著者
原 善
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
no.56, pp.175-187, 1997-05
著者
吉田 恵理
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.226-241, 2018

<p>本稿は、辺見庸「眼の海――わたしの死者たちに」の詩群がもつ東日本大震災後の詩表現の批評性を解き明かそうとするものである。災厄のスペクタクルから隠蔽され、生(者)と死(者)の観念的な弁別を攪乱する〈屍体〉の哲理が、「単独者」の「犯意」をもって問題化されていることをまずは同時期の作品外の言説から確かめる。その上で取り上げた二篇の詩の叙法の分析によって明らかにしたのは、「モノ化」する〈屍体〉と「モノ化への抵抗」である言葉との抗争状態が積極的に惹き起こされ、〈屍体〉の存在の様式が「わたし」の現実認識の反証の可能性となることである。それはまた、〈屍体〉を想像することなくして「わたし」の責任を思考することが可能かという問いを生起せしめるのだと結論づけた。</p>
著者
金 ヨンロン
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.90, pp.63-76, 2014-05-15 (Released:2017-06-01)

太宰治の『パンドラの匣』は、一九四五年一〇月二二日から翌年一月七日にかけて「河北新報」に連載された。連載の期間は、初期占領改革が行われる一方で、天皇制の維持、即ち象徴天皇制の成立への道を露呈する時期であった。まさに戦中から戦後へ、軍国主義の<断絶>と天皇制の<連続>の運動が同時進行しているこの時期、『パンドラの匣』は、「健康道場」というフィクショナルな空間を創造し、「玉音放送」が流れた一九四五年八月一五日を<断絶>として受け入れる青年に対して、戦後日本の思想を「天皇陛下万歳!」という叫びに求める<連続>の主張を突きつける様相を描いている。本稿では『パンドラの匣』における<断絶>と<連続>のせめぎ合いを同時代において捉え直すことで、その批評性を問う。その際、手紙の形式に注目し、共通の記憶を呼び起こす「あの」という空白の記号に日付という装置が加えられ、様々な同時代の文脈が喚起される過程を明らかにする。
著者
李 珠姫
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.178-193, 2018

<p>村山知義の転向小説の第一作として知られている「白夜」は、転向したプロレタリア作家の英治と妻のり子の関係を描いた短編である。このテクストには、女性登場人物ののり子が、非転向を貫いている彼らの同志木村との恋愛を告白する一人称語りの物語が挿入されている。英治は、その話の聴き手となることによって、理想的同志との妻をめぐる想像的なライバル関係に入ることになる。このように「白夜」は、主人公が弾圧によって断ち切られてしまった同志との絆を、妻という他者の言葉を借りて仮構する物語となっている。この点において作者の村山は、このテクストを通して、転向した自分自身を承認していると言える。しかしながら、一方においてこの男性社会主義者同士の絆は、入れ子物語の担い手であるのり子の言葉そのものによって、運動の中でその絆を補助し媒介する存在として周縁化されてきた女性自身の主観を通して異化されている。本稿では、「白夜」の物語構造を、事物の左右が反転された像を映し出す〈鏡〉の特性に喩えて分析し、のり子の言葉がどのようにその異化を可能にしているかを論証する。</p>
著者
木村 洋
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.97, pp.1-16, 2017

<p>坪内逍遥『小説神髄』の登場を経た一八八〇年代後半から一八九〇年代は、写実主義小説の時代だったと要約できる。しかし徳富蘇峰は逍遥の小説観に沿わない考え方を抱いていた。そしてこの人物を主な推進者とする形で一八九〇年前後に始まった、ユゴー流の認識の導入によって日本文学の刷新を図るという企ては、「社会の罪」という提言(森田思軒)を得ることで多くの賛同者を集め、のちの樋口一葉たちの小説に結実する。こうした「社会の罪」をめぐる資料群を掘り起こしていくと、従来互いに関連するものとして論じられてこなかった蘇峰と一葉の文業も同じ「社会の罪」という系譜の上にあったことが見えてくる。</p>
著者
菊間 晴子
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.93-107, 2017-05-15 (Released:2018-05-15)

大江健三郎は、一九九九年以降、自ら「後期の仕事(レイト・ワーク)」と呼称する小説群を執筆してきた。老作家・長江古義人を主人公とした大江の「後期の仕事(レイト・ワーク)」は、エドワード・W・サイードによる「レイト・スタイル」研究から深く影響を受けながらも、サイードの定義からは離れた独自の指針を有している。本稿は、サイードによる「レイト・スタイル」の定義を大江がいかに解釈し、再定義したのかを精査した上で、大江の「後期の仕事(レイト・ワーク)」が、彼の過去作品から連続する「二人組」構造の「書き直し」のプロセスであることを明らかにした。その上で、『取り替え子(チェンジリング)』、『さようなら、私の本よ!』、『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』に描かれる、生者と死者とのコミュニケーションのあり方の変遷を追い、『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』において提示される「集まり(コンミユニオン)」、そして「私ら」という存在様式―生者と死者の区別なき共同性―こそ、大江が「後期の仕事(レイト・ワーク)」の実践の先に見出そうとした「希望」である可能性を指摘した。
著者
服部 徹也
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.1-16, 2016-05-15 (Released:2017-05-15)

漱石は『文学論』出版に際し、草稿『文学論ノート』、東京帝国大学講義に見られる描写論を増補している。本稿はこの描写論に作品世界への没入体験である「幻惑」が密接に関わることを示した。またこの描写論の理論的課題が視覚性の問題であることを論証し、漱石がこの課題に小説『草枕』でも取り組んでいたことを示した。漱石の描写論は視覚性の問題を探究してはいるが、『草枕』のような作品を読む際に生じる視覚性とイメージ連鎖を説明しきることはできない。読者の認知過程に多くを委ねる『文学論』は、「自己催眠的」な読者の一回的な読みによって暫定的に傍証を得るしかない理論的限界をもつ。本稿は『文学論』と『草枕』の緊張関係を読み解き、漱石が困難を冒して描写による「幻惑」とその理論化に挑んでいたことを示した。
著者
副田 賢二
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.219-234, 2019-11-15 (Released:2020-11-15)

「航空」のイメージはWWⅠ以降頻繁に消費され、『サンデー毎日』や文学テクストにも多様に描かれるが、一九二〇年代後半以降そこに「防空」というフレームが浮上する。国民の意識と身体を軍事に関与させる「国民防空」は、地上から隔絶した「航空」を地上との関係空間として新たにイメージ化させる場であった。そこでは「国土」が虚空/地上をめぐる感覚のネットワークにおいて再編制され、「国民」の共同性が立ち上がる。その想像力は、海野十三のテクストや細野雲外『不滅の墳墓』に発動している。更に「防空」空間では、可視/不可視をめぐる想像力が文学と融合する。空襲下を描いたテクストには、「防空」空間の破綻の中を生きる地上的身体の様相が描き出されていた。
著者
村上 克尚
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.65-80, 2012-11-15 (Released:2017-06-01)

This paper attempts to interpret Takeda Taijun's Shinpan (The Judgment, 1947) as a novelistic demonstration of Taijun's effort to overcome issues arising from his prewar work, Shiba Sen, (Sima Qian, 1943). The first section of the paper points out the commonalities between two works published around the same time, Shiba Sen and Koyama Iwao's Sekaishi no tetsugaku (The Philosophy of World History, 1942), and shows the limitations of discussing pluralism on a metaphysical level alone. The second section argues that the cosmopolitan nature of the city of Shanghai and the narrative polyphony in Shinpan function as tools to help overcome the shortcomings of Shiba Sen. The thirdand the fourth sections argue that the polyphony of the narrative in Shinpan casts strong doubt on the uniqueness of individual self-awareness, and propose to find in the story the hidden theme of violent animalistic nature seen in human history. Thus the paper opens up the possibility of finding animalistic themes in postwar literature.
著者
跡上 史郎
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.16-31, 2021-05-15 (Released:2022-05-15)

澁澤龍彥は、没後三〇年以上が経過した現在も新たな読者を獲得し続けている。彼は近現代文学の主流から外れつつも、細く長く支持され続ける独自の流れを形成した。その出発点とも言える小説「撲滅の賦」は、埴谷雄高「意識」を典拠としているというのが従来の定説であったが、枢要部である「撲滅」は、Alphonse Allais, Plaisir de Étéに由来するものであり、「撲滅の賦」は複数の典拠を組み合わせたコラージュである。Plaisir de Étéは、André Breton, Anthologie de L'humour Noir (1950)に収録されたもので、澁澤は自作を構成する要素だけでなく、コラージュによって従来の価値観を転倒する方法論をもBretonから学び、以後、異端作家としての揺るぎない地位を確立していった。
著者
中谷 いずみ
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.132-145, 2018-05-15 (Released:2019-05-15)

本論は、「文学史」を構成する解釈のフレームを問題化するために、階級闘争に関わった女性たちの動向や書きものについて、『女人芸術』という雑誌を軸に検討を行った。一九三〇年前後に政治的理想のために闘う主体として「ハウス・キーパー」を担った女性たちは、労働者階級の優位と前衛における性役割の自明化というフレームの重なりから生じた〈運動主体〉をめぐる解釈の空所に陥り、結果、同時代批評からも歴史記述からもその存在を見落とされることとなった。本論では、彼女たちの作品を読むことがそれらの女性たちの声に耳を澄ますことであると同時に、「文学史」を構成する諸解釈のフレームを問い直すことでもあると論じた。
著者
若松 伸哉
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.1-15, 2021-05-15 (Released:2022-05-15)

「伝記小説」と銘打たれた太宰治『惜別』(一九四五・九、朝日新聞社)は、仙台での留学生・魯迅を描くが、作中には〈地方〉にかかわる表現がちりばめられている。本稿はこうした点に注目し、戦時下に推進された〈地方文化運動〉を踏まえながら『惜別』を考察する。この運動に関連する同時代言説には、日本の地方文化からアジア全体へと文化を拡大していく発想が認められるが、本作品における語り手「私」がこうした図式を攪乱する存在である点を指摘する。また政治的な次元から離れ、あくまで個の立場から個人を語る本作品の特徴について、時局への貢献を求められる戦時下の「伝記小説」という観点からも考察し、同時代に応答する太宰治作品の姿を具体的に明らかにする。