著者
赤尾 千波
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.66, pp.149-161, 2017

昨2015年,筆者の黒人ステレオタイプに関するこれまでの研究をまとめ『アメリカ映画に見る黒人ステレオタイプ』(富山大学出版会)として上梓した。その中で,アフリカン・アメリカン女性作家ヌトザケ・シャンゲ(Ntozake Shange, 1948-)による舞踏詩for colored girls whohave considered suicide / when the rainbow is enuf(1975 邦訳『死ぬことを考えた黒い女たちのために』以下,rainbow is enuf と表記)と,その映画版For Colored Girls(2010)を比較した。同書では,映画化によって現れ出た往年の黒人ステレオタイプの「残像」としてマミーとムラトーのイメージを指摘したのであるが,紙面の都合上論じきれなかった部分を補完して本稿でさらに掘り下げ,論じたい。それに先立ち,Ⅰにおいて,『アメリカ映画に見る黒人ステレオタイプ』で論考した,筆者のステレオタイプ研究の根幹となる五つの黒人ステレオタイプについて改めて紹介し,研究を振り返りたい。
著者
鈴木 景二
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.363-390, 2013-02-15

小牧長久手の合戦で対時した織田信雄・徳川家康と豊臣秀吉が講和した天正12年(1584)の冬、秀吉への服従を潔しとしない富山城主佐々成政は、敵対勢力に固まれている状況にもかかわらず城を出て、信濃を経由し遠く浜松の家康のもとに向かった。真冬の積雪の多い時期に中部地方の山間部を往復したこの行動は、『太閤記』以来「さらさら越え」といわれ、戦国武将の壮挙として知られ、近年、そのルートや歴史的背景などの研究が相次いで発表されている。筆者も『雑録追加』所収文書を分析した佐伯哲也氏の研究に触発されて、そのルートについて検討し、成政の浜松往復には上杉氏重臣山浦国清(村上義清子)の弟である村上義長が関わっていたこと、その道筋は越後(糸魚川付近)を経由したと推定されることを述べた。その後、道筋の推定に対して服部英雄氏から厳しい批判を受け、久保尚文氏からは別案が提起された。さらに深井甚三氏からも疑問点が提示されている。また、道筋を究明することの歴史研究上の意義について言及しなかったが、最近、萩原大輔氏が成政の浜松行前後の徳川家康との関係を再検討し、豊臣秀吉の北陸遠征の研究のなかに位置付けている。このような諸研究をふまえ、本稿では佐々成政の浜松往復の道筋について新出史料を加えて再論し、天正十二年冬前後の成政と村上義長および家康をめぐる政治過程について検討することとする。
著者
池田 真治
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.1-16, 2018-08-20

本稿では,ライプニッツの延長概念を『ライプニッツ - デ・フォルダー往復書簡』に分析する。第1節ではまず,デ・フォルダーとの論争の経緯を確認する。論争の背景には当時の活力論争があり,それは実体の本性をめぐる論争へと発展する。そこで第2節では,実体の本性をめぐる論争を検討する。延長を物体的実体の単純本性とするデ・フォルダーに対し,ライプニッツは延長概念が,デカルト派の主張するような単純なものではなく,多数性,連続性,共存性へとさらに分析される関係的概念であるとする。さらに,デ・フォルダーが延長概念の独立認識可能性に基づいて自説を主張しているのに対し,ライプニッツは,実体とその様態に関するスコラ的な議論に基づき,延長を実体から抽象される不完足概念とし,延長概念の独立認識可能性を否定する。第3節では,両者の延長概念を詳しく分析する。デ・フォルダーが延長を,物体が持つ他の特徴に対し論理的に優先する,物体の本性だと主張するのに対し,ライプニッツは,延長は実体の本性を構成するものではなく,むしろ,多数の実体から帰結する拡散や反復といった連続性の特徴をもつ,実体の属性にすぎないとする。すなわち,モナドの多が,延長という一様性に論理的かつ存在論的に優先する,というわけである。ロッジは,ライプニッツの延長概念が,「数学的延長」と「現実的延長」に区別されると解釈する。そこで,第4節では,このロッジ解釈を批判的に検討する。本稿では,ロッジ解釈に対し,数学的延長と現実的延長の区別は,それらの性質の観点からというよりも,むしろ「抽象」という構成の観点から明確になされるものである,と主張する。最後の第5節では,抽象の問題に関する歴史を概略し,実際に,抽象の観点から数学的延長と現実的延長を区別している哲学史的根拠を挙げる。以上を通じて,ライプニッツの延長概念を解明するためには,ライプニッツの抽象の理論を含め,そもそも初期近代における抽象の問題をめぐる議論とはいかなるものか,その全体像の解明が不可欠であることを指摘する。本稿の目的は,そのための視座を提供することにある。
著者
加藤 重広
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.71-156, 1999-08-27

本稿は、先行研究の概要とその問題点について論じた前回稿、加藤重広(1999)を承けて、日本語の関係節構造の成立要件は文法論的な要因のみでは説明できず、語用論的な観点からの分析が必要となるという立場をとり、2つの観点からの分析を行うものである。
著者
金子 幸代
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.262-247, 2014-02-17

森鷗外の文体について澤柳大五郎は、鷗外の文章の清新さは、「畢竟明晰な理知と豊かな詩感と繊細な感受性と勁抜な思索となどさういふ豊富深刻な精神生活に裏付けられた人格に由来する」と称揚しているが、このことは鷗外の文体が書こうとしている作品の内実と深くかかわっていることを示していると言えるであろう。そこで本論文では、鷗外の文体を探るために漱石の『三四郎』(東京・大阪「朝日新聞」明治四十二・九・一〜十二・二十九)と『三四郎』に技癢を感じて執筆した長編小説『青年』(「スバル」明治四十三・三〜明治四十四・八)を取り上げ、鷗外作品の特徴について『三四郎』と比較しながらその内実について具体的に考えていきたい。
著者
澤田 稔
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.64, pp.81-106, 2016

本訳注は『富山大学人文学部紀要』第63号(2015年8月)掲載の「『タズキラ・イ・ホージャガーン』日本語訳注(3)」の続編であり,日本語訳する範囲は底本(D126写本)のp.78/fol.39bの11行目からp.108/fol.54bの6行目までである。本号の内容の要旨は以下のとおりである。前号の日本語訳注(3)で叙述されているように,カシュガル・ホージャ家イスハーク派のユースフ・ホージャムはカルマク(ジューンガル)の本拠地イラ(イリ)からカシュガルに逃れ帰ったが,本号では,まず,カシュガルのユースフ・ホージャムに対するカシュガル,ウチュ,アクス等に拠るベグ(豪族)たちの行動,とりわけ,カルマクに内通するベグたちの陰謀について語られる。この陰謀の背景にあるカルマクは,王位をめぐるダワチとアムルサナーの抗争により弱体化していたが,ユースフ・ホージャムの離反の動きを封じるために使者をカシュガルに送る。しかし,その使者をはじめカルマクたちは武装したユースフ・ホージャムの勢力に圧倒され,カシュガルをあきらめてヤルカンドに向かった。
著者
小野 直子
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.64, pp.137-152, 2016

本稿では,移民の医学検査の中でも特に精神医学に焦点を当て,革新主義期アメリカにおいて精神医学が精神疾患者(the insane, lunatic)の境界線だけでなく,国民の境界線を引くのに果たした役割を明らかにすることにより,身体・精神の管理と福祉制度の関係について考察する。ダウビギンの研究は,移民制限についての精神科医の発言や活動に主要な焦点が当てられているが,本稿では精神科医が移民制限を主張した社会的・経済的・医学的背景を明らかにすることを目的とする。そのために第一に,アメリカにおける精神疾患者に対する処遇の変遷,及び精神疾患に対処する「専門家」としての精神科医が台頭する過程を明らかにする。第二に,アメリカの移民政策において精神疾患が排除の対処となった背景と,精神科医の移民政策への対応を検討する。