著者
鈴木 裕之
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.6, pp.37-62, 2016

本稿の目的は、内裏の夜間警備(夜行・宿直)の分析から、摂関期における左右近衛府の機能を検討することである。律令制以来、衛府は内裏警備を主たる職掌とした。夜間の警備も同じく規定されていた。延喜式段階でも、その職掌は継承された。本稿の問題意識は、このような内裏の夜間警備が摂関期(一一世紀)に機能していたか、あるいは貴族に認識されていたかという点にある。従来の研究で否定的に理解されてきた摂関期の左右近衛府の治安維持機能について、内裏夜行・宿直の観点から再検討した。<br>まず、延喜式の夜行・宿衛規定の分析を起点とした。夜行に関する諸規定から、六衛府すべてが内裏・大内裏の夜行に関与していることを指摘した。内裏夜行の検討が、摂関期の左右近衛府の性格を知るうえで有効であると判断した。また、宿衛は考第・昇進の条件として考えられていた。内裏夜行・宿衛の実態史料の分析から、その日常性が確認できた。<br>次に、一一世紀の左右近衛府の内裏夜行・宿直を考えるため、行事書・儀式書から次第を確認し、古記録から実態を検討した。その結果、摂関期における左右近衛府の内裏夜行・宿直の日常性が明らかとなり、貴族が治安維持組織たる左右近衛府を認識していたことを指摘した。<br>最後に、内裏夜行・宿直の有効性を補足する論点として、内裏火災における左右近衛府の活動に着目した。摂関期の内裏火災において、消火活動と予防組織としての左右近衛府の姿がみられた。消火・予防という活動の背景には、内裏夜行・宿直の有効性とそれに付随する貴族認識があると考えた。<br>従来の研究で否定的に理解されてきた左右近衛府の治安維持機能を、内裏の夜間警備を通じてみることで、肯定的に捉えようとしたのが本稿である。儀式関与・芸能・摂関家への奉仕など、様々な存在形態が認められる左右近衛府であるが、本来的な治安維持組織としての姿もその一つとして認めるべきであると結論づけた。
著者
秋山 喜代子
出版者
公益財団法人史学会
雑誌
史學雜誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.103, no.12, pp.2069-2091, 1994-12-20
被引用文献数
3

This article examins the northern chamber (oku 奥) of the shinden 寝殿 in the early medieval period and found the following facts. The northern chamber (hokumen 北面) of the Palace of the in 院 was used as the office of its retainers (kinshin 近臣) attached to tsunenogosho 常御所, where retainers such as kugyo公卿 and tenjobito 殿上人 usually waited. Jige 地下 were also admitted here. This chamber came to be called johokumen 上北面 when gehokumen 下北面 was formed as the office of samurai 侍, but later was called uchinohokumen 内北面 during the reign of Goshirakawain 後白河院, when the organization of johokumen was established and its office moved to the tenjo 殿上. In tsunenogosho and hokumen, unofficial meetings with the in took place. There the in talked and played with his retainers in a familiar way, inviting low caste entertainers to perform. This character and function of northern chamber was also common to the residences such as the dairi 内裏 and shogun's 将軍 houses. Generally, retainers of the medieval period were people who served their masters at offices in oku. Servants other than kinshin, who served in the front (omote 表) and were not allowed in the oku, were first called gaijin 外人, then tozama 外様 from the later Kamakura era on. Gaijin originally meant "others" or "someone outside the group", but the word became the antonym of kinshin in the later Heian era when tsunenogosho and the office of kinshin were established, from which time on servants came to be classified into kinshin and tozama. This fact might provide a clue to understanding the primitive form of the master-servant relationship in Japan.
著者
田村 航
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.127, no.11, pp.1-23, 2018

後花園天皇は崇光院流皇統(伏見宮)の出身ながら、断絶した後光厳院流皇統を猶子相続したため、どちらの皇統の継承者なのかという点で見解が分かれている。この問題を解明するにあたり、鍵となる伏見宮貞成親王(後崇光院)の尊号宣下についても、後花園と貞成の続柄や、貞成の尊号辞退をめぐり、検討する余地が残されている。そこで本稿では同時期の政治状況を見据えつつ、これらの問題をあきらかにしていきたい。<br>永享五年(一四三三)、後花園は義父の後小松院が死没したさいに後光厳院流の継承者と再確認されたものの、生家の崇光院流との関係を絶ち切れず、文安四年(一四四七)の貞成親王の尊号宣下を「厳親」としておこなうのか、それとも「傍親」としておこなうのかが問題となった。結局、後花園は貞成の尊号宣下を「傍親」すなわち兄としておこない、自らが後光厳院流の継承者であることを明示した。これは康正二年(一四五六)の貞成の葬礼でも変わらなかったので、貞成の尊号宣下は後花園の皇統を決した節目と見なせる。また貞成は尊号辞退の報書を提出し、とくに慰留された形跡はないが、依然上皇として天皇・室町殿と並びたつ位地にあった。<br>このように後光厳院流の後花園天皇と崇光院流の上皇の貞成が並存する、一見矛盾した措置がとられたのは、後花園の実父として貞成への尊号宣下をしてはならないという後小松院の遺詔と、足利義教が貞成を後花園の実父と遇してきた政治路線との妥結による。この結果、伏見宮は当主が代々後光厳院流の天皇の猶子として親王位につきつつ、崇光院流の上皇たる貞成にもつらなる世襲親王家として皇位継承権を担保され、後花園は後光厳院流の系譜上の断絶を回避しつつ、崇光院流(伏見宮)の温存をも果たし、前世紀以来の両皇統の争いを終息させ、その融和と両立を実現させたのである。
著者
石井 裕
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.114, no.6, pp.1071-1096, 2005

When the Alien Land Law prohibiting land ownership by aliens not eligible for citizenship (mainly Asians) was passed in the California Assembly in May 1913, Japanese officials and immigrants alike realized the merit of swaying US public opinion. To quell the rising anti-Japanese movement, the Japanese Foreign Ministry set up in 1914 two publicity bureaus-the Pacific Press Bureau (PPB) in San Francisco and the East and West News Bureau (EWNB) in New York City-disguising both as private "press agencies". Kiyoshi Kawakami, who had been invited to San Francisco by the Japanese Association as manager of the Campaign of Education, was appointed chief of PPB, a low cost operation designed to placate the local California press and contribute news items to influential papers throughout the country. The Japanese consul-general, who held the ultimate responsibility for PPB, was pleased with Kawakami's capability as a propagandist. At the onset, PPB activities were hindered due to poor cablegram communications with Tokyo; however, on the occasion of the declaration of war on Germany, the Japanese Foreign Minister took a more positive attitude and imposed upon PPB the role of an agency for war propaganda. Therefore, Kawakami came to play a dual role as a promoter of Japanese military policy in the Far East and debunker of prevalent anti-Japanese public opinion, especially the rumors of a pending US-Japanese war being spread by propagandists for the German and Chinese governments. Kawakami was also involved in intelligence work, obtaining confidential State Assembly documents for the Japanese Consulate and lobbying against anti-Japanese bills introduced during the Assembly's 42nd Session. After the war, PPB was forced to tone down its blatant propaganda due to public antipathy towards such activity on the part of Japanese and pro-Japanese Americans, conflict within the Bureau between Japanese and American staff members, and a threat that Kawakami's secret arrangements with the Japanese government would be become public. From 1917 one, Kawakami was frequently absent from his San Francisco headquarters, travelling to the Far East, New York and Washington DC courtesy of the Japanese Foreign Ministry. Kawakami was expected of wide-ranging activities as a Ministry intelligence agent, not merely a kind of propagandist in San Francisco. Both PPB and EWNB were shut down because of the establishment in August 1921 of the Foreign Ministry's Intelligence Office which changed the tone of its information policy from "active" and "wartime" to "moderate" and "peaceful". Kawakami left San Francisco for Washington DC in January 1923, where he continued to maintain secret connections to the Japanese Embassy.
著者
長野 壮一
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.126, no.12, pp.1-37, 2017 (Released:2018-12-20)

フランス革命後における中間団体をめぐる政治文化を考える際の基本概念に「団結」と「結社」がある。団結と結社は従来の研究において関連付けて論じられることが多かったが、両概念の連関は必ずしも自明ではない。なぜなら、そもそも刑法典において団結と結社はそれぞれ別の項目で記載されており、また団結と結社のいずれか片方にしか言及していない研究も散見されるためである。先行研究の多くが団結と結社を関連付けて論じた要因として、刑法典における団結禁止規定(第414~416条)の改正について論じる際に従来の研究が主として依拠した史料(立法院委員会による法案趣旨説明)において、結社権への言及が多く見られたという点が指摘できる。そこで本論文は、法案によって示された中間団体認識が同時代における言説体系の中でどのような位置付けにあったのかを解明するため、委員会による趣旨説明にとどまらず、法改正に関連する史料を網羅的に分析した。 その結果として明らかとなったのは次の事実である。法案審議の過程においては、公序の観点から家族的結社を推奨し団結権を否認する立場と、労働の自由の延長として結社権と団結権を肯定する立場が併存していた。しかしながら、最終的に成立した法案はいずれの立場とも完全には相容れず、結社は個々人の利害の集合である団結とは異なり団体としての利害を持つとする認識、並びに団結権は結社権に至る通過点であるとする認識からなる折衷的な立場を取った。法案は時代の趨勢に反し、立法者独自の中間団体認識に立脚していたのである。こうした立法者の戦略は団結権法認を成功へと導くには有効であったが、その一方で結社の法的立場は曖昧なまま残された。団結法改正の過程で示された中間団体認識はその後、第三共和政初期の社会政策において常に問い直される帰結となるだろう。
著者
木下 龍馬
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.1, pp.1-35, 2019 (Released:2020-01-20)

鎌倉幕府裁判研究では、訴状を取り次ぐ挙状と、有利な判決を求める口入はまったく別物として扱われてきた。しかし、近年の院政期裁判研究において、裁判像そのものの見直しが進み、挙状や口入などが同じく働きかけ(権限に基づく命令とは異なる要請)として捉えられるようになった。本稿はこの動向を踏まえ、口入的要素(挙状、口入、申入など)から幕府裁判を再考する。 第1章の主要な検討対象である本所挙状は、本所被管の訴を幕府に取り次ぐ文書である。初期の鎌倉幕府は、これらの訴に応じ、さしたる審理をせず武家被管を処分していた。つまり、本所挙状の要請の程度は強く、命令に近いものだった。しかし、承久の乱や御成敗式目制定を経た中期になると、本所側と武家被管側を問答対決させ、理非を判断するようになり、武家被管が勝訴する確率は上がった。本所挙状の効力は低下し、訴を幕府に伝達する役割に近くなっていく。 第2章の主要な検討対象である関東御口入は、鎌倉幕府が管轄していない事項(本所進止領や西国堺相論)について本所の審理・裁許を要請する行為である。関東御口入を行う文書は、関東挙状と呼ばれた。鎌倉中期までは、武家被管の訴状を幕府が本所に挙達し、本所が審理を行って裁許を下していた。関東挙状と本所挙状は鏡写しの関係にあった。しかし鎌倉後期になり、鎌倉幕府の実態的勢力が増大するにつれ、幕府からの要請の程度が強まり、本所の審理・裁許の自律性は失われた。すると幕府は、本所被管側と武家被管側を召出して、口入を行うべきかどうかの事前審理を行うようになった。 かくして、“武家への挙状”と“武家の挙状”は対照的な軌跡を描いたことを明らかにした。そして、直接命令せず口入を行う固有の領域を幕府が持ったことの意義を論じた。
著者
古川 隆久
出版者
史学会 ; 1889-
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.6, pp.971-1005, 2019-06