著者
瀬崎 圭二
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.93, pp.122-136, 2015-11-15 (Released:2016-11-15)

安部公房の脚本による「目撃者」は、一九六四年一一月二七日に放送されたテレビドラマである。このドラマは姫島に起こった実際の集団暴行致死事件を素材としており、この事件は当時のメディアで「西部劇」や「映画」になぞらえられていた。ドラマは、事件を再現表象するドキュメンタリー・ドラマの制作そのものを描いており、そのような方法を採ることで、関係者による事件の隠蔽を批評する立場に立つと共に、事件の再現表象の困難を伝え、さらには映像による再現表象そのものを問いかけようとするのである。このような方法を採用した「目撃者」は当時も高く評価されていたが、ドキュメンタリー番組が定着していった当時の状況を相対化する表現としても評価できよう。
著者
木戸浦 豊和
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.33-48, 2017-05-15 (Released:2018-05-15)

本稿は、夏目漱石・島村抱月・大西祝の文学論や批評論を取り上げ、それらを「同情」概念の観点から考察した。三者の文学論・批評論は鍵語として「同情」の語を共有し、その概念は、他者と同一化する原理(「同情的想像力」)と、自己や他者の言動を公平に判断し、評価する原理(「同情的公平性」)の二つの面を合わせ持っている。本稿は、このような共感性と公平性とを兼ね備える「同情」概念は、アダム・スミスに代表される一八世紀西洋道徳哲学における《sympathy》の原理と接触する中から、新たに再編・形成された可能性があるという仮説を提示した。一方で本稿は、三者の「同情」概念を明治二〇年代と四〇年前後の文学場や社会状況との関連で捉え返した上で、それぞれの「同情」概念の固有の特徴についても論及した。
著者
木戸浦 豊和
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.16-31, 2021-11-15 (Released:2022-11-23)

本稿の目的は、近代の文学理論が《感情(emotion)》と強固に結び付き展開した背景と意義を、坪内逍遥(Tsubouchi Shōyō)「美辞論稿(On Rhetoric)」(明治二六年)を例に明らかにする点にあった。本稿は「美辞論稿」における西洋の理論──《知情意(Mental Philosophy)》論及び《想像力(Imagination)》論──の受容に焦点を当て、次の二点を指摘した。第一に「美辞論稿」は一八世紀以降の《心》の理論の枠組であった《知情意》論を根拠に「文」の編制を行った。その結果《文学》固有の意義は「文」全体の中で改めて《情》に見出された。第二に「美辞論稿」は《文学》は《想像力》によって作られると主張する。この《想像力》は他者の《感情》に《同情(sympathy)》し、さらに《感情》を普遍化する力である。「美辞論稿」にはこの《同情的想像力(Sympathetic Imagination)》への関心が芽生えていた。
著者
美留町 義雄
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.90, pp.17-31, 2014-05-15 (Released:2017-06-01)

「うたかたの記」は、画家を主人公とした芸術家小説である。ゆえに従来の研究では、西洋絵画史に関わる分析が積極的に為されてきた。だがその多くは、主人公のモデルである原田直次郎と森鴎外との交流をめぐって考察が進められており、鴎外自身が直面したドイツ美術界の動向と「うたかたの記」の関係については、依然として論究の余地が残されている。本論では、鴎外が滞在していた時期、ミュンヘンではまさにモダニズム芸術の勃興期にあたっていた点に着目し、官学派(アカデミー)が支配していた美術界の構造が大きく揺らぎ始めていた事実を論究する。若き鴎外を取り巻くこうした状況を明らかにしたうえで、あらためて「うたかたの記」を捉え直すと、アカデミーから離れようとする登場人物の動きが視界に入ってくる。その行先は「スタルンベルヒ」湖畔である。当時、実際にこの地では若き画家たちが結集し、新たな絵画表現を模索していた。本論は、こうした美術・文化史的な動性の中において、この小説を再検証する試みである。
著者
山田 桃子
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.171-186, 2019-11-15 (Released:2020-11-15)

内田百閒と言えば、『百鬼園随筆』(一九三三)により人気を博し昭和初期の「随筆」ブームを牽引した作家として語られるが、その戦前期の充分な検討が行われているとは言えない。実は、『百鬼園随筆』の刊行以前、百閒のテクストは「随筆」に限らない雑多な文章群をめぐる問題に関わっていた。また、刊行によって「百鬼園」の名が「随筆の代名詞」となって以降も、百閒のテクストはジャンルの分類を攪乱するものとして現れている。そのため本稿では、ジャンルの歴史性をふまえながら、『百鬼園随筆』刊行前後の時期を中心に、百閒のテクストの問題を検討した。百閒のテクストは、文学領域をめぐる変動と関わり、ジャンルの境界線を攪乱させるものとして現れている。
著者
飯島 洋
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.92-106, 2016-05-15 (Released:2017-05-15)

人間関係における疎外感から精神を病んだ女性の物語として読まれてきた「世界の終り」を、万物照応・二重人・北方志向・現実批評などのボードレール受容や、同時代表象との関連を軸に解釈する。まず、主人公・多美は家族の問題で精神の問題を抱えたのではなく、生来、現実の世界を否定する存在として作品世界に投げ出されたのであり、その世界観が外界と照応して滅びの光景が現出していることを確認する。そしてその世界観は死と統合された静謐な生が現実世界では許されないというものであることを論証する。さらに、多美の個人的な悲劇が、原爆表象と内面的時間に基づいた語りの二重化作用という機構によって、現代の人間存在の問題へと普遍化されていることを検証した。
著者
佐藤 泉
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.29-43, 2018

<p>夏目漱石は、西洋的近代性の影響下で進行した日本の近代化の中に、歴史の進歩ではなく、歴史の喪失を見出した。その言説は、「日本と西洋」「東洋と西洋」といった地理的な道具立てと、そこから引き出される権力関係を含意するという意味において地政学的な枠組みを備えるものだった。本稿では、まず、漱石の言葉をひとつの源泉とする日本の近代という主題がどのように形成され、歴史の中で変容していったのかを考察し、その限界を明らかにする。同時に、現在の問題意識の中に、この主題を再利用することができないかを展望する。</p>