。2004年ハリケーン災害が深刻化したのも、山麓の町が水位3mもの洪水に襲われたことにあった。 ハイチとドミニカ共和国の差異は、主食である米の生産と輸入の推移にも端的に表れている。ドミニカ共和国では過去45年間、人口増にともなう米の需要増を国内生産で賄い、2007年の米の自給率は96.9%に達している。ところがハイチでは農村の貧困と環境破壊による生産性の低下のために米の生産高は横ばいで、2007年には米の自給率は22.0%にまで下がった。 これにはいわゆるワシントン・コンセンサス後に推し進められた経済自由化も大いに関係している。つまり、1990年に史上初の民主的選挙で選出されながらクーデタで大統領職を追われたアリスティドは、米軍を中心とする多国籍軍の支援で政権復帰を果たした後の1995年、経済援助と引き換えに、米の関税率を35%から3%に引き下げることを受け入れた。これにより国内農業の衰退と食糧の輸入増がいっそう拡大することになった。ハイチの食糧需給は国際市況に大きく左右されるようになり、2008年4月には一次産品価格の世界的急騰がハイチ国内で群衆の暴動に発展し、内閣が退陣に追い込まれる事態にまでなった。【複雑な援助の方程式】 震災後、ハイチのプレバル大統領(当時)はWFPと米国政府に対し、国内農業への打撃を理由に食糧支援の停止を求めた。しかし食糧の不足に不満を募らせるハイチ市民が多いのも事実であり、プレバルの提起を否定する論調も強い。先進国の援助関係者はハイチ政府の腐敗を懸念し、しばしば政府を迂回して市民に直接、援助を届けてきた。しかし、支援団体が根こそぎハイチの優秀な人材を雇い入れるため、それがハイチの公的部門をますます弱体化させてきたとの矛盾もある。復興に向けた活動へのハイチの人々の関与が少ないことへの批判が国内外で根強い一方で、内政対立で数ヵ月にわたり組閣ができない事態が続くなど、ハイチ政府の統治も覚束ない。復興をめぐるさまざまな議論や批判が渦巻く中で、ハイチは国家の再建、防災の強化、農業の振興、食糧の安定供給、貧困の緩和、統治の強化など、複合的な課題に取り組んでいかなければならない。
著者
矢ケ崎 典隆 山下 清海 加賀美 雅弘 根田 克彦 山根 拓 石井 久生 浦部 浩之 大石 太郎
出版者
日本大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2011-04-01

多民族社会として知られるアメリカ合衆国では、移民集団はいつの時代にも異なる文化を持ち込み、それが蓄積されて基層(古いものが残存するアメリカ)を形成してきた。従来のアメリカ地誌は表層(新しいものを生み出すアメリカ)に注目した。しかし、1970年代以降、アメリカ社会が変化するにつれて、移民の文化を再認識し、保存し、再生し、発信する活動が各地で活発化している。多様な文化の残存、移民博物館、移民文化の観光資源化に焦点を当てることにより、現代のアメリカ地誌をグローバルな枠組みにおいて読み解き直すことができる。アメリカ合衆国はまさに「世界の博物館」である。