著者
加藤 重広
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.1-12, 1998-08-31

Saussure(1916)に示された,signifiantとsignifieの結合によって言語記号が構成されるという考え方は,現在でも言語学の基本的知見のひとつである。本稿では,ソシュール以前のシニフィアンとシニフィエをめぐる考え方、いわば意味観の流れを素描する。その中でもWilhelm von Humboldtの意味観をソシュール以前の言語研究の典型として,ソシュールのそれと比較して論じる。また,ソシュールの考えを継承しつつ,独自に発展させたラカンの思想にも触れる。本稿では,具体的なテーマを論じる前に,まず第1章で言語学史の意義と方法論を簡略に論じる。ついで,第2章で,シニフィアンとシニフィエをめぐる意味観の流れを考察することにする。
著者
青木 恭子
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.65, pp.59-82, 2016

帝政ロシアでは,ウラルの東に広がるアジア部分の帝国領(以下,本稿ではアジアロシアと呼ぶ)の植民および開発は,経済的にも政治的にも,そして安全保障上も重要な意味を持つ,国家的事業として推進されていた。その国家的事業の直接の担い手となるのは,ヨーロッパロシアから移住する農民である。彼らに期待されていたのは辺境地域の開拓だけにとどまらない。「ロシア」をウラル以東へ拡大し,「統一された不可分のロシア」を創り上げること,一言で言えば帝国の「ロシア化」の担い手となることもまた期待されていた。しかし,移住農民には帝国の一体化も「ロシア化」も全く関係のないことだった。彼らは政府の移住奨励策を利用しようとしていたが,だからといって政府の意向に従うわけでもなく,彼らなりの論理に基づいて行動していた。帝国統治の文脈でアジアロシア植民が持つ意味と,個々の移住農民の人生にとって移住という経験が持つ意味は,同じではなかった。本稿は,アジアロシア移住を農村社会および農民家族の伝統や慣習と関連づけて分析する試みである。移住前と移住後では農民家族のあり方に何か変化が生じているのか,生じたとすれば何がそれをもたらしたのか考察する。そして,国家的事業としてのアジアロシア入植という大きな枠組みに,移住農民家族の経験がどのように位置づけられるのか,考えていきたい。
著者
山﨑 けい子 初鹿野 阿れ
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.57, pp.25-38, 2012

日本語学習者が日本語で会話を行うには,様々な問題が起こる。例えば,自分が言いたいことが言えない,相手の言ったことが聞き取れない,理解できない,などである。それらは日本語母語話者にも起こり得ることであるが特に日本語学習者にとって,このようなコミュニケーション上のトラブルへの対処のプロセス,つまり「修復」のフロセスを明らかにすることは,適切な問題対処法を学ぶ上で重要である。しかしながら,会話における「修復」のフロセスをどのように日本語学習者に示し得るか,学習者がどのように学び得るかという点においては議論の余地がある。そのような微細なプロセスは実際の会話の中で自然習得されるものだという考え方がある。一方,より現実に近い会話例を教材として示しながらその詳細なやりとりに焦点を当て示していくことが可能だという主張もある。もちろん二項対立の議論ではなかろうが,本稿では手始めとして後者の立場に立ち,どのように「修復」のプロセスを教材の中で示し得るのか,その可能性を探りたい。そのために,まず,既存の日本語教科書の聴解教材などにおいて実際に「修復」をどのように扱っているかを調べ,その傾向を明らかにする。それを踏まえ「修復」のタスク内での役割を考察し,今後の方向性を探る。
著者
山﨑 けい子
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.62, pp.59-70, 2015

これまで山崎他(2009)(2011)では,外国籍等の子どもたち支援のひとつの方向性を示すべく,翻訳教材を作成する背景理論,過程,成果などを述べて来た。山崎他(2011)では,4年間の実践を,『どっちか勉強する?日本語?母語?:小学校国語教科書翻訳教材(光村図書 小学校「国語」教科書4年生準拠)』発刊という形に収束させるにともない,「このような言語学習環境のデザインが実際にどのように機能したのか,検証と考察を行な」い,「散在地域の外国籍年少者日本語言語学習の支援モデルの試案をまとめ」ている。本稿では,その後,この発刊された翻訳教材が,実際にどのような求めに応じて送付されたかを分析する。現実のニーズの分析をすることで,その重要性と課題を探ることが本稿の目的である。
著者
澤田 稔
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.67, pp.31-60, 2017

本訳注は『富山大学人文学部紀要』第66号(2017年2月)掲載の「『タズキラ・イ・ホージャガーン』日本語訳注(6)」の続編であり,日本語訳する範囲は底本(D126写本)のp.165/fol.83aの1行目からp.199/fol.100aの20行目までである。前号で訳出されたように,カシュガル・ホージャ家イスハーク派の軍隊はウシュにおいて,同家アーファーク派のホージャ・ブルハーン・アッディーン側の軍勢に敗れ,さらにカシュガル城市も奪われた。カシュガルにおいて「統治の王座」に就いたホージャ・ブルハーン・アッディーンは,軍勢ととともにイスハーク派の最後の牙城,ヤルカンドへ向かった。そして,ヤルカンド城市において両軍の戦いが始まった。本号では,イスハーク派のホージャ・ジャハーンを長とするヤルカンド陣営の内部状況を中心として,ヤルカンド城市の攻防をめぐる両勢力の和戦両様の動向と,イスハーク派側の敗北が語られる。
著者
森賀 一惠
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.73, pp.117-144, 2020-08-20
著者
藤田 秀樹
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.60, pp.109-123, 2014-02-17

「父子関係」は,クリント・イーストウッドの1990年代以降の監督作品を彩る重要な主題のひとつと言える。本論では,「父子関係」の物語の系譜に連なる作品のひとつである『グラン・トリノ』を取り上げる。この映画では,イーストウッド演ずる実の息子たちと疎遠な状態にある老人と,彼の隣家に住み父親が不在で自分以外は女性ばかりという家族の中に置かれているせいか,どこか男性性が希薄,脆弱で周囲から孤立気味の若者との関係性に焦点が当てられる。老人は若者に男としての立居振舞いを,さらには仕事という形で社会に居場所を見出せるようにもの作りや修理の技術を教え込み,その過程で二人の間に父子的な関係性が醸成されていく。この二人の「父子関係」はインターレイシャルなものなのである。そして物語の大団円において,老人はこのアジア系の若者の未来を守るために自らの身を犠牲にして凶弾に倒れ,さらに,彼が宝のように愛蔵し作品のタイトルにもなっているフォード社製造の自動車を若者に遺贈したことが明らかになるとともに物語は閉じる。父が自らの遺産や使命を息子に託するということは父子関係を特徴づけるモチーフのひとつだが,この作品ではそれが白人の「父」とアジア系の「息子」との間で成されるのである。イーストウッド自身がこの映画について,アメリカの「現状に結びついているともいえる」ことだが「ひとつの時代の終わり」が描かれている,と語っているように,「転換」もしくは「変わり目」といった気配が物語のそこかしこに立ち現れる。そしてそれは,この映画が制作された当時の時代状況を少なからず反映するものなのであろう。何かが廃退し終焉を迎えようとしており,別の何かがそのあとを継ごうとしている。そしてそのような事態は,「継承」という位相を通して父子関係の主題に接続する。とすれば,「息子」が「父」から継承し作品のタイトルにもなっている「グラン・トリノ」は,単なる一車種を超えた意味を帯びたものに他なるまい。以上のようなことを念頭に置きつつ,『グラン・トリノ』という映画テクストを読み解くことを試みる。