著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.119-133, 2012

ハンセン病療養所のなかで50年以上を過ごしてきた、ある男性のライフストーリー。 結城輝夫さんは、1930(昭和5)年、宮崎県生まれ。1955(昭和30)年12月、鹿児島にあるハンセン病療養所「星塚敬愛園」に入所。2008年8月の聞き取り時点で78歳。聞き手は、福岡安則、黒坂愛衣、下西名央。 輝夫さんは18歳ごろから、ハンセン病により気管支内に結節ができ、発声がしにくくなった。20歳の秋には、結節が大きく膨らみ、つねに呼吸困難の状態で眠れず、死を意識するほどまで悪化。療養所から医師が自宅へ来て入所をすすめたが、輝夫さんの母親は、「らい患者」との噂が近隣に広まるのを怖れて、いったんこれを拒否。その後、母親が医師へ連絡をとり、輝夫さんは敬愛園に入所した。入所の翌日に気管を切開し、カニューレを装着。声を失うかわりに、息が楽に吸えるようになった。療養所では「不自由舎」へ入寮。医師不足であり、手足の指に傷をつくると、医師の資格をもたない職員によって切断された。1988(昭和63)年、鹿児島大学の医師に勧められ、カニューレをはずす手術を受ける。1990(平成2)年には声を出して喋れるまで回復した。故郷の家族は、輝夫さんの入所を隠すのに苦労を重ねた。ある兄とは43年間、音信不通だった。 結城輝夫さんの事例は、2つの意味で特徴的である。ひとつは、輝夫さんが、療養所入所者の中でも気管切開によるカニューレ装着を体験し、30数年にわたって声を失った人であることだ。職員からの侮蔑や、他の入所者からのぞんざいな扱いがあり、「20年近くは誰も相手にしてくれなかった」という。輝夫さんとコミュニケーションをとろうとする数少ない人の存在がありがたかった、と語る。 ふたつには、化学療法が登場しハンセン病が治せる時代であるにもかかわらず、輝夫さんの病状が、ここまで悪化しなければならなかった事実である。隔離政策下では、ハンセン病治療は、基本的に療養所でしか認められず、一般の病院ではおこなわれなかった。他方、ハンセン病にたいする差別は存在し、輝夫さんの母親は、差別をおそれ、輝夫さんの療養所への入所をぎりぎりまで拒んだのである。「母親が、医者の勧めに早く従っていれば、病状は軽くて済んだ」と輝夫さんは言う。しかし、隔離政策がハンセン病医療を療養所に限定したこと、また、日本の社会の厳しい差別が、その背景にはある。 輝夫さんには、優れた医師たちとの出会いによって命を救われ、声も取り戻したという体験が、決定的なものとしてある。国によって助けられたという強い思いがあり、このため、輝夫さんは、1998年に提訴された「らい予防法」違憲国賠訴訟の原告にはならなかった。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.127-146, 2015

ハンセン病療養所「菊池恵楓園」に暮らす80 歳代男性のライフストーリー。 杉野芳武(すぎの・よしたけ)さんは,1931 年3 月,熊本県生まれ。1942 年9月27 日,菊池恵楓園に入所。この11 歳で母に連れられて恵楓園にやって来たとき,彼は子どもながらに入所を拒否して"脱走"している。ところが,再度母親に連れられて「門をくぐった」彼は「もう外に出るのが怖くなった」と語る。彼が生家の敷居を再び跨いだのは,母危篤の連絡を受けた1979 年のことであった。37 年間も彼の生家への帰省を阻む目に見えない力が,「癩/らい予防法」下のハンセン病療養所には作動していたということであろう。 2001 年のハンセン病違憲国賠訴訟の熊本地裁での原告勝訴のあと,2003 年になって,熊本県内の黒川温泉で恵楓園入所者への宿泊拒否事件が発生。その町は杉野さんの生まれ故郷であった。自治会役員としてこの問題に対処した当事者の視点から,事件の顛末を詳しく語っていただけた。――恵楓園にやって来たホテルの総支配人の"謝罪文"の受取りを入所者自治会が拒否する場面が全国放送で流され,その後,入所者たちに対する誹謗中傷の手紙や電話が殺到した。杉野さんの語りによれば,ホテルに総支配人を訪ねたときは,宿泊拒否は「本社の社長の判断だ」と言い張っていたのが,恵楓園に来たときは「お断りしたのはすべて自分の判断」で押し通したのだという。心からの反省,謝罪を微塵も感じ取れなかったがゆえの,入所者たちの反応だったのだ。 聞き取りは,2011 年3 月15 日,菊池恵楓園の自治会室にて。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,足立香織。聞き取り時点で,杉野芳武さんは,80 歳。2010年,杉野かほるの筆名でおつれあいの杉野桂子さんと『エッセー集 連理の枝』を上梓。囲碁はアマ6 段の腕前で,赤旗主催の棋戦では熊本県代表となって全国大会に出場したこともある。短歌を詠み,随筆も書き,アマチュア無線も楽しむという多才のひとである。 2012 年12 月8 日,原稿確認。2014 年7 月に恵楓園を再訪したとき,白板の7 月の予定表には,入所者自治会の志村康会長,稲葉正彦副会長とならんで,恵楓園を訪ねてくる小中学生相手の説明役として杉野芳武さんの名前も書かれていた。ハンセン病に対する偏見差別をなんとしてでもなくしたいという強靱な意志が,かれらの活動を支えているのであろう。 なお,〔 〕は聞き手による補筆である。 This is the life story of a man in his 80s living in Kikuchi-Keifūen, a Hansen's disease facility. Mr. Yoshitake Sugino was born in March 1931 in Kumamoto prefecture and sent to Kikuchi-Keifūen on 27th September 1942. He was 11 years old and refused to enter the facility when his mother brought him to Kikuchi-Keifūen. He ran away but came to the facility with his mother again to 'enter the gate.' He said that he was scared to go out. He revisited home after hearing the news that his mother was in a critical condition in 1979. It was the first time for him to return home since entering the facility. There was invisible power to disturb him to visit home for 37 years. It must be the Segregation Policy which affected Hansen's disease patients' lives in the leprosy facilities. Even after the unconstitutionality lawsuit against the Segregation Policy was decided in favor of the plaintiffs by the Kumamoto district court in 2001, there was an incident at a hotel in Kurokawa hot springs in which people from Kikuchi-Keifūen were refused entry, in 2003. The town was Mr. Sugino's home. We were able to hear the details because he was involved in the arbitration for this event as an executive member of the resident association of Kikuchi-Keifūen. The general manager of the hotel visited Kikuchi-Keifūen to submit the 'apology statement' but the resident association refused to accept it. This scene was aired by the national broadcasting network. Subsequently, masses of letters and phone calls criticizing the people in Kikuchi-Keifūen rushed in. According to Mr. Sugino, the general manager had claimed that rejecting the Kikuchi-Keifūen people was the hotel president's decision when Mr. Sugino and his colleague visited the general manager at the hotel. However, the manager changed her word when she came to the facility, saying that the manager herself decided to reject the people. All members in Kikuchi-Keifūen could not see even a tiny piece of sincerity from the 'apology.' This interview was conducted at the resident association office of Kikuchi-Keifūen on 15th March 2011. Interviewers were Yasunori Fukuoka, Ai Kurosaka and Kaori Adachi. Mr. Yoshitake Sugino was 80 years old at the time of the interview. Mr. Sugino published the essay book Renri no Eda with his wife Keiko Sugino. He is a skillful 'Go' player with a rank of amateur six-dan, and joined the national Go tournament hosted by Akahata as the representative of Kumamoto prefecture. He is also a man of other talents who enjoys composing thirty-one syllabled verses, writing essays, and operating a ham radio. The interview script was approved by him on 8th December 2012. When we revisited Kikuchi-Keifūen in July 2014, the schedule board in the resident association office displayed that Mr. Sugino worked as the speaker of the explanation of Hansen's disease for young students as Mr. Masahiko Inaba, the vice president of the resident association. The strong determination to abolish the discrimination on Hansen's disease motivates their activities.
著者
金 沙織 福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.153-172, 2012

ある在日コリアン2世ハルモニのライフストーリーの続編。 語り手の中村幸子(さちこ)さん(仮名)は、1935年大阪生まれ(初回の聞き取り時点で74歳)。9人きょうだいの5番目。戦時下で空襲がひどくなり、それなりに安定した暮らしをしていた大阪から、一家で姫路へ疎開。疎開後は、父親は失業対策事業で働き、家計を支えたのはむしろ、朝鮮半島文化のシャーマンである巫堂(ムーダン)となった母親だった。 幸子さんは、学齢期になると、日本の公立学校である国民学校へ通った。日本人の同級生たちから侮蔑語を投げつけられ、よく喧嘩をした。10歳のときに終戦、「民族解放」を迎える。日本の小学校をやめ、3歳上の兄とともに、同胞たちの始めた民族学校に通った。幸子さんの家は貧しかった。中学3年上のとき、両親に「女は勉強せんでもええ」と言われ学校をやめさせられ、かわりに、近所で洋裁を習った。姉3人はみな19歳で結婚して、家を出た。長男である兄は、日本の高校を出て、日本の大学に進学。幸子さんは、「女は役に立たない」と言う親の言葉に、反発を感じていた。母親は巫堂の仕事で忙しく、幸子さんは、兄が結婚するまでのあいだ、兄の身のまわりの世話をしなければならなかった。それでも、親の目を盗んで映画館やダンスホールへ行くなど、青春時代を楽しむこともあった。なお、幸子さんの3番目の姉は、婚家の家族とともに「北朝鮮への帰国」をしている。 幸子さんは、21歳のとき、親が決めた同胞男性と見合い結婚。夫は、古鉄屋や土建屋などの仕事を始めるが、いずれも長続きしなかった。けっきょく、幸子さんが娘と弁当屋を始めることで、暮らしが安定した。2005年に、帰化により日本国籍を取得。 このライフストーリーでは、戦時中から戦後にかけて、日本社会の在日朝鮮人差別、そして在日朝鮮人社会の「男尊女卑」に抗ってきた生きざまが、豊かに語られている。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.231-260, 2013

小牧義美(こまき・よしみ)さんは,1930(昭和5)年,兵庫県生まれ。1948(昭和23)年3月,宮崎県から星塚敬愛園に収容。1951(昭和26)年,大阪へ働きに出ることを夢見つつ,長島愛生園に移る。病状が悪化し,社会復帰を断念して,1959(昭和34)年,敬愛園に戻る。その後,1962(昭和37)年から1968(昭和43)年まで,熊本の待労院での6年間の生活も経験。1987(昭和62)年から1990(平成2)年には,多磨全生園内の全患協本部に中央執行委員として詰めた。そして,2003(平成15)年にはじめて中国の回復者村を訪問,2005(平成17)年から2007(平成19)年の2年間は,中国に住み着いてハンセン病回復者の支援に打ち込んだ。2008(平成20)年8月の聞き取り時点で77歳。聞き手は福岡安則,黒坂愛衣,下西名央。2010(平成22)年5月,お部屋をお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充の語りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。 小牧義美さんの語りで,あらためて「癩/らい予防法」体制のおぞましさを再認識させられたのが,自分以外のきょうだい,兄1人と妹2人も,おそらくはハンセン病患者ではなかったにもかかわらず,ハンセン病療養所に「入所」しているという事実である。兄は,病気の自分と間違えられて,仕事を失い,行きどころがなくなって,良心的な医師の配慮で「一時救護」の名目で,敬愛園への入所を認められている。上の妹は,義美さんに続いて母親も病気のために入所して,父親は疾うに亡くなっており,社会のなかに居場所もなく,「足がふらついてる」ことでもって,おそらくは「ハンセン病患者」として入所が認められたのだろう。そして,入所者と園内で結婚。下の妹は,敬愛園付属のいわゆる「未感染児童保育所」に預けられたが,中学をおえても行き場所がなく,「おふくろの陰に隠れて敬愛園で暮らしておった」が,やはり,入所者と結婚,という人生経路をたどっている。――義美さんは,きょうだいがハンセン病でもないのに「ハンセン病療養所」の世話になったことに,一言,「恥ずかしい話だけど」という言葉を発しているが,わたしたちには,「癩/らい予防法」体制こそが,義美さんのきょうだいから,社会での生活のチャンスを奪ったのだと思われる。 もうひとつ,小牧義美さんの語りで感動的なのは,当初は,桂林の川下りを楽しむために中国に行っただけと言いながら,いったん,中国の「回復者村」の人びとと出会い,後遺症のケアがなにもされないまま放置されている現実を目にして以降,日本政府からの「補償金」を注ぎ込んで,中国のハンセン病回復者とその子どもたちのための献身的な支援活動に没頭した小牧さんの生きざまであろう。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.105-135, 2016

国立ハンセン病療養所「星塚敬愛園」に暮らす70 歳代男性のライフストーリー。岩川洋一郎さんは,1937年2月,鹿児島県は屋久島の生まれ。1948年5月23日,11歳のとき,父親に連れられて,鹿児島県鹿屋市にある星塚敬愛園に入所。第1 回聞き取りは2007年12月26日,星塚敬愛園自治会会長室にて実施。聞き取り時点で70歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,下西名央。第2回聞き取りは2008 年8月17日,同じく敬愛園自治会会長室にて。聞き手の顔ぶれも同じ。現在,星塚敬愛園の入所者自治会の会長をつとめる岩川さんは"予防法があり,こういう施設=ハンセン病療養所があったればこそ,いま自分たちが生き長らえられている"という基本認識の持ち主と思われる。11歳で星塚敬愛園に入所したとき,彼は「さびしさ」を感じなかったという。父親の,屋久島の役場から鹿児島県庁への転勤に伴い,鹿児島市内の小学校に転校してきた彼には,友達がいなかった。しかし,ここ,敬愛園の少年舎には,同年代の同病者がいっぱいいて,一緒に野球なども楽しめて,おかげで孤独を感じずに成長できた。さらに,岩川さんはいまでは"誤診"と疑っているが,数年遅れでやはりハンセン病と診断されて敬愛園に入所してきた父親は,特効薬プロミンの治療を受けて「軽快退所」し,故郷の屋久島で,周囲のみなが彼のことをハンセン病療養所退所者と知りながらも,町会議員を3期12年つとめた。岩川さんには,身近なところに,ハンセン病に罹ったからといって卑屈になるにはおよばないと考えられるだけの,うってつけのロールモデルがあったのだ。「らい予防法」の規制力が多少とも形骸化していったなかでも,多くの療友がまだ"目に見えない鎖"で療養所に縛りつけられていた時期に,彼は車の免許を取得するために「軽快退所」をし,そのあと故郷の屋久島でトラックの運転手として働き,といったかたちで,豪放磊落に青年期を生き抜いている。ただ,彼の場合,根をつめて働きすぎると,ハンセン病の再発とはならないまでも,身体がこたえる状態になり,そのたびに,みずから敬愛園に戻っている。彼は,自分で「わたしはあらゆる仕事をした」と語るように,あるときには,療養所の療友たちとともに,静岡県の山奥の井川ダムの工事現場に出稼ぎに行き,労賃をまったくもらえないという体験をしたり,鹿屋市内の理解あるガソリンスタンド経営者のもとで20年間,敬愛園からの通いの勤めもしたりという,多くの社会経験を有する。そのようにしながらも,合間あいまに,屋久島の海でのトビウオ漁に参加したり,父親亡きあと,屋久島で3 年ばかり蜜柑づくりに精をだしたこともある。そして,年老いた母を見舞ったり,ハンセン病への偏見のゆえに離婚させられ「心の病い」を患うことになった妹のために,たびたび故郷・屋久島を訪れている。――その彼が,高齢化したいまとなっては自分も「社会復帰は無理」「敬愛園が終の棲家」と語る。彼にとって,ハンセン病療養所は,海が時化で荒れるときの避難港のような位置づけをもって所在してきたのだと考えられる。ただし同時に,岩川さんは「政府のハンセン病政策は,悪かったことは悪かったんだ」と語る。前述のように,鹿児島県庁に異動した父親が,人生これからというときに療養所に収容され,退職をよぎなくされた。妹が離婚させられ「心の病い」をえて,精神病院への入退院を繰り返す生涯をよぎなくされた。自分自身,園内で結婚した妻とのあいだに子どもができたが「堕胎」をよぎなくされた,等々。「隔離政策」ゆえの被害を,自身も身内の者たちもモロに受けている現実があるのだ。超高齢化とあいつぐ死去によりハンセン病療養所の入所者数が目に見えて減少していくなかで,「入所者自治会」の存続も危うくなりつつある現在,ひょっとすると星塚敬愛園最後の自治会長として,敬愛園の《これから》を案じ,苦闘しているのが,岩川さんの現在の姿なのかもしれない。This is the life story of a man in his 70s who is living in Hoshizuka-Keiaien, a national Hansen's disease facility.Mr. Yoichiro Iwakawa was born in Yaku Island, Kagoshima Prefecture in 1937. He was brought to Hoshizuka-Keiaien at Kanoya City in Kagoshima Prefecture by his father on May 23, 1948.The first interview was practiced on December 26, 2007 at the head's office of the Hoshizuka-Keiaien residents' association. Mr. Iwakawa was 70 years old when the interview was practiced. Interviewers are Yasunori Fukuoka, Ai Kurosaka, and Nao Shimonishi. The follow-up interview was added on August 17, 2008 at the same place with same interviewers as the first one.Currently Mr. Iwakawa is serving as the head of the residents' association of Hoshizuka-Keiaien. It seems he believes that Hansen's disease facilities were helpful for the survival of Hansen's disease patients. Mr. Iwakawa says that he did not feel any loneliness when he was sent to the facility at the age of eleven. He had to transfer the school when his father moved his work place from Yakushima Town Hall to Kagoshima Prefecture Office. He did not have any friends in the new school but met many young patients of his age in the facility to enjoy playing baseball. Thanks to this circumstance, he was able to grow up without loneliness. A few years later his father also entered Hoshizuka-Keiaien (Mr. Iwakawa considers that his father would have received a misdiagnosis) but was released later with the good condition after the Promin treatment. Although everyone in Yakushima knew about the father's Hansen's disease history, it did not disturb his father's 12 years carrier and leadership as a town councilor. His father was a role model of Mr. Iwakawa. His father taught him that he did not need to feel inferior complex for Hansen's disease.Although the effectiveness of the Segregation Policy was weakened, many Hansen's disease ex-patients had to stay in the facility due to the so-called, 'invisible bondage.' However, Mr. Iwakawa left the facility to get his driver's license. He enjoyed his youthful life at his hometown Yakushima as a truck driver. The only concern was the possibility of the recurrence of Hansen's disease for working hard. He had voluntarily returned to Hoshizuka-Keiaien whenever his health condition became worse even if he did not have recurrence symptoms of Hansen's disease. He said, "I have diverse work experiences." He joined in construction work of Ikawa Dam in Shizuoka Prefecture with his colleagues but, sadly, did not earn any salary. He also commuted from Hoshizuka-Keiaien to a gas station run by the owner who understood Hansen's disease well. Mr. Iwakawa occasionally returned to his hometown. He joined in fishing of flying fish on the sea of Yakushima. He also worked as a farmer to grow oranges for 3 years after his father died. He took care of his old mother and also helped his younger sister who divorced for the discrimination for the family members of Hansen's disease. Despite of these experiences, Mr. Iwakawa who became old now says, 'returning to society is difficult for me' and 'my final home is Hoshizuka-Keiaien.' It seems that the facility was a sort of haven for him when he encountered rough waves of society.However, he also says that there were some problems with the Segregation Policy. His father was forced to resign from his work position when he entered the facility, and his sister suffered from mental illness after the divorce for the family history of Hansen's disease. He got married to a woman whom he met in the facility but they were forced to have an abortion when his wife was pregnant. He was the one of the victims of the cruelness of the Segregation Policy.Currently the number of the residents in the Hansen's disease facility is obviously decreasing due to the members' death for age. It means that the fate of the residents' association is not that bright. Mr. Iwakawa, as the head of the association, is struggling to find another future of Hoshizuka-Keiaien.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.191-209, 2013

ハンセン病療養所のなかで60年ちかくを過ごしてきた,ある女性のライフストーリー。 山口トキさんは,1922(大正11)年,鹿児島県生まれ。1953(昭和28)年,星塚敬愛園に強制収容された。1955(昭和30)年に園内で結婚。その年の大晦日に,舞い上がった火鉢の灰を浴びてしまい,失明。違憲国賠訴訟では第1次原告の一人となって闘った。2010年8月の聞き取り時点で88 歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク),北田有希。2011年1月,お部屋をお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充の語りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。 山口トキさんは,19歳のときに症状が出始めた。戦後のある時期から,保健所職員が自宅を訪ねて来るようになる。入所勧奨は,当初は穏やかであったが,執拗で,だんだん威圧的になった。収容を逃れるため,父親に懇願して山の中に小屋をつくってもらい,隠れ住んだ。そこにも巡査がやってきて「療養所に行かないなら,手錠をかけてでも引っ張っていくぞ」と脅した。トキさんはさらに山奥の小屋へと逃げるが,そこにもまた,入所勧奨の追手がやってきて,精神的に追い詰められていったという。それにしても,家族が食べ物を運んでくれたとはいえ,3年もの期間,山小屋でひとり隠れ住んだという彼女の苦労はすさまじい。 トキさんは,入所から2年後,目の見えない夫と結婚。その後,夫は耳も聞こえなくなり,まわりとのコミュニケーションが断たれてしまった。トキさんは,病棟で毎日の世話をするうちに,夫の手で夫の頭にカタカナの文字をなぞることで,言葉を伝える方法を編み出す。会話が成り立つようになったことで,夫が生きる希望をとりもどす物語は,感動的だ。 トキさんは,裁判の第1次原告になったのは,まわりから勧められたからにすぎないと言うけれども,その気持ちの背後には,以上のような体験があったからこそであろう。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.121-152, 2011

中村秀子さん(仮名)と村田直子さん(仮名)は、大阪府で生まれ育った姉妹である。秀子さんは1934(昭和9)年生まれ。直子さんは1937(昭和12)年生まれ。聞き取りは、2006(平成18)年3月、秀子さんの自宅でおこなわれた。聞き取り時点で、秀子さんが72歳、直子さんが68歳。聞き手は、福岡安則と黒坂愛衣。この姉妹の語りは、父と兄という男の働き手がハンセン病療養所に「強制収容」されたあとの、悲惨な暮らしぶりをあますところなく証言している。食べるに事欠いた話。遊び相手は誰もいなくなった話。そして、姉は小学校4年で学校へ行くのを止めて、近くの被差別部落の零歳な工場に働きに行った。誰も相手にしてくれない状況のなかでも、近所の素麺屋のおばさんひとりが、素麺の切れ端をこっそりと取っておいてくれたおかげで、生きながらえたという。また、部落のひとたちも、温かかったという。絶望のなかでの一縷の救い、というべきか。戦後まもなく父は邑久光明園で死亡し、ほどなく母も体を壊して死ぬ。姉妹は、「絶対に、こっから動くもんか」と、開き直って生地で生活しつづける。しかし、それは、もとは人の住むところではない「納屋」での暮らしであった。妹は、ひとの勧めで結婚するが、父や兄のことが「バレはしないか」と怯えて暮らす毎日だったと語る。姉妹ふたちの語りは、<意地>と<怯え>という主題を繰り返しくりかえし述べるものとなっている。――ロンド形式の音楽のように、繰り返し同じ主題に立ち返っていく。それだけ、<意地>と<怯え>の想いは、積もり積もったものとなっていて、この聞き取りで噴き出してきたのではないかと思われる。それゆえ、強引な編集によって、時系列にそって筋の通った物語に編み直してしまうことは避け、つねに過去に立ち戻りつつ語られていくという、ふたりの語りの原型をできるだけ保つように留意したことをお断りしておきたい。そしてまた、邑久光明園から多摩全生園に移った兄へのいたわりの話がつづく。それは、兄のどんな我が儘をも受容してきた妹たちの気持ちのあらわれとして語られている。最後は、やっとハンセン病遺族・家族の会である「れんげ草の会」の人たちと出会えたことの喜びが語られる。同時に、家族の立場で国の「隔離政策」に苦しめられてきたことへのお詫びとして、わたしたちの老後を「ハンセン病療養所」で面倒みてくれても当然ではないか、という要望も吐露される。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣 下西 名央
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.153-169, 2011

匿名希望Aさん(女性)は、1915(大正4)年、奄美大島生まれ。国立ハンセン病療養所「星塚敬愛園」が開園したのが1935(昭和10)年秋であるが、彼女は早くも1937(昭和12)年に入所している。1年後、同じ病気の男性と星塚敬愛園から逃走。1943(昭和18)年、外の社会で産んだ子どもを連れて再入所。親許から引き離されて「未感染児童保育所」に入れられた子どもは、1年後に死亡。2009(平成21)年10月の聞き取り時点で94歳。Aさんの語りから、いくつも大事なことがわかる。第1に、星塚敬愛園が開園される以前、奄美大島には「らい病」の治療にあたる医師が1人いて、そのひと自身が「らい病者」であり、大風子の実を取り寄せて、入院患者さんたち自身に製薬させていた、ということ。第2に、やはり、星塚敬愛園が開園される以前から、天理教が、宗教による精神修養という面で、「らい病者」を含むさまざまな病者の救済活動に従事していた、ということ。第3に、「無癩県運動」が展開されていたはずの昭和10年代であっても、星塚敬愛園からの「逃走」は存外、容易だったようであること。第4に、1943(昭和18)年に子連れで再入所したとき、ただちに、子どもはいわゆる「未感染児童保育所」に有無をいわせず入所させられた。語りから推測されるかぎりでは、保育所での粗末な食事ゆえの栄養失調が子どもの死の遠因になったと思われる。療養所側に、「逃走」してまでふたりのあいだにできた子どもの命を、もっと大事にする態勢が用意できなかったのかと、悔やまれる。いや、もっと言えば、ハンセン病者にたいする「隔離政策」がなければこうはならなかったはず、という思いを抑えることはできない。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.107-125, 2015

ハンセン病療養所「菊池恵楓園」に暮らす70 歳代男性のライフストーリー。 稲葉正彦さん(園名)は,1934 年,熊本県生まれ。中学を卒業して,神戸製鋼に勤める。26 歳で結婚。ハンセン病の症状が出始め,大阪大学で通院治療を受けるが,「1 日おきの通院」を求められ,勤めを辞めざるをえなくなり,1965 年5 月26 日,菊池恵楓園に収容。結婚して5 年目,31 歳になったばかりの働き盛りであった。兵庫県の車で熊本まで移送されるものの,彼にはこのとき一晩で恵楓園まで着いたのか二晩かかったのかの定かな記憶が再現できない。――このときの悔しさゆえ,1998 年提訴の「らい予防法違憲国賠訴訟」では,原告の一員に加わったのだという。ハンセン病に罹ったこと自体を不遇の根拠と考えてしまうハンセン病罹患者が多いなかで,彼は「らい予防法」ゆえに社会生活を送りながらの通院加療の体制が整えられていなかったのだと,明晰な認識を構築しえているのが印象的であった。 聞き取りは,2011 年7 月8 日,菊池恵楓園の自治会室にて。聞き手は福岡安則と黒坂愛衣。聞き取り時点で77 歳。なお,2012 年12 月7 日,ご本人と読み上げによる原稿確認をした。稲葉さんには隔離収容体験の苛烈さゆえか,"自分が置かれた立場の自己対象化の明晰さ"と同時に,一面"シニカルさ"をも併せ持っているように感じられるが,それも彼を取り巻く社会的関係性の函数であることを伺わせる語りが,この補充の聞き取りで聞くことができた。つまり,2011 年の聞き取りでは,身内からは"供養事は呼ばれても祝い事は呼ばれない"と諦めに似た感慨とともに語っていたのが,2012 年のときには,この1 年のあいだに"姪の子の結婚式に招かれた"ことを喜びとともに語り,ハンセン病問題にかんする"啓発が行き届き始めているのではないか"と,これからに希望を見いだしつつある。 語りのなかで,稲葉さんは「ガンの治療」をしたとサラッと語っているが,どうやら予後はあまり芳しくないようである。2014 年7 月にわたしたちが再度,恵楓園を訪ねたとき,彼の顔色はよくなかった。しかし,その体で彼は,恵楓園自治会の副会長をつとめ,他の自治会役員とともに,月に複数回,恵楓園を訪ねてくる小中学生たちを相手の説明役をこなしている。 なお,〔 〕は聞き手による補筆である。 【追記】稲葉正彦さんは,2015 年1 月3 日永眠された。享年80 歳。合掌。 This is the life story of a man in his 70s living in Kikuchi-Keifūen, a Hansen's disease facility. Mr. Masahiko Inaba (his alias in the Hansen's disease facility) was born in Kumamoto prefecture in 1934. After graduating junior high school, he worked for Kobe Steel. He got married at 26. When Mr. Inaba got Hansen's disease he went to the Osaka University Hospital to seek a cure. He had to quit his job because his doctor told him that he needed to attend every other day for medicine. He was sent to Kikuchi-Keifūen on 26th May 1965. He was only 31 years old when he entered the Hansen's disease facility. It was the 5th year of his marriage and the prime time of his life. He was transferred from Hyogo prefecture to Kumamoto by a car but he did not remember if it took one night or a couple of nights to arrive at Kikuchi-Keifūen. The fury that he felt at that time never disappeared and propelled him to join the lawsuit suing the Segregation Policy for unconstitutionality as a member of plaintiffs 33 years later. In general, many Hansen's disease ex-patients have a tendency to regard having symptoms as individual adversity. However, Mr. Inaba seemed to have a clear opinion that the Segregation Policy and lack of social systems to support Hansen's disease patients in their attempts to carry on a normal life style while making regular hospital visits were real problems. This interview was conducted at the resident association office of Kikuchi-Keifūen on 8th July 2011. Interviewers were Yasunori Fukuoka and Ai Kurosaka. Mr. Inaba was 77 years old at the time of the interview. The interview script was revised with a follow-up interview and then approved by him on 7th December 2012. His stories show his objective and somewhat cynical attitudes toward his own experiences of segregated life in the Hansen's disease facility. Through the follow-up interview we learned that such attitudes were the product of the relationship between him and intimate people around him. When we interviewed him in 2011 he lamented that his relatives invited him for sad events but never sought him for celebrations. However, when we visited him again in 2012, he happily told us that he was invited for the wedding ceremony of his niece's children. Mr. Inaba also added that this event showed a hopeful development of the people's understanding of Hansen's disease. During the interview, he told us he has cancer, and it seemed that he was not in good condition. In July 2014, when we met him again at Kikuchi-Keifūen, in spite of his bad condition, he was serving as vice president of the resident association and giving speeches to young students to explain about Hansen's disease.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.173-190, 2013

ハンセン病療養所のなかで70年を過ごしてきた,ある男性のライフストーリー。 田中民市(たなか・たみいち)さんは1918(大正7)年,宮崎県生まれ。1941(昭和16)年,星塚敬愛園入所。園名「荒田重夫」を名乗る。1968(昭和43)年,1988(昭和63)年~1989(平成元)年には,星塚敬愛園入所者自治会長を務める。1998(平成10)年,第1 次原告団の団長として,熊本地裁に「らい予防法」違憲国賠訴訟を提訴。2001(平成13)年,勝訴判決を勝ち取り,60年ぶりに本名の田中民市にもどる。2010(平成22)年6月の聞き取り時点で,92歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク)。なお,2010(平成22)年7月の補充聞き取りの部分は,注に記載した。 徴兵検査不合格の失意のなか,1941(昭和16)年4月に敬愛園に入所した田中民市さんは,同年7 月に「70人ぐらい一緒に収容列車で」連れてこられた,のちのおつれあいと知り合い,1943(昭和18)年の正月に結婚する。結婚にあたり,彼女には帰省許可がでたが,帰省許可が得られなかった民市さんは無断帰省をして,実家で結婚式を挙げたという。園に戻ってきて,一晩は「監禁室」に入れられたとはいうものの,療養所長の「懲戒検束権」が大手をふるっていた敗戦前の時代に,このように自分の意思を貫いた入所者がいたということは,新鮮な驚きであった。さらには,1,500 円という,当時としては大金をはたいて,園内の6畳2間の一戸建てを購入というか,「死ぬまでの使用権」を獲得したという。栗生楽泉園の「自由地区」に相当するようなことが,たった1つの例外措置であったとはいえ,ここ敬愛園でも実際にあったこともまた,耳新しい情報であった。 このように他の一般的な入所者と比べると相対的に恵まれた処遇を得ていたようにも見える民市さんが,1998(平成10)年の「らい予防法」違憲国賠訴訟の提訴にあたり,「原告番号1番」として,第1次原告団の団長を務めたのは,何故なのか。結婚して受胎した子どもを「堕胎」により奪われた無念さ,絶望の奈落に落とされた妻を案じて病棟に付き添った体験,みずからも「断種」を受け入れざるをえなかった憤り,これらの「悔しさ」を,民市さんはずっと胸に抱え込んだまま生きてきたことがわかる。ほんとの一握りの第1次原告がたちあがったことが,全国の療養所の入所者を巻き込み,2001(平成13)年5月11日の「熊本地裁勝訴判決」に結実したことを,民市さんは,いま,誇りとしている。 この語りをまとめるにあたり,星塚敬愛園に原稿確認に伺い,読み聞かせをしたとき,民市さんは「じっと聞いてると小説のごとあるね。アッハハハ。ほんと,ぼくの生きざまぜんぶ,書いてもらった感じで,ありがとうございます」と喜んでくださった。 民市さんは90代なかばになってもなおご健在で,わたしたちは2012年5月に青森の松丘保養園で開かれた第8回ハンセン病市民学会でも,フロアから元気に発言する民市さんの姿を見かけた。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.119-133, 2012

ハンセン病療養所のなかで50年以上を過ごしてきた、ある男性のライフストーリー。 結城輝夫さんは、1930(昭和5)年、宮崎県生まれ。1955(昭和30)年12月、鹿児島にあるハンセン病療養所「星塚敬愛園」に入所。2008年8月の聞き取り時点で78歳。聞き手は、福岡安則、黒坂愛衣、下西名央。 輝夫さんは18歳ごろから、ハンセン病により気管支内に結節ができ、発声がしにくくなった。20歳の秋には、結節が大きく膨らみ、つねに呼吸困難の状態で眠れず、死を意識するほどまで悪化。療養所から医師が自宅へ来て入所をすすめたが、輝夫さんの母親は、「らい患者」との噂が近隣に広まるのを怖れて、いったんこれを拒否。その後、母親が医師へ連絡をとり、輝夫さんは敬愛園に入所した。入所の翌日に気管を切開し、カニューレを装着。声を失うかわりに、息が楽に吸えるようになった。療養所では「不自由舎」へ入寮。医師不足であり、手足の指に傷をつくると、医師の資格をもたない職員によって切断された。1988(昭和63)年、鹿児島大学の医師に勧められ、カニューレをはずす手術を受ける。1990(平成2)年には声を出して喋れるまで回復した。故郷の家族は、輝夫さんの入所を隠すのに苦労を重ねた。ある兄とは43年間、音信不通だった。 結城輝夫さんの事例は、2つの意味で特徴的である。ひとつは、輝夫さんが、療養所入所者の中でも気管切開によるカニューレ装着を体験し、30数年にわたって声を失った人であることだ。職員からの侮蔑や、他の入所者からのぞんざいな扱いがあり、「20年近くは誰も相手にしてくれなかった」という。輝夫さんとコミュニケーションをとろうとする数少ない人の存在がありがたかった、と語る。 ふたつには、化学療法が登場しハンセン病が治せる時代であるにもかかわらず、輝夫さんの病状が、ここまで悪化しなければならなかった事実である。隔離政策下では、ハンセン病治療は、基本的に療養所でしか認められず、一般の病院ではおこなわれなかった。他方、ハンセン病にたいする差別は存在し、輝夫さんの母親は、差別をおそれ、輝夫さんの療養所への入所をぎりぎりまで拒んだのである。「母親が、医者の勧めに早く従っていれば、病状は軽くて済んだ」と輝夫さんは言う。しかし、隔離政策がハンセン病医療を療養所に限定したこと、また、日本の社会の厳しい差別が、その背景にはある。 輝夫さんには、優れた医師たちとの出会いによって命を救われ、声も取り戻したという体験が、決定的なものとしてある。国によって助けられたという強い思いがあり、このため、輝夫さんは、1998年に提訴された「らい予防法」違憲国賠訴訟の原告にはならなかった。
著者
福岡 安則
出版者
埼玉大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2010

ハンセン病療養所「入所者」「退所者」「家族」,その他(弁護士,医師,元職員など)からのライフストーリーの聞き取りも,280人に達した。すでに2009年には『栗生楽泉園入所者証言集』(全3巻)を刊行,今回の研究期間内でも,『生き抜いてサイパン玉砕戦とハンセン病』(創土社,2011年)をはじめとして,紀要などに13編の聞き取り事例を公表したほか,2012年夏に実施した韓国のソロクト病院および定着村への訪問記を,韓国の当事者団体の機関誌『ハンピッ』に連載のかたちで報告している。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.231-260, 2013

小牧義美(こまき・よしみ)さんは,1930(昭和5)年,兵庫県生まれ。1948(昭和23)年3月,宮崎県から星塚敬愛園に収容。1951(昭和26)年,大阪へ働きに出ることを夢見つつ,長島愛生園に移る。病状が悪化し,社会復帰を断念して,1959(昭和34)年,敬愛園に戻る。その後,1962(昭和37)年から1968(昭和43)年まで,熊本の待労院での6年間の生活も経験。1987(昭和62)年から1990(平成2)年には,多磨全生園内の全患協本部に中央執行委員として詰めた。そして,2003(平成15)年にはじめて中国の回復者村を訪問,2005(平成17)年から2007(平成19)年の2年間は,中国に住み着いてハンセン病回復者の支援に打ち込んだ。2008(平成20)年8月の聞き取り時点で77歳。聞き手は福岡安則,黒坂愛衣,下西名央。2010(平成22)年5月,お部屋をお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充の語りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。 小牧義美さんの語りで,あらためて「癩/らい予防法」体制のおぞましさを再認識させられたのが,自分以外のきょうだい,兄1人と妹2人も,おそらくはハンセン病患者ではなかったにもかかわらず,ハンセン病療養所に「入所」しているという事実である。兄は,病気の自分と間違えられて,仕事を失い,行きどころがなくなって,良心的な医師の配慮で「一時救護」の名目で,敬愛園への入所を認められている。上の妹は,義美さんに続いて母親も病気のために入所して,父親は疾うに亡くなっており,社会のなかに居場所もなく,「足がふらついてる」ことでもって,おそらくは「ハンセン病患者」として入所が認められたのだろう。そして,入所者と園内で結婚。下の妹は,敬愛園付属のいわゆる「未感染児童保育所」に預けられたが,中学をおえても行き場所がなく,「おふくろの陰に隠れて敬愛園で暮らしておった」が,やはり,入所者と結婚,という人生経路をたどっている。――義美さんは,きょうだいがハンセン病でもないのに「ハンセン病療養所」の世話になったことに,一言,「恥ずかしい話だけど」という言葉を発しているが,わたしたちには,「癩/らい予防法」体制こそが,義美さんのきょうだいから,社会での生活のチャンスを奪ったのだと思われる。 もうひとつ,小牧義美さんの語りで感動的なのは,当初は,桂林の川下りを楽しむために中国に行っただけと言いながら,いったん,中国の「回復者村」の人びとと出会い,後遺症のケアがなにもされないまま放置されている現実を目にして以降,日本政府からの「補償金」を注ぎ込んで,中国のハンセン病回復者とその子どもたちのための献身的な支援活動に没頭した小牧さんの生きざまであろう。
著者
福岡 安則 石川 准
出版者
千葉県立衛生短期大学
雑誌
千葉県立衛生短期大学紀要 (ISSN:02885034)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.39-46, 1985

以下に呈示する資料は, 1985年2月5日に,栃木県下都賀郡大平町在住のTT氏からうかがった聞き取りの記録である。TT氏は, 1913 (大正2)年4月25日生まれで,聞き取り時点で71歳。高齢にもかかわらず,長時間の聞き取りに応じていただいた。TT氏の生活史から,かつての部落差別のすさまじさと同時に,現在なお根深い結婚差別の実情が,明らかにされている。記録の編集にあたっては,前回同様,語り口調をできるかぎり生かしながらも,重複部分等はカットした。また,差別問題にかかわる聞き取り資料である点を配慮して,人名・地名などの固有名詞は,原則として,イニシャルのみで表記した。〔 〕内は編集上の補足である。なお,本稿末尾に,調査メソバーの一員である石川准による,一連の聞き取り調査全体にかかわる,調査覚書を付した
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.191-209, 2013-03 (Released:2013-03-15)

ハンセン病療養所のなかで60年ちかくを過ごしてきた,ある女性のライフストーリー。 山口トキさんは,1922(大正11)年,鹿児島県生まれ。1953(昭和28)年,星塚敬愛園に強制収容された。1955(昭和30)年に園内で結婚。その年の大晦日に,舞い上がった火鉢の灰を浴びてしまい,失明。違憲国賠訴訟では第1次原告の一人となって闘った。2010年8月の聞き取り時点で88 歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク),北田有希。2011年1月,お部屋をお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充の語りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。 山口トキさんは,19歳のときに症状が出始めた。戦後のある時期から,保健所職員が自宅を訪ねて来るようになる。入所勧奨は,当初は穏やかであったが,執拗で,だんだん威圧的になった。収容を逃れるため,父親に懇願して山の中に小屋をつくってもらい,隠れ住んだ。そこにも巡査がやってきて「療養所に行かないなら,手錠をかけてでも引っ張っていくぞ」と脅した。トキさんはさらに山奥の小屋へと逃げるが,そこにもまた,入所勧奨の追手がやってきて,精神的に追い詰められていったという。それにしても,家族が食べ物を運んでくれたとはいえ,3年もの期間,山小屋でひとり隠れ住んだという彼女の苦労はすさまじい。 トキさんは,入所から2年後,目の見えない夫と結婚。その後,夫は耳も聞こえなくなり,まわりとのコミュニケーションが断たれてしまった。トキさんは,病棟で毎日の世話をするうちに,夫の手で夫の頭にカタカナの文字をなぞることで,言葉を伝える方法を編み出す。会話が成り立つようになったことで,夫が生きる希望をとりもどす物語は,感動的だ。 トキさんは,裁判の第1次原告になったのは,まわりから勧められたからにすぎないと言うけれども,その気持ちの背後には,以上のような体験があったからこそであろう。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.173-190, 2013-03 (Released:2013-03-15)

ハンセン病療養所のなかで70年を過ごしてきた,ある男性のライフストーリー。 田中民市(たなか・たみいち)さんは1918(大正7)年,宮崎県生まれ。1941(昭和16)年,星塚敬愛園入所。園名「荒田重夫」を名乗る。1968(昭和43)年,1988(昭和63)年~1989(平成元)年には,星塚敬愛園入所者自治会長を務める。1998(平成10)年,第1 次原告団の団長として,熊本地裁に「らい予防法」違憲国賠訴訟を提訴。2001(平成13)年,勝訴判決を勝ち取り,60年ぶりに本名の田中民市にもどる。2010(平成22)年6月の聞き取り時点で,92歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク)。なお,2010(平成22)年7月の補充聞き取りの部分は,注に記載した。 徴兵検査不合格の失意のなか,1941(昭和16)年4月に敬愛園に入所した田中民市さんは,同年7 月に「70人ぐらい一緒に収容列車で」連れてこられた,のちのおつれあいと知り合い,1943(昭和18)年の正月に結婚する。結婚にあたり,彼女には帰省許可がでたが,帰省許可が得られなかった民市さんは無断帰省をして,実家で結婚式を挙げたという。園に戻ってきて,一晩は「監禁室」に入れられたとはいうものの,療養所長の「懲戒検束権」が大手をふるっていた敗戦前の時代に,このように自分の意思を貫いた入所者がいたということは,新鮮な驚きであった。さらには,1,500 円という,当時としては大金をはたいて,園内の6畳2間の一戸建てを購入というか,「死ぬまでの使用権」を獲得したという。栗生楽泉園の「自由地区」に相当するようなことが,たった1つの例外措置であったとはいえ,ここ敬愛園でも実際にあったこともまた,耳新しい情報であった。 このように他の一般的な入所者と比べると相対的に恵まれた処遇を得ていたようにも見える民市さんが,1998(平成10)年の「らい予防法」違憲国賠訴訟の提訴にあたり,「原告番号1番」として,第1次原告団の団長を務めたのは,何故なのか。結婚して受胎した子どもを「堕胎」により奪われた無念さ,絶望の奈落に落とされた妻を案じて病棟に付き添った体験,みずからも「断種」を受け入れざるをえなかった憤り,これらの「悔しさ」を,民市さんはずっと胸に抱え込んだまま生きてきたことがわかる。ほんとの一握りの第1次原告がたちあがったことが,全国の療養所の入所者を巻き込み,2001(平成13)年5月11日の「熊本地裁勝訴判決」に結実したことを,民市さんは,いま,誇りとしている。 この語りをまとめるにあたり,星塚敬愛園に原稿確認に伺い,読み聞かせをしたとき,民市さんは「じっと聞いてると小説のごとあるね。アッハハハ。ほんと,ぼくの生きざまぜんぶ,書いてもらった感じで,ありがとうございます」と喜んでくださった。 民市さんは90代なかばになってもなおご健在で,わたしたちは2012年5月に青森の松丘保養園で開かれた第8回ハンセン病市民学会でも,フロアから元気に発言する民市さんの姿を見かけた。
著者
高鶴 礼子 福岡 安則
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.173-184, 2012

近現代の川柳は文学としての研究・批評の対象とはなりがたいという認識が、残念なことに現状においては一般的である。が、近現代の川柳の中にそうした対象たりうる作品・作家が見当たらないのかといえば、けっしてそうではない。本稿は、そうした作家のひとりである中山秋夫を取り上げ、その存在を明らかにするとともに、川柳という表現行為の持つ意味と意義について考察しようとするものである。対象とする作家・中山秋夫が現状では無名であり、先行研究もない状態であることから、記述の縦軸にはその境涯を据えた。また、中山がハンセン病患者であったということから、横軸には、わが国におけるハンセン病者を取り巻く通時的状況を置いている。これは、中山の作品や生とは不可分なものである。 川柳の抄出は中山がただ二冊残した川柳集『父子独楽』『一代樹の四季』に拠った。一九二〇から二〇〇七年という中山の生きた時代は、日本という国が激変を内に含んだ時代でもある。家族との別離、瀬戸内の邑久光明園への強制隔離・収容、断種、結婚、療養所内での労働、病状の昂進、失明、ハンセン病違憲国賠訴訟原告団への参加から死にいたるまでの、揺れに揺れた生涯の中で、中山は川柳と出会い、川柳を掴み取り、川柳を携えていった。病により、突然、差別される側に立たされ、死が常態であるという壮絶な状態に置かれ続けた中山が、歩けもせず、見えもせず、鉛筆を手に取ることもできずといった状況の中で、荒れ、笑い、傷つき、怒り、和み、吠えながら刻み続けた川柳の言葉。それらが内包するものについて考えることは、文学の存在理由にも関わる根源的な問いを、考える者ひとりひとりが改めて突きつけられることでもある。人ひとりの人生に関われないで何の文学ぞ、という視点から、中山が積み重ねた自己実現の様相と川柳がそれに対して果たしえた役割を考えるとともに、中山の川柳が、ともすれば鈍感なマジョリティでいることに気づかないでいる私たちに、提起する問題についても考察する。
著者
深澤 建次 花崎 泰雄 福岡 安則
出版者
埼玉大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1996

本研究は,埼玉大学に在籍している留学生(院生,学部生,研究生)30名あまりを対象とする,生活史的な聞き取り調査に基づく事例研究である(オーストラリア,モナシュ大学に私費留学する日本人学生の間き取りも,補足として,掲載している).留学生ひとりひとりの想いを,できうるかぎり忠実に記述したい。彼・彼女は,日本に来る前,日本に来て,そして日本を去るに際して,なにを想い,なにに喜び悩んでいるのかを,彼ら自身の言葉で率直に語ってもらい,それを正確に記録したい.そして留学生活を通じて彼・彼女がどのように変わったのかを把握したい.留学生の日常的内面的世界を,時間の流れに即して,探求する,これがわれわれの,この研究の関心であり,目的である.録音機を使って,被調査者の母語による(補足的に日本語による),ひとり当たり,2時間あまりの間き取りを実施したのは,このためである。録音したテープを極力忠実に,文書化,邦訳し,再構成したものが,以下で紹介する各事例である.それゆえ,われわれは,予め特定のトビックあるいは問題に焦点を絞って,調査する方法をとらない.あるいは留学生に立ちはだかる日本社会の「壁」を摘出することを主限としていない。「壁」にぶつからない留学生の日常世界を,彼らがみるがままに,再現したいと考えたのである.