著者
郷原 佳以
出版者
関東学院大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2009

20世紀フランスを代表する文芸批評家モーリス・ブランショの文学論や虚構作品における言語とイメージの関係性について考察し、単著『文学のミニマル・イメージ』にまとめるとともに、そこから出発して、(1) 19世紀の詩人ステファヌ・マラルメの詩論や絵画論、(2) 1950-60年代の現代芸術に見られブランショも実践した断章形式、(3)現代詩人ミシェル・ドゥギーの詩論や隠喩論、(4)芸術作品をめぐるアポリネールやバルザックの短篇小説などの分析を行った。
著者
郷原 佳以
出版者
日本フランス語フランス文学会
雑誌
フランス語フランス文学研究 (ISSN:04254929)
巻号頁・発行日
vol.77, pp.36-48, 2000-10-21 (Released:2017-08-11)

Cette etude est une reflexion sur la narration d'un romen de Maurice Blanchot, Le Tres-Haut (1948). Au cours de notre lecture, nous nous referons a la notion d'≪inquietude≫: nous essayons de montrer qu'il n'y a dans ce roman ni commencement ni fin, que le narrateur n'y parle pas son langage, qu'il ne peut meme etre distingue des paroles narrees, c'est-a-dire du roman lui-meme. Klossowski a fait remarquer que le nom du personnage narrateur, Henti Sorge, devait etre traduit en allemand par Heinrich Sorge, car le Sorge, ≪souci≫, est une notion heideggerienne importante: l'etre propre du Dasein, de ≪l'etre-la≫. Or vers la fin du roman, un personnage, Jeanne, appelle Henri Sorge ≪le Tres-Haut≫. Ces deux noms, Henri Sorge et le Tres-Haut, indiquent que le narrateur est Dieu comme pur souci et rappellent le caractere inquietant du nom de Dieu comme pur souci et rappellent le caractere inquietant du nom de Dieu, voire de tous les noms. Mais ≪le Tres-Haut≫ est aussi le titre du roman. D'ou une sorte d'inchainement de l'≪inquietude≫: outre le narrateur et ses paroles qui sont le roman, sont inquietees la notion d'auteur et celle de Dieu, de sorte que personne ne peut plus etre sujet de la narration. De fait, l'epigraphe se compose de deux repliques d'Henri extraites du texte a l'epigraphe se compose de deux repliques d'Henri extraites du texte a suivre, ou il est affirme sous la forme ≪je suis…≫ qu'on est un piege et la verite. Le ≪je≫ qui, a cette place, est a la fois Henri et le roman et l'epigraphe, donne un avertissement a celui qui s'apprete a parler autant qu'au lecteur. La premiere phrase du roman est aussi une sorte de citation: l'affirmation ≪j'etais un homme quelconque≫ est la reprise a l'imparfait d'une replique d'Henri. Jeanne l'a nomme ≪le Tres-Haut≫, Henri denie desesperement, mais l'exces meme de sa reaction suggere la justesse des mots de Jeanne. Tout le roman peut alors etre lu comme les parolos par lesquelles Henri se denie comme Dieu. Si ses paroles sont aussi vehementes, c'est que sans ce deni, il deviendrait Dieu transcendant, sans plus pouvoir exister comme Henri. Jeanne, au contraire, ne suppoorte pas que Dieu existe devant elle, et elle tire sur Henri. En vain, puisque la derniere phrase du roman est ce cri d'Henri: ≪Maintenant, c'est maintenant que je parle≫. L'histoire du Tres-Haut peut etre consideree comme narree a partir de cet instant, sans qu'Henri, malgre sa declaration, puisse parler son langage. Henri Sorge a passe la mort et ne survit que comme langage, il est a la fois poete et le langage de la poesie.
著者
郷原 佳以
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2019-04-01

モーリス・ブランショ、ロラン・バルト、ジャック・デリダは、いずれも20世紀フランスにおいて「エクリチュール」を概念化し、根源的な営みとして捉えた批評家であり思想家である。彼らのエクリチュール概念は、それが主体の理性的な統御を免れるものだという点においては共通している。しかし、構造主義が依拠した発話理論の言語学との関係という観点から見ると、彼らのエクリチュール概念はそれぞれに異なっている。本研究は、関連テクストの精査により、エクリチュール概念と発話理論の関係性という見地から彼らの思想の共通性や差異を明らかにし、それを通して、ブランショやデリダと構造主義との距離をも明らかにする。
著者
郷原 佳以
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2015-04-01

デリダにおける「自伝の脱構築」のありようを明らかにするという目的に沿って、主として以下の研究を行った。(1)デリダがテクストに虚構的かつ単独的な動物たちを登場させ、虚構的かつ自伝的なテクストを書いたのは、他者性における単独性と普遍性のアポリアを限界まで思考するためであったことを明らかにした。(2)デリダにおける自伝的・詩的テクストの展開と晩年まで続いた「灰」モチーフとの関連を精査し、両者に大いなる関係があることを突き止めた。『火ここになき灰』、「送る言葉」、「プラトンのパルマケイアー」を精査することで、「灰」モチーフの登場がデリダにおける自伝的・詩的テクストの端緒を徴づけていることを示した。
著者
郷原 佳以
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.131, pp.121-141, 2014

モーリス・ブランショ(1907-2003)はフロイトの精神分析とどのような関わりをもったのだろうか。まず気づかれるのは、ブランショが同時代の作家や批評家たちと異なり、精神分析を文学に導入することに対してきわめて慎重であり、文学作品の精神分析的解釈を繰り返し批判したことである。文学言語は作者の精神分析には還元しえない「終わりなきもの」への接近であるというのがブランショの見解であった。他方でブランショは、精神分析理論における「反復強迫」や「死の欲動」に関しては、同じ理由から、文学の経験との親近性を見出していた。注目すべきは、ブランショが1956年の論考「フロイト」において、多くの留保は示しながらも、精神分析における「対話」に「終わりなきもの」との関わりを認めたことである。ブランショにとって、精神分析は治癒のための制度である限りでは文学とは相容れないが、その「対話」においては文学の経験と接近するのである。
著者
郷原 佳以
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.119, pp.1-31, 2010

モーリス・ブランショは1960年前後から断章形式に関心を示すようになった。70年代になると「断片的なもの」への傾斜は決定的となり、後期ブランショを代表する二著『彼方への一歩』(1973)と『災厄のエクリチュール』(1980)はいずれも全編が断章形式で書かれている。50年代末から70年代末にかけて、ブランショのなかで「断片的なもの」が大きな位置を占めるようになったことは明らかである。では、その「断片的なもの」とは何なのか。断章形式への傾斜は40-50年代のブランショの文学論といかなる関係にあるのか。そこにはある種の断絶があるのだろうか。しばしば言われるように、断章形式への移行は全体性の形式たる「書物」からそれに収斂しない「エクリチュール」への移行であり、ブランショの「断片的なもの」は全体性と無縁なのだろうか。しかし、だとすると、『国際雑誌』が「全体へのパッション」を持たなければならないと言われるとき、その「全体」とは何なのか。本稿では、『彼方への一歩』を過去のテクストと照らし合わせて読解することにより、これらの問いに取り組む。そこから導き出されるのは、ブランショの思考の断絶ではなく深化である。
著者
郷原 佳以
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.131, pp.121-141, 2014

モーリス・ブランショ(1907-2003)はフロイトの精神分析とどのような関わりをもったのだろうか。まず気づかれるのは、ブランショが同時代の作家や批評家たちと異なり、精神分析を文学に導入することに対してきわめて慎重であり、文学作品の精神分析的解釈を繰り返し批判したことである。文学言語は作者の精神分析には還元しえない「終わりなきもの」への接近であるというのがブランショの見解であった。他方でブランショは、精神分析理論における「反復強迫」や「死の欲動」に関しては、同じ理由から、文学の経験との親近性を見出していた。注目すべきは、ブランショが1956年の論考「フロイト」において、多くの留保は示しながらも、精神分析における「対話」に「終わりなきもの」との関わりを認めたことである。ブランショにとって、精神分析は治癒のための制度である限りでは文学とは相容れないが、その「対話」においては文学の経験と接近するのである。
著者
郷原 佳以
出版者
青土社
雑誌
現代思想
巻号頁・発行日
vol.36, no.13, pp.162-179, 2008-10
著者
工藤 庸子 笠間 直穂子 南 玲子 郷原 佳以
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.51-63, 2005

平成17年度に開設された面接授業「初歩のフランス語」は、まったくフランス語に触れたことのない学習者が5回の授業を通して発音の原則を覚え、簡単な挨拶を交わすことができるようになることを目標としている。また同時に、異文化を内包する市民社会という点において日本にはるかに先んじているフランスおよび広域フランス語圏について馴染んでもらうことで、「社会、文化、歴史に開かれたモティヴェーション教育」を行うことを目指している。実際の授業では、一方向的な放送授業との差異化を図り、教師と学生のふれあいを大切にし、学生の反応に応じて、また時事問題などを取り入れながら、臨機応変に授業を運営する方針をとっている。こうしたヴィジョンに則って、担当講師たちがオリジナルの共通教材を制作した。「共通教材」とは、すべての教室で共有する最小限のコンテンツであり、各講師はそれをもとに自由に授業を展開することができる。今回制作したのは、カラーの図版やイラストを豊富に用いた6ページのコピー教材と、教材の例文のネイティヴ講師による発音を録音した音声教材である。教材制作は授業計画に沿って行われた。授業計画において、初回と第2回は発音やアルファベットを丁寧に解説し、第3回から第5回までは「パリ」、「フランス諸地方」、「フランス語圏」をテーマにして会話練習等を行うこととした。そこで、それぞれの地域について分担して資料を集め、カラー教材に収めた。教材の具体的な活用については、平成17年度1学期の担当講師による授業報告を参照していただきたい。初回と最終回の授業では、フランス語および授業についてのアンケートを実施した。アンケート結果の分析によって、生きた知識を取り入れながらコミュニケーションの手段としてのフランス語の基本を学ぶ「初歩のフランス語」の試みが好スタートを切ったことが窺える。