著者
北村 眞一 村越 正忠
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.47-53, 1988

甲府市街地の形成の変遷を街路空間と土地利用とに着目して概観し、都市形成の発想、社会や空間構造の変化などを考察した。武田時代から江戸時代へは、武田時代の町人街をとり込みながら、新しい城下町の形成をはかるニュータウン形成であった。江戸時代から明治時代へは市街地の大きな移動はなく武家地の官公庁用地と民間用地への転換が主で、中心部再開発であった。明治36年の中央線の開通は商業・業務の中心核を駅前へ転換し、街路網形成の中心が甲府駅となった。戦後の急成長による人口増加、基盤整備の不足、モータリゼーションは甲府盆地全域へのスプロール的開発による分散化と、幹線街路整備によって対応された。戦前戦後を通して市街地は拡大し、モータリゼーションと住宅地の郊外分散化は商業立地の分散化を促した。
著者
神吉 和夫
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.48-54, 1983-06-24 (Released:2010-06-15)
参考文献数
6

本研究は、わが国における近代水道以前の水道の一つである近江八幡水道の施設構造と水利用形態、創設年および管理運営などについて考察したものである。本水道は、滋賀県近江八幡市の旧市街にあり、井戸を水源として竹などの樋管で導水、各戸の井戸 (溜桝) に貯留利用する複数系統の水道 (地元では水道といわず取井戸あるいは単に井戸と呼ぶ) の総称で、各水道の利用者は仲間・組合を作り、規約を定めてその管理運営を行なってきた。本水道については「滋賀県八幡町史」(八幡町、1940年刊) にその概要が詳述されている。本稿は、「滋賀県八幡町史」を基礎に、現地で得た若干の関係文書・絵図などと本水道の利用者を対象に1982 (昭和57) 年10月実施したアンケート調査結果の一部にもとづいて考察を行なっている。施設構造は扇状地扇端部の砂礫層の浅層地下水を穴を開けた埋設樽で集水、竹などの樋管で導水し各戸の井戸に貯留利用するもので、幹線樋管は単純な樹枝状が多い。浅層地下水利用のため、渇水時には水位が低下し、梅雨期の大雨時には各戸の井戸でオーバーフローを生じる。本水道の基本構造は高野山水道に近い。創設年として「滋賀県八幡町史」では開町当初を強調しているが、ここではその論拠の一部を否定する資料を示し、創設年の再検討を行なう。管理運営では施設の改修、井戸替えおよび料金について触れる。料金で興味深いのは、水源地の村に涼料と呼ぶ源水料ともいえるものを払つていることで、地下水を私水とみる考えによると思われる。本水道は1953 (昭和28) 年近代的上水道の布設により利用が滅り、多くの組合は自然消滅している。しかし、一部の組合は現在も存続し、雑用水を主体とした水利用が行なわれている。
著者
佐藤 馨一 五十嵐 日出夫 堂柿 栄輔 中岡 良司
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.191-197, 1984

年表の作成は歴史の研究において最も基本的な、しかも重要なプロセスである。土木史研究においても明治以降については、「近代欝本土木年表」としてすでに発表されている。しかし明治以前については体系的に作られた土木史年表はなく、その編成が大きな研究課題として残されている。本文はこの点に着目し、小川博三著「日本土木史概説」から明治以前の主要土木史事項を抜きだし、明治以前日本土木史年表を試作したものである。この年表では明治以前を五つに区分し、各時代ごとに30~33の項目を取り上げた。<BR>本研究の最終目的は日本土木史年表の作成にあるが、本文ではとくに年表編集のプロセスにおいて、リレーショナル・データベースを用いて簡便に土木史史料を整理し、修正し削除する方法を開発した。すなわち本研究では大型電子計算機によらず、安価でかっ日本語入出力が可能なパーソナルコンピュータを用い、さらに入力した文章データを各種ファイルに再編集した。この結果、膨大な文書史料から必要事項を任意に検索、修正、削除することが可能となり、土木史史料の作成・整理・保管・再編集作業のシステム化、迅速化が図られることになった。
著者
昌子 住江
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.31-36, 1986-06-25 (Released:2010-06-15)
参考文献数
13

橋姫, 橋占, 橋参りなど, 橋に関する伝説や行事は数多い。これは, 橋が川に隔てられた二つの土地を結ぶ施設であると同時に, こちら側と向こう側 (この世と異界), 橋上と橋下 (地上と地下) という異なる世界を媒介する両義的な空間と考えられてきたことによるものであろう。これらの伝承の内容および変遷過程を分析することにより, 文書, 記録, 遺構などでは十分解明され得ない, 人々の橋梁観, 架橋の社会的背景その他について有益な資料を得ることが期待される。
著者
多田 博一
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.69-78, 1987-06-20 (Released:2010-06-15)

1757年, ブラッシーの戦いで勝利をおさめ, インド征服の足掛かりをつかんだイギリス東インド会社は, インド諸候の分裂に乗じて, 次第に領土を拡大していった。この過程で攻城戦はもとより, 平和時における道路, 兵舎, 庁舎の建設において, 工兵将校の役割が大きくなった。このため, 東インド会社は1809年に, ウーリッチの王立軍事アカデミーとは別に, 独自の軍事セミナリーを開設した。年間約60-80人の将校が養成され, そのうち特に優秀な者10人弱が工兵将校としての特別訓練を受けた。彼らは, イギリス領土の拡大にともなって生じた種々の公共事業, 例えは道路, 舟運, 灌概, 鉄道, 公共建築物の設計・施工・監督に当たらねはならなかった。現地の事情に通じた土木技師の必要が痛感ざれるようになり, 1847年アジア最初の工科大学が北インドのルールキーに設立されることになった。インド近代土木工学の夜明けである。この大学にはインド駐在のイギリス軍・官・民間人の子弟だけでなく, インド人の青少年も入学をみとめられていた。19世紀後半にはいると, そこを卒業したインド人技術者が, 1855年に設置された公共事業局の技官として採用されるようになった。インド統治のインド人化の始まりである。この大学では研究成果発表の機関誌として “Professional Papers on Indlan Engneering”が刊行された。また, 土木工学に関する教科書も編纂され, 次第にインド独自の土木工学が形成されていった。
著者
鈴木 哲 大熊 孝 小野沢 透 桐生 三男
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.37-41, 1986

除雪技術システムは、筆者らの区分によれば、現在、大・中・小技術システムから成り立つ。住民と行政の対応関係が特に問題となるのは、その中の中技術システムで、その中心は流雪溝である。その変遷過程を考えた。流雪溝の設置・管理・運営における住民と行政の対応関係は、戦前すでに見られた。戦後、車社会化と共に、地域道路除雪への地域住民の要求が高まり、住住民と行政の組織的対応が柏重要になってきた。高度成長期では、行政主導型だったが、才イルショック後は、公設民営型の対等な協力関係と役割分担関係が確立してきた。
著者
山田 啓一
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.131-134, 1989

Historical data were analiesed for evaluation of the 1742 flood at the Chikuma River in Japan. From the corps damage ratio data at 18 villages along the Chikuma River, the maximum flood heights were estimated at each villages. These maximum flood heighs were plotted and maximum flood stage profile was g i ven. Th i s estimation was verified by flooding marks.<BR>Nax i mu m flood discharge total flooding a rea and volume were calculated from this profile. Then, it i, vas clearfied that the 1742 flood at Chikuma River was the higgest one in 300 years and had heavy rainfall area at right tributaries of the upper Chikuma River.
著者
越沢 明
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.223-234, 1986-06-25 (Released:2010-06-15)
参考文献数
19

「満州国」が中央政府直轄で都市建設を実行したのは、新京と大東港の2都市である。前者は新首都の建設であり、後者は大規模な臨海工業都市の建設であった。大東港は朝鮮と国境を流れる鴨緑江の河口帯に計画された。大東港の計画はぐ満州唯一の不凍港をこの地に建設し、地下資源と水力発電を活かして、人口100万人の臨海工業都市を新規に建設しようとするものであった。この計画岸信介、直倫太郎の支持によって進められ、現地機関では近藤三郎、黒田重治、米田正文らが事業を推進した。大東港にられる港湾と工業地帯のセット開発、高速道路の建設、土地経営による事業償還などの方式は、戦後日本の大規模開発プロジェクトの方式を先取りしていたと言えるものである。
著者
石崎 正和
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.253-258, 1987-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
13
被引用文献数
1

蛇籠はわが国において古くより護岸・水制に利用されてきた代表的な資材である。これまで蛇籠が初めて使用されたのは, おそらく「漢書・溝洫誌」をもとにしたと考えられる「倭訓栞」により河平元年 (紀元前28年) とするのが一般的であったが, 「長江水利史略」などの中国の水利文献によると, すでにそれ以前に都江堰の築造 (紀元前360~250年) に際して用いられたとしている。また, 蛇籠がわが国に伝来したのは, 「古事記」の記述をもとに330~640年頃といわれているが, 時代を特定することは困難である。いずれにしても蛇籠は, 農書, 地方書などでも必ず取り上げられ, 近世には相当普及していた。蛇籠の詰石そのもは今日も変りはないが, 籠の部分は竹や柳などの植物から, 明治中頃には竹籠を鉄線で補強したものが現われ, その後機械編の亜鉛メッキ鉄線が普及した。戦後に至り, 蛇籠の構造についての規格化が図られ, 永久化工法の研究などを含め, 種々改良が試みられてきた。しかし, コンクリートブロックの普及などに伴って, 蛇籠の利用も次第にその利用範囲が縮小し, 応急的かつ暫定的な側面が強くなっている。近年, わが国古来の伝統的な河川工法についての見直しがなされる傾向にある。本稿では, 蛇籠の歴史的な側面について報告するとともに, 今日なお竹蛇籠を使用している中国の概況について報告したが, 屈撓性, 透過性, 経済性などの特性を有する蛇籠について, 歴史的な資材として見捨てること無く, その特性を生かした現代的な利用法が積極的に検討されることを期待する。
著者
岡田 憲夫 稲松 敏夫
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.149-156, 1985-06-25 (Released:2010-06-15)
参考文献数
3

河北潟は、石川県内灘町の日本海海岸の近く。内灘砂丘をはさんで2, 248haの大きな湖沼であるが、前田藩主の奨励によって、延宝6年 (1673年) 第1回の埋立てが行われてから、180年後嘉永2年 (1849年) 7回目に銭屋五兵衛の埋立てが着工された。五兵衛の埋立計画は周囲27km、面積23km2 (2, 300町歩)、50, 000石増収を目的とした20年計画の壮大なものであったが、着工後2年目で、所謂魚の中毒事件で漁民の告訴によって、銭屋五兵衛一家が捕えられ、埋立工事も中断した。その後数回、沿岸農家から埋立申請が出されたが、着工に至らなかった。終戦後、昭和28年頃より内灘砂丘米軍試射場反対運動が起り、その後昭和38年農林省北陸農政局により埋立方式でなく, 干拓方式によって、干陸工事が行われ、昭和50年干陸式を行い、現在2, 248haの潟面積の中60%1, 358haが干拓され、その8割が畑地、2割が酪農地として20余戸が酪農家として入植している。本稿は, 藩政時代特に銭屋五兵衛時代の埋立工事と、現在施工された干拓工事の技術上の相異点と、時代的背景、並びに銭屋五兵衛の埋立工事及び魚中毒事件の背景についてまとめた。尚、60年5月21日完工式が行われる。第1回の埋立工事より実に312年目にあたる。
著者
天野 光三 前田 泰敬 二十軒 起夫
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.115-124, 1984

大阪都市圏の鉄道網の発達が、都市の発展過程と、どのような関係を持ちながら変化してきたか、また、鉄道開設に至るまで、その地域の交通事情はどうであったか、さらに、鉄道路線が計画された経緯等を調べ、鉄道開通前後より、現在に至るまでの市街地の発展情況を把握し、過去から未来に向って、時系列の中で考察し、新規路線の都市に与える効果の予測に利用出来ればと考えるところである。今回の発表は、そのうちの一部分として、比較的鉄道路線の競合性の少ない、東大阪地域での鉄道と都市の発展の関係を調査したものであり、不十分な資料ではあるが、一応この地域の交通慕情と歴史的背景を知ることができた。この地域の昔からの主要陸上交通は、大阪対奈良であり、大阪に陸揚げされた物資や、河内地方の産物を大和へ、また、大和の産物を大阪へと輸送する通路として、東西方向の道路が、古来より幾條にも開かれていた。南北の交通路は、大和川と淀川を結ぶ古くからの中小河川と、東高野街道など、生駒山麓に沿った街道がある。明治以降も東西方向の鉄道が先に開設され、南北を結ぶ鉄道は今だに実現していないが、これに代わるものとして、南北方向には、道路網が発展し、鉄道の補間的な役割をしている。
著者
昌子 住江
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.282-287, 1988-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
23

汚物掃除法 (明治33年法律第31号) により塵芥の処理は市の義務となった。当時横浜市では、塵芥処理を民間の業者に請負わせており、その処理方法は埋め立てと千葉方面への肥料としての搬出であった。1911 (明治44) 年市では全市のごみを焼却すべきであるとの方針を示したが、焼却場予定地の住民による激しい反対運動で建設は進まず、震災復興事業の一環として滝頭に焼却場が完成したのは1931 (昭和6) 年であった (その二年前には一部が完成して焼却を開始していた)。この焼却場は、ごみの焼却熱を利用して発電を行ない、場内で使用するとともに余った電気を市電に送電する計画をもっていた。大正期には、大阪をはじめいくつかの市でごみ発電の可能性が検討されたが、水分の多い日本のごみでは安定した発電量が得られないなどの理由から見送られていた。横浜市では、第一次大戦後の電力・電灯需要の増大に対応し、低廉な価格で供給するための市営電力事業が計画されており、焼却の試験炉が予算化された1921 (大正10) 年には市街電車の市営化もなって、電力市営への世論も高まっていた。丁度この年、市内に電力を供給していた横浜電気が東京電灯と合併したが、料金は以前のままで東京より高く、市会でも不満が高まっていた。1925 (大正14) 年焼却場の建設をめぐって再び反対の姿勢を強める住民にたいして、市側は市電に売却して電車を動かす一挙両得の計画であると説得している。市電への送電は、1929 (昭和5) 年11月から1935 (昭和10) 年1月まで行なわれたが、重油を炊いて熱量を補ったため、費用がかさむのと煤煙問題で市会では毎年のように批判が出された。1935 (昭和10) 年に東京電灯の電力料金が値下げされ、焼却場からの料金より安くなったのを期に、市電への送電は中止されたのである。
著者
笠松 明男 金井 萬造 長尾 義三
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木学会論文集D2(土木史) (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.230-236, 1988

京都市の伏見地域は、豊臣秀吉の伏見城築城による城下町がその起源であったが、江戸時代以後は伏見奉行所の管轄下において、西国大名の参勤交代や京大坂間の河川水運の重要な中継地であり人口約3万人を数える一大港湾都市として栄えた。その保有舟数は700隻を数え、河川港湾でありながら東・西廻り航路のどの港町よりも大きな港湾であった。<BR>伏見港の発展をもたらした要因は、第一に豊臣秀吉の伏見城築城及び淀川 (宇治川) の改修と巨椋池の切り離し、角倉了以・了一父子による高瀬川運河開削というわが国の歴史的にも重要な土木工事の成果である。第二に、江戸時代中期頃の商品経済の発展に伴う、東海道 (大津~三条) の陸運物資が飽和状態となったため、琵琶湖水運が衰退し、代わって西廻り航路が発達したという、経済的要因に着目できる。<BR>しかし、鳥羽・伏見の戦いによる戦火と鉄道敷設という陸上交通の一大革命により、伏見港や淀川水運も他の河川水運と同様、一旦、衰退の兆しをみせるが、琵琶湖疏水 (明治23年) 及び鴨川運河 (明治27年) の開削により、再度脚光を浴びることになる。<BR>このような、伏見水運も鉄道と道路輸送の本格的な発展と淀川治水事業の進展により衰退し、昭和34年には、最後の舟溜まりの埋立が決定し、昭和40年伏見港はその歴史的な意義を閉じた。
著者
天野 光三 前田 泰敬 二十軒 起夫
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.92-97, 1986-06-25 (Released:2010-06-15)

前回、ならびに前々回と、大阪都市圏の交通網の発展と、都市の発展の関係を道路ならびに鉄道に重点を置いて調査した結果について報告して来た。今回は、東大阪地域の交通網として明治以前の交通手段として“船”は見逃すことのできないものであり、これについて、若干調査したものについて報告する。東大阪地域は、河内の国の中央北部にあたり、淀川、大和川の2大河川にはさまれた地域で旧大和川の溢流地域であった。これらの河川が運んだ肥沃な土壌によって河内平野の農産物の出荷量も多く、特に淀川を通じて、大阪・京都の2大消費都市を控え、米・野菜等の直接的農産物は勿論のこと、綿、菜種等の二次加工産物についてもその製品化の過程で、また製品としてもその輸送は重要な原価要素でありいかに輸送コストを下げるかは当時も今も同じであったであろう。また、地形的にも多くの中小河川を有しているので、自家用船はもちろん、淀川には過書船 (三十石船)、大和川水系には剣先船等の川船による交通が大きな役割を果たしていたことがうかがえる。また、地形上から多くの水路 (井路) があり、これらが生活水路として農耕用具の運搬、農作物の取り入れに、また肥料の運搬にも使用されていた。今回の発表は原稿の制約上淀川の船運にとどめ、次回に大和川水系の舟運について述べることとしたい。
著者
笹谷 康之 遠藤 毅 小柳 武和
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.141-146, 1987

古代には、神奈備山と呼ばれ神が宿るとされた信仰対象の山が存在した。全山が樹林におおわれ、笠型の端正な山容を持った山で、集落近くに位置する。その山体や、山を望む場所には、祭祀場、神社が設けられていた。本研究では、この神奈備山の分布、スケール、地形形態を明らかにするとともに、山を祀っていた祭祀遺跡・神社の地形占地・景観的特徴を考察した。その結果、次のようなことがわかった。<BR>(1)、神奈備山は、東北から九州北部まで広く全国に分布する。<BR>(2)、神奈備山を祀る神社・祭紀遣跡は、山頂、山腹、山麓と、山を望み山から引きをとった平地の4カ所に立地している。<BR>(3)、神奈備山は、おおむね比高400m以下の小さな山である。<BR>(4)、神奈備山を祀る神社・祭遺跡は、山を眺望しやすい仰角14°以下の平地と、山との一体感の得やすい仰角10°~30°の山麓に多く立地する。<BR>(5)、神奈備山の景観は平地からは端正な山に見えるが、その地形は、孤立丘、山地端部の端山、山地端部の尾根、等高線が比較的入りくんだ小山塊の4タイブに分類できる。<BR>以上の性質を持つ神奈備山は、日本人の原風景の一つでありまだまだ全国に埋もれていると考えられる。しかし、大都市近郊の神奈備山の中には、開発によって破壊された例もある。古代人が育んできた精神性の強い文化遺産として、神社、祭紀遺跡ともども、神奈備山の景観保全を進めていく必要がある。
著者
昌子 住江
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木学会論文集D2(土木史) (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.282-287, 1988

汚物掃除法 (明治33年法律第31号) により塵芥の処理は市の義務となった。当時横浜市では、塵芥処理を民間の業者に請負わせており、その処理方法は埋め立てと千葉方面への肥料としての搬出であった。1911 (明治44) 年市では全市のごみを焼却すべきであるとの方針を示したが、焼却場予定地の住民による激しい反対運動で建設は進まず、震災復興事業の一環として滝頭に焼却場が完成したのは1931 (昭和6) 年であった (その二年前には一部が完成して焼却を開始していた)。この焼却場は、ごみの焼却熱を利用して発電を行ない、場内で使用するとともに余った電気を市電に送電する計画をもっていた。大正期には、大阪をはじめいくつかの市でごみ発電の可能性が検討されたが、水分の多い日本のごみでは安定した発電量が得られないなどの理由から見送られていた。横浜市では、第一次大戦後の電力・電灯需要の増大に対応し、低廉な価格で供給するための市営電力事業が計画されており、焼却の試験炉が予算化された1921 (大正10) 年には市街電車の市営化もなって、電力市営への世論も高まっていた。丁度この年、市内に電力を供給していた横浜電気が東京電灯と合併したが、料金は以前のままで東京より高く、市会でも不満が高まっていた。1925 (大正14) 年焼却場の建設をめぐって再び反対の姿勢を強める住民にたいして、市側は市電に売却して電車を動かす一挙両得の計画であると説得している。市電への送電は、1929 (昭和5) 年11月から1935 (昭和10) 年1月まで行なわれたが、重油を炊いて熱量を補ったため、費用がかさむのと煤煙問題で市会では毎年のように批判が出された。1935 (昭和10) 年に東京電灯の電力料金が値下げされ、焼却場からの料金より安くなったのを期に、市電への送電は中止されたのである。
著者
稲葉 克己 渡辺 貴介
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.98-102, 1986

第二次世界大戦前にほぼ完成された関東圏の鉄道網において、その鉄道敷設目的は、産業振興・沿線開発・通勤通学客輸送など多岐に渡っていたが、観光客輸送を目的とした観光関連鉄道路線と言える路線も数多く存在していた。それらの路線は。東京から各観光地に到達する方法の違いにより、「直結型」、「枝分型」、「回遊型」、「延伸型」、「創造直結型」、「創造枝分型」と呼べる6タイプに分類でき、時代と共に変遷していった。また、それらの路線を成立させるのに、各鉄道会社は、出発地・鉄道・目的地のそれぞれの地点で様々な観光客誘致策を実施した。
著者
Kozo Amano Toshihide Miwa Yasunori Maeda
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
PAPERS OF THE RESEARCH MEETING ON THE CIVIL ENGINEERING HISTORY IN JAPAN (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.107-113, 1984-06-25 (Released:2010-06-15)
参考文献数
9

明治後期から大正前期にかけて、成長期を迎えた大阪市の常住人口は100万人を超えて、膨脹し続けた。路面電車が市内交通機関として、十分な機能を発揮するに至る明治41年頃以前は人力車・巡航船が大阪市の都市交通の中心的役目を果たし、さらに、一部臨港地域では渡船も重要な役割を果たしてきた。なかでも、わが国の独創的交通機関である人力車は、明治初年に出現して以来、着実に増加して、明治中期以後は大阪市民の足として重要役割を果たすようになり全盛期には2人乗りもあわせて2万台を超えていたが、巡航船や路面電車、大正中期以降の自動車の発達により衰退して行った。路面電車開業と同年の明治36年運航を開始した巡航船は、最盛期には2万人以上の乗客を運んでいたが、明治41年路面電車の路線拡張により、大正2年にその使命を終えた。本研究は明治期における交通手段の変遷について述べる。