著者
西野 保行 小西 純一
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.193-198, 1987-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
8

わが国最初の鉄道用鉄桁である70ft3主構ポニーワーレントラスが, 道路橋に転用されて今なお現存しているのが発見された.3主構が揃った姿ではないが, 1873年製の桁を含んでいるのは確実と思われ, これまで最古の鉄道用鉄楠として保存されている1875年製の100ft複線ポニーワーレントラス以前の, 文字通り「わが国最初で最占」の鉄道用鉄桁である, 発見の経緯, 転用状況, 現存の浜中津橋の調査結果などを述べる.
著者
盛岡 通
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.111-118, 1983

ブラジルにおける (日系入の最初) の計画開拓地であるジストロのまちづくりには、通史的に見てエポックがある。蜜ず、開発会社海興による植民管理的、状況対応主義的なまちづくりがなされた。つぎに、1930年頃には植民自治団鉢郷を主体としてむら社会の秩序をともなったまちづくりがなされた。むらびとのほかにも、街の商人、海興の勤め入や青年達のつきあいが広がり、市街地解放とともにさらに商店も増加し, 社会施設も整備された。<BR>このブラジル社会のまちびとは戦後のまちづくりにも活躍した。それはRBBCというソシエダーデを核として、まち隨一の会路やスポーツ・センターをつくり、農村電化事業などをも推進したことである。現在は行政によるまちづくりが主であるが、それも日系人のまちづくりの履歴に影響されているところが少なくない。<BR>伊系、独系移民都市と比較すると、日系移民都市では学校、自治組織の寄合所、産業組合などが街の中核施設となり、つきあいも多重的階層型であったのが特徴である。また、つきあいの社会化とそれにともなう都市施設の建設はどの都市でも共通するが、日系移民者肺においてはむら組織とその影響がまだ残るソシエダーデを通じて関与してきたことが見落せない。
著者
高橋 彌
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.115-121, 1989-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
10

富士川は日本3大急流に数えられる暴れ川である。しかも上流水源地はフォッサマグナに添い、花崗岩の風化帯・火山噴出物等非常にもろいため石礫の流下が極めて多い。そのため上・下流ともしばしば激しい災害を受けてきた。富士川下流の流路は、かつて現河道より東寄り田子ノ浦港方向に向かい、多くの派川を持って駿河湾に流入し、洪水と流送土砂によって沿川には広大な扇状地が形成されていた。雁堤は1621 (元和7) 年より1674 (延宝2) 年まで古郡氏3代の手によって、その扇頂部に築造された逆L型の平面形状をした特殊河川堤防で、東流する富士川の流れを締め切り現流路に固定したものである。これによって生じた富士川左岸の加島地域には5,000石と言われる開田開発が行なわれ、斬しい多くの村々が誕生した。また、洪水のたびに変わっていた流れが雁堤によって固定され、それまで安定性を欠いていた「東海道富士川の渡し」も、幹線交通の拠点として幕府体制を支える役割が期待されるようになった。更に、1612 (慶長12) 年、角倉了以によって開削され内陸との間に始まっていた舟運による交易も、船溜りや流路の安定とともに盛んになり、幕府の財政を支えると同時に地域の経済に大きな発展をもたらすようになった。しかし、左岸の堤防が強化されると富士川の急流は、従来と変わって下流に災害を与えるようになり、以来、下流及び右岸の蒲原側がしばしば洪水被害を受けるようになった。完成以来300年余を経て雁堤は現在もその効用を発揮しており、加島一帯は工業都市富士市へと発展している。雁堤は、従来、特異な形状と治水面の効果のみが評価されていたが、このように地域発展と社会経済に果たした役割と、歴史的意義は大きい事が認められた。
著者
越沢 明
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.54-65, 1988-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
56
被引用文献数
1

札幌、仙台、名古屋、広島の都心部に存在する幅員50m以上の大通は、広い植樹帯やオープンスペースを有し、都市のシンボルとして祭典やバレードの会場となるなど多目的に使用されている。本稿は広幅員道路が近代日本都市計画においてどのような目的と思想によって計画され、実施されたのか、その系譜を明らかにすることを目的としている。幕末から明治にかけて居留地、開拓地では防火帯として広幅員道路が設けられている。しかし、既存の大都市の市区改正道路は最大36mであり、大正末期から昭和初期にかけての都市計面事業によって東京、大阪でそれぞれ幅員44mの道路が出現した。当時は、都市計画事業は災害復興の機会しか実施できず、函館、静岡では大火後、防火区画を形成するよう植樹帯を広く採つた道路がつくられている。欧米の地方計画論、緑地思潮の影響を受けて、公園道路の考え方が日本に導入され、湘南海岸では遊歩道、乗馬道を合わせもった公園道路が整備され、東京では保健道路という名称の河川沿い緑道が都市計画決定されている。公園系統、公園道路を本格的に取り入れた都市計画は1930年代になり満州、台湾、中国本土の植民地・占領地で大々的に試みられ、実現したものも少なくない。一方、日本国内では戦争末期、防空のため建物疎開を実施するにあたり、各地で50~100mの空地帯がつくられた。戦後、京都、名古屋、広島では疎開跡地を広幅員道路として整備したのに対して、東京ではほとんど有効活用されなかった。
著者
君島 光夫
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.143-154, 1983-06-24 (Released:2010-06-15)
参考文献数
16

The rapid transit railway network in Tokyo consists of thirteen lines.This network in based on a conception at the dawn of a new age before 1945 when the developrent plan of five or seven subway lines was fomed.This article enurerates chronologically the charge of the develognent plan for rapid transit railway network in Tokyo and private plans based on researches and investigations of pioneers at the dawn of a new age from 1906 to about 1940, describing the background of those days in the conception.
著者
大熊 孝
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.259-266, 1987-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
32
被引用文献数
2

霞堤の機能は、従来の河川工学関係書では、堤防の重複部分における遊水による下流に対する洪水調節効果が、第一番に挙げられてきた。しかし、霞堤は一般的には河床勾配が600ないし500分の1より急な河川において造られており、その場合、遊水面積が限定されており遊水効果はほとんど無く、むしろ、万一破堤した場合の “氾濫水のすみやかなる河道還元” に主限があった。本論文は、まず、このことを明らかにする。しかし、愛知県の豊川と三重県の雲出川では、河床勾配が数千分の1から千分の1. という緩いところに、霞堤と呼ばれる不連続堤がある。この場合の霞堤は、洪水遊水効果に第一の目的があると言わねばならない。ところで、急流河川における霞堤は現在でも各所で見かけることができるが、緩流河川における霞堤は管見にして豊川と雲出川だけである。豊川や雲出川の洪水遊水方式は、江戸時代では一般的に採用されていた治水方式でもある。しかし、これらは江戸時代に霞堤とは呼ばれていない。一方、急流河川の霞堤も、江戸時代には「雁行二差次シテ重複セル堤」と表現されてはいるが、霞堤という呼称は与えられていない。急流河川の霞堤と緩流河川の霞堤とでは、形態上は似ていても機能上はまったく異なるわけであり、何故同じ名称で、何時からそう呼ばれるようになったかが問題である。そこで、本論文の第二の目的として、霞堤の語源について探索してみる。結論として、“霞堤” なる言葉は江戸時代の文献には現われず、明治時代以降に定着したものであり、その際、急流河川と緩流河川の不連続堤の機能上の違いを明確に認識しないまま、両者とも霞堤と呼ぶようになったことを明らかにする。そして、今後は少なくとも、“急流河川型霞堤” とか “緩流河川型霞堤” とか、区別して呼びならわす必要があることを提言する。
著者
小西 純一 西野 保行 淵上 龍雄
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.227-238, 1989-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
9

官設鉄道が標準桁として採用したクーパー型トラス桁は10種類で、そのうち100ft上路を除く9種類263連が1899年から1915年にかけて架設された。耐用年数は線区によりかなり異なるが、東海道本線で47年程度、中央本線で66年程度であり、経年88年で今なお使用中のものもある。現在使用中の桁は、転用桁を含めて合計72連となっている。クーパー型の採用はそれまでの英国系からの全くの方向転換であり、連続性はない。クーパー型を少し設計変更した100fしと300ftの国産桁が存在した、輸入ピン結合トラスの最後を飾るのは、阿賀野川釜ノ脇橋梁ほかのカンチレバー式架設工法によるトラスである。わが国の橋梁技術者たちは、米国流の進んだプラクティスを体得すると同時に、アイパーを主体のピン結合トラスの欠点を見抜き、リベット結合に改め、輸入から国産へと転換し・技術的な自立を一段と進めることになる。【明治期、鉄道橋、トラス桁】
著者
小西 純一 西野 保行 渕上 龍雄
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.207-214, 1985-06-25 (Released:2010-06-15)
参考文献数
15
被引用文献数
1

A historical sketch of railway truss girders constructed in Meiji era (1858-1912) is described. This is the first part dealing with the 200ft double Warren truss girders which is believed to be a representative of the British school of design. A total of 112 girders were imported from England and erected in 1886-1898, 22 of which were made of wrought iron and remainings were wrought iron and steel combined girders. In April 1985, 18 girders are still stand, most of them are in use, though 9 of them are shortened.
著者
松浦 茂樹 山本 晃一 浜口 達男 本間 久枝
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.193-204, 1988-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
14
被引用文献数
1

河川環境が重視されている今日、樹木が注目されている。河川周辺の樹木と云えば、我が国には治水伝統工法の一つとして水害防備林がある。水害防備林は、立地位置より堤塘林、護岸林、水除林に分類される。水害防備林は、近世までは重要な治水施設として管理・育成されていた。もちろん洪水の疎通の支障となる堤防上の樹木は、大風によって揺さぶられ堤防が危険になる等の否定する意見もあったが、幕府によって奨励され各藩でも整備された。明治になっても太政官による「治水法規」の中に、堤脚を保護する竹木は保存するようにと指示されているように、水害防備林は重要視された。1897 (明治30年) 発布の森林法でも保安林に編入された。明治末年から、政府により全国的な治水工事が進められた。近代治水事業は都市部そして大きな平野部での築堤事業を中心に行われ、一定の流量を氾濫原も含めた河道内に収めようとの考えを基本に進められた。河道内の樹木は洪水疎通に支障があるかどうかとの観点から見られ、それ以外の機能は検討範囲外に置かれていたというのが実状であろう。一方それ以外の機能に注目していたのが林学、農学の関係者で、築堤による治水に加えプラス・アルファの効用を水害防備林に求めてきた。戦前でも水害防備林、遊水林の造成が奨励され、昭和20年代の大水害後には、現地調査を中心に研究が進められた。しかし社会経済の高度成長時代は、水害防備林に関心が払われることは少なかった。河川環境が注目されている今日、樹木は重要な素材となり得るものである。また超過洪水対策が重要な課題となっているが、超過洪水対策の観点から、水害防備林のもつ効用を再度整理しておく必要があると筆者らは考えている。
著者
小野田 滋
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.113-124, 1988-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
29

This paper describes a history and present state of railway tunnels, based on field surveys and histrical records, taking an example of former Kansei Railway Company (now JR-Kansai main line and its branches). Through this case study, it became clear that the tunnels have been bored to various inside shape and some of them have portals by special individual designs.
著者
本村 俊晃
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.73-81, 1988-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
5

第2回から前回まで6回にわたって、古墳時代以前の古代日本における高度測量の存在とそのエジプト起源を指摘してきたが、今回は現に活動し発展しつつある世界一の大都市東京の都市計画の基本に設定されている五芒星を示し、同じく五芒星を平面設計に採用している土師古墳および箸墓古墳との幾何学的関係、東京の五芒星と前回提示した紀の川の七芒星の巧妙なエジプト幾何学的関連について検討し、江戸期から今日まで都市計画上認識されてきているとみられる東京の五芒星の設定時期が古墳時代に遡ることを考察する。
著者
森杉 寿芳 橋本 有司
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.136-142, 1983-06-24 (Released:2010-06-15)
参考文献数
7

わが国の明治以降の急速な近代化について考えたとき、鉄道はその比類なき輸送力において、経済成長の最大の原動力となったと言ってもよかろう。本研究は鉄道網形成が、実際にどれほどの効用を個人に与えたか、またどれほどGNPに寄与したかを貨幣タームで測定するための理論モデルの作成と、その適用結果について述べたものである。このため、個人は効用最大化行動、企業は利澗最大化行動をとるとの仮定のもとで、簡単なモデルを作成する。そして、鉄道路線長がL0からL1へ、旅客運賃がrp0からrp1へ、貨物運賃がrf0からrf1へ、変化した場合の代表的 (平均的) 個人の効用の変化を測定する。このとき、効用の変化を貨幣タームで測定するために等価的偏差 (Equivalent Variation以下、EVと呼ぶ) の概念を導入する。ここにEVとは、鉄道網整備というサービスをあきらめるために補償してもらいたいと考える必要最低額を言う。本研究では、さらにEVを福祉効果と所得の増大効果とに分け、それぞれについて計算を行う。実際の明治29年における計算の結果は、福祉効果が5億3千万円で、これは当時のGNP28億円の2割弱である。これより、個人は鉄道サービスによりかなり大きな満足を得たと推定できる。さらに所得の増大効果について言えば5億2千万円であり、これもGNPの2割弱である。GNPに対する直接の影響も大きなものであったと言えよう。
著者
山下 正貫 島崎 武雄 野倉 淳
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.83-91, 1983-06-24 (Released:2010-06-15)
参考文献数
8

高知県夜須町にある手結港は、江戸時代初頭、承応1年 (1652) から明暦1年 (1655) に土佐藩の家老、野中兼山によって建設された掘込港湾である。経世家、野中兼山は、土佐藩の経済的基盤を整備し、殖産興業を進めるべく、土佐地域の総合的な開発事業に取り組み、物部川の山田堰、仁淀川の八田堰、鎌田堰等を設置して水路を開削し、新田開発を行なったり、その拠点として後免、土佐山田、野市、新川等の新都市を建設した。また、運河開削と一体となった津呂港、室津港等の築港事業も手掛け、陸路と連関した海上交通路の整備を進めてきた。手結港は、その一環として整備されたもので、その技術的意義、大規模性が高く評価され、しかも、特筆すべきこととして保存が良好であることが指摘される。江戸時代初頭の土木構造物が、ほぼ創建当初の状態で保存されていることは、全国でも稀有のことである。小論では、江戸時代の建設の経緯、明治・大正・昭和期における港勢の変化と改修の経緯に関する調査結果を報告するとともに、現状の問題点、地域住民の意識と要望、今後の保存・利用・整備の方向について論及するものである。
著者
堀野 一男
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.173-180, 1989-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
14

能代港は米代川の河口港として、古来から海上交通の重要な港としての位置をしめていた。とくに、足利中期から江戸時代にかけては、米、木材などの移出港として、また、松前および北陸地方からの塩、毘布等の物品受け入れ港として栄えた。しかし、米代川から運び込まれる多量の流砂と河口をとりまく砂丘からの飛砂、それに漂砂などの影響によって河口が狭められ、とくに冬季間は河口閉塞に近い状態になった。そのため長い間にわたって凌せつ普請、砂防林の植栽などの努力が続けられてきた。このような河口港の宿命から抜け出すために昭和39年(1964)には河港分離の方向が打ち出され外港工事にとりかかった。日本海沿岸の港の多くは歴史も古くいずれも河口港で始まっているが、それまでの、河口港を振り切って行われた新潟東港築港、それ以前の苫小牧築港、田子の浦港などの掘り込み港の技術的な成功を足がかりとして港湾の建設は大きく進んだ。つまり、能代港築港は戦後の港湾築港技術の進展とも関連していた。本研究はこのような河口港としての発展、停滞、そしてそれからの脱皮としての新港建設、という歴史を辿った能代港の変遷から港湾計画、地域経済上の現代的な教訓を引き出すことを目的としている
著者
松浦 茂樹
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.275-285, 1987-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
12

近年水辺の復活、ウォーターフロントの開発等水辺が社会から注目されているが、戦前の河川改修でも河川環境は重視されていた。この状況を1935 (昭和10) 年の大水害後、翌1936年樹立された京都の鴨川改修計画に基づいて論ずる。鴨川の社会的特徴は、御所をはじめ千年の歴史をもつ社寺・史跡・風物のある古都・京都市街地を流れていることである。鴨川は「東山ノ山紫二対シ河流ノ水明ヲ唄ハレタル古都千年ノ名川」と認識されていた。また「鴨川は京都市の鴨川に非ず」と、我が国にとって重要な河川と主張された。京都の風致の重要性としては、文化面における国民の訓練、産業の発展、国際観光の三つがあげられた。このため鴨川改修計画では、治水上支障のない限りにおいて鴨川の風致を配慮した計画が樹立された。具体的にはコンクリートの露出をできるだけ避け、石垣、玉石張を中心にして行われたこと、曲線を用いた床止め工の形状等によく現われている。また高水敷にはみそそぎ川が残され、夏には納涼床が張り出されて京都の風物詩となっている。昔から鴨川での夕涼みは京都市民に親しまれていたが、1986年夏気象観測を行い、その状況を求めた。1936年の環境整備計画は、河川技術者集団の総意の下に行われたと推察される。河川技術者がそのような能力を機械施工化以前には常識としてもっていたものと判断される。なお1936年の改修計画は、鴨川に限られることなく京都市の大改造計画であり、京阪線の地下化、都市計画道路の築造等が一体として図られていた。これらの事業は近年の1979年より再開され、現在工事中である。
著者
松浦 茂樹
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.275-285, 1987

近年水辺の復活、ウォーターフロントの開発等水辺が社会から注目されているが、戦前の河川改修でも河川環境は重視されていた。この状況を1935 (昭和10) 年の大水害後、翌1936年樹立された京都の鴨川改修計画に基づいて論ずる。<BR>鴨川の社会的特徴は、御所をはじめ千年の歴史をもつ社寺・史跡・風物のある古都・京都市街地を流れていることである。鴨川は「東山ノ山紫二対シ河流ノ水明ヲ唄ハレタル古都千年ノ名川」と認識されていた。また「鴨川は京都市の鴨川に非ず」と、我が国にとって重要な河川と主張された。京都の風致の重要性としては、文化面における国民の訓練、産業の発展、国際観光の三つがあげられた。<BR>このため鴨川改修計画では、治水上支障のない限りにおいて鴨川の風致を配慮した計画が樹立された。具体的にはコンクリートの露出をできるだけ避け、石垣、玉石張を中心にして行われたこと、曲線を用いた床止め工の形状等によく現われている。また高水敷にはみそそぎ川が残され、夏には納涼床が張り出されて京都の風物詩となっている。昔から鴨川での夕涼みは京都市民に親しまれていたが、1986年夏気象観測を行い、その状況を求めた。<BR>1936年の環境整備計画は、河川技術者集団の総意の下に行われたと推察される。河川技術者がそのような能力を機械施工化以前には常識としてもっていたものと判断される。なお1936年の改修計画は、鴨川に限られることなく京都市の大改造計画であり、京阪線の地下化、都市計画道路の築造等が一体として図られていた。これらの事業は近年の1979年より再開され、現在工事中である。
著者
青木 治夫
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.32-37, 1983

辰巳用水は、1632 (寛永9) 年に9ケ月ほどで造られた金沢城中用水である。我が国で、始めて用水路に隧道を用いて地形を克服した赤穂用水・五郎兵衛用水につづくものである。辰已用水の延長は10kmで、そのうち隧道は3.3kmもあり、両用水に較べて著しく長い。現在、隧道部分ば4.3kmになっているのは、寛政大地震 (1799) による崩壊と天保期 (1836) に水の流れをよくするため、隧道に改造したためである。この隧道は、僅かな支保木と幕末以後に行われたらしい切石巻立によっただけで、360年前のツルハシ刃先跡を明瞭に残した素掘区間が2km以上もある。<BR>この区間で、寛永期の掘削工法や近世初期の測量術の水準を調べ、併せて用水の末端で、水圧が10mもかかる逆サイフォンについて述べる。
著者
内山 大 樋口 忠彦
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.91-98, 1985-06-25 (Released:2010-06-15)

港町新潟の町づくりが本格化するのは、元和2年 (1616) に堀直寄が長岡藩主になり、その支配を受けるようになってからのことと考えられる。それ故、本論では、これ以降の江戸時代の新潟を取りあげている。そして、そこにみられるいくつかの町づくりおよび町の特徴を取りだして報告している。第一は、白山神社を南の基点とし、日和山を北の基点に位置づけて、町づくりがおこなわれたのではないかということである。第二は、新潟の町割は1ブロック2行の短冊型の町割で、1行の奥行は約25間と推定され、各戸の敷地の間口は4間を基本にしていたと考えられることである。第三は、亨保と天保の地子高の資料により、当時の地価の状態をみると、信濃川から離れるほど低くなっていて、町の経済は信濃川に大きく依存していたことがわかることである。