著者
矢ケ崎 典隆 矢ケ崎 太洋
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.99-118, 2016 (Released:2016-07-29)
参考文献数
19

ゲーテッドコミュニティとは公共アクセスが制限された隔離住宅地で,塀などの障壁に囲まれ,門によって出入りが管理される.アメリカ合衆国では,近年,ゲーテッドコミュニティが増加し,多分野から関心が集まっている.地理学研究者は,地域の枠組みにおいてゲーテッドコミュニティを解釈し,研究手段として地図を用いる.本報告はロサンゼルス大都市圏オレンジ郡中部を事例として取り上げ,現地調査に基づいて117か所のゲーテッドコミュニティを確認し,土地利用図を作成した.そして,住宅タイプ,門番小屋,共有レクレーション施設に着目して3分類し,地図化した.ゲーテッドコミュニティの形態と分布には地域差が確認され,白人富裕層が多い地域で,1990年代後半から新規住宅地開発が進行する過程で増加した.こうした調査と地図化の作業を蓄積することにより,モザイク状に分断されたロサンゼルス大都市圏の全体像を把握することができる.
著者
矢ケ崎 典隆
出版者
日本地理教育学会
雑誌
新地理 (ISSN:05598362)
巻号頁・発行日
vol.54, no.3, pp.15-32, 2006-12-25 (Released:2010-04-30)
参考文献数
38

Regionalization is a traditional method of geography for understanding regional features as well as the overall characteristics of a nation as a whole. This paper intends to review various attempts mostly by Americans at dividing the United States into regions on the basis of various criteria for varied purposes. Twenty-four examples of regionalization of the United States are presented, which include physical geographic regions, Native American culture regions, culture-economic regions of European colonization, federal administrative regions, economic-industrial regions, culture regions, ordinary people's perceptive regions, settlement process regions, and voting behavior regions. By laying division lines on top of another, I would suggest simple regionalization of dividing the country into four quarters with boundaries of the 37th parallel and the 95th meridian. Geographic characteristics of the four quarters are summarized in Table 1. This regionalization appears to be valid in geographic education in order to provide students with rough images of the United States.
著者
矢ケ崎 典隆 深瀬 浩三
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.55, 2009

ロサンゼルス大都市圏はアメリカ合衆国において最も急速に都市化が進んだ地域の一つである。ロサンゼルス市とその周辺部では20世紀に入って都市化が加速し、人口が急増した。ロサンゼルス市中心部と多数の郊外都市を結びつける電車網が発達するとともに、モータリゼーションも進行し、都市域が空間的に拡大した。増加する人口に食料を供給するために農業が発達し、第二次世界大戦直前まで日系人は農産物の生産と流通において重要な役割を演じた。しかし、戦後、都市化の更なる進行に伴って農地の蚕食が進み、農業景観は大きく改変されるとともに、日系人の経済活動も変化した。本論文では、ロサンゼルス市中心部の南方に位置するガーデナ市およびトーランス市を研究対象地域として、都市化に伴う農業的土地利用の変化について検討した。この地域では、ロサンゼルス大都市圏において農業が最近まで存続するとともに、第二次世界大戦前から日系社会が存在し、日系農業が盛んに行われた。 ガーデナ・トーランス地域では、20世紀に入ると、日系人の流入とともにイチゴ栽培が盛んになった。イチゴ栽培には大きな資本は不要であったし、借地することにより、家族労働力に基づいた小規模な農場経営が可能であった。日系人の増加に伴って日本街が形成された。また、日系農業協同組合や日本人会が組織され、それらは日系社会において経済的にも社会的にも重要な役割を演じた。時間の経過とともに日系人の居住地は拡大し、多様な野菜類の栽培に従事するようになった。 第二次世界大戦中の強制収用に伴い、日系農業は中断を余儀なくされたが、戦後、日系人の帰還に伴って日系社会が再建された。しかし、都市化の進行によって、また、一世の高齢化に伴って、野菜栽培を中心とした日系農業は衰退した。戦後の日系経済の中心となったのは植木業と庭園業であった。日系植木生産者の多くは、ウエストロサンゼルスからの移転者であった。庭園業は戦前においても一世にとっての主要な業種であったが、戦後の日系人にとっても容易に就業できる業種であった。こうして、植木業と庭園業は戦後の日系社会の重要な産業となった。都心部からの日系人の流入に伴って、ガーデナ・トーランス地域の日系人口は増加した。 都市化の進行に伴ってガーデナ・トーランス地域の農業的土地利用は縮小を余儀なくされ、1980年代までには農地はほとんど消失していた。住宅地化、工業化が顕著であり、特にトーランス市にはトヨタ自動車をはじめとする日系企業の進出が著しい。最後まで存続したのが植木園(鉢植えの花壇苗、グリーンプランツ、鉢植えの花卉)の経営である。しかし、近年、日系の植木業はさらに衰退の危機に瀕している。日系4世の高学歴化が進み、後継者不足は深刻である。外的要因としては、都市化の圧力に加えて、経済の停滞、技術革新(例えば、プラグ方式の普及)、ラティーノ生産者の増加と競合、大型量販店の進出と低価格競争などの影響も深刻である。<br> 2007年8月に行った現地調査により、限定された農業的土地利用の存続が明らかになった。それは、植木業の残存が認められたことである。小規模な植木園が依然として経営を続けており、特に、高圧送電線下の細長い土地を電力会社から借地することにより、鉢物類が栽培されている。また、特殊な残存形態として、日系農民がトーランス飛行場内に借地をして、トマト、イチゴ、とうもろこしを栽培する事例が確認された。農産物は道路に面した販売所で直売され、新鮮な商品を楽しむ常連に支えられて経営が維持されていた。 ロサンゼルス大都市圏は、経済活動、人種民族、文化景観において多様でダイナミックな地域である。今回の調査によって明らかとなったガーデナ・トーランス地域における土地利用の変化と日系農業の変化は、ロサンゼルス大都市圏のひとつの面を示している。こうした事例研究を蓄積することが重要である。
著者
矢ケ崎 典隆
出版者
The Human Geographical Society of Japan
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.35, no.1, pp.1-22, 1983-02-28 (Released:2009-04-28)
参考文献数
50

Floriculture has been one of the industries in which Japanese immigrants and their descendants successfully engaged in California. In their participation in this intensive type of agriculture, ethnic organizations emerged both in San Francisco and Los Angeles and played key roles in the immigrants' economy and society. The present paper is intended to describe and analyze the development and change of Japanese floriculture in southern California from its beginning before the turn of the century through the sudden interruption during World War II and the post-war transformation. Some comparison is attempted with the San Francisco Bay Area Japanese floriculture which experienced a similar pattern of development.Japanese flower production in Los Angeles began just before the turn of the century, several years after its initiation in the San Francisco Bay Area. The first formal organization of Japanese growers of Los Angeles, the Southern California Flower Market, played a central role in the development of the Japanese flower industry from its establishment in 1913. It not only was the focal point of the growers' economic activities but also functioned to promote socio-cultural cohesion among the Issei.While the entire southern California coast offers nealy optimal climatic conditions for flower production, most Japanese flower growers before World War II were located in the immediate vicinity of Los Angeles. The warmer winters encouraged field production. In contrast to the Bay Area, greenhouses were little used by the Japanese growers here. Annuals were grown chiefly from seed. The beach areas were particularly important for supplying the summer flowers while producers in inland areas grew winter flowers. In the early days many Japanese produced flowers alongside commercial plots of berries and vegetables. Many more types of flowers were grown in southern California than in the Bay Area where only roses, carnations and chrysanthemums were of significance.Japanese flower growers, like the Japanese truck farmers of southern California, usually leased their land. In the Bay Area, on the other hand, ownership of land was widespread. Plenty of open land was available for rent before World War II and growers had no difficulty finding the necessary space for their operations. The dominance of field production of annuals, however, to some extent may have reflected the absence of a guaranteed long-term access to the land.The Japanese evacuation during World War II brought about a sudden disruptiqn of Japanese activities on the West Coast and gave rise to multifaceted changes in the post-war Japanese community and economy. Floriculture was one of the few Japanese sub-economies which was rapidly and successfully reconstructed both in norhtern and southern California with the successful reestablishment of flower markets. Their firmly established pre-war basis had not been fully preempted by other groups during their absence. The ethnic alignment of the industry was reaffirmed.Although Japanese floriculture has been completety reconstructed and ethnic cooperativism revived, the industry has experienced both quantitative and qualitative changes. A substantial number of Japanese growers in the Los Angeles area moved away from this traditional center of production to escape increasing urban pressures. New developments have taken place in the coastal districts of San Diego, Ventura and Santa Barbara counties. In these new floricultural regions of southern California Nisei growers appear to have lost both the geographical and cultural closeness and cohesiveness that characterized those engaged in the industry prior to World Was II. The Southern California Flower Growers of Los Angeles, an ethnic organization, still plays an important economic role in the industry as a local wholesaling center.
著者
矢ケ崎 典隆 深瀬 浩三
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.55, 2009 (Released:2009-12-11)

ロサンゼルス大都市圏はアメリカ合衆国において最も急速に都市化が進んだ地域の一つである。ロサンゼルス市とその周辺部では20世紀に入って都市化が加速し、人口が急増した。ロサンゼルス市中心部と多数の郊外都市を結びつける電車網が発達するとともに、モータリゼーションも進行し、都市域が空間的に拡大した。増加する人口に食料を供給するために農業が発達し、第二次世界大戦直前まで日系人は農産物の生産と流通において重要な役割を演じた。しかし、戦後、都市化の更なる進行に伴って農地の蚕食が進み、農業景観は大きく改変されるとともに、日系人の経済活動も変化した。本論文では、ロサンゼルス市中心部の南方に位置するガーデナ市およびトーランス市を研究対象地域として、都市化に伴う農業的土地利用の変化について検討した。この地域では、ロサンゼルス大都市圏において農業が最近まで存続するとともに、第二次世界大戦前から日系社会が存在し、日系農業が盛んに行われた。 ガーデナ・トーランス地域では、20世紀に入ると、日系人の流入とともにイチゴ栽培が盛んになった。イチゴ栽培には大きな資本は不要であったし、借地することにより、家族労働力に基づいた小規模な農場経営が可能であった。日系人の増加に伴って日本街が形成された。また、日系農業協同組合や日本人会が組織され、それらは日系社会において経済的にも社会的にも重要な役割を演じた。時間の経過とともに日系人の居住地は拡大し、多様な野菜類の栽培に従事するようになった。 第二次世界大戦中の強制収用に伴い、日系農業は中断を余儀なくされたが、戦後、日系人の帰還に伴って日系社会が再建された。しかし、都市化の進行によって、また、一世の高齢化に伴って、野菜栽培を中心とした日系農業は衰退した。戦後の日系経済の中心となったのは植木業と庭園業であった。日系植木生産者の多くは、ウエストロサンゼルスからの移転者であった。庭園業は戦前においても一世にとっての主要な業種であったが、戦後の日系人にとっても容易に就業できる業種であった。こうして、植木業と庭園業は戦後の日系社会の重要な産業となった。都心部からの日系人の流入に伴って、ガーデナ・トーランス地域の日系人口は増加した。 都市化の進行に伴ってガーデナ・トーランス地域の農業的土地利用は縮小を余儀なくされ、1980年代までには農地はほとんど消失していた。住宅地化、工業化が顕著であり、特にトーランス市にはトヨタ自動車をはじめとする日系企業の進出が著しい。最後まで存続したのが植木園(鉢植えの花壇苗、グリーンプランツ、鉢植えの花卉)の経営である。しかし、近年、日系の植木業はさらに衰退の危機に瀕している。日系4世の高学歴化が進み、後継者不足は深刻である。外的要因としては、都市化の圧力に加えて、経済の停滞、技術革新(例えば、プラグ方式の普及)、ラティーノ生産者の増加と競合、大型量販店の進出と低価格競争などの影響も深刻である。 2007年8月に行った現地調査により、限定された農業的土地利用の存続が明らかになった。それは、植木業の残存が認められたことである。小規模な植木園が依然として経営を続けており、特に、高圧送電線下の細長い土地を電力会社から借地することにより、鉢物類が栽培されている。また、特殊な残存形態として、日系農民がトーランス飛行場内に借地をして、トマト、イチゴ、とうもろこしを栽培する事例が確認された。農産物は道路に面した販売所で直売され、新鮮な商品を楽しむ常連に支えられて経営が維持されていた。 ロサンゼルス大都市圏は、経済活動、人種民族、文化景観において多様でダイナミックな地域である。今回の調査によって明らかとなったガーデナ・トーランス地域における土地利用の変化と日系農業の変化は、ロサンゼルス大都市圏のひとつの面を示している。こうした事例研究を蓄積することが重要である。
著者
矢ケ崎 典隆 山下 清海 加賀美 雅弘 根田 克彦 山根 拓 石井 久生 浦部 浩之 大石 太郎
出版者
日本大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2011-04-01

多民族社会として知られるアメリカ合衆国では、移民集団はいつの時代にも異なる文化を持ち込み、それが蓄積されて基層(古いものが残存するアメリカ)を形成してきた。従来のアメリカ地誌は表層(新しいものを生み出すアメリカ)に注目した。しかし、1970年代以降、アメリカ社会が変化するにつれて、移民の文化を再認識し、保存し、再生し、発信する活動が各地で活発化している。多様な文化の残存、移民博物館、移民文化の観光資源化に焦点を当てることにより、現代のアメリカ地誌をグローバルな枠組みにおいて読み解き直すことができる。アメリカ合衆国はまさに「世界の博物館」である。