- 著者
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米家 泰作
- 出版者
- 公益社団法人 日本地理学会
- 雑誌
- 日本地理学会発表要旨集 2020年度日本地理学会秋季学術大会
- 巻号頁・発行日
- pp.99, 2020 (Released:2020-12-01)
近代日本の林学は,日本が帝国主義への道を歩み始めた19世紀末に制度化され,ドイツ林学を通じて科学的林業の考えを取り入れた。報告者はこの点に留意して,林学の確立と植民地の拡張,ならびに環境主義の関わりについて検討を重ねてきた(米家2019,米家・竹本2018,Komeie 2020)。本報告では,科学的林業の素養がないまま台湾で草創期の林学の基盤を築いた田代安定に注目し,植民地林学の形成にみる本国と植民地の関係性について考察する。田代安定(1857-1928)は,19世紀末から20世紀初頭にかけて、主として植物学や人類学の分野で活躍した人物であり,八重山諸島や台湾先住民の調査で知られる。また,研究者としての側面と,台湾総督府の植民地統治を支えた技官としての側面があり,その多面的な人物像の検討が進んでいる(呉2008,中生2011)。田代と台湾の関わりは,日清戦争時の澎湖諸島占領に随行し(1895年),自生植物の目録と「植樹意見」を作成したことに始まる。田代は創設された台湾総督府に勤め,主として林政と先住民統治に関わった。前者に関しては,街路樹を含む植林の促進と,熱帯植物殖育場における有用植物の研究が大きい。これらは,田代が植物学の知識を活かして熱帯林学の基盤づくりを進め,植民地の開発を意図したことを示している。ただし,総督府における田代の立場は殖育場主任に止まり,林務課や林業試験場の要職には就かなかった。また、田代の関心はもっぱら植栽すべき種の選定と育苗にあり,伐採林業の促進には関わりが弱かった。一方,東京農林学校が1890年に帝国大学に編入されると,ドイツ林学を学んだ林学士の輩出が始まった。林学教室のスタッフの一人,本多静六(1866-1652)は,植民地となった台湾や朝鮮に関心を広げ,帝国の林学を志向することになる。1896年に台湾の山岳植生を調査した本多は,「植物家」のように植物種を単に記録するのでなく,林学の立場から植生の人為的変化を捉えるべきだと主張した。本多と田代は,澎湖諸島の植生の成因について意見が相違しており,植物種に関心を置く田代と,生態学的な視座から森林管理を志向する本多の立場は,対照的であった。植民地台湾に赴任した帝大卒の林学士として,本多と同期の齋藤音作がいるが,数年で内地に戻っている。より本格的な人材として,林務課長や林業試験場長を務めた賀田直治(1902年卒)と,林業試験場長を務め,後に九州帝大に招聘された金平亮三(1907年卒)が挙げられる。他にも帝大や高等農林学校で林学を修めた人材が,次第に台湾の林政に加わるようになると(呉2009),林学を基盤としない田代の存在意義は次第に弱まったと推測される。田代は1920年代初頭に台湾総督府の仕事から離れた。本国から科学的林業の担い手が送り込まれたことで,世代交代を迫られたといえる。しかし林学者ではない人物が,有用植物の把握や植樹の提起を通じて植民地林学の基礎を築いたことは,帝国日本の林学形成の一端が植民地にあったことを示している。