著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.191-209, 2013

ハンセン病療養所のなかで60年ちかくを過ごしてきた,ある女性のライフストーリー。 山口トキさんは,1922(大正11)年,鹿児島県生まれ。1953(昭和28)年,星塚敬愛園に強制収容された。1955(昭和30)年に園内で結婚。その年の大晦日に,舞い上がった火鉢の灰を浴びてしまい,失明。違憲国賠訴訟では第1次原告の一人となって闘った。2010年8月の聞き取り時点で88 歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク),北田有希。2011年1月,お部屋をお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充の語りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。 山口トキさんは,19歳のときに症状が出始めた。戦後のある時期から,保健所職員が自宅を訪ねて来るようになる。入所勧奨は,当初は穏やかであったが,執拗で,だんだん威圧的になった。収容を逃れるため,父親に懇願して山の中に小屋をつくってもらい,隠れ住んだ。そこにも巡査がやってきて「療養所に行かないなら,手錠をかけてでも引っ張っていくぞ」と脅した。トキさんはさらに山奥の小屋へと逃げるが,そこにもまた,入所勧奨の追手がやってきて,精神的に追い詰められていったという。それにしても,家族が食べ物を運んでくれたとはいえ,3年もの期間,山小屋でひとり隠れ住んだという彼女の苦労はすさまじい。 トキさんは,入所から2年後,目の見えない夫と結婚。その後,夫は耳も聞こえなくなり,まわりとのコミュニケーションが断たれてしまった。トキさんは,病棟で毎日の世話をするうちに,夫の手で夫の頭にカタカナの文字をなぞることで,言葉を伝える方法を編み出す。会話が成り立つようになったことで,夫が生きる希望をとりもどす物語は,感動的だ。 トキさんは,裁判の第1次原告になったのは,まわりから勧められたからにすぎないと言うけれども,その気持ちの背後には,以上のような体験があったからこそであろう。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程 (学際系) 紀要 = Journal of Japanese & Asian studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.137-168, 2016

国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」に暮らす80代男性のライフストーリー。長州次郎さん(筆名)は,1927(昭和2)年,山口県生まれ。旧制の商業学校4 年のときにハンセン病を発症。1943年8月13日,父方・母方のオジ2人に付き添われて,菊池恵楓園に入所。――聞き取りは,語り手の寮舎にて,2011年7月9日の午前と夕方,計4時間半の長時間に及んだ。聞き手は福岡安則と黒坂愛衣。聞き取り時点で長州次郎さんは84歳。長州さんの語りは,大きく3つの物語からなる。1つは,母親とふるさとへの想いの発露。長州さんは,幼くして父親と死別しているせいか,母親への想いが人一倍強い。その彼が,小郡駅に見送りに来た母親との別れの場面で,もはや使わない通学定期券を母に渡したとき,母は「ハンカチで」受け取ったという。その悲しみを語るとき,長州さんは涙声になっていた。そして,家の跡を継ぐ妹の結婚に際しては,妹の婿に彼がハンセン病患者であることを隠すために,「父親が芸者に産ませた子」との作り話がなされたという。九大病院で「らい病」の診断を下された途端,オジたちに生家へ帰ることを禁じられた体験からか,長州さんはたった一度,1947年にしか「一時帰省」をしていない。それも,人目につかないように夜の闇に紛れての帰省であった。1996(平成8)年の「らい予防法」廃止により,県の事業としての「里帰り」が始まるが,その最初の「里帰り」でも,長州さんが母親と再会したのは,とある公園においてであって,実家の敷居を跨いではいない。翌1997年2月に母親は100歳で死亡。その訃報は初七日が過ぎてからであったという。その後も,毎年「里帰り」には参加しているものの,100 メートル先のタクシーのなかから実家を望むだけである。2つは,恵楓園の治療の至らなさへの批判の物語。戦時中の1943年に入所した彼は,敗戦までのまる2 年間,陸軍から治験薬として委託された「虹波」の実験台にされ,月に1 回は「七転八倒」するほどの胃痙攣に悩まされたという。また,戦後,特効薬として多くの病者に歓喜をもって迎えられたプロミン治療で,「だるい神経痛」症状を来たし,手の下垂などの後遺障害をもつに至った。さらに,恵楓園に眼科医不在の時代にハンセン病特有の虹彩炎を患い,まともな治療を受けられなかった。そのため,白内障を患い,いまでは恵楓園の「白内障友の会」の会長をつとめているという。それと,1948年に園内で結婚したあと,妻が妊娠。当然のこととして,妻は堕胎,そして彼は断種手術を受けさせられた。この体験を語るとき,長州さんは,ふたたび涙声になっていた。3つは,いまだに革新の旗を下ろさない,「最古参」の,社会党の老闘士の相貌である。長州さんの語りによれば,1926(大正15)年に発足した菊池恵園(当時は「九州癩療養所」)の自治会は,当初,園の御用をつとめる側面と入所者の相互扶助に貢献する側面の両面をもっていたが,戦後,軍人軍属の体験をもつ入所者が傷痍軍人としての恩給を給付されるようになると,かれらを中心に保守的な勢力が自治会役員を占めるようになる。それに対して,増重文(ます・しげふみ)らの指導のもと,長州さんたち若手が「革新」の旗を掲げて,園内に社会党支部を結成,多いときには100 人以上の党員・党友を結集していたという。自用費獲得闘争,「医者よこせ,看護婦よこせ」闘争などでは,まだ飛行場も新幹線もない時代に,長時間汽車に揺られて東京まで陳情に出かけた話が思い出ぶかく語られる。長州さんは,聞き取りの時点で,入所者自治会の執行部の成立が危うくなっていて,自身1961年から途切れることなくなんらかの役員として尽力してきた自治会が「休会」に追い込まれはしないかと心配されていたが,その後も,会長職を工藤雅敏さん,そして志村康さんが引き継いで,恵楓園自治会は,満身創痍の役員たちの頑張りによって,2015 年2月1日に恵楓園を訪問した時点では存続している。2015年2月1日,2日に,読み上げによる原稿確認と補充の聞き取りをおこなった。This is the life story of a man in his 80s who is living in Kikuchi-Keifūen, a Hansen’s disease facility.Mr. Jiro Choshu (his pen name in the Hansen’s disease facility) was born in Yamaguchi Prefecture in 1927. His Hansen’s disease symptom began when he was 4th grade of a commercial school. On August 13, 1943, his two uncles (one was the father side and the other was mother side) brought him to Kikuchi-Keifūen in Kumamoto Prefecture.The interview was held in the interviewee’s dormitory room on July 9, 2011. It was a long interview which took 4 and a half hours. Interviewers were Yasunori Fukuoka and Ai Kurosaka. The interviewee was 84 years old at the moment of the interview.His life story can be categorized by 3 big themes. The first one is the memory with his mother and hometown. Since Mr. Choshu lost his father when he was young, he has had a strong bond with his mother. In the moment of farewell at Ogori station, Mr. Choshu handed his student commuter pass that he would not use any longer to his mother, and she carefully received it with her handkerchief. He reminded that sad moment with tearful voice. His relatives made up the story of Mr. Choshu’s birth that he was the child born outside of marriage, the affair between his father and a show girl, because his sister was about to marry a man who would succeed Mr. Choshu’s household. They fabricated this story to hide family history of Hansen’s disease and banned Mr. Choshu to visit hometown. In fact, Mr. Choshu had visited hometown only one time in 1947 even in the nighttime not to be seen by other people. After the Segregation Policy was abolished in 1996, the Yamaguchi Prefecture helped the Hansen’s disease ex-patients come back home and Mr. Choshu had a chance to visit his mother. However it was at a public park, not his family house. Next year, his mother passed away at the age of 100, but Mr. Choshu received the notice 7 days later. Every year, he visits the hometown and always looks over his family house from 100 meters away in a taxi.The second theme of his life story is his criticism on the poor treatment at Kikuchi-Keifūen. He entered the facility in 1943 when the war was going on. Until Japan was defeated 2 years later, he became the subject of the clinical test for the medicine Koha that the Japanese imperial army requested to the facility. This medicine caused a deadly gastro spasm once a month. Promin, developed as the wonder-drug for Hansen’s disease after the war, also gave him several aftereffects. He got heavy neuralgia and hand descensus. Even more, he did not have proper treatment for iris inflammation, one of the characteristic complications of Hansen’s disease, because Kikuchi-Keifūen did not have an ophthalmologist. Consequently, his iris inflammation was developed to cataract. Currently he is serving as the representative of the Cataract Patients Group in Kikuchi-Keifūen. In 1948, he got married to a woman whom he met in the facility. His wife got pregnant and was forced to have an abortion. Mr. Choshu also had a sterilization surgery. He told these experiences in tearful voice.The last theme is his face as the oldest champion of Social Democratic Party of Japan, still raising the flag of anti-conservatism. According to his mention, the residents’ association of Kikuchi-Keifūen had two characters: a company union and a mutual aid for the residents. However, it became conservative as the residents with military service experience and benefits for disabled soldiers increased. Against this tendency, Mr. Choshu and other young people raised the flag of anti-conservatism under the leadership of Shigefumi Masu, and built the Kikuchi-Keifūen branch of the Social Democratic Party of Japan. At the maximum, this branch once had over 100 members. They participated in fighting for necessity allowance and also in the ‘Sending Doctors and Nurses to Us’ movement, visiting Tokyo to appeal to the Government. At that time there was no airport or Shinkansen, so they had to endure long distance train trips. At the time of this interview, Mr. Choshu worried about the future of the administration of the residents’ association. He had kept his service as the board member and devoted himself to the administration since 1961. Fortunately, the association is still functioning properly thanks to the effort of senior board members.On February 1 and 2, 2015, the interviewers read the interview script in front of Mr. Choshu to get his affirmation. We practiced the follow-up interview as well.
著者
福岡 安則 菊池 結
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.89-103, 2016

ハンセン病回復者,A さん(本人が匿名を希望)とは,2015年1月12日「あおばの会(東日本退所者の会)」の新年会で知り合った。そのときのちょっとした会話では,「飼い犬を連れて多磨全生園に入所したいんだけど,犬はダメだと言われて困っている」とのことであった。聞き取りをお願いし,2015年2月16日,関東地方の某県にお住まいのご自宅を訪ねた。聞き手は,福岡安則,菊池結。同席者が「ハート相談センター」の内藤とし子。聞き取りのあいだじゅう,Aの全生園入所の阻害要因となっている愛犬のダックスフントが,わたしたちにじゃれついていた。聞き取りの場での A の第一声は,「わたしは,全生園には入ってないんです。入院だけ。『そんなとこ入るんだったら,おれ,死んじまう』って言ったら,『いま,いい薬ができたから,ちゃんと約束を守ってきちんと薬を服用するんならば,療養所に入らなくていい』って,東大病院の先生に言われた。そして,うんと悪いときだけ全生園に入院してたんですよ」というものであった。A によれば"入所"ではなく"入院"だから,園内の寮舎に自分の部屋をあてがわれることはなかったし,病棟での治療がすめば速やかに娑婆に戻り,東大での通院治療を続けたというのだ。A の戸籍上の生年は 1934(昭和 9)年1月。2015年の聞き取り時点で81歳の男性。京都府北部の山村の貧しい農家に生まれ育つ。13歳で大工の住込み小僧となる。東京へ出てきて大工をしている22歳のときにハンセン病を発症。近くの病院で診察を受けるが,2ヵ月後,東大病院へ送られる。そこで東大の医師とのあいだで,上述のやりとりがあり,1956年の時点で「ハンセン病の通院治療」を受ける身となった。――そしていまでは「退所者給与金」をもらっている。この「非入所のような,そうでないような」の語り手,A と対照的な体験をしたのは,「『1日おきに薬を取りに来い』では勤めが続かず」(本誌第12号)の語り手,稲葉正彦(園名)であろう。稲葉は1934年生まれで, A と同い年である。稲葉が菊池恵楓園に収容されたのは1965年であり,A が東大病院に通院を始めたのが1956年だから,9年も後のことである。かたや,阪大で「1日おきに薬を取りに来い」と言われて,勤めの継続の断念,療養所収容,離婚,終生の療養所暮らしに追い込まれたのにたいして,かたや,それより早く9年も前に東大で「1週間に一度,薬を取りに来い」と言われ,ハンセン病関連の外科治療を要するときに「全生園に入院」しただけの「通院治療」を全うし,娑婆での大工職人としての仕事を最後までやり遂げ,「内縁」関係の妻とも添い遂げた。――A の事例は,「らい予防法」による「強制隔離政策」の過誤をあますところなく実証している実例であろう。わたしは,稲葉正彦の聞き取り事例だけを見ていたときには,彼に対する阪大の医師の対応は時代的制約ゆえのやむをえざる儀と判断していた。 だが,A の語りと突き合わせるとき,必ずしもそうは言えまい。9年も前に大工仕事を継続しながらの通院治療を認めた医師がいたのだ。医師「個人の資質」の違いが,きわめて大きい。同時に,そのような個人的資質が発動しうる環境いかんは,個々の医師が属する「教室・医局の意識構造」の 問題でもあったであろう。それにしても,A は幸運だった。しかしその A にして,「らい予防法」 にもとづく「強制隔離政策」「無らい県運動」が張り巡らしていた,いわば"蜘蛛の巣"から自由であったか/あるかというと,残念ながら「否」である。ひとつには,ハンセン病に罹った者は子どもをつくってはならないと思い込んでいて,内縁関係の女性が妊娠したにもかかわらず,「泣く泣く」堕胎してしまったことを,いま悔やんでいる。また,年齢を重ね身体が不自由になり,自分で自分のことができなくなったとき,ハンセン病の病歴が周囲の人にバレることへの,限りない恐怖に囚われている。We met Mr. A who was recovered from Hansen's disease at the New Year meeting of Aoba no Kai (Kanto Area Association of the Released from Hansen's Disease Facility) in January 12, 2015 for the first time. At that time, we had a brief talk and he told us that he recently tried to enter Tama-Zenshōen, Hansen's disease sanatorium in Tokyo with his dog but was told that he couldn't have a dog in the facility.We visited his home and had an interview in February 16, 2015. Interviewers were Yasunori Fukuoka and Yui Kikuchi. Ms. Toshiko Naito who came from Heart Counseling Center seated in the interview. While interviewing, his dog, a dachshund, which caused the trouble between him and the facility played around us.Mr. A's first word at the interview was, "Actually I had never entered Zenshōen. I was only hospitalized there. I said to a doctor of the University of Tokyo Hospital, 'I'll kill myself if you send me to that kind of Hansen's disease facility.' Then, the doctor told me, 'Currently good medicine of the disease is released and you don't need to enter the facility if you regularly have medicine on time.' Thus I used to be hospitalized in Zenshōen only when my health condition was really down." He also added that he did not have a room in the facility dormitory because he was released from the facility as soon as he got recovered and attended the University of Tokyo Hospital to continue to take care of his symptoms.Mr. A's birth date on his family registration record is in January, 1934. He was 81 years old at the moment of the interview. He was born to a poor family living in a mountain village in the north side of Kyoto Prefecture. He became apprentice of a carpenter when he was 13 years old. He got the Hansen's disease symptom when he was 22 years old as working as a carpenter in Tokyo. At the beginning, he got diagnose at a neighbor clinic but 2 months later was sent to the University of Tokyo Hospital. Then he began to regularly attend the hospital to take care of the symptom from 1956. And now, he is receiving the allowance from the Ministry of Health, Labor and Welfare for those who are released from Hansen's disease facility.Mr. A's experience of "Like a Non-Internee, or Somewhat Like That" is a contrast from the story of Mr. Masahiko Inaba (his alias in the Hansen's disease facility), "I Could Not Work Because the Doctor Told Me that I Need to Attend the Hospital Every Second Day for Medicines" (Vol. 12 of this journal).Mr. Inaba was born in 1934, the same age of Mr. A. Mr. Inaba was sent to Kikuchi-Keifūen, Hansen's disease Sanatorium in Kumamoto in 1965 even 9 years later than Mr. A's experience. Mr. Inaba was told that he had to attend the hospital for medicines every second day by Osaka University Hospital. Consequently, he lost his job and got divorced. Then, he was sent to the facility to live there in his life time. However, 9 years earlier, the University of Tokyo Hospital told Mr. A that he only needed to attend the hospital once in a week to receive medicines. Thus he could keep his job as a carpenter and the relationship with his common-law wife.Mr. A's case fully reveals the irrationalities of the Segregation Policy.I once judged that the doctor's decision at Osaka University Hospital was somewhat inevitable due to the restrictions of the times when I first heard Mr. Inaba's story. However, after I compared Mr. Inaba's case with Mr. A's, I realized that my judgment on the decision of the doctor in Osaka University Hospital would be wrong because there was the doctor who let Mr. A keep his job while attending the hospital even 9 years earlier.Mr. A was lucky. However, Mr. A could not avoid the wave of Segregation Policy and the Movement of Hansen's Disease Free Prefecture. That is to say, he was not fully free from the spider web of the discrimination on Hansen's disease. He had to ask his common-law wife to have abortion because he believed that Hansen's disease was hereditary. Even more he is deeply scared of the possibility that his neighbor would be aware of Mr. A's Hansen's disease history when he could not take care of himself for his age.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.107-125, 2015

ハンセン病療養所「菊池恵楓園」に暮らす70 歳代男性のライフストーリー。 稲葉正彦さん(園名)は,1934 年,熊本県生まれ。中学を卒業して,神戸製鋼に勤める。26 歳で結婚。ハンセン病の症状が出始め,大阪大学で通院治療を受けるが,「1 日おきの通院」を求められ,勤めを辞めざるをえなくなり,1965 年5 月26 日,菊池恵楓園に収容。結婚して5 年目,31 歳になったばかりの働き盛りであった。兵庫県の車で熊本まで移送されるものの,彼にはこのとき一晩で恵楓園まで着いたのか二晩かかったのかの定かな記憶が再現できない。――このときの悔しさゆえ,1998 年提訴の「らい予防法違憲国賠訴訟」では,原告の一員に加わったのだという。ハンセン病に罹ったこと自体を不遇の根拠と考えてしまうハンセン病罹患者が多いなかで,彼は「らい予防法」ゆえに社会生活を送りながらの通院加療の体制が整えられていなかったのだと,明晰な認識を構築しえているのが印象的であった。 聞き取りは,2011 年7 月8 日,菊池恵楓園の自治会室にて。聞き手は福岡安則と黒坂愛衣。聞き取り時点で77 歳。なお,2012 年12 月7 日,ご本人と読み上げによる原稿確認をした。稲葉さんには隔離収容体験の苛烈さゆえか,"自分が置かれた立場の自己対象化の明晰さ"と同時に,一面"シニカルさ"をも併せ持っているように感じられるが,それも彼を取り巻く社会的関係性の函数であることを伺わせる語りが,この補充の聞き取りで聞くことができた。つまり,2011 年の聞き取りでは,身内からは"供養事は呼ばれても祝い事は呼ばれない"と諦めに似た感慨とともに語っていたのが,2012 年のときには,この1 年のあいだに"姪の子の結婚式に招かれた"ことを喜びとともに語り,ハンセン病問題にかんする"啓発が行き届き始めているのではないか"と,これからに希望を見いだしつつある。 語りのなかで,稲葉さんは「ガンの治療」をしたとサラッと語っているが,どうやら予後はあまり芳しくないようである。2014 年7 月にわたしたちが再度,恵楓園を訪ねたとき,彼の顔色はよくなかった。しかし,その体で彼は,恵楓園自治会の副会長をつとめ,他の自治会役員とともに,月に複数回,恵楓園を訪ねてくる小中学生たちを相手の説明役をこなしている。 なお,〔 〕は聞き手による補筆である。 【追記】稲葉正彦さんは,2015 年1 月3 日永眠された。享年80 歳。合掌。 This is the life story of a man in his 70s living in Kikuchi-Keifūen, a Hansen's disease facility. Mr. Masahiko Inaba (his alias in the Hansen's disease facility) was born in Kumamoto prefecture in 1934. After graduating junior high school, he worked for Kobe Steel. He got married at 26. When Mr. Inaba got Hansen's disease he went to the Osaka University Hospital to seek a cure. He had to quit his job because his doctor told him that he needed to attend every other day for medicine. He was sent to Kikuchi-Keifūen on 26th May 1965. He was only 31 years old when he entered the Hansen's disease facility. It was the 5th year of his marriage and the prime time of his life. He was transferred from Hyogo prefecture to Kumamoto by a car but he did not remember if it took one night or a couple of nights to arrive at Kikuchi-Keifūen. The fury that he felt at that time never disappeared and propelled him to join the lawsuit suing the Segregation Policy for unconstitutionality as a member of plaintiffs 33 years later. In general, many Hansen's disease ex-patients have a tendency to regard having symptoms as individual adversity. However, Mr. Inaba seemed to have a clear opinion that the Segregation Policy and lack of social systems to support Hansen's disease patients in their attempts to carry on a normal life style while making regular hospital visits were real problems. This interview was conducted at the resident association office of Kikuchi-Keifūen on 8th July 2011. Interviewers were Yasunori Fukuoka and Ai Kurosaka. Mr. Inaba was 77 years old at the time of the interview. The interview script was revised with a follow-up interview and then approved by him on 7th December 2012. His stories show his objective and somewhat cynical attitudes toward his own experiences of segregated life in the Hansen's disease facility. Through the follow-up interview we learned that such attitudes were the product of the relationship between him and intimate people around him. When we interviewed him in 2011 he lamented that his relatives invited him for sad events but never sought him for celebrations. However, when we visited him again in 2012, he happily told us that he was invited for the wedding ceremony of his niece's children. Mr. Inaba also added that this event showed a hopeful development of the people's understanding of Hansen's disease. During the interview, he told us he has cancer, and it seemed that he was not in good condition. In July 2014, when we met him again at Kikuchi-Keifūen, in spite of his bad condition, he was serving as vice president of the resident association and giving speeches to young students to explain about Hansen's disease.
著者
福岡 安則
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程 (学際系) 紀要 = Journal of Japanese & Asian studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.15, pp.47-66, 2018

未成年でありながら,裁判手続きなしに,栗生楽泉園の「重監房」に長期間拘留され"獄死"した人がいたことは,2003 年からハンセン病問題にかかわるようになってすぐ,沢田五郎の『とがなくてしす』(皓星社,2002)に目を通すなりして,知ってはいた。しかし,社会学者の至らぬところ,関心の向かうのは,いま生きている人が体験してきたことが中心となる。みずから深く追究してみようと思うことなく,放置していたのが実情であった。ところが,思いもがけず,その「重監房」にて"獄死"させられた人の弟さんと出会うことになった。ハンセン病療養所「多磨全生園」の入所者の鈴村清さん(1939 年生)である。黒坂愛衣とわたしは全生園に鈴村さんを訪ね,お話を聞かせてもらった。さらに,これまでにおこなってきたハンセン病回復者のみなさんの聞き取りのなかに,「重監房」の屎尿汲み取りや飯運びの体験を語ってくれているものがあったことを思い出した。栗生楽泉園の入所者の関一郎さん,鈴木幸次さん,そして,栗生楽泉園から多磨全生園に転園された佐川修さんである。谺雄二さんが聞いた高田孝さんの語り,支援者たちが聞いた沢田五郎さんの語りも参照しつつ,ここに「裁判抜きの『重監房』」という一文にまとめた次第である。サブタイトルに「『ハンセン病と裁判』覚書(その1)」と付したのは,じつは,ハンセン病罹患者たちが《裁判を受ける権利》をまっとうに保障されていなかったのは,1947 年までであったのではなく,新しい「日本国憲法」の下でも,最高裁判所みずからがお付きを与えた「特別法廷」(実質的には"隔離法廷")という差別制度によって,沖縄返還の1972 年まで続けられていたこともあって,いちど,「ハンセン病と裁判」について,通史的に論じておきたいと思うからである。その後の「ハンセン病国賠訴訟」(2001 年一審勝訴,国の控訴断念により確定)「多磨全生園医療過誤訴訟」(2005 年一審勝訴,控訴審で和解)「ハンセン病死後認知訴訟」(2005 年一審敗訴,上告棄却で確定)「韓国ソロクト・台湾楽生院訴訟」(2005 年一審判決は敗訴と勝訴に分かれる,のち「ハンセン病補償法」の改正により解決)「ハンセン病非入所者家族単独訴訟」(2015 年一審敗訴,控訴中)「ハンセン病家族集団訴訟」(2016 年提訴,係争中)という一連の流れも振り返ってみたい。わたしたち(福岡と黒坂)自身,とくに《ハンセン病家族訴訟》に深くかかわることをとおして,これまで見えなかった多くのことが見えてきたこともある。Since 2003 when I initially got involved with the Hansen's disease problems I have noticed the fact that there was a minor patient who was detained for a long time in Jū-Kanbō (the worst condition prison jail) of Kuriu-Rakusenen sanatorium without trial to die there after all, through Mr. Goro Sawada's Death Penalty on an Innocent Person (2002). Meanwhile sociologists' regards mainly pursue the living problems and memories, thus I did not pay attention to the minor's death in the prison that much.However, the encounter with the minor's younger brother changed my interest. It is Mr. Kiyoshi Suzumura (born in 1939) who has lived in Tama-Zenshōen sanatorium. I and Ai Kurosaka visited Zenshōen to interview Mr. Suzumura. While practicing this interview I reminded that other testimonies of several Hansen's disease ex-patients, such as Mr. Ichiro Seki and Mr. Koji Suzuki in Kuriu-Rakusenen, and Mr. Osamu Sagawa who was transferred from Kuriu-Rakusenen to Tama-Zenshōen, talked about dipping up of excretions from vault toilets and distributing food in Jū-Kanbō. I referred to Mr. Takashi Takada's life story that Mr. Yuji Kodama interviewed and Mr. Goro Sawada's life story that other supporters heard, to write this essay "Detained in Jū-Kanbō without Trial".In order to reveal the fact that it was not until 1947 when Hansen's disease patients had been deprived of the legal right to have trial, I put "Notes on 'Trials and Lawsuits on Hansen's Disease Issues' (Part 1)" as the subtitle of this article. As a matter of fact, even Japanese Supreme Court under the new Japanese Constitution discriminated Hansen's disease people by operating so-called "special courts" which actually meant "segregated courts" until 1972, the year of Okinawa's reversion to Japan. Thus I want to give an overview of the history about the Hansen's disease issues and trials.Later I will try to review the court actions, such as the Unconstitutionality of the Leprosy Prevention Law's State Compensation (in 2001 the plaintiffs won the first trial and the judgement was confirmed by the government's waiver of the right to appeal), Tama-Zenshōen Medical Malpractice Lawsuit (in 2005 the plaintiff won the first trial and agreed settlement with the government at the appeal court), Paternity Suit by the Daughter of a Dead Hansen's Disease Patient (the plaintiff lost the first trial in 2005 and finally lost her case at the court of final appeal), Korean Sorok Island Sanatorium and Taiwanese Losheng Sanatorium Lawsuits (in 2005, at the first trial the Korean plaintiffs lost and the Taiwanese plaintiffs won. Later, both could receive the compensation by the revision of Hansen's Disease Compensation Law), Compensation Lawsuit by a Son of Non-sanatorium-residential Hansen's Disease Patient (the plaintiff lost the first trail in 2015 and is now under dispute at the appeal court), and Class Action Lawsuit by Hansen's Disease Patients' Families (in 2016 this case was filed by 568 plaintiffs and is now under trial). We had a chance to learn more information of these court actions because we are especially involved in the Class Action Lawsuit.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.31-63, 2010

この調査ノートは,「らい予防法」による「隔離政策」が貫徹していた時代に,ハンセン病を発症しながら,「ハンセン病療養所」に入所することなく生涯を終えた女性を母親にもつある男性のライフストーリーである。TM さんは1945 年生まれ。1956 年ごろ,母親がハンセン病だとの噂が地域社会に広がり始める。1959 年4 月,TM が中学2 年のはじめ,母親は「親戚会議」の決定に従って,「ハンセン病療養所」への入所を回避して,鳥取県から大阪に移住。阪大病院の「らい部門」での外来診療に通院することとなる。4 人の兄と1 人の姉が「逃げて」しまったあと,TM はひとりで母親の面倒をみる。9 年間の大阪暮らしのあと,阪大病院の外来治療に見切りをつけて,母とTM は鳥取県に戻る。TM は出稼ぎをしながら母親の生活を支える。1985年,母親が脳梗塞で倒れ,老人ホームに入所。ここで露骨な差別的扱いを受ける。この時点で,TM は,母親に「よかれ」と思って,「非入所」の生活を支えつづけてきたが,むしろ,ハンセン病療養所に入所させていたほうが母親の老後は幸せだったのではないかと,価値判断の大転換を体験する。このときから,そして,母親が1994 年に亡くなった後も,保健所や県庁を相手に,「らい予防法」に従った適切な対応を怠ってきた責任を執拗に問いつづける。まともに相手にされず,けっきょくは,2003 年,「こまい鉈」で県職員を殴打し,「殺人未遂事件」として刑事事件の被告とされ,「懲役3 年の実刑判決」に服した。TM の“非入所よりはハンセン病療養所に入所していたほうが,母は幸せだったにちがいない”という言説,“行政職員が「らい予防法」に従って適切な対応をしなかったのは問題だ”という言説,そして,“阪大病院のハンセン病治療は,患者家族の経済的立場を十分に考えておらず,治療内容も患者とその家族に十分な説明のないままの診療実験にすぎなかったのではないか”という言説は,2001 年の熊本地裁判決,その後の「ハンセン病問題に関する検証会議」の『最終報告書』(2005年)などによって積み上げられてきたハンセン病問題をめぐる現在の共通理解とは,一見対立するかのようである。しかし,わたしたちの理解によれば,TM の語りは,「らい予防法」体制下の「強制隔離政策」というものは,たんに,当事者の意思にかまわず強制的にハンセン病療養所へと患者を引っ張ってきて閉じ込める《収容・隔離の力》だけでなく,社会のなかに患者とその家族の居場所を徹底的になくして,ときに,患者みずからに,あるいは,患者の家族に,療養所への入所を望ませさえする《抑圧・排除の力》をもつくりだすことによって,はじめて機能していたということ。非入所を貫いたということは,この後者の《抑圧・排除の力》を長年にわたって浴びつづけたことにほかならないこと。それへの憤りが,母親の老人ホームでの差別的扱いで一挙に噴出したことをこそ,雄弁に物語っていると読み取れる。TM の語りは,ハンセン病療養所に「強制隔離された生活」が人権を根こそぎ剥奪された生活だったとすれば,「非入所者」としてハンセン病療養所に入所せずに社会のなかで暮らしつづけることも徹頭徹尾心のやすらぎを奪われた生活であったことを,鮮明に物語っているのだ。
著者
福岡 安則 鄭 暎恵
出版者
千葉県立衛生短期大学
雑誌
千葉県立衛生短期大学紀要 (ISSN:02885034)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.51-60, 1986

以下に呈示する資料は, 1985年1月19日に,栃木県栃木市在住の青年たちから聞いた聞き取りの記録である。MCさんは1959年生まれ。MY君はMCさんの弟で1961年生まれ。MMさんはMY君の妻で1963年生まれ。TFさんは1960年生まれである。資料から,結婚問題をはじめとする部落差別の壁をのりこえていこうとしている,被差別部落の青年たちの生き方を,読み取っていただければ幸いである。記録の編集の仕方は,従来と同様である。なお,本稿末尾に,調査メソバーの一員である鄭暎恵による調査覚書を付した。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.167-184, 2021

2012 年6 月18 日,福岡安則と黒坂愛衣は,熊本県合志市にある国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」の面会人宿泊所「渓楓荘」に,地元合志市在住の木村チズエさん(1932 年9 月13 日生,聞き取り時点で79 歳)と森三代子さん(1934 年4 月1 日生,聞き取り時点で78 歳)にご足労ねがって,聞き取りをさせていただいた。 おふたりは,菊池恵楓園附属保育所「龍田寮」の最後の保母である。 二人とも,昭和一桁の年代に農村部に生まれた女性にもかかわらず,親の理解と本人の向学心により,家庭がさほど裕福でもなかったのに,戦後の学制が旧制から新制に切り替わる時期に,高等学校を卒業している。そして,木村は 1952 年 12 月に,森は 1953 年4 月に「龍田寮」に勤める。この時期は戦後の「無癩県運動」が渦巻いていた。にもかかわらず,二人の親は〝結核は怖いが,ハンセン病はそうそうウツルものではない〟と娘の就職を歓迎している。そのような認識が,ハンセン病療養所の地元住民の一部とはいえ,明確にあったことは興味深い事実である。 龍田寮には,親がハンセン病を発症して恵楓園に収容されて,引き取り手のない,ゼロ歳児から中学生までの子ども約 70 人が暮らしていた。1953 年の終わりに,恵楓園の宮崎松記園長が,龍田寮の小学生たちが地域の黒髪小学校への通学を認められず,龍田寮内の分教場に押し込められていることを不当とし,新 1 年生から本校への通学を求めたことから,「黒髪校事件」とも「龍田寮事件」とも呼ばれる騒ぎが勃発する。地元住民の多数派が通学拒否の反対運動を組織し,さらには龍田寮自体の閉鎖を求める排斥運動を強力に展開したのだ。 お二人の語りからは,多数派住民の偏見差別から子どもたちを守ろうとし,龍田寮が閉鎖になったあとも,恵楓園の事務官として勤務し続け,あてがわれた官舎を,龍田寮出身の子どもたちが盆や正月に〝里帰り〟できる場として維持し続けた生涯がうかがわれる。かつて〝未感染児童〟とラベル貼りされた子どもたちに対して,献身的な姿勢を揺るがせることなく,最後まで寄り添い続けたお二人の生きざまには,頭がさがる。 On June 18, 2012, Yasunori Fukuoka and Ai Kurosaka visited Keifu-So, the visitors' lodge in Kikuchi Keifuen, a national Hansen's disease sanatorium in Koshi City, Kumamoto Prefecture to meet Ms. Chizue Kimura (born September 13, 1932, 79 years old at the time of hearing) and Ms. Miyoko Mori (born April 1, 1934, 78 years old at the time of hearing). These two are the last nursery teachers at Tatsuta Dormitory, the orphanage attached to Kikuchi Keifuen. Despite being women born in a rural area in the early Showa era, both of them graduated from senior high school which was changed from the old system to the new one after the Second World War. Although their families were not so wealthy, their parents' support and their willingness to study made this possible. Kimura worked at Tatsuta Dormitory in December 1952 and Mori in April 1953. During this period, "Leprosy-Free Campaign" was swirling. But their parents supported their daughters' job, saying that tuberculosis is scary, but leprosy is not contagious. It is interesting that they had such recognition even though they were towners near the leprosy sanatorium. In Tatsuta Dormitory, about 70 children from zero-year-olds to junior high school students, whose parents had Hansen's disease and were admitted to Keifuen, lived in the dormitory. At the end of 1953, the director of Keifuen, Dr. Matsuki Miyazaki, appealed that it was unfair that elementary school students in Tatsuta Dormitory were not allowed to attend the local Kurokami Elementary School, and demanded new first graders' enrolment to the local school, and then so-called "Kurokami School Incident" or "Tatsuta Dormitory Incident" broke out. The majority of local residents organized a movement to refuse Tatsuta Dormitory members' enrolment to the school, and also strongly demanded the shutdown of Tatsuta Dormitory itself. From the story of the two, we learned that they tried to protect the children from the prejudice and discrimination of the majority residents, and even after the Tatsuta Dormitory was closed, they continued to work as the clerk of Keifuen and keep their official residence as the home where the children from Tatsuta Dormitory can come back during the Bon Festival or New Year holidays. For the children who were labeled as "Uninfected Children", the two dedicated their whole lives without shaking their devotion to the children.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.137-168, 2016

国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」に暮らす80代男性のライフストーリー。長州次郎さん(筆名)は,1927(昭和2)年,山口県生まれ。旧制の商業学校4 年のときにハンセン病を発症。1943年8月13日,父方・母方のオジ2人に付き添われて,菊池恵楓園に入所。――聞き取りは,語り手の寮舎にて,2011年7月9日の午前と夕方,計4時間半の長時間に及んだ。聞き手は福岡安則と黒坂愛衣。聞き取り時点で長州次郎さんは84歳。長州さんの語りは,大きく3つの物語からなる。1つは,母親とふるさとへの想いの発露。長州さんは,幼くして父親と死別しているせいか,母親への想いが人一倍強い。その彼が,小郡駅に見送りに来た母親との別れの場面で,もはや使わない通学定期券を母に渡したとき,母は「ハンカチで」受け取ったという。その悲しみを語るとき,長州さんは涙声になっていた。そして,家の跡を継ぐ妹の結婚に際しては,妹の婿に彼がハンセン病患者であることを隠すために,「父親が芸者に産ませた子」との作り話がなされたという。九大病院で「らい病」の診断を下された途端,オジたちに生家へ帰ることを禁じられた体験からか,長州さんはたった一度,1947年にしか「一時帰省」をしていない。それも,人目につかないように夜の闇に紛れての帰省であった。1996(平成8)年の「らい予防法」廃止により,県の事業としての「里帰り」が始まるが,その最初の「里帰り」でも,長州さんが母親と再会したのは,とある公園においてであって,実家の敷居を跨いではいない。翌1997年2月に母親は100歳で死亡。その訃報は初七日が過ぎてからであったという。その後も,毎年「里帰り」には参加しているものの,100 メートル先のタクシーのなかから実家を望むだけである。2つは,恵楓園の治療の至らなさへの批判の物語。戦時中の1943年に入所した彼は,敗戦までのまる2 年間,陸軍から治験薬として委託された「虹波」の実験台にされ,月に1 回は「七転八倒」するほどの胃痙攣に悩まされたという。また,戦後,特効薬として多くの病者に歓喜をもって迎えられたプロミン治療で,「だるい神経痛」症状を来たし,手の下垂などの後遺障害をもつに至った。さらに,恵楓園に眼科医不在の時代にハンセン病特有の虹彩炎を患い,まともな治療を受けられなかった。そのため,白内障を患い,いまでは恵楓園の「白内障友の会」の会長をつとめているという。それと,1948年に園内で結婚したあと,妻が妊娠。当然のこととして,妻は堕胎,そして彼は断種手術を受けさせられた。この体験を語るとき,長州さんは,ふたたび涙声になっていた。3つは,いまだに革新の旗を下ろさない,「最古参」の,社会党の老闘士の相貌である。長州さんの語りによれば,1926(大正15)年に発足した菊池恵園(当時は「九州癩療養所」)の自治会は,当初,園の御用をつとめる側面と入所者の相互扶助に貢献する側面の両面をもっていたが,戦後,軍人軍属の体験をもつ入所者が傷痍軍人としての恩給を給付されるようになると,かれらを中心に保守的な勢力が自治会役員を占めるようになる。それに対して,増重文(ます・しげふみ)らの指導のもと,長州さんたち若手が「革新」の旗を掲げて,園内に社会党支部を結成,多いときには100 人以上の党員・党友を結集していたという。自用費獲得闘争,「医者よこせ,看護婦よこせ」闘争などでは,まだ飛行場も新幹線もない時代に,長時間汽車に揺られて東京まで陳情に出かけた話が思い出ぶかく語られる。長州さんは,聞き取りの時点で,入所者自治会の執行部の成立が危うくなっていて,自身1961年から途切れることなくなんらかの役員として尽力してきた自治会が「休会」に追い込まれはしないかと心配されていたが,その後も,会長職を工藤雅敏さん,そして志村康さんが引き継いで,恵楓園自治会は,満身創痍の役員たちの頑張りによって,2015 年2月1日に恵楓園を訪問した時点では存続している。2015年2月1日,2日に,読み上げによる原稿確認と補充の聞き取りをおこなった。This is the life story of a man in his 80s who is living in Kikuchi-Keifūen, a Hansen's disease facility.Mr. Jiro Choshu (his pen name in the Hansen's disease facility) was born in Yamaguchi Prefecture in 1927. His Hansen's disease symptom began when he was 4th grade of a commercial school. On August 13, 1943, his two uncles (one was the father side and the other was mother side) brought him to Kikuchi-Keifūen in Kumamoto Prefecture.The interview was held in the interviewee's dormitory room on July 9, 2011. It was a long interview which took 4 and a half hours. Interviewers were Yasunori Fukuoka and Ai Kurosaka. The interviewee was 84 years old at the moment of the interview.His life story can be categorized by 3 big themes. The first one is the memory with his mother and hometown. Since Mr. Choshu lost his father when he was young, he has had a strong bond with his mother. In the moment of farewell at Ogori station, Mr. Choshu handed his student commuter pass that he would not use any longer to his mother, and she carefully received it with her handkerchief. He reminded that sad moment with tearful voice. His relatives made up the story of Mr. Choshu's birth that he was the child born outside of marriage, the affair between his father and a show girl, because his sister was about to marry a man who would succeed Mr. Choshu's household. They fabricated this story to hide family history of Hansen's disease and banned Mr. Choshu to visit hometown. In fact, Mr. Choshu had visited hometown only one time in 1947 even in the nighttime not to be seen by other people. After the Segregation Policy was abolished in 1996, the Yamaguchi Prefecture helped the Hansen's disease ex-patients come back home and Mr. Choshu had a chance to visit his mother. However it was at a public park, not his family house. Next year, his mother passed away at the age of 100, but Mr. Choshu received the notice 7 days later. Every year, he visits the hometown and always looks over his family house from 100 meters away in a taxi.The second theme of his life story is his criticism on the poor treatment at Kikuchi-Keifūen. He entered the facility in 1943 when the war was going on. Until Japan was defeated 2 years later, he became the subject of the clinical test for the medicine Koha that the Japanese imperial army requested to the facility. This medicine caused a deadly gastro spasm once a month. Promin, developed as the wonder-drug for Hansen's disease after the war, also gave him several aftereffects. He got heavy neuralgia and hand descensus. Even more, he did not have proper treatment for iris inflammation, one of the characteristic complications of Hansen's disease, because Kikuchi-Keifūen did not have an ophthalmologist. Consequently, his iris inflammation was developed to cataract. Currently he is serving as the representative of the Cataract Patients Group in Kikuchi-Keifūen. In 1948, he got married to a woman whom he met in the facility. His wife got pregnant and was forced to have an abortion. Mr. Choshu also had a sterilization surgery. He told these experiences in tearful voice.The last theme is his face as the oldest champion of Social Democratic Party of Japan, still raising the flag of anti-conservatism. According to his mention, the residents' association of Kikuchi-Keifūen had two characters: a company union and a mutual aid for the residents. However, it became conservative as the residents with military service experience and benefits for disabled soldiers increased. Against this tendency, Mr. Choshu and other young people raised the flag of anti-conservatism under the leadership of Shigefumi Masu, and built the Kikuchi-Keifūen branch of the Social Democratic Party of Japan. At the maximum, this branch once had over 100 members. They participated in fighting for necessity allowance and also in the 'Sending Doctors and Nurses to Us' movement, visiting Tokyo to appeal to the Government. At that time there was no airport or Shinkansen, so they had to endure long distance train trips. At the time of this interview, Mr. Choshu worried about the future of the administration of the residents' association. He had kept his service as the board member and devoted himself to the administration since 1961. Fortunately, the association is still functioning properly thanks to the effort of senior board members.On February 1 and 2, 2015, the interviewers read the interview script in front of Mr. Choshu to get his affirmation. We practiced the follow-up interview as well.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.49-65, 2020

山川エイさんは,1950 年12 月,福島県生まれの女性。私たちが彼女に初めて会ったのは,2005 年9 月6 日,東京高等裁判所813 号法廷で「父子関係死後認知請求訴訟」の控訴審の弁論が開かれたときであった。"山川エイ"というのは,この死後認知訴訟上の仮名である。傍聴に出かけたのは,ハンセン病退所者の川島光夫(仮名)の誘いに応じたものと記憶する。このとき,私(福岡)は拙著『在日韓国・朝鮮人』(中公新書)を彼女にプレゼントしている。その後,私たちは,ゼミの学生たちも伴って,12 月6 日の期日にも,2006 年1 月17 日の期日にも,傍聴に出かけた。2006 年2 月28 日の判決期日には,大学院の博論合否判定会議と重なったため不参加。控訴棄却の報を受けた。東京高裁でお会いした3 回のうちのどこかで,私たちは彼女に聞き取りを申し込んだ。返答は「先生に聞き取りされたら,弁護士さんにも内緒にしていることまで喋っちゃうから,私,嫌だ」というものであった。福岡としては,フィールドワーカーとしての力量を褒められたものと思って,全然腹が立たなかったのを記憶している。2016 年はじめに「ハンセン病家族集団訴訟」が提訴され,弁護団から山川エイも原告の一人となっていることを聞き,担当の赤沼康弘弁護士のご好意で,2018 年8 月3 日,立川市の赤沼法律事務所で2 時間半の聞き取りを実施できた。開口一番,彼女が言ったのは「〔以前,話を聞かせてほしいと言われて〕私が断った理由,すっごい印象があるのは,催眠術をかけて,ちっちゃいときの思い出をぜんぶ思い出させるっていうのが,頭から離れなくって。自分はちっちゃいときのことを〔せっかく〕忘れてるのに,なんで〔それを思い出させて〕言わせるんだ,と思って」というものであった。同席した赤沼弁護士も,彼女は「忘れたい,話したくない,という思いがものすごく強い」人だという。にもかかわらず,よく語ってくれたと思う。けっして雄弁に語るというわけではなく,質問に短い応答が返ってくるという語りであった。かつ,語りのトピックが繰り返し巡ってきたときに,前に語られたことの真意が掘り下げて語られるという語り口であった。彼女の語りのまとめにあたっては,できるだけ,そのような語り口をも再現したいと思う。読者は,多少もどかしさを感じるかもしれないが,語りのスタイルの再現も,大事なことだと思う。Ms. Ei Yamakawa is a woman born in Fukushima Prefecture in December 1950. We initially met her in September 6, 2005 when the plead on the appeal of the Postmortem Paternity Lawsuit was held at the Tokyo High Court. "Ei Yamakawa" is the pseudonym used in this lawsuit.We attended the trial in response to the invitation of Mitsuo Kawashima (a pseudonym), Hansen's disease ex-patient. At that time, I (Fukuoka) presented her a copy of my book Zainichi Kankoku-Chosenjin, since I already knew that her father was a zainichi Korean. After that, we attended later trials with Fukuoka's seminar students in December 6 and January 17, 2006. We missed the sentence in February 28 because I had to attend the doctoral dissertation examination committee, and we heard that the court dismissed Yamakawa's appeal.Somewhere in the three times we met her at the Tokyo High Court, we applied for an interview with her. The answer was, "I don't want to do because I likely would confess everything even I did not tell my lawyer, if I get an interview by you." We were not disappointed because we accepted it as her praise for our field worker skill.At the beginning of 2016, the Compensation Lawsuit against the Government by the Family Members of Hansen's Disease Ex-patients was filed, we heard that Yamakawa was one of the plaintiffs and were able to conduct an interview with her in the support from her lawyer, Mr. Yasuhiro Akanuma. The interview was practiced for 2 and a half hours at Mr. Akanuma's law office.Her first words were, "I clearly remember the reason why I turned down your interview proposal last time. I thought that you would use hypnosis to urge me to tell you even the memory I did not want to remember. I hate to remember my youth memory. I was barely able to forget that memory. Why should I remember and tell my bothering memory for you?" Mr. Akanuma said, "Ms. Yamakawa is a person who wants to forget her old memory and does not want to tell her story to others, I think."We are grateful that she willingly shared her story with us, eventually. She was not eloquent and she made short answers to our questions. Only after repeating same question in a similar way, we were able to grasp her real intention. We tried to revive her original telling style when we organize her interview. Some readers may feel rather irritating with her storytelling style, but we believe that it is important to understand interviewee's original style.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.147-185, 2015

ハンセン病療養所から社会復帰して生きる60 代男性のライフストーリー。 竪山勲(たてやま・いさお)さんは,1948 年,鹿児島県生まれ。ハンセン病であった母は,1960 年,自宅で死亡。1962 年,中学2 年のときに,星塚敬愛園に収容される。ハンセン病療養所入所者のために瀬戸内海の長島愛生園に作られた4 年制の高校,新良田教室を3 年で中退,敬愛園に戻る。20 歳のとき脱走。東京で暮らすが,病気が騒いで多磨全生園に再入所。1975 年,敬愛園に送り返される。1998 年,「らい予防法違憲国賠訴訟」の第1 次原告のひとりとして,国を相手取った闘いに立ち上がる。裁判に勝利したあと,2004 年,社会復帰。同年,衆院補欠選挙に民主党から立候補するも落選。2011 年1 月の聞き取り時点で,62 歳。「ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会」事務局長。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,北田有希。 竪山さんは,みずから「群れをなすのは好かん。おれは一匹狼」と語るが,同時に,不条理を見抜く眼力の鋭さは天下一品。竪山さんを抜きには,あの「らい予防法違憲国賠訴訟」は,ああは展開しなかったことは間違いない。 聞き手として,竪山さんの話を聞けてほんとによかったと思えることが,2点ある。ひとつは,国に謝罪と賠償を求めるハンセン病訴訟が星塚敬愛園で始まったのは,田中民市さんが園内放送で園内の入所者に呼びかけ,島比呂志さんが手紙を書いて法曹界に訴えかけ,そして,竪山勲さんが放送界に訴えかけたという,それぞれ独自の3 つの動きが一つに合流することによる,という話である。また,KK さんのハンストに言及しつつ,一人ひとりの命を懸けた闘いが勝利をもたらしたのであり,「ハンセン病裁判にヒーローは要らん」と言い切った竪山さんの言葉に,わたしたちはなるほどと得心した。 いまひとつは,竪山さんは,聞き取りの冒頭で「自分には差し障りになるような個人情報はなにもない」と述べ,じっさいに,東京での「逃亡者のごとき」生活ぶり,多磨全生園に再入所せざるをえなかった経緯,さらには,全生園から敬愛園に強制的に送り返された顛末まで,みずからのライフストーリーを率直に語ってくれた。竪山さん自身は,"自分はいつも道の真ん中を歩いてきた。しかし,跳ねっ返りと言われるようになっていた"と語るが,彼の人生のそれぞれの局面を規定づけていたものが強制隔離政策の「らい予防法」体制であったことは,彼の語りから明らかであろう。 なお,〔 〕は聞き手による補筆である。 This is the life story of a man in his 60s who returned to society after living in a Hansen's disease facility. Mr. Isao Tateyama was born in Kagoshima prefecture in 1948. His mother, who also had Hansen's disease, died at home in 1960. In 1962, he was sent to Hoshizuka-Keiaien, a Hansen's disease facility when he was in the second grade of a junior high school. He dropped out of the third grade of the Niirada class of a four-year senior high school established for Hansen's disease patients in Nagashima-Aiseien on the Seto Inland Sea. He escaped the Hansen's disease facility when he was 20 and had lived in Tokyo, but he was sent to the Hansen's disease facility, Tama-Zenshōen again after his symptoms were aggravated. In 1975 he was sent back to Hoshizuka-Keiaien in Kagoshima prefecture. In 1998, he launched his struggle against the government by joining the lawsuit suing the Segregation Policy for unconstitutionality as a member of the first plaintiff group. In 2001, the lawsuit was decided in favor of the plaintiffs by the Kumamoto district court. In 2004, he returned to society and in the same year ran for the House of Representatives by election but failed to gain a seat. He was 62 years old when this interview was conducted on January 2011. He serves as a bureau chief of the National Association of the Plaintiffs of the Lawsuit Suing the Segregation Policy for Unconstitutionality. Interviewers were Yasunori Fukuoka, Ai Kurosaka and Yuki Kitada. Mr. Tateyama describes himself as a lone wolf that does not join the pack. He has the ability to point out social absurdity and it would have been impossible for the lawsuit suing the Segregation Policy for unconstitutionality to have been developed without Mr. Tateyama. We learned two quite important things from the interview with Mr. Tateyama. First, we found that the lawsuit which claimed the apology and compensation from the government began in Hoshizuka-Keiaien with the combination of three respective movements: Mr. Tamiichi Tanaka's proposal to the ex-patients in the facility by public announcement; Mr. Hiroshi Shima's letters to attract attention from legal community; and Mr. Isao Tateyama's appeal to broadcasting networks. He also mentioned the individuals' desperate struggle invited the win of the suitcase by mentioning Mr. K. K's hunger strike. From this, we can understand Mr. Tateyama's statement, "We do not need a hero for the lawsuit." Second, Mr. Tateyama stated at the early stage of the interview that he did not have any personal information to hide and told almost all of his life story while he lived in Tokyo as a fugitive, how and why he entered Tama-Zenshōen, and the process of coercive re-confinement to Hoshizuka-Keiaien. He used metaphor to describe his life, "I always have walked in the center of the road but became to be said to run and hop." From his story, we learned that the Segregation Policy deeply affected several scenes of his life.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程 (学際系) 紀要 = Journal of Japanese & Asian studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.15, pp.67-98, 2018

この聞き取りの記録は,国立ハンセン病療養所「星塚敬愛園」に暮らす90代男性のライフストーリーである。語り手の上田正幸さん(園名)は,1923(大正12)年,長崎県の佐世保生まれ。5 歳以降,郷里の鹿児島県で育つ。尋常小学校5 年で発病,学校で除け者にされるようになり,高等科には進まず,うちの百姓仕事を手伝っていたが,18 歳のとき,1941(昭和16)年7 月の「大収容」で星塚敬愛園に入所。以来,70 数年を療養所で暮らしている。彼の語りは,海軍を退役して,故郷に戻って農業をしながら町会議員をつとめていた父親の思い出から始まる。父への想いをとおして,ふるさとへの想いが語られている。同時に,園内の浄土真宗の信者たちの世話役である「真宗同愛会」の会長をつとめたこともある正幸さんは,師と仰ぐ先輩入園者,山中五郎師が全国に浄財を募って園内に「星塚寺院」を建立した話を,短歌に託して思い出深く語る。彼は,まさに篤信の真宗信徒なのである。「ハンセン病問題に関する検証会議」の『最終報告書』(2005)では,宗教は入所者たちから「らい予防法」体制下での強制隔離政策への批判精神を奪うものとして機能したという側面が強調されたけれども,この語りの標題を「篤信の仏教徒が国賠訴訟の先頭に立つ」としたように,正幸さんは,1998 年に熊本地裁に提訴された「らい予防法違憲国賠訴訟」の第一次原告13 名の一人であった。ハンセン病療養所のなかでの信仰心のもつ意味について,いま一度,実情に即して見つめなおす必要があろう。彼をして原告に立つことを決断させたものは,社会に残された妹さんの「あんちゃんも苦労したんだね」の一言であった。じつに,彼の妹も2 人の弟も,結婚差別の被害に遇っている。聞き取りは,2010 年6 月20 日,午前と午後,あわせて4 時間半に及んだ。聞き手は福岡安則,黒坂愛衣,金沙織。2014 年6 月28 日に補充の聞き取りをおこなったが,紙幅の関係で基本的に割愛。2015 年2 月24 日,読み上げのかたちで原稿確認をおこなった。発表までに時間がかかってしまったが,正幸さんがお元気なうちに活字にできて,ホッとしている。2017 年10 月末に最終稿を星塚敬愛園の上田正幸さんにお送りしたところ,近侍の方から,「上田正幸さんより依頼を受けて校正のお手伝いをいたしました。2 日間にわたり読みあげをして,原稿の確認を行いました。……『自分を残すことができた。自分のほとんどが書いてある。生涯だ。私の物語だ』『縁があれば,またお会いいたしましょう』との言付けでした」との丁寧な手紙が添えられて,数ヵ所,朱の入った原稿を送り返していただいた。語り手と近侍の方に感謝申し上げる。This interview is the life story of a man in his 90s living in Hoshizuka-Keiaien, the national sanatorium. Mr. Shoukou Ueda, the interviewee was born in Sasebo, Nagasaki in 1923 and grew up in Kaghoshima prefecture after he became 5 years old. He got Hansen's disease when he was in the fifth grade of elementary school and had been an outcast. He was graduated from only elementary school and helped farming work of his family. He was sent to Hoshizuka-Keiaien when he was 18 years old through so-called the Grand Confinement in July, 1941. Since that time he has lived in the sanatorium for over 70 years.His life story begins with the memory of his father who had served as a town assemblyman of his hometown after retiring from the navy. He talked about his hometown memory through the memory of his father.At the same time, Mr. Ueda who had served as the president of Shinshu-Doaikai, the society supporting believers of the Jodo-Shinshu sect was telling the story through the tanka (Japanese poem of thirty-one syllables) that Mr. Goro Yamanaka, a senior resident of the sanatorium built Hoshizuka-Temple in the sanatorium with the donation from all over the country. Mr. Ueda is a devout Buddhist believer.The final report of the Investigation Conference of the Problems of Hansen's Disease (2005) emphasizing the part of the religion's function as the tool to undermine the sanatorium residents' criticism on the Segregation Policy under the Leprosy Prevention Law. However, as the title of this research note, "A Devout Buddhist Led the Van in the Compensation Lawsuit against the Government" tells, Mr. Ueda was one of the 13 members of the plaintiffs in the first lawsuit against the Unconstitutionality of the Leprosy Prevention Law at the Kumamoto local court in 1998. We believe it is essential to review the meaning and function of religion in the Hansen's disease sanatoriums.Mr. Ueda said that his younger sister's word saying, "You my brother had a hard time, too" made him stand as the plaintiff of the lawsuit. As a matter of fact, his sister and two brothers received marriage discrimination just because they were the family of a Hansen's disease patient.This interview was practiced in June 20th in 2010. It took four and a half hours through the before noon and the afternoon. Interviewers were Yasunori Fukuoka, Ai Kurosaka and Sajik Kim. Although a follow-up interview was practiced in June 28th in 2014, we have to omit the interview due to the lack of space. We finally verified the contents of the interview with Mr. Ueda by the format of reading and listening in February 24th 2015. We are happy that we can publish this interview with Mr. Ueda while he is still in good health.
著者
福岡 安則 菊池 結
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.89-103, 2016

ハンセン病回復者,A さん(本人が匿名を希望)とは,2015年1月12日「あおばの会(東日本退所者の会)」の新年会で知り合った。そのときのちょっとした会話では,「飼い犬を連れて多磨全生園に入所したいんだけど,犬はダメだと言われて困っている」とのことであった。聞き取りをお願いし,2015年2月16日,関東地方の某県にお住まいのご自宅を訪ねた。聞き手は,福岡安則,菊池結。同席者が「ハート相談センター」の内藤とし子。聞き取りのあいだじゅう,Aの全生園入所の阻害要因となっている愛犬のダックスフントが,わたしたちにじゃれついていた。聞き取りの場での A の第一声は,「わたしは,全生園には入ってないんです。入院だけ。『そんなとこ入るんだったら,おれ,死んじまう』って言ったら,『いま,いい薬ができたから,ちゃんと約束を守ってきちんと薬を服用するんならば,療養所に入らなくていい』って,東大病院の先生に言われた。そして,うんと悪いときだけ全生園に入院してたんですよ」というものであった。A によれば"入所"ではなく"入院"だから,園内の寮舎に自分の部屋をあてがわれることはなかったし,病棟での治療がすめば速やかに娑婆に戻り,東大での通院治療を続けたというのだ。A の戸籍上の生年は 1934(昭和 9)年1月。2015年の聞き取り時点で81歳の男性。京都府北部の山村の貧しい農家に生まれ育つ。13歳で大工の住込み小僧となる。東京へ出てきて大工をしている22歳のときにハンセン病を発症。近くの病院で診察を受けるが,2ヵ月後,東大病院へ送られる。そこで東大の医師とのあいだで,上述のやりとりがあり,1956年の時点で「ハンセン病の通院治療」を受ける身となった。――そしていまでは「退所者給与金」をもらっている。この「非入所のような,そうでないような」の語り手,A と対照的な体験をしたのは,「『1日おきに薬を取りに来い』では勤めが続かず」(本誌第12号)の語り手,稲葉正彦(園名)であろう。稲葉は1934年生まれで, A と同い年である。稲葉が菊池恵楓園に収容されたのは1965年であり,A が東大病院に通院を始めたのが1956年だから,9年も後のことである。かたや,阪大で「1日おきに薬を取りに来い」と言われて,勤めの継続の断念,療養所収容,離婚,終生の療養所暮らしに追い込まれたのにたいして,かたや,それより早く9年も前に東大で「1週間に一度,薬を取りに来い」と言われ,ハンセン病関連の外科治療を要するときに「全生園に入院」しただけの「通院治療」を全うし,娑婆での大工職人としての仕事を最後までやり遂げ,「内縁」関係の妻とも添い遂げた。――A の事例は,「らい予防法」による「強制隔離政策」の過誤をあますところなく実証している実例であろう。わたしは,稲葉正彦の聞き取り事例だけを見ていたときには,彼に対する阪大の医師の対応は時代的制約ゆえのやむをえざる儀と判断していた。 だが,A の語りと突き合わせるとき,必ずしもそうは言えまい。9年も前に大工仕事を継続しながらの通院治療を認めた医師がいたのだ。医師「個人の資質」の違いが,きわめて大きい。同時に,そのような個人的資質が発動しうる環境いかんは,個々の医師が属する「教室・医局の意識構造」の 問題でもあったであろう。それにしても,A は幸運だった。しかしその A にして,「らい予防法」 にもとづく「強制隔離政策」「無らい県運動」が張り巡らしていた,いわば"蜘蛛の巣"から自由であったか/あるかというと,残念ながら「否」である。ひとつには,ハンセン病に罹った者は子どもをつくってはならないと思い込んでいて,内縁関係の女性が妊娠したにもかかわらず,「泣く泣く」堕胎してしまったことを,いま悔やんでいる。また,年齢を重ね身体が不自由になり,自分で自分のことができなくなったとき,ハンセン病の病歴が周囲の人にバレることへの,限りない恐怖に囚われている。We met Mr. A who was recovered from Hansen's disease at the New Year meeting of Aoba no Kai (Kanto Area Association of the Released from Hansen's Disease Facility) in January 12, 2015 for the first time. At that time, we had a brief talk and he told us that he recently tried to enter Tama-Zenshōen, Hansen's disease sanatorium in Tokyo with his dog but was told that he couldn't have a dog in the facility.We visited his home and had an interview in February 16, 2015. Interviewers were Yasunori Fukuoka and Yui Kikuchi. Ms. Toshiko Naito who came from Heart Counseling Center seated in the interview. While interviewing, his dog, a dachshund, which caused the trouble between him and the facility played around us.Mr. A's first word at the interview was, "Actually I had never entered Zenshōen. I was only hospitalized there. I said to a doctor of the University of Tokyo Hospital, 'I'll kill myself if you send me to that kind of Hansen's disease facility.' Then, the doctor told me, 'Currently good medicine of the disease is released and you don't need to enter the facility if you regularly have medicine on time.' Thus I used to be hospitalized in Zenshōen only when my health condition was really down." He also added that he did not have a room in the facility dormitory because he was released from the facility as soon as he got recovered and attended the University of Tokyo Hospital to continue to take care of his symptoms.Mr. A's birth date on his family registration record is in January, 1934. He was 81 years old at the moment of the interview. He was born to a poor family living in a mountain village in the north side of Kyoto Prefecture. He became apprentice of a carpenter when he was 13 years old. He got the Hansen's disease symptom when he was 22 years old as working as a carpenter in Tokyo. At the beginning, he got diagnose at a neighbor clinic but 2 months later was sent to the University of Tokyo Hospital. Then he began to regularly attend the hospital to take care of the symptom from 1956. And now, he is receiving the allowance from the Ministry of Health, Labor and Welfare for those who are released from Hansen's disease facility.Mr. A's experience of "Like a Non-Internee, or Somewhat Like That" is a contrast from the story of Mr. Masahiko Inaba (his alias in the Hansen's disease facility), "I Could Not Work Because the Doctor Told Me that I Need to Attend the Hospital Every Second Day for Medicines" (Vol. 12 of this journal).Mr. Inaba was born in 1934, the same age of Mr. A. Mr. Inaba was sent to Kikuchi-Keifūen, Hansen's disease Sanatorium in Kumamoto in 1965 even 9 years later than Mr. A's experience. Mr. Inaba was told that he had to attend the hospital for medicines every second day by Osaka University Hospital. Consequently, he lost his job and got divorced. Then, he was sent to the facility to live there in his life time. However, 9 years earlier, the University of Tokyo Hospital told Mr. A that he only needed to attend the hospital once in a week to receive medicines. Thus he could keep his job as a carpenter and the relationship with his common-law wife.Mr. A's case fully reveals the irrationalities of the Segregation Policy.I once judged that the doctor's decision at Osaka University Hospital was somewhat inevitable due to the restrictions of the times when I first heard Mr. Inaba's story. However, after I compared Mr. Inaba's case with Mr. A's, I realized that my judgment on the decision of the doctor in Osaka University Hospital would be wrong because there was the doctor who let Mr. A keep his job while attending the hospital even 9 years earlier.Mr. A was lucky. However, Mr. A could not avoid the wave of Segregation Policy and the Movement of Hansen's Disease Free Prefecture. That is to say, he was not fully free from the spider web of the discrimination on Hansen's disease. He had to ask his common-law wife to have abortion because he believed that Hansen's disease was hereditary. Even more he is deeply scared of the possibility that his neighbor would be aware of Mr. A's Hansen's disease history when he could not take care of himself for his age.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程 (学際系) 紀要 = Journal of Japanese & Asian studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.16, pp.79-98, 2019

黒坂愛衣『ハンセン病家族たちの物語』(世織書房,2015)の出版がひとつの大きな梃子となって,2016年2月に熊本地裁に対して「ハンセン病家族集団訴訟」が提訴された。そして,2016年12月26日の第2回弁論のときに「原告番号188番」の女性が意見陳述をした。「私は,昭和33年8月4日,宮古島にあるハンセン病療養所,宮古南静園で生まれました。(中略)実は,母は,私を妊娠していることが分かり,南静園の職員に堕胎させるための注射をうたれたのですが,その注射が失敗したおかげで,私は生まれることができました。」その瞬間,この話,私たちは聞いたことがあると思った。宮古南静園からの退所者,知念正勝氏からの聞き取りでだ。知念氏からの聞き取りは,2008年2月19日,宮古南静園の面会人宿泊所「南楓荘」にて実施している(本誌本号に「隔離政策と優生政策と――あるハンセン病療養所退所者の聞き取り」と題して収録)。この女性原告は,知念正勝氏の娘さん,Mさんであった。私たちは2017年5月4日~7日の日程で,原告団副団長の黄光男(ファン・グァンナム)氏を誘って宮古島へ。5月4日午後には園内フィールドワーク,夜は,宮古の家族原告の会「ティダの会」のみなさん,退所者,入所者のみなさんに集まってもらって懇親会(総勢25人)。翌日,ご自宅にてMさんから聞き取り。「ハンセン病家族集団訴訟」における被告国の主張は"政府の隔離政策は,患者を対象としたもので,家族までも対象とするものではなかった。国の政策の被害が家族にまで及んだとは認められない"というものだ。国の代理人は,本気でそう考えているのだろうか。妊娠中に両親がハンセン病療養所から脱走することで命が守られ,いま,この裁判の原告となっている人と,私たちは何人も出会っている。そして,Mさんは,療養所内で妊娠中の母親が堕胎のための注射を打たれたが,幸いにも注射がはずれたために,命を拾った人だ。あきらかに国は"終生隔離絶滅政策"のなかで,患者たちのみならず,その子孫の抹殺をも企図していたのだ。ただ,それが完璧には遂行しえなかっただけなのだ。――とは言いつつも,その背後には,膨大な数の,堕胎によって抹殺された嬰児の命がある。今回の家族訴訟でも"自分のきょうだいが堕胎された"と語る原告が何人もいる。The publication of Ai Kurosaka's Japanese original version (Seori Shobo, 2015) of Fighting Prejudice in Japan: The Families of Hansen's Disease Patients Speak Out (Melbourne: Trans Pacific Press, 2018) functioned as the leverage for the lawsuit of class action of Hansen's disease patients' families at Kumamoto District Court in February 2016.In December 26th, 2016, at the second pleading of the trial, a female plaintiff whose number is 188 stated her opinion as follows."I was born in National Sanatorium Miyako Nanseien at Miyakojima Island in August 4th, 1958. To tell the truth, my mother was forced to get the abortion injection by the staff of the sanatorium when she was pregnant with me, but fortunately the injection did not work and I was able to be born to my mother."When we heard her statement, we immediately reminded that we are already familiar with this story from the interview with Mr. Masakatsu Chinen who once lived in Miyako Nanseien. The interview with Mr. Chinen was practiced at Nanpu Hall, the visitors' lodge of Miyako Nanseien in February 19th, 2008. (This interview is published with the title of "Segregation Policy and Eugenic Policy: An interview with a Former Resident of a Hansen's Disease Sanatorium" on the same issue of this journal as well.)This female plaintiff is surely Mr. Chinen's daughter. (We call her Ms. M in this paper.) We visited Miyakojima Island with Mr. Gwangnam Hwang, the vice representative of the plaintiffs group during May 4th and 7th, 2017. On May 4th we spent afternoon time to practice the field work in the sanatorium, and had a convivial gathering with the members of Tida-no-Kai (Society of Sun), that is, the group of the plaintiffs in Miyakojima, and former and current residents of the sanatorium (25 people in total). On the next day, we held an interview with Ms. M at her place.The government of Japan, the defendant of the lawsuit stated that the Segregation Policy only targeted Hansen's disease patients themselves, thus they would not accept the claim that this policy negatively affected the patients' family lives. I wonder if the legal representatives of the government honestly agree with this statement or not. We have met several plaintiffs who could live thanks to the fact that their parents ran away from the sanatorium while they were in pregnancy. Even Ms. M is the survivor from the abortion injection that the sanatorium staff forcedly gave to her pregnant mother. Certainly, the government attempted to annihilate not only Hansen's disease patients but also their descendants through the Segregation and Extermination Policy and they just failed to achieve it perfectly. However, we should not forget there had been enormous unborn lives due to this policy. In the lawsuit of class action of Hansen's disease patients' families, many plaintiffs say that their unborn brothers and sisters were aborted by the government policy.